魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。連絡先アドレス:「mmaazzyyuu@gmail.com」 何かありましたらまずはお気軽にご相談ください。基本的には何でもどうぞ。できることには無論限りはありますが。

呪術(呪いのかけ方)

 ここでは、主に、「呪文」に焦点を絞って、呪術について述べます。

 呪文とは、言葉の羅列です。世の中にはさまざまな呪文があり、オリジナルの呪文や古い呪文(念仏など)もあります。

 では、これらの呪文はどのような機構に従って効果を発揮するのかについて考えてみます。

 まず、言葉には現実的な効力があります。

 明るい言葉は、明るい「雰囲気」を持っており、それにつられて周りの人も明るくなるという反応がしばしばみられます。つまり、言葉は、「雰囲気」を作り出し、そして、その雰囲気は、周囲に伝染する働きがあります。

 つまり、言葉によって、雰囲気を操作することで、周囲の人のはたらきがある程度操作されてしまう傾向が存在はしている、ということです(良きにせよ、悪きにせよ)。

 人を操作しようという観念はあまり、よく思われません。

 誰もが、誰かの掌のうえで自分がおどっているだなんてこと、考えたくないのではないでしょうか。

 僕も、考えたくないです。

 だから、他人にやられて嫌なことは、自分もしない、ということで、こうした、呪文による呪術の使用には慎重になる必要があるでしょう。

 しかし、例えば、念仏などは、きちんと念仏の内容を理解し、それを呪文として唱えるならば、明らかな心理効果が見られるように思います。呪文にふくまれた、ロジックが、認知行動療法の代わりとなり、自分の中にあった迷いが断ち切られていく場合が多々あるようです。

 また、今、言葉の話をしていますが、おそらく、文字の形や発音にも心理的効果があります。

 音楽のリズムや音程の特徴が、人間にある程度特定された効果を及ぼすことができる可能性について触れられた本もあるようです。

 例えば、「ア」という音。これは、アルファベットで表すと「a」で、取りあえず、音は同じということになっていますが、この二つでは、得られる印象がまったく異なります。つまり、文字とは一種の絵画のようなものであり、便宜的に同一項として使われることがあるとしても、実際には差異があり、効果にももちろん差異があります。「ア」という文字は、「a」という文字に比べ、固い印象がありますね。「あ」と比べてみてもそうです。これは、多分、丸みの問題なのでしょうね。だとすれば、丸みのある文字は、一種の柔らかい印象を引き起こす、ということであり、「アイシテイル」というのと、「あいしている」というのでは、まったく意味が異なるということになります。

 つまり、表記法、レトリックによって、内容が同じだとしても、得られる効果が異なってきます。

 したがって、よく「レトリックの問題」ということで、思考を中断する論法がありますが、もちろんそう言った論法は僕も使いますしまた使ってもいいのですが、使用の際には注意が必要となります。

 「キキとブーバ」というおもしろい概念がありますので、ぜひ調べてみてくださいませ。

 では、呪術はどうすれば行使できるのか、一応書きます。

 まず、呪術には、大きく、二つあります。

 一つが、治療する呪術。もう一つが損なう呪術です。

 また、呪術には伝染性があることは先に示しました。したがって、呪術の効果は対象のみならず、自分にも波及します。

「人を呪わば穴二つ」と言いますね。人のことを呪えば、自分にもその効果が返ってきます。

 ですので、損なう呪術は出来れば使わない方がいいと思います。自分も損なわれてしまいます。そうでなくても、倫理的に問題がありますし。

 また、治療の呪術を使えば、自己治療の意味もあります。人の喜んだ顔をみれば、その顔も言語表象の一つである限りにおいて、必ずこちらに効果が伝染します。結果、人が幸せになれば、自分も幸せになります。

 その意味では、利他主義とは一種の利己主義ともいえ、もっと言えば、そもそもこの区分自体が無意味ということになってしまうのかもしれません。その点は各々でご意見賛否両論かと思います。

 

 ここでは、まず、損なう呪術について記述してみます。しかし、できれば、使われず、むしろ、みなさんが自分の身を守るための「予防接種」として扱われることを切に願います。

 

 ケース(BがAに呪いをかけます)

 

