魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。

個人

人はどこかに向かっているのだろうか? だとすれば、それはどこに? そのようにいくら自問してみても、答えが出ることはない。それは一つの世の摂理だった。答えはない、という摂理。

では、世界の持つ諸所の仮定を考慮してみればどうだろうか? うーん……。それでもやっぱり答えはない。

言葉の上では何とでも言える、とするような言説もある。これは言葉が極度に理念的であり、その概念の機能が現実から相対的に切断されることが可能であるために起こる現象である。だから、僕たちはフィクションを紡ぐことができる。虚構を構築することができる。

物質とは何の集積なのか? 物質とはその基礎としてはある種の穢れの集積である。精神的な物象とはそれらに対しては高潔なもので、より上位のものである。精神は集積しない。または、精神に付随的な傾向とは非集積性である。

精神とは、力であり、意志であり、資本であり、純正のエネルギーである。精神的であることはその基本として貴い。

一般には物質的であるほどにそれは堕落であり、精神的であるほどに立派である。

例えば、金品に釣られて行動する人間はどちらかと言えば、高潔とは言われにくい傾向がある。一方、精神的に行動する場合には相対的に物質から自由であり、そうした状態は人々の尊敬を集めやすい。自身の身体という物質を捨てて誰かのことを守ろうとすることとか。こうした極限的な状況において、人間が守っているものとは物質と言うよりも、より精神的な宝物である。人間が何らかの物質を守ることもあるかもしれないが、その場合にはあまり感動的ではない。ある人が恋人の形見の指輪を守るという時、その指輪という物質そのものを守っているというよりは、それらに付随した様々な精神的な記憶や思い出などを守っているとするのが、より現実味のある説明ではないかと思う。恋人の形見の指輪。

そうした精神的な現象としての「指輪」は様々な形を取ることがある。思い出、約束、友情、愛情、品格、魂、それこそ精神そのものであったりもするだろう。

精神の領域は物質の領域よりも流れが速い。だから、僕たちの精神はしばしば、物質界の説話を追い越すことになる。想像力や創造力と呼ばれる力によって。こうした精神の働きは「予期」と呼ばれる。精神が様々な思考や演算を行うことで、僕たちは様々な物質の行く末をある程度予期することができる。しかし、その精神界の流れはあまりにも速いがために、正しく認知することは至難の業なのであり、僕たちはよく「思い違い」をする。そうした正しくない予期は「妄想」と呼ばれることが多い。

妄想と言うと、否定的なニュアンスが強いかもしれないが、それとはつまり精神的なものなのであり、その意味で、現実界と呼ばれる物質の集合に比しては、より高潔なものである。

妄想は行き過ぎていたり、足りなかったりする。

不足的にせよ、過剰的にせよ、「丁度よくない」のである。

多くの現象についてのリズムはいたずらに速すぎてもうまくないし、遅すぎてもうまくないものである。ヘーゲルを持ち出すまでもなく。

妄想には活力は備わっている。しかし、その「量」が丁度よくないものとして、一般には認識される。

つまり、活力の強度を場面ごとに適切な量となるように調整してやることができれば、妄想はもはや妄想ではなく、優れた予期として現れることになるであろう……などと「予期」することもできる。

あらゆる論理は万能ではない。それらは形式的なものに留まることも多いだろう。また、言葉は多様な論理で構成されているようである。

AならばBである。そのような概念の接続とはとどのつまり何であろうか? もしもそうした論理が足りなかったり、過剰であったりすると、私たちはそこに妄想を認知するだろう。バナナならば高分子化学である……このままでは意味不明である。

しかし、そこには確かに活力がある。要はそのエネルギーをうまく振り分けてやることが重要なのである。意味不明に見えるそれらの「無意味」の中に未だ見出されていない真理が潜んでいる、とも言える。

僕たちは、妄想に囚われて行動している人間に強く関心をそそられる。人の関心を呼び起こすということは、それ自体心、つまり精神に関わった事象なのであり、高潔な事象なのである。恐れと畏れとは無関係なものではない。

妄想が一貫していても、分裂していても、妄想は妄想である。どんなに一貫した体系を持っていても妄想として判断される事象はあり得る。分裂している場合には「支離滅裂」などの概念に見られるように、分かりやすく妄想のレッテルが貼られやすい。

そして、僕はあらゆる人が多くの支離滅裂さを持っていることを知っている。むしろ、態度や行動が一貫している人の方が少ないように思われる。多くの場合、人は支離滅裂さと一貫性の両方を抱え、それらの中間にある。それが「正常」と呼ばれやすい状態である。中間に真理があるとする言説は珍しいものではない。かなりの人がそうした構造に気づいてもいるであろう。過ぎたるは猶及ばざるが如し、というのは一つの真理である。一方で、ある種の過剰さに価値を見い出す思想もあるだろう。論法によっては、中間が過剰であるなどというふうにも持っていける。例えば、「中間の取り過ぎ」などと一言言ってしまえば、容易くそのような帰結を生じさせることができる。全てのものは脆い。そのままでは。

だから、強度を上げなければならない。さもなくば、全てのものが崩れ去ってしまうから。全てのものが崩れ去り、幾多の残酷的な放射が直接的に人々に降り注ぐその時、そこには理想も法も道徳も良心も愛も世界も存在しないだろう。夢も希望もない。「残酷さ」とは、丁度そういうものである。

さて、あなたが信じるものとは何だろうか? どのような装置を経由してどのように強度を上げるのだろうか? 分かりやすく問うならば「何を信じる?」だろうか? あなたは何をどのように媒介してどのような決断を下し、どのような行動を取るだろうか? 誰かと愛し合うのだろうか? 友情を育むのだろうか? セックスに溺れるのだろうか? 孤独を貫くのだろうか? それはあなたの自由である。いずれの場合にも、あなたが精神の強度を向上させようと努めるのならば、如何なる障害もあなたの意志を妨げることはできないだろう。あるいは、死すらも。

何が正しいのか? それは殺生をしないことであり、生きることである。理念的には全てのものが生かされなければならない。ただ一つとして殺されるものがあってはならない。そして自由であることである。ただ一つとして奴隷があってはならない。最後に愛することである。ただ一つとして排除されるものがあってはならない。それが正義である。そしてこれは自明であり、なおかつ、誰にもその根拠を証明することはできまい。どのような思考もそこに至ろうとするなら、アンチノミーに粉砕されて見事に一巻の終わりである。僕はそうした打ち上げ花火を何度も目撃してきた。あなたにはおすすめしない。無論、あなたのその強度豊かな高潔な魂が求める道なのであれば、その行く手を遮るものはないであろうけども。あなたが知ったことは何だろう? あなたが失ったものは何だろう? 僕に言えることは、何であったろう?

