魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

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誤読

読書って、難しいですよね。ふと僕はそう思いました。

果して読書に正解というものが存在するのか否か……

うむ。難しい。これは僕の手に余る問題だ。

これはとても難しい問題です。

 

Este é um problema muito difícil.

 

ポルトガル語って、字面で何となく意味が分かるところがありますよね。おそらくポルトガル語自体を勉強したことがなくても。これってなんでなんでしょうね?

 

まず、’problema’とか’difícil’とかは何となくわかりやすい気がします。前者が'problem'で後者が'difficult'とかかなって感じられますな。すると’problema’は名詞でしょうので、その前にある'um'は冠詞なのでしょう。’difícil’が形容詞だとすれば、'muito'は何らか副詞的なもの。最もメジャーに考えると、'とても' とか 'たくさん' とかの類の意味になるかな。実際、スペリングも'muito' と 'much' ではかなり似ている。t⇒chというふうに歴史的な変遷において綴りが読み替えられていると考えれば意味も通るし、言語的にもさほど不自然ではない。すると ’problema’と’difícil’ は文型で言うところのO(目的語)C(補語)に当たりますから、残る'Este' と 'é' はそれぞれS(主語)とV(動詞)に当たると推理できます。'Este' はドイツ語の 'ist' に発音が似ています。つまり、これは何らかbe動詞的なものかあるいはそれに近接することの多い概念であると考えられる。また、主語ですので、動詞というよりは名詞でしょう。つまり、be動詞のそばにありやすくて、なおかつ何らかの短縮の作用を受けるほどの高頻度で使用される言語がこれにあ当たると考えられます。これはおそらく代名詞でしょう。では、'Este' に似た代名詞とは? st の形態が混入していますので、stが混入している代名詞を英語で考えると、これは 'this' 。発音的にも、'Es' と 'te' を裏返して読むと、'Tees' となるので、音素的にも 'this' に近いと言える。もしかすると、鏡文字的な読み方をした人の流派が現代にまで残存した結果、現代のポルトガル語では、'this'  的なものと 'este' 的なものが関連するに至ったのかもしれません。例えば、日本語の「か」や「し」はそれぞれ 'ka' , 'si' といったようにそれぞれ複数の音素でもって一つ当たりの文字の形態素が成立していますが、これに鏡文字的な作法を持ち込むと、「かし」⇒「しか」となりますので、音素的に見ますと、'kasi' , 'sika' となります。二つの音素を一組に考える形態素を鏡文字的に読み込むことによって、'this'と'este'のような照応関係が観測されるのかもしれません。色々と考えられて、興味が尽きませんが……。さて、最後は、'é' 。これはおそらくbe動詞でなおかつ、これに英語で近い形態素と言えば、字面の長さ的にも 'is' が考えられます。発音的にも結構近いと言えるかもしれません。すると、そのことから、'é' の前にある 'Este' は三人称単数の代名詞。ますます 'this' と関連する確率が高い……などというふうに色々と考えられます。こういう事を考えているのはとても楽しいです。

 

言語の組成とは、非常に複雑なものであるように思います。その変遷や歴史まで遡るのなら、相当量の美術的、音楽的、言語学的、歴史学的、その他諸々の様々な知識や学問に習熟する必要があるように思われます。

 

さて、そうした複雑な事情を踏まえた上で……

 

では読書とは?

 

謎です。

 

少なくとも言えるのは、読書ということを一律の基準で測り、一律の基準を他人に押し付け、例外や個性を排除し、自己中心的な仕方でもって、強制的で単純、さらに一律な「読書論」なるものを提言することはいささか、うまくは状況を反映できていないのではなかろうか? ということでしょう。様々な物事の状況とは非常に複雑なものであるように思われます。

 

「読書一つとっても、これほどに難しい問題であるのだ」、ということは言えるのかもしれません。

文章を読むという行為は非常に奥深いものであるように思われます。下手すると、電子情報と紙媒体の情報では、認知される情報自体が異なっている……などという結末もあり得るでしょう。そんなこんななので、私は紙媒体も電子媒体もどちらも尊重することにしています。実際、個人的な体験の範囲で言えば、紙媒体と電子媒体では、自分の脳にインプットされる情報が異なるように感じられます。この点はみなさんの経験なども随時調査していく必要がありそうです。

 

僕は本は好きに読めばいいというふうに思っています。

 

さて、そこで突き当たるのが「誤読」という概念です。これがまた肝です。何が誤読なのか? 何が正しい読書なのか?

