魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。

「正常な」統合失調症、「普通の」天才

僕は「統合失調症」という資質を持っているのですが、そうした症状とともに生活していると本当に色々な学びがあります。今日は、そうした学びのいくつかと自分なりの個人的なその制御方法について簡単に整理してみたいと思います。

 

まず、統合失調症の症状の一つである「妄想」の個人的な制御法について。

妄想はどうも何らかの創造性のある現象によって引き起こされる場合が多いようです。そして、それらの心理過程を自分なりに分析してみたのですが、どうも自分のうちに蓄積されたデータの少ないことに関する現象が妄想を誘発しやすいように思います。また、このメカニズムについて一度論理的に洞察してしまえば、その症状は消失するようです。おそらく、創造性のある新奇な情報なり現象というのは、自分の中にそれらを有効に処理できるスキーマがまだ蓄積されておらず、その結果、現象の解釈にエラーが生じ、妄想が生じてくるようです。逆に言うと、それらの新奇な情報や現象を時間をかけて調べ上げ、論理的に分析してやることで妄想は解体できます。妄想はそれらをメタ認知してやることで急速に消退するという特性を持っているように思われます。妄想が生じたら、まず「妄想が生じているな」とメタ認知して、次に「どうして妄想は生じているのか?」と自分に問います。そして、必ず何か妄想を引き起こしている情報的な引き金が存在しているので、その引き金としての情報を探し出し、それを突き止めます。そのようにして妄想の引き金になっている種々の情報をすべて自分の内省によって調べ上げ、その共通要素を抽出します。すると、おそらくすべてのケースにおいて何らか自分にとって扱いが不慣れな情報がストレスとなって症状を引き起こしていることが分かってくると思います。つまり、それらの自分が不慣れな情報が妄想を生じさせているので、それらの情報を徹底的に調べ、考察し、熟考し尽くして、それらの情報について熟知することを目指すことで、不慣れな情報は習熟した情報へと変換されます。当該の分野の情報の演算効率は当該の分野の情報に繰り返し触れて、観察と熟考を繰り返すことで経時的に少しずつ上昇していきます。したがって焦らずに自分の妄想を分析し、その妄想について知り尽くすことができれば、妄想を消退させることができるものと考えられます。これらの作業が自分一人では難しい場合などに、「オープンダイアローグ」などのような療法が効力を発揮するものと思われます。簡単に言うと、妄想はそれを抱いている人がその存在を正確に認識することで消失するという仮説です。ご参考ください。

 

次は「幻覚」の個人的な制御法について。

幻覚にも様々なものがありますが、統合失調症に特に多いとされる「幻聴」について今回は軽く考察してみます。幻聴とは他の人には聴こえない音が聞こえるという現象で、その内容は様々で人によっても異なります。幻覚と言うのは、要はマイノリティの知覚のことであり、それらが少数であるゆえに多数派の人々からの抑圧を受けて、そのセンスを否認されることで、それらは「幻」というレッテルを貼られます。したがって、その統合失調症に固有のセンスを他者に上手く説明できれば、それは原理的に幻ではなくなり、それらの現象に「現実性」という特権が授与されます。要は、幻覚のマイノリティ性を解体して、マジョリティ化してやれば、マジョリティによる差別や排除などの暴力を和らげることができ、マイノリティなセンスを持つ人々としての統合失調症などを持つ人々への援助につながります。そのためにはやはり、幻覚を正確に認識することが重要になります。幻覚について適切に説明するためには、まずそれらの特有の感受性を保持している人々がそれらについて誰よりも正確に認識している必要があるからです。一般に、自分で理解することは比較的容易でも、それを他人に分かるように上手く説明するというのにはさらに高度な理解能力を要します。いずれにせよ、以上の事情を整理すると、幻覚はそれを抱いている人がその存在を正確に認識し、それらの創造的で固有なセンスが生み出す特有の文化体系を周囲の人々に分かるように適切に伝達することで消失するという仮説です。ご参考ください。

 

よって、その症状が妄想であるにせよ、幻覚であるにせよ、それらへの対処法としてはこの正確な認識と呼ばれる現象がポイントになることが分かります。あらゆる現象を如何に正確に理解するか、と言うのが統合失調症の上手な制御においては重要だと思います。

 

統合失調症とは先述の通り、マイノリティのセンスに立脚した文化の体系のことなので、それがマジョリティに多少なりとも有効な形で普及しさえすれば、それは「障害」とは認識されなくなります。マジョリティにとっては、自分達とは異なる存在はすべて「障害」となってしまうのが現在の世界の標準なので、これは「多様性の尊重」などの美徳の観点からは著しく不利です。自分とは異質なものをすべて障害として排斥してしまえば、多様性はなくなってしまいますね。多様性は現実的に有効な資質ですから、これがなくなってしまうとみんな困ります。したがって、統合失調症などのマイノリティの文化を尊重することは結果的に新しい文化を創出することを促し、多くの人々を間接的、直接的に援助する結果につながるために著しく公益に適うと言えるでしょう。

 

さて、では、統合失調症から得られる僕の学び、つまり統合失調症の文化について少し書いてみましょう。

 