あなたの意志があなたの道を切り開くだろう。これも予期である。あるいは一種の夢であるのかもしれない。僕の。個人的な。

 

 

もう少しくらい大人でいれたら なんて言えただろう?

 

(Aimer, "Ref:rain" 歌詞より引用)

 

 

 

P.S.直観術は比喩です。

誤読

読書って、難しいですよね。ふと僕はそう思いました。

果して読書に正解というものが存在するのか否か……

うむ。難しい。これは僕の手に余る問題だ。

これはとても難しい問題です。

 

Este é um problema muito difícil.

 

ポルトガル語って、字面で何となく意味が分かるところがありますよね。おそらくポルトガル語自体を勉強したことがなくても。これってなんでなんでしょうね?

 

まず、’problema’とか’difícil’とかは何となくわかりやすい気がします。前者が'problem'で後者が'difficult'とかかなって感じられますな。すると’problema’は名詞でしょうので、その前にある'um'は冠詞なのでしょう。’difícil’が形容詞だとすれば、'muito'は何らか副詞的なもの。最もメジャーに考えると、'とても' とか 'たくさん' とかの類の意味になるかな。実際、スペリングも'muito' と 'much' ではかなり似ている。t⇒chというふうに歴史的な変遷において綴りが読み替えられていると考えれば意味も通るし、言語的にもさほど不自然ではない。すると ’problema’と’difícil’ は文型で言うところのO(目的語)C(補語)に当たりますから、残る'Este' と 'é' はそれぞれS(主語)とV(動詞)に当たると推理できます。'Este' はドイツ語の 'ist' に発音が似ています。つまり、これは何らかbe動詞的なものかあるいはそれに近接することの多い概念であると考えられる。また、主語ですので、動詞というよりは名詞でしょう。つまり、be動詞のそばにありやすくて、なおかつ何らかの短縮の作用を受けるほどの高頻度で使用される言語がこれにあ当たると考えられます。これはおそらく代名詞でしょう。では、'Este' に似た代名詞とは? st の形態が混入していますので、stが混入している代名詞を英語で考えると、これは 'this' 。発音的にも、'Es' と 'te' を裏返して読むと、'Tees' となるので、音素的にも 'this' に近いと言える。もしかすると、鏡文字的な読み方をした人の流派が現代にまで残存した結果、現代のポルトガル語では、'this'  的なものと 'este' 的なものが関連するに至ったのかもしれません。例えば、日本語の「か」や「し」はそれぞれ 'ka' , 'si' といったようにそれぞれ複数の音素でもって一つ当たりの文字の形態素が成立していますが、これに鏡文字的な作法を持ち込むと、「かし」⇒「しか」となりますので、音素的に見ますと、'kasi' , 'sika' となります。二つの音素を一組に考える形態素を鏡文字的に読み込むことによって、'this'と'este'のような照応関係が観測されるのかもしれません。色々と考えられて、興味が尽きませんが……。さて、最後は、'é' 。これはおそらくbe動詞でなおかつ、これに英語で近い形態素と言えば、字面の長さ的にも 'is' が考えられます。発音的にも結構近いと言えるかもしれません。すると、そのことから、'é' の前にある 'Este' は三人称単数の代名詞。ますます 'this' と関連する確率が高い……などというふうに色々と考えられます。こういう事を考えているのはとても楽しいです。

 

言語の組成とは、非常に複雑なものであるように思います。その変遷や歴史まで遡るのなら、相当量の美術的、音楽的、言語学的、歴史学的、その他諸々の様々な知識や学問に習熟する必要があるように思われます。

 

さて、そうした複雑な事情を踏まえた上で……

 

では読書とは?

 

謎です。

 

少なくとも言えるのは、読書ということを一律の基準で測り、一律の基準を他人に押し付け、例外や個性を排除し、自己中心的な仕方でもって、強制的で単純、さらに一律な「読書論」なるものを提言することはいささか、うまくは状況を反映できていないのではなかろうか? ということでしょう。様々な物事の状況とは非常に複雑なものであるように思われます。

 

「読書一つとっても、これほどに難しい問題であるのだ」、ということは言えるのかもしれません。

文章を読むという行為は非常に奥深いものであるように思われます。下手すると、電子情報と紙媒体の情報では、認知される情報自体が異なっている……などという結末もあり得るでしょう。そんなこんななので、私は紙媒体も電子媒体もどちらも尊重することにしています。実際、個人的な体験の範囲で言えば、紙媒体と電子媒体では、自分の脳にインプットされる情報が異なるように感じられます。この点はみなさんの経験なども随時調査していく必要がありそうです。

 

僕は本は好きに読めばいいというふうに思っています。

 

さて、そこで突き当たるのが「誤読」という概念です。これがまた肝です。何が誤読なのか? 何が正しい読書なのか?

 

おそらく、この問題は、人間の手の内を超えたものなのではないでしょうか。

 

僕達は神ではありませんので、物事の正邪や正誤を完璧な精度でもっては成し遂げることができない程度の器しか持ち合わせてはいないでしょう。

 

その中で、少しでも「正しい読み」なるものをしていこうと心がけることは大変殊勝な事でしょうし、場合によっては尊敬に値することなのかもしれません。ただ、僕はいわゆる「誤読」にも機能があるのではないか? というふうに考えています。

 

例えば、その世間において、正しいとされるものとは、その世間において権威とされるものに限られるでしょう。では、権威のないマイノリティは間違っているのでしょうか? もしも正しいもののみに存在価値が認められるのだとすれば、その時、マイノリティは排除を受けることになります。これはうまくない。大なり小なり争いが起こってしまいます。

 

ならば、その時代において正しいとされる権威の潮流意外に、マイナーなものの居場所としての「誤読」にもその位置を担保することが必要となるのではないか。

 

「誰が」正しい読書なるものを決めるのでしょうか?