 

おそらく、この問題は、人間の手の内を超えたものなのではないでしょうか。

 

僕達は神ではありませんので、物事の正邪や正誤を完璧な精度でもっては成し遂げることができない程度の器しか持ち合わせてはいないでしょう。

 

その中で、少しでも「正しい読み」なるものをしていこうと心がけることは大変殊勝な事でしょうし、場合によっては尊敬に値することなのかもしれません。ただ、僕はいわゆる「誤読」にも機能があるのではないか? というふうに考えています。

 

例えば、その世間において、正しいとされるものとは、その世間において権威とされるものに限られるでしょう。では、権威のないマイノリティは間違っているのでしょうか? もしも正しいもののみに存在価値が認められるのだとすれば、その時、マイノリティは排除を受けることになります。これはうまくない。大なり小なり争いが起こってしまいます。

 

ならば、その時代において正しいとされる権威の潮流意外に、マイナーなものの居場所としての「誤読」にもその位置を担保することが必要となるのではないか。

 

「誰が」正しい読書なるものを決めるのでしょうか?

 

なるほど。正しいものにのっとる事、それ自体は大切な事でしょう。しかし、僕たちの正義とは常に不完全なものです。正義はそれ自体、多様性であるような側面もあるように思われます。ならば少なくとも、他人に自分の正しさを単純に強制することは間違っているとも言えるのではないか? 僕にはそのようにも思えます。

 

また、誤読にはプラスの側面もあり得るのではないかと、僕は考えます。何故なら、誤読とは一種のエラーだから。

 

そのエラーには偶然性が根付いているかもしれない。そして、多くの発明は法則的なメソッドでというよりも、統計規則に反した天才的、あるいは奇跡的な所業によって、その存在を現すというのが専らな事であるように思われます。つまり、想定外の「エラー」によって、何らかの創造的な出来事が起こる可能性があるとも考えられるのではないでしょうか。

 

僕は、「誤り」を単純には否定したくなくて、そうしたレッテルを貼られた人たちを排除したくもない。だから、僕は「誤読」を積極的に肯定したいのです。

 

誤りは誰にでもあるものでしょう。それには負の側面が伴うこともあるかもしれない。でも、もしもその誤りを将来のために活かして、自身を積極的に発展させていくのであれば、その誤りは決して無駄ではない。

 

あなたの誤りも、僕の誤りも。

 

誤りとは、恐らくはコロコロと歴史という名の変遷を経ながら、その川の中を流れているうちに、角がとれて丸くなり、誰にでも受け入れやすいものとなった一つの形態なのではないかと感じることがあります。「丸」というものはこれまたとても意義深いものであるように思われます。「何が」丸なのか? 丸というものは正誤判定にも深く関わっている概念のようで、私達はしばしば、正解に対して、「丸」をつけます。丸とは一つの正義を指示しているようです。では、そうした丸を細かく砕いて、それらの砕石を厳密に整理するとどうなるのか? そこからは実に様々な方角へと分岐した石の傾き、接線が見受けられるようになります。自身の現時点で所有する方角を基軸として、あるものは東。あるものは西を指示すでしょう。少なくとも、その位相にあり得る限りのあらゆる方角を指示し得るのではないでしょうか。丸いものにはそうした一種の「広さ」が見受けられます。

 

x^2+y^2=r^2

2x+2y\frac{dy}{dx}=0

\frac{dy}{dx}=-\frac{x}{y}

 

広さには、「器の広さ」などというような概念もあり、才能の広さや徳の深さなどを表す機能があるように思われます。僕もできる限りは、「広く」ありたいものだなと思いますが、 そのためには、「丸く」なれなくてはいけない。そうでなくては、あらゆる方角という一つの集合を見極めることはできない。そのためには、歴史という名の川の中を流れに流れることで、ごつごつとした角を取らなくてはならない。そして、最短距離で何にもぶつからずに滞りなく進むというのではいけなくて、むしろ様々なものに激突しながら進むのでなければ、角は取れぬまま、温存されてしまうことになるのです。

 

したがって、僕は自分というものをどこまでも微分することで、その砕石をこの世界に広く行き渡らせるということを試みたい、というわけなのです! 発音素の同一性に基づいた意味の連関を認めるとすれば、或いは一種の精神の分析の技法としましても、この「石」は「意志」を指示し得るとも言い得る。意志を砕いて無意志に至るところにこそ、真に意志があるとも言えるのかもしれません。僕たちはたくさん間違って、それでも進むから、正しい方角へと絶えず向き直ることができる……のかもしれません。

 

 

P.S.直観術は比喩です。