統合失調症はまずは「奇行」として現れることも多いのですが、この奇行はある種の「新奇探索性」(新しいものを追求していく性質)の表れとして生じており、創造性の端緒でもありますね。普通の人がしないことをするので、普通の人に分からないことが分かるようになりますし、普通の人ができないことができるようになります。これが統合失調症の人に優れた才能や知性をも持っている人が多い理由の一つだと思います。天才的な人と言うのは、大概、普通とは違っていて「変な人」であることが多いです。すべての統合失調症の人が天才であるとまでは断言できないのですが、彼らが常識に囚われないある種の自由な発想力をふんだんに発揮する事例については枚挙にいとまがありません。それは故障しているのでもなく、間違っているのでもなくて、端に「多様性」の一つなわけですね。人と言うのは色々な人がいて、それで文化を成立させて生きているわけですね。そうした文化的多様性のうちの一つに「統合失調症」があるというわけです。その意味では、統合失調症の人たちの持つ資質や才能は独創的で希少なものであるという意味ではその人に固有の賜物ではあるのですが、そもそも人間それ自体が多様な存在なので、「特別であることは当たり前」であるということになり、つまり、普通の存在です。よくよく見れば、すべての人がユニークな存在であるのはまず間違いない事実でしょう。爪の形から、体型、思考の癖や好きな食べ物など、すべての特性を列挙すれば、すべてが同じ人なんて一人もいないのですから。その意味では、すべての人が特別であり、異常であるということにもなりますが、そうであるのならそもそも「異常」であること自体が「普通」のことであるということにもなります。厳密な意味での「障害」だなんて本当は存在しないわけですね。すべてのものが神様の御許で創造され、祝福されているのですし、それこそ当たり前のことです。すべてのものは喜ばしい、というわけですね。

 

統合失調症の文化には、こうした一見すると矛盾しているように見える現象(例えば、特別=普通、障害=健康、異常=通常などの観念)が多々存在しており、それらの矛盾の「裂け目」を人よりも巧く活用することで「現実」の世界を多数派の人々よりも繊細に強力に正確に知覚できる人々が営むそれが統合失調症であるとも言えるかもしれません。

 

概して、統合失調症の人たちは多くの人たちが気づかないことに気づいており、普通の人ができない思考や感覚を持っています。そうした独特の感受性は時に独創的な理論体系を生み出したり、優れた実践的能力を養成したり、新しい文化を創出したりします。つまり、いわゆる「天才」と統合失調症の違いというのは生物学的、遺伝学的にはあまり存在せず、それらの差は後天的な要因が大きく占めるでしょう。天才は自分の固有のセンスをマジョリティにもある程度伝わるように説明できるだけの「教養」を持っています。自分のことをその教養によって正確に認識し、他者に上手く説明できるために、常識との間の摩擦を消し去ることができ、いわゆる統合失調症と言う資質が「障害」としては現れないのです。代わりにそれらは人々に独創的でユニークな発想や理論をもたらし、彼らはそこから抽出された栄誉でもって「天才」と呼ばれます。逆に言えば、統合失調症を発症している人であれば、全方位的に教養を懸命に身に着けることで得られる正確な認識によってそれらの症状を制御することができ、その分野はそれぞれにユニークだとしても、ある種の「天才」であることが可能でしょう。また、厳密には、すべての人がマイノリティ的な資質を何かしらは持っているものなので、すべての人が統合失調症であると言っても差し支えないことにもなります。その意味では、大なり小なりすべての人が天才であるというふうにも言えるでしょう。何にでも程度問題はありますが、概ねではそのように言えます。統合失調症も実は多様性の一つにすぎず、それは普通のことであり、その限りで「正常」な現象なわけですね。簡単に言えば、間違わない人間は基本的にいないので、すべての人が大なり小なり妄想を持つものですし、何らかの幻を感じもするわけですね。それは基本的にありふれた普通のことです。

 

世の中には「異常な」常識人もいれば、「正常な」非常識人もいます。周りを見渡せば、誰しもにどこか合わない人、何かおかしいと感じられる人の一人や二人はいるものです。それも多様性です。また、それこそ相当に異常な犯罪者でもなければ、自分とは異質な他者を排斥したり、差別したり、殺戮したり、虐待したりはしないわけですね。僕たち人間は、どこかで多様性が大事であることが直感的にわかっているのだろうと思います。だから、自分とは異質な人々に時に苛立つことがあるとしても、彼らに暴力を振るうことはまずない。そして、そんなふうにすべての人たちが「寛容」に、すべての人たちが互いに「愛し合う」ことができたのなら、それは天国的なことだなと思います。

 

統合失調症の人も天才の人も、はたまた凡人もすべての人たちが幸せでありますように。祈ります。

 

 

今日のポイント

 

1.統合失調症の人は自分の周囲のすべての現象を正確に「認識」するといいかも。

2.統合失調症の人は自分の周囲のすべての現象を正確に「表現」するといいかも。

3.多様性の観点から、統合失調症への不当な差別はやめてその文化を尊重するべき。