 

なるほど。正しいものにのっとる事、それ自体は大切な事でしょう。しかし、僕たちの正義とは常に不完全なものです。正義はそれ自体、多様性であるような側面もあるように思われます。ならば少なくとも、他人に自分の正しさを単純に強制することは間違っているとも言えるのではないか? 僕にはそのようにも思えます。

 

また、誤読にはプラスの側面もあり得るのではないかと、僕は考えます。何故なら、誤読とは一種のエラーだから。

 

そのエラーには偶然性が根付いているかもしれない。そして、多くの発明は法則的なメソッドでというよりも、統計規則に反した天才的、あるいは奇跡的な所業によって、その存在を現すというのが専らな事であるように思われます。つまり、想定外の「エラー」によって、何らかの創造的な出来事が起こる可能性があるとも考えられるのではないでしょうか。

 

僕は、「誤り」を単純には否定したくなくて、そうしたレッテルを貼られた人たちを排除したくもない。だから、僕は「誤読」を積極的に肯定したいのです。

 

誤りは誰にでもあるものでしょう。それには負の側面が伴うこともあるかもしれない。でも、もしもその誤りを将来のために活かして、自身を積極的に発展させていくのであれば、その誤りは決して無駄ではない。

 

あなたの誤りも、僕の誤りも。

 

誤りとは、恐らくはコロコロと歴史という名の変遷を経ながら、その川の中を流れているうちに、角がとれて丸くなり、誰にでも受け入れやすいものとなった一つの形態なのではないかと感じることがあります。「丸」というものはこれまたとても意義深いものであるように思われます。「何が」丸なのか? 丸というものは正誤判定にも深く関わっている概念のようで、私達はしばしば、正解に対して、「丸」をつけます。丸とは一つの正義を指示しているようです。では、そうした丸を細かく砕いて、それらの砕石を厳密に整理するとどうなるのか? そこからは実に様々な方角へと分岐した石の傾き、接線が見受けられるようになります。自身の現時点で所有する方角を基軸として、あるものは東。あるものは西を指示すでしょう。少なくとも、その位相にあり得る限りのあらゆる方角を指示し得るのではないでしょうか。丸いものにはそうした一種の「広さ」が見受けられます。

 

x^2+y^2=r^2

2x+2y\frac{dy}{dx}=0

\frac{dy}{dx}=-\frac{x}{y}

 

広さには、「器の広さ」などというような概念もあり、才能の広さや徳の深さなどを表す機能があるように思われます。僕もできる限りは、「広く」ありたいものだなと思いますが、 そのためには、「丸く」なれなくてはいけない。そうでなくては、あらゆる方角という一つの集合を見極めることはできない。そのためには、歴史という名の川の中を流れに流れることで、ごつごつとした角を取らなくてはならない。そして、最短距離で何にもぶつからずに滞りなく進むというのではいけなくて、むしろ様々なものに激突しながら進むのでなければ、角は取れぬまま、温存されてしまうことになるのです。

 

したがって、僕は自分というものをどこまでも微分することで、その砕石をこの世界に広く行き渡らせるということを試みたい、というわけなのです! 発音素の同一性に基づいた意味の連関を認めるとすれば、或いは一種の精神の分析の技法としましても、この「石」は「意志」を指示し得るとも言い得る。意志を砕いて無意志に至るところにこそ、真に意志があるとも言えるのかもしれません。僕たちはたくさん間違って、それでも進むから、正しい方角へと絶えず向き直ることができる……のかもしれません。

 

 

P.S.直観術は比喩です。

Schizophrenia as a process

What kind of functions does schizophrenia have as a kind, universal one? For me it seems a bit somewhat unclear. Do you judge schizophrenia as a special symptom? Or do you judge it as a universal symptom? There will be such problems raised. In any case, I think that it is important to organize various definitions concerning schizophrenia. Because it seems that "What is schizophrenia?" Is not generally well understood.

Let us assume that schizophrenia is a universal symptom. At this time, schizophrenia is a universal symptom, so its symptoms should be universally observed. And since these symptoms are universally observed, that means they have a universal nature. If schizophrenia has a universal nature, the symptom of schizophrenia will be observed as a sort of property within many things, as the strength of its universality is extraordinary .

If schizophrenia is universal, common characteristics should be seen with other universal matters. For example, there is a possibility of having a strong relationship with art with universal power. Why can art have universal power? It is a phenomenon that can be judged by observing the function of a work of art. What is called a work of art can generally exert something on an unspecified number of people. A piece of art may impress a specific individual, but if it is understood only by that particular individual, it will generally be less likely to be considered a work of art. A work of art universally is regarded as a work of art when it resonates with an unspecified number of people. If a work of art is not universal, there will be no work of art universally acting beyond the times and national boundaries.

Also, if schizophrenia is a special event, schizophrenia remains in a special area to the last, and they will have abundant individuality in each case. In this case, as long as schizophrenia is extremely special, the theoretical typing based on some universality becomes difficult. When schizophrenia is a special one, it is difficult to make a typological judgment of "schizophrenia" itself. At this time, schizophrenia is the original creative movement each of which is so named, with its own mechanism.

But, is there such a thing? Currently there are types of "diagnostic criteria" for schizophrenia. Then, is schizophrenia universal? Or is circumstance turning back, is it a special thing?

Well, art has originality. Then, art will be special. In other words, art seems to have universality and also have special characteristics. Art is a special, yet universal one.

How about schizophrenia? Is schizophrenia special? Is it universal? If schizophrenia is related to art, schizophrenia should have an artistic nature. In other words, schizophrenia should be universal and have special properties.

For example, in the case that schizophrenia can be universally typed and there are special individual differences in each aspect, it is considered that there may be some association between schizophrenia and art . Even for art and schizophrenia, there is a feature that attracts attention. They stand out. Also, art is easy to bring a good impression, schizophrenia tends to give bad impression.

The judgment for discrimination of schizophrenia may include a moral judgment of good and evil. Art and schizophrenia both have the power to gather public attention. However, in the case of schizophrenia, the mechanism that converts evil into good may not work well. In the case of art, the mechanism works well.

Then, if it is possible to change the power of schizophrenia from the stagnant evil state to the good flow, it may be possible to sublimate schizophrenia into art. Based on these hypotheses, in thinking about schizophrenia, schizophrenia is a state in which various powers are exploding and it is in a state where it is difficult to control their powers .

And judgment of right and wrong is a moral judgment. That is, for schizophrenia, moral therapy may be effective. Morality is a mechanism to judge what is abnormal runaway and what is in a normal state.

There are various causes for causing a psychological state stagnating in humans.

However, if a person with schizophrenia can sublimate himself / herself in a morally reasonable way with marvelous vitality that schizophrenia possibly possesses, extremely enormous results can be obtained. There is such a possibility.

If you can cure schizophrenia without using any medicine, patients will no longer suffer from side effects of medication. Personally I think that expansion of psychotherapy for schizophrenia is an urgent need for human rights.