A「昨日のテレビ見た? あのお笑い番組。面白かったよね。特に、風船が爆発してそれで芸人がびっくりしているところとか。めっちゃ笑ったわ」

B「おもしろかったよね。人がびっくりしているところ見てると、なんかこっちまでびっくりしてきちゃうよ」

A「だよね。私もそう思う。Bは昨日何してたの?」

B「本を読んでた」

A「また、本読んでたの(笑) 何の本?」

B「恋愛の本」

A「どんな恋愛?」

B「心理学の本でね。面白かったよ」

A「ふーん。で、どんな内容?」

B「興味ある?」

A「無論(笑)」

B「なんかね。人って、自分の恋人を選ぶとき、自働的に、自分と釣り合いの取れた人とカップルになるようにできてるんだってさ。マッチング仮説とか書いてたかな。よく覚えてないけど」

A「それって、ほんとうなのかな? 私はあんまり信じてないけど。だって、美女と野獣のカップルとか普通にあるし」

B「その場合、相手に経済力があったり、なにか代わりになるものがあるみたいだよ。世知辛いよね」

A「私はそう思わないけどな。好きな気持ちに理由とかないんじゃない?」

B「そうかも知れないね。たしかに」

A「でしょ? だって、私とか好きな人のこと、めっちゃ好きだもん。それしか考えられんよ。釣り合いとか、そんなの考えてる暇ない」

B「確かに、普通、そんな事考えて、恋愛したりしないよね」

A「私もそう思う」

B「Aはよく恋愛の本とか読むの?」

A「読むよ。恋愛大好き」

B「そうなんだ。Aは恋愛の大家だね」

A「うん。恋愛のことなら何でも聞いて」

B「何ごとも、専門家の言うことは聞かないとだものね(笑) じゃあ、恋愛のことで何か悩んだりしたら、A大先生に聞くことにしようかな(笑)」

A「何でもござれ(笑)」

 

 ケース以上です。

 あんまり解説したくないな(笑) ちょっとだけ、解説します。

 これは、相手のアイデンティティを傷付けることを、意図した呪いです。一般的に、人間は、「矛盾」(一応、「ダブルバインド」とか調べてみるとおもしろいかもしれません)に対し、高い耐性を持っていません。ですので、自己矛盾してしまうと、そのことで苦しむことになるのです。「自分探し」という言葉もありますね。アイデンティティが定まらなくなってしまうと色々な不調が出てくることがあります(治癒するための呪術もあります)。無気力になってしまったりとか、ひどくなると、身体に症状が出てくることもあると思います。

 まず、BはAの言動が矛盾に至るように誘導しているのです。Aは、「恋愛について、何も考えない」というテーゼと「恋愛についての本を読む、つまり、恋愛についてたくさん考えている」というテーゼを二つ、提出しており、これらは矛盾しています。つまり、Bの言動は一種の「嫌味」なわけですね。「あなた、言っていること矛盾してますよ」っていう。

 そして、嫌味な言葉は、嫌味な事態を伝染的に引き起こしますので、結果的に、相手は呪われます。もちろん、その呪いは、原則通り、自分にも返ってきます。BはAに話を合せていますから、その言霊(端に論理構造と言ってもよいと思います。この場合、矛盾した構造のこと)の影響をダイレクトに受けます。

 こんなふうに呪いをかける手法も、あることにはあります。みなさんご注意ください。とか言っても、けっこう多くの人が無意識に互に呪いをかけあっているのですが(僕を含めて)。そして、人を呪わば穴二つになってますね。よく見ます。多分、すべての呪いを避けることは、使用者側としても、被害者側としても、無理なのでしょうね。

 例えば、藁人形を釘で打つ形の呪いがありますよね。あれは、藁人形をくぎで打つという言表行為によって、自身の中の心を呪いに染め上げているのです。そのような状態で、うらみのある人に接触すれば、そのネガティブな効果は、その対象に伝染します。要は、自身の呪いの心をどれだけ強化できるかに、呪いの真髄があると言えるかもしれません。人を呪う人は、無意識のうちに、周囲の人を強く呪います(あるいは、類感呪術のはたらきがある可能性も否定はしません)。呪術で言えば、「呪うことができる」と能力的に評価して言ってもいいのでしょうが。その点の解釈はみなさんにゆだねます。互に呪って呪われて……切がないですね。世知辛いです。

 

 次は、治癒の呪術を一つ紹介します。

 この場合、アイデンティティの不安定の原因は、自我にありますから、その不安定な自我を消去してしまうという方法があります。

 次の論法を用います。

 