People who want to take medicine have the right to take medicine. However, those who do not want to take medicine have the right not to take medicine. In order to guarantee the right not to take medicine, it will be necessary to provide options other than medicine treatment.

I think the concept like 'open dialogue' is very interesting. Logically, it is easy to see that the dialogue can have effectiveness against symptoms such as schizophrenia. Because, in the sense that dialogue is an exchange between self and other people, it is a dynamic flow field. It can be thought that they can have the effect of converting stagnation into dynamic flow. However, those who have creative talent to actually practice it may be a minority at this time.

I myself have a diagnosis of schizophrenia, but I never felt I was inferior in particular. Each person has its own good point, there is no superiority or inferiority. That is the same for me as well as you. I personally think that my schizophrenia is a gift from God.

What if I was not schizophrenia? At that time, I realize I might not have been able to deeply involve both natural science and art. Perhaps I feel that I like science and art more than many people. Even though a person is diagnosed with schizophrenia, I think that there is a case that a schizophrenic predisposition of that person leads to some talent.

What I am writing here is only a hypothesis. However, it is true that I was given a lot of awareness and experiences from various symptoms seen as schizophrenia. Because I had such experience, I am now. I think that such a thing can be said. Schizophrenia may be a better process for life.

 

P.S.僕の未熟な拙い英語にお付き合いいただきありがとうございます。微力ながら、あなたの幸せを心からお祈り申し上げます。

情報戦術の概略

 今日は情報戦についてすごく簡単に書こうと思います。情報戦とは情報に関する戦いのことです。

 

 例えば、Aという人とBという人が敵同士であると仮定します。この時、Aの人がBの人の頭の中を混乱に陥れることができれば、AとBの戦闘はAに有利になります。つまり、敵に対し情報を用いて、混乱の状態を起こすことができれば、自身の形勢を有利な方向に持っていくことができます。

 

 こうした、形勢を自分に有利な方向に持っていこうとする利己的主体はこの世界にいくつか存在するものと思われます。世界は単純な利己性だけで回っているとは言い難いところがありますが、かなり多くのことを利己的な主体を想定することで記述することも可能です。もしかすると正しさではなくて損得勘定で動く人達が増加しているのかもしれません。その点の詳しい事情については専門家に譲るとして……

 

 さて、情報戦のお話です。情報戦は様々な領域で起こります。政治的な局面で起こることもありますし、軍事的な局面で起こることも、経済的な局面で起こることもあります。

 

 選挙活動などは政治的な情報戦の例でしょうし、敵国に対する諜報活動などは軍事的な情報戦と言えるでしょう。もう少し僕たちに身近な局面で言えば、銀行強盗とか詐欺とかあるいはマーケティング領域における顧客の取り合いとか、色々な情報戦が考えられます。

 

 今回は、どちらかと言えば、僕たちに身近な存在であると言える、経済活動における情報戦について書いてみましょう。うまく書けるかな(笑)

 

 経済活動の情報戦が、単純に利己的な経済的主体によって行われるとすれば、また、その人たちが創造を行わず、既存のリソースを奪い合う類の主体であるとすれば、この時、その主体は、「より悪いものをより良いものに見せかける」ことを目指すと考えられるでしょう。

 

 なぜなら、創造を行わずに、既存のリソースを奪い合うのならば、基本的にリソースの増加は生じないので、自分が得するための経済活動を行うためには、自分以外の他者を悪い商品の方に誘導することで、自分が良い商品を確保する必要が生じるからです。

 

この時、この単純に利己的な経済的主体は、次のことを行うでしょう。

 

1.善いものに悪評を流す

2.悪いものを他人に提供する

3.善いものを自分が独占する

 

 つまり、善いものに悪評を流したり、悪いものを他人に提供したり、善いものを自分達だけが独占している場合、この時、その利己的な経済的主体はある種の情報戦を行っていると考えられます。

 

 それはどのような情報戦でしょうか?

 

 非常に一般的に述べれば、生存競争における情報戦でしょう。つまり、自分が生き残るために、こうした情報戦が行われると考えることができます。

 

 人間のこうした利己的な傾向を完全に相殺し切ることはとても難しいものなのかもしれません。そもそも、ある程度の利己性を持つことができなければ、自分に利する行為自体を取りづらくなってしまうので、結果的に、そうした非利己的な人間は生き残ることが難しくなってしまう可能性もあります。

 

 では、僕達はこうした情報戦の満ち満ちた環境においてどのような方策を講じるべきでしょうか。次のことが有効であると言えます。

 

1.利他的な人を助ける

2.利他的な人に善いものを提供する

3.利他的な人を利己的な人から守る

 

利他的な人を助ければ、善いものに対する悪評を相殺できます。利他的な人に善いものを提供すれば、利他的な人はより善くなり、そのより善くなった利他性は広く社会に波及していくと考えられます。利他的な人を利己的な人から守れば利他的な人を確保していき、利他的な人をうまく確保し、その力を適切に運用できれば、より利他的傾向の波及を見込むことができます。

 

 

P.S.なお、真の利己性と真の利他性は相反しない可能性があります。なぜなら、真に利己的ならば人間が一人では生きていけないことを踏まえて、利他的な振舞を為すであろうから。逆に真に利他的ならば自分が生き残っていなければ仲間を助けられないことを踏まえて、利己的な振舞を為すであろうから。

 

 また、「真偽」という問題も、これまた一大問題ですね(笑) 真に真なのならそれは偽でしょう。なぜなら、真とは一種の矛盾であり仏教的な「空」であるから。そして、真に偽なのならそれは真でしょう。なぜなら、偽とは一種の矛盾であり、ならばそれは一種の仏教的な「空」であろうから。真偽とは陰陽のようなものなのかもしれません。どちらかが欠けると、どちらかが欠けてしまうような何か。不思議です。

 

 

 少し情報戦術を応用してみましょう。

 

 ネットにおいてAがBの悪口を言っている。また、AもBも商売をしている。Aは利己的であり、Bは利他的であるとする。

 

 この時、Aはどのような手を打ってくるか?

 

 まず、Bの持つ美質をなかったものとし、細かな揚げ足を大量にとってくるでしょう。その上で、自分の持つ悪いものの価値を喧伝し、悪いものを人々に提供することで、儲けようとするでしょう。そして、善いものを見つければ、その善いものの価値を人々に伝えず、単純に利己的な理由でもってそれらの善なるものを独占するでしょう。

 

 では、これに対し、Bはどのような手を打つべきか?