 1.私が存在しているとする。

 2.他者が存在しているとする。

 3.すべてのものには原因があり、結果があるとする。

 4.私の存在の証は、私以外の存在、つまり、他者による。

 5.私は、他者が存在している時だけ存在する。

 6.他者は、私が存在している時だけ存在する。

 7.因果則は、二項の間で相互依存的である。

 8.全ての因果則にもとづく存在は、自律的に存在せず、他律的に存在している。

 9.他律は、どこまでも連鎖していき、それが止まるとすれば、因果則の存在しない存在による(自律的存在、神など)。

 10.因果則の存在しない存在が存在しない場合、他律は無限に続き、ついぞその原因は存在せず、「私」の存在は破綻する。

 11.因果則のない存在しない存在が存在する場合、他律は終わるが、その原因は因果則によらない。ならば、因果則が破綻するので、相互依存的な存在である、「私」の存在は破綻する。

 12.以上のことにより、「私」は存在せず、自我、エゴは存在しない。

 13.したがって、私は存在しないので、苦しむ私というものも存在しない。よって全ての苦しみは存在しない。

 

 以上が治癒呪術の一例です。実際には、これを相手に合せて説法として用いることになります。ちなみに、これにカウンターを食らわせる呪術もあり、たとえば、「そんなこと言ったって、私は存在して、現に苦しんでいるよ」という言説を用います。これには、自我を復活させる効用とともに、苦しみを復活させる副作用? もあります。すべてのことは、状況によって対処の方法が異なりますので、詳しくはみなさん各々研究なさってみてください。

 

 一応、今日は呪術について書いてきましたが、無理に他者を操作しようとはしないことをいま一度おすすめしておきます。人を呪わば穴二つです。

 

 それでですね。

 

 蛇足なんですけど、最近、愛の痛みということについて考えているんですよね。果たして、恋愛なり愛なりの痛みなり苦しみを消去するべきなのかどうか。

 でも、愛の痛みって、それ自体美しいような面もありますよね。なんか、心理的に消去しづらいし、心理的に消去しづらい限りは、消去もできません。

 愛自体、ひとつの呪いですよね。場合によっては、自身が牢獄に繋がれているかのような気持ちになることもあるかもしれません。

 ですので、愛も、呪術の一つには含めることができるのかもしれません。

 苦しいのは嫌ですけど、好きな人のために、悩むことができない自分というのもなんか嫌ですよね(笑)。メンタルの強さも一長一短かもしれません。

 愛の痛みは美しいという説は極めて強力ですね。

 

 愛でも呪術でも、誰も傷つかないで済めば一番いいのにな、とは、個人的に思うのですが、これはなかなか理想論の域をでないのかもしれませんし、傷付くことが一概に悪いことであるという風にも言い切れません。また、戦略的にある種の「偏見」が必要であることも現状をみるに事実なのでしょう。一歩間違えればただのプロパガンダになってしまいますけど。とても難しいです。偏見はそれ自体呪いとして作用しますが、偏見を避けることはいつも難しいですね。このブログに書かれた記事にも、多くの偏見があるはずですから、みなさんはお読みになるとき、これらの魔術なり体系が、基本的には「個人的なもの」、「マイナーなもの」であるということにご留意ください。その上で、ご自分の頭で一から思考することをお勧めいたします。その思考の作業の中で、このブログからすこしでも得るものがあったなら幸いです。そもそも、このブログの目的は、自律的な思考の援助にありますから、鵜呑みにはなさらないでくださいね。鵜呑みだと、他律になっちゃいます(笑)。僕が断言したからって、言いなりになることはないわけですから。どの意見を取り入れ、どの意見をはねつけるかはまったくみなさんの自由ですので。

 それにしても、愛の痛み……この問題、とても難しいです。何もかもとても難しいですね。だから、おもしろいのかもしれませんが。でも、痛いのは、勿論嫌なんですけども……「美しい痛み」という問題は、僕にとって、とても難しいです。

 みなさんに、kaneisvan137『[MAD]Love is a Beautiful Pain-Endless Tears』 を送ります。

 

君のこと思うほど、この涙こぼれるの(上記曲歌詞より引用)

  

 好きであれば好きであるほど辛い、っていうのは、とても難しい問題ですよね。一体どうすればいいのやらまったく見当もつきません。それこそ、「エゴ」(自我)の苦しみなのかもしれませんが、でも、それが本当に悪いことなのかどうか、僕には未だに確信が持てません。果たして、エゴは悪いものなのかどうか。エゴの問題点について考える際に参考になると思われる曲として、くらげP『キライ・キライ・ジガヒダイ』を挙げておきます。

 こうして見てみると、音楽も呪術ですね。それ自体、言霊の力を持っています。