 

 まず、自身や利他的な仲間の持つ美質を正確に把握する。次に、粗悪品の提供者を把握した上で、その粗悪品の悪い点を正確に把握および、批判する。そして、善いものを得た場合、それらを仲間と積極的に共有する。最後に、単純に利己的な人たちに利他的な行動傾向の価値を説くことで、利他的な共同体へと誘導する。そこからは心理学的な「シェイピング」を行っていくことで、単純な偽の状態から真の偽の状態へと誘導する。そして、その誘導された人が真の生き方も偽の生き方も偏りなく知り、正しい判断を下せるようになった時点で、後はその人たちがどのような人生を選ぶかを自由に自己選択してもらう。なお、これらの情報戦下にあっても、極力、攻撃や牽制、強制は行わないことが大切。どうしても必要な場合にのみ、正当防衛としてのみ、攻撃や牽制および強制という行動は取られる可能性もある。

 

 大体、こんな感じです。

The reflecting tier who is creating the euphonious future

この世界には何もないと私は思った。まったくネガティブな意味ではなく、単に「無」なのだ。

しかしこの世界には何かがあった。

それが何なのかは今一つ私にもわからなかった。

私の友人のツクツクボウシが言った。

「君は何かにつけて考えすぎる。そういうのって本当によくないと思うね。うん。本当にね」

そう言って、ツクツクボウシはブイサインをした。(^^)v

 

ツクツクボウシは数学が得意だった。私とは違う学校に通っていて、そもそも私が住んでいる場所からは遠い所からやって来た人だった。

店でコーヒーを飲んでいる時に知り合った。

たまたま同じ喫茶店で同じ時間に同じ本を読んでいたことも手伝って、私たちは存外すんなりと打ち解けることができた。

ツクツクボウシは数学の呪文を唱えるのが得意だった(私には何かの魔法の呪文に聞こえた)。

私はツクツクボウシほどには数学に卓越しているわけではなかった。ツクツクボウシの見識の広さには目を見張るものがあった。しかも、その知見の数々はかなりの洞察眼に支えられていると見えて、鋭いことこの上なかった。私も心をグサリグサリと何度も抉られる羽目になった。

ツクツクボウシは最初の頃こそ表面的な話しかしなかったが、徐々に少しずつ話の幅や深みが増してきて、それはそれで面白い話の数々だった。

ツクツクボウシは蝉なので、空を飛ぶことができる。ツクツクボウシの話はまさに空を自在に飛び回る類のものだった。そして時々木にとまって休む。ツクツクボウシはそういう蝉だった。

一方で私は蟻なのでどちらかと言えば地を這う類の生命体だった。そしてどちらかと言えば、組織に埋め込まれている――あるいは埋め込まれざるを得ない――そういう類の生物。

ツクツクボウシはある時、出し抜けに言った。

「一緒に世界を救おう!」

私にはツクツクボウシが一体何が言いたいのかわからなかった。

「世界って何?」

と私は反射的に返答した。

「世界は世界だよ!」

ツクツクボウシは言う。

しかし、まずもって言うまでもないことなのだけど、私には世界を救うだなんてそんな大それたことを成し遂げる度量などあるはずもなかった。私は小さな一匹の蟻で、どうしたってツクツクボウシのよう空を飛んだり、高い高い木々にとまり歩いたりすることなんてできなかった。木を登ることはできたけど、それは一歩一歩と歩みを着実に進めていくことでやっとできることだった。人間に踏み潰されてしまえば一巻の終わりである。それでも蟻である私には基本的に地を這う以外の選択肢はなかった。蟻なので、人権もなかった。

「世界が世界なのはわかったよ。でも私には世界って全然わからないよ」と私は言った。

「大丈夫。君と僕ならできるよ!」とツクツクボウシは言った。

「私は蟻なので、群れから離れて生きることはできないよ」

ツクツクボウシは笑う。「それは違うよ。違う」

「何が?」

「君は蟻じゃないよ。そしてついでに言えば私もツクツクボウシではない。私たちはそうだな……何かだよ」

「何かって?」

「何かは何かだよ!」そう言うと、ツクツクボウシ(仮)は例の呪文を唱え始めた。ツクツクボウシの唱える数式の数々を私は完全には理解できなかったけれど、とても説明はうまいらしくて、かなり高度らしい知識もそれなりには理解することができた。私の数学が多少なりとも上達した要因にはツクツクボウシの教授があったことが挙げられるかもしれない。独力では今よりもさらに悲惨な数学力となっていたことだろうと思われる。

「私がツクツクボウシである確率は50%。君が蟻である確率は0%。君はどちらかと言うと蝉しぐれという感じだと思う。複数なんだ」とツクツクボウシは言った。

ふむ。ツクツクボウシから見ると、私はどうやら複数らしい。複数って何だ?

「複数って何?」と私は言った。

「君の中には何人もの君が……的な話だよ!」ツクツクボウシはそう言って笑った。

私の頭はざわざわと騒がしくなってきた。

「はいはい。ストップストップスト~ップ」と言ってツクツクボウシは私の身体をギュッと抱きしめた。「大丈夫大丈夫。大丈夫だよ~ダイジョウブだとも~。ほーらあなたはここにいるよ~」

私はツクツクボウシの腕の中でしばらくじっとしていた。気付くと、ツクツクボウシと私は公園のベンチで一緒にコーヒーを飲んでいた。

「――そうなんだよ。人間の心ってとても複雑でさ……」とツクツクボウシは言っていた。

話の脈絡がよくわからなかった。

「ふーん」と言って、私は取りあえず相槌を打っておいた。こういう事は別に珍しいことでもなかった。私はどちらかと言えば、ボーっとしやすい性質の蟻(仮)のようだった。

ツクツクボウシは優しそうな目で私のことを見ると、私の冷えた手を握った。そしてぽろぽろと泣いた「大丈夫。大丈夫だからね」とツクツクボウシは泣きながら言った。

ツクツクボウシは言う。「楽あれば苦ありって言ってね。人生って結構うまくできてるもんだと思うよ。私はそう思う。君は優しいけどね、ちょっと間違ってるんだなあ」

「何が?」と私は言った。自分の間違いについて思いめぐらすとたくさんありすぎてどれがどれだかわからなかった。

「いいかい? 自分を変えるのにも限度があるんだ」とツクツクボウシは言った。「君が悪いことをしていない時は、君は悪いことをしていないんだ。もちろん、君が悪いことをした時はきちんと自分を改めなければならないかもしれない。でもさ、全てのことがそうじゃないんだよ。君が悪くないこともあるんだ。君の他の人に物事の是非についての責任があることもあるんだよ? わかるかな?」

ツクツクボウシの話は何となくわかるようなわからないような曖昧な話に感じられた。

「わかる……ような?」と私は言った。

ツクツクボウシは優しい笑みを浮かべながら言う「時には人のせいにすることだってあっていいんだよ。全部自分のせいだなんて思っちゃだめなんだよ。ね?」

ツクツクボウシが善意で私に何かを言ってくれていることはわかったけれど、今までの自分の生き様を考えてみると、どう考えても自分が悪いように感じられてその感覚を変えることはとても難しかった。

「ごめんね。困らせて」とツクツクボウシは言った。そして私の手をぎゅっと握った。

私は特に困ってはいなかったので、ツクツクボウシに「大丈夫だよ」と返答した。そうすると、ツクツクボウシはまた泣き出してしまったので、今度は私がツクツクボウシを抱きしめることになった。

ツクツクボウシどうしたの? 何か辛いことあったなら私でよければ相談にのるよ」と私は言った。

「私あなたのこと好きなの」

ツクツクボウシは言った。続けて「でもあなたは私のことが嫌いなの」と言う。

私にはツクツクボウシの言っていることが、また呪文のように聞こえた。そうこうしていると何だか眠くなってきた。風の音が聞こえた。それと抱きしめたツクツクボウシの呼吸音と心音が聞こえる。大好きなツクツクボウシの心音を聞いていると余計に眠くなってきた。

ツクツクボウシのこと嫌いじゃないよ」と私は言った。

「うん」とツクツクボウシは言った。

ツクツクボウシ泣かないでね。違った。泣いてもいいけど思いつめないで……って言うのも違うな。言葉って難しいというか、何と言うべきかわからないんだけど、とにかく大丈夫だからね」

「うん」

「大好きだからね」

「うん」

「大丈夫大丈夫」

「うん」

ツクツクボウシの話は私には何だか難しくて私にはわからないところも多いけど」

「うん」

「でもね……多分だけど……」

「うん」

ツクツクボウシのこと……」

「……」

「……」

 

 

P.S.

直観術は比喩です。

勉強のメリット

今日は「勉強のメリット」について考えてみます。



まず、「勉強」とは何か。



これは、「学ぶこと」です。



「学ぶ」とは何か。



これは、「知ること」です。



「知る」とは何か。



これは、「理解すること」です。



また、理解するとは、「秩序づけること」です。

例えば、「数学を理解する」という時、それは、数学の体系を自分の中で「秩序づけること」を意味します。もしも、体系がバラバラで、秩序立っていないのなら、少なくともそこにいわゆる「意味」は成立することが難しくなります。これを「無意味」と呼ぶこともあります。しかし、無意味にも機能はあります。例えば無意味を一概に否定してしまうと、意識においてまだ意味を持っていない曖昧模糊とした感情などの現象が否定され、ないものとされます。本来あるものをないものとするのは錯誤になります。よってエラーが起きます。ならばこうした認知錯誤を極力避けるためにも、一種の「曖昧さ」、つまり秩序立っていない、未だに意味を理解されていない、「無意味」なものをあまり潔癖に否定し過ぎないことがある程度有効になります。無意味には曖昧さを守る機能があり、曖昧さは様々なスペクトラムにおける「グレーゾーン」を守ります。白黒つけることだけでは、こうした曖昧さとしてのグレーゾーンは守ることができません。

さて、ここで、私は、この文章によって、「無意味」に「意味」を持たせています。つまり、「無意味」を秩序立てています。しかし、秩序立ったものは意味を持っており、本来、無意味ではないですので、ここに記述された無意味は、本当の無意味ではない、とも言うこともできます。つまり、本当に無意味を守るためには、「無意味には意味がある」と言うのではなく、「無意味は無意味である」と言う必要がある、と言うこともできます。つまり、「無意味は無意味だからこそ意味がある」、という逆説的な構造になります。この時、次のことが言えます。



1.意味は無意味である

2.無意味は意味である



つまり、秩序立てること(意味を理解すること)は秩序をバラバラにすること(無意味にすること)と、ある意味、表裏一体である、とも言えます。よって次のことが言えます。



1.秩序立てることは秩序をバラバラにすることである

2.秩序をバラバラにすることは秩序立てることである



ここで、秩序立てる行為、意味を理解する行為を「勉強」と呼んでいることに着目してみましょう。では、無意味な行為は何と呼ばれるでしょうか? 勉強の反対の概念であるこれを、「遊び」と呼びましょう。この時、次のことが言えます。



1.勉強とは遊びである

2.遊びとは勉強である



この時、勉強と遊びは表裏一体となっています。

ところで、遊びとは一般的に言って、楽しいものですね。

したがって、遊びが勉強そのものだと考えた場合には、勉強はある程度楽しいものであると考えることもできます。



勉強とは、秩序をバラバラにしたり(無意味な遊び)、秩序を構築したりすること(意味ある理解)です。



つまり、勉強とは、「秩序を絶えず再構築し続けることだ」、と言えます。



勉強とは「無意味だから意味がある」という類のものになります。



なぜなら、既に書いたとおり、「無意味が曖昧なグレーゾーンを守る」からです。

もしも、これらのグレーゾーンが失われた場合、どのようなことが起こるかについて考えてみます。



世界から曖昧さを排除すれば、すべてをプログラムしようとして、その上ですべてをルーチンで動かそうとすることになります。その世界では白黒はっきりしたものしか着目されず、曖昧なグレーゾーンは徹底的に排除されます。こうした排除を許す場合、曖昧な領域に属する多くの人や事柄が排除されます。



例えば、男なのか女なのかわからない容姿や心を持った人を想定しましょう。ここに、先ほどの「白黒はっきりさせる」という原則をそのまま適用すると、この人は基本的に排除対象となることになります。なぜなら、男なのか女のか、「曖昧」だからです。



もしも、白黒はっきりと決定しない曖昧な領域としての「無意味」が守られるのならば、こうした排除をあらかじめ防止できる可能性があることになります。



こうした例は基本的にたくさん挙げることができますので、みなさんも気が向いたら、色々考えてみると面白いかもしれません。参考までにもうひとつくらい例を挙げておきます。



例えば、時に「恋」というのは、それ自体安定的ではなく、感情の起伏を伴った不安定で曖昧とした感情であるともある程度言い得る場合もあると思います。そうしたはっきりとしない恋は、「淡い恋心」などという言葉で呼ばれることもあります。しかし、そうした濃淡のはっきりしない、淡い恋心はその存在の曖昧性から、白黒をはっきりさせるという環境のもとでは、排除の対象になります。このことから、無意味が失われて、過剰に意味づけばかりがもてはやされると、淡い恋心が社会から排除されてしまうと考えられます。



このように、グレーゾーンの排除、曖昧さの排除、無意味の排除は社会から中間的な多くのものを排除し、多様性を損ないます。多様性が損なわれれば、人々の生き方が画一化して、自由な生き方を選ぶ権利や自分のことをそれぞれに自由に判断する権利も損なわれることになります。プログラムから逸脱した自由な領域、曖昧なグレーゾーンの領域が、「無意味」という姿を取って、人間の自由な行動をある程度守っています。



そして、勉強とは、絶えず秩序を再構築し続けることであり、それ自体、プログラムから逸脱(無意味)的であるとともに、プログラム(意味)的でもあります。

絶えず秩序の再構築をし続けるということは、絶えず秩序の破壊と構築がなされ続ける状態であるとも言えます。つまり、勉強とは、秩序を新しく作り変え続けること、であるとも言え、「創造し続けること」であるとも言えます。創造はそれまでなかった新しいものを創り出すことですから、それまでなかったものはすぐには理解されないことも多く、つまり、すぐには「意味」を持ちづらいです。ならば、創造とは、基本的に「無意味」なものです。そして、その無意味なものが、やがて僕たちの生活に多大な意味をもたらす場合があります(冷蔵庫とか洗濯機とか創造した人はすごいですね。彼らの行った「無意味」のおかげで、私たちの生活は便利になり守られています)。



その意味で、勉強とは、絶えず「変化」し続けることである、と定義づけることもできます。



ならば、自分を変化させたい場合には、自分が勉強をすることが有効となります。



どのように自分を変化させていくかは、人それぞれであり、一概に白黒はっきりとは言えず、曖昧で、グレーゾーンです。なぜなら、創造、変化とは、無意味であり、それ自体曖昧なものなのであり、それが「勉強」の正体である、ともある程度言えるからです。



いずれにせよ、今がどんな状況にあるにせよ、もしも、なんらかの変化を求めるのならば、時に勉強をすることが有効な手段になり得るとは言えるのではないか、と思います。



以上のことから、勉強のメリットをまとめます。





1.何らかの「変化」をしたい場合には勉強が有効

2.勉強は無意味で曖昧だから創造的でなおかつ意味がある

3.勉強は無意味で曖昧なものだからこそ多様性と自由を守ることができる



今の自分から変わりたい人には、「無意味」で「曖昧」な「勉強」がおすすめです。

新卒制度についての分析

こんばんは。



今日は新卒制度について分析してみたいと思います。



新卒とは、「その年に新しく学校を卒業することです」



大学の新卒なら、その年に大学を新しく卒業すること、あるいはした人のことを示します。



就職における新卒制度とは、「新卒でなければ受けられない就職制度」のことを示すものとして、ここでは考えてみます。



新卒と既卒(新卒でない人)の主な違いは、「年齢」です。



ならば、新卒と既卒を差別する意味とは、「年齢差別」を意味しています。



新卒のみを採用するという制度の場合、その根底の欲望としては、「年齢の若いものほど良い」という価値基準が根付いていると推理できます。



よって、新卒一括制度とは、基本的には、「年齢が若いものほど優れている」という一種の差別思想となります。



つまり、新卒一括採用をしている企業ほど、年齢という要素が相対的に強く重視されるものとして推理することができます。



こうした年齢で強く人を差別する思想傾向を、今回「年齢主義」と呼びましょう。



では、なぜ、こうした年齢主義による差別思想が現れてくるのかについて考えてみます。



まず、年齢主義によって、どのようなメリットが得られるか。



年齢主義によって、企業など組織体は「若い人」を採用することができます。



つまり、彼らが求めるのは若い人であり、つまり、「若い」ということに付随する何らかの特質がこうした年齢主義を助長しているものと考えられます。



若さには主に次の特徴があります。



1.経験が浅い

2.発展途上

3.柔軟性が高い



経験が浅ければ、思想傾向や行動傾向などは確固としたものにはならず、柔軟性が向上すると推理できます。発展途上で人間として成熟しきっていないのなら、成熟しきって完成した個体に比べると発達過程に柔軟性があると推理できます。以上のことから、若さの特徴とは、「柔軟性」であると推理できます。この仮説が正しければ、年を取ると、人格などがしっかりと固まってきて、一種の「頑固性」などが出てくるという推理も成り立ちます。一貫した強い人格は、一面から見ると、頑固であるというふうに見え、頑固というと悪いことに思えるかもしれませんが、思想、行動の「一貫性」という点から見ると、時に一つの優れた資質であると言えます。一貫した行動が求められる局面はそれなりにあるものと思いますので、頑固という特質は時に必要な場合もあろうと言うことができます。



さて、若者の話にもどります。



若さの特徴は、柔軟性です。



では、企業はなぜ柔軟性を求めるのかについて考えてみます。



柔軟であれば、「形を変えられる」と推理できます。つまり、企業は、柔軟な若者を、自分好みの仕様にアレンジすることができます。したがって、若者を自社に適合する形に操作、コントロールしたい企業は、新卒一括採用を強く行うであろうと推理できます。ならば、新卒制度を採用する企業は、比較的他者に対するコントロール欲求が強いであろうと推理できます。



つまり柔軟性を求める企業、若い人を求める企業とは、「自分たちがコントロール可能な人たち」を求めている、ということになります。こうした人物像は、主に、「素直な人」と呼ばれます。



以上のことより、新卒制度を採用する企業の目的とは「素直な人」を採用することであると、言うことができます。



素直な人には、柔軟性という特徴があります。

頑固な人には、どのような形にせよ多様な形での完成性という特徴があります。



柔軟すぎれば、自分の考えがないことになります。

頑固すぎれば、他者のことを考えないことになります。



つまり、新卒制度を採用する企業とは、自分のことを差し置いて、他者のことを考える人のことを採用したい傾向にあるのではないかと推理することができます。



したがって、新卒制度における就職活動を制したい場合、極力素直な人、つまり、自分の考えがなく、他者の考え(例えば、就職活動の対象となる企業に対し適合的な思想)を持った人になることが有効性を持つ可能性が出てきます。



この場合、新卒制度を採用する企業とは、自律的な人は排除し、他律的な人を求めていると推理できます。



こうした組織体には、自律的な人間は少なくなり、主に他律的依存的な人間が集まっていくことになります。



人間は、誰しも、多少なりとも自律的であり、多少なりとも依存的ですが、少なくとも、依存的な人が集まれば、全体のその企業の傾向としては依存的な組織となっていると推理することができます。



よって、次の要望を持つ人は、新卒制度を利用することが有効であろうと推理できます。



1.他者に依存したい

2.自分では考えたくない

3.コントロールされたい



逆に、次の要望を持つ人に対しては、新卒制度は有効に作用しないのではないかと推理することができます。



1.自律的に活動したい

2.自発的に考えたい

3.自由が欲しい



よって、企業は、コントロールしやすい人材が欲しい場合には、新卒制度を利用することにメリットがあり、自発的に考え行動する人材が欲しい場合には、新卒制度(年齢主義)を撤廃することが合理的判断となると推理できます。



他律的な人も自律的な人も社会においては、どちらもそれぞれに有効性があり、そこに優劣はありませんが、その都度の目的に応じて、新卒制度と非新卒制度を使い分けていくと、より適切な選抜が可能になるかもしれません。



まとめます。





1.自発的に働く人が欲しい場合には新卒制度の撤廃が有効

2.指示待ちで働く人が欲しい場合には新卒制度の採用が有効

3.自由が欲しい人は非新卒制度を採用している企業に就職することが有効

4.縛られていた方がいいという人は新卒制度を採用している企業に就職することが有効





P.S.自律的な人と他律的な人の特徴についての簡単な分析。



詳しくは後日またにしますが、簡単に自律的な人と他律的な人の特徴について触れます。



自律的な人は、次の特徴を持ちます。



1.自分で考えて行動する

2.自分で考えて学習する

3.自分で考えて協働する



他律的な人は次のような特徴を持ちます。



1.他人の指示によって行動する

2.他人の指示によって学習する

3.他人の指示によって協働する



以上のことから、自律的な人は基本的に、勝手に行動し、勝手に学習し、勝手に協働します。したがって、相対的に勝手に育っていくと考えることができます。その意味で言えば、劣悪な環境でさえなければ、相対的に言って「勝手に」様々な技能に習熟していくと考えられるので、一緒に行動する際にかかるコストは少なくすむかもしれません。



他律的な人は基本的に、指示によって行動し、指示によって学習し、指示によって協働します。したがって、ケースバイケースに、素早く簡潔に的確に指示を出し続けていなければ、基本的に行動しない傾向にあるであろうと推理できます。この場合、行動するために逐一の指示が必要であることから、指示者の労力はかさむ傾向にあると推理できます。



以上のことより、それぞれ次のメリットがあります。



自律的な人のメリット



1.手がかからず、指示・指導コストが少なくて済む

2.指示・指導コストが大きくかからない分、比較的簡単に技能熟達、および成長を示す

3.指示待ちの時間分が節約されるので、その分の時間が自律的行動に費やされ、独自的な着眼点を発揮しやすい



他律的な人のメリット



1.指示がなければ基本的に動ないので、きめ細かく指示を与えさえすれば、組織内の齟齬が少なくなる

2.自分の考えを比較的強くは持たないので、自然と付和雷同的となり、極端な逸脱行為が少なくなり、行動が予測しやすい

3.他律的な行動を取るので、イノベーションなどの能力は期待しづらいが、逆に言えば、単純なルーチン作業には優れている



以上のことから、次の場合新卒一括採用を行うことが合理的となります。



1.組織内齟齬を少なくしたい

2.組織内の行動を予測しやすくしたい

3.単純なルーチン作業を強化したい



逆に、次の場合には、新卒制度を撤廃することが合理的となります。



1.指導・指示コストにおける費用対効果を上げたい

2.社員や企業における自律的で高度な成長を達成したい

3.他にない独自の新しい着眼点や発想がたくさん欲しい



現在の日本の場合、新卒制度が主なものとなっているようですから、どちらかと言えば、日本人は単純なルーチン作業を重視した戦略をとっているのかもしれません。

したがって、他律的な人の方が比較的生きやすい社会であると言えるのやも。



しかし、自律的な人も決して他律的な人に劣っているわけではないので、その点は念押ししておきます。



「新卒制度」(年齢主義)にたとえうまく適応できなかったとしても、そのことが直ちに、その人の価値を決定するわけではないということはお分かりいただけたかと思います。自律的な人にも他律的な人にも、各々にメリットがあります。



ただ、基本的には、年齢主義は、一種の差別思想ではありますので、それ自体、「悪」であることは注意しておく必要があると思います。理想的には、老若男女問わず活躍できる社会が良いことにはなると思います。ただ、現時点では、企業も全ての人を採用できるわけでもありませんし、万能の検査基準でもって完璧に人を篩い分けることができるわけでもありませんし、絶対の基準もないですし、かと言って、何の基準も設けなければ企業もパンクしてしまうし、という諸々の事情により、一応、たとえ「必要悪」であったとしても、こうした差別思想が必要になることも、もしかしたらあるのかもしれません。



しかし、差別思想は、基本として、非常に危険な思想ですので、いくら注意し過ぎてもしすぎることはないと思います。少なくとも、でき得る限りは、多様な組織作り、というか、多様性を尊重した共同体作りを行っていくことができるのが理想的であるということは言えると思います(この点にご興味おありの方は、当ブログの「分術」という記事をご覧ください)。

多様性の観点からは、組織を作る際にも、多様な人々をコストが多少かかっても理想的には採用するべきだと思いますから、年齢主義に頼りすぎるのは危険だとは思います。理想的には老若男女、さまざまな年齢層の人たちがその企業なり組織に所属しているのが好ましいとは言えるでしょうから。

ただ、それこそ「コスト」の問題があって、どこの企業もなかなかに余裕がないのかもしれません。余裕を持てなければ、逼迫状況は改善しづらいですから、既存の依存的他律的な企業のケースの場合には、なかなか改革は期待しづらいのではないかと、個人的には思います。

既存の他律的な性質の企業にはない、自律的なある意味で、「余裕のある会社」なり組織を作れるといいな、と個人的に考えていますので、こうした「余裕のある居場所作り」にご興味おありの方は、お気軽に、ご連絡ください。コメントでもメールでも。



では今日はこの辺で失礼いたします~