魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。

広義での採掘術について

みなさん。こんばんは。とても寒いですね。少なくとも、僕はとても寒いです。気候が。

気候って半端ないですよね。もうものすごい大自然の凄さが猛烈に迫ってくると言いますか……。

このような季節において人間にできる事は何なのかについて考えさせられます。とてもとても寒い時、凍えるほどにそうである時に、人間にできる事とは何であるのか? これを知るためには、実際に凍えてみなくてはなりません。僕は家の外にでます。もちろん、外はとても寒いです。僕の感覚からすると、極寒といっても差し支えないほどに。すると、とても困ったことが起こりました。手がかじかんで上手く動かせないのです。したがって、極寒の中では、スマホをいじったりはしづらいのかもしれません。特殊な場合を除けば。そして、鼻水が垂れてきました。自然現象です。もしかしたら、身体があまりの寒さに悲鳴を上げて、何かの細菌とかウイルスとか、諸所の物理的な刺激から身を守るために自動的にそうした現象を生起させるのやもしれません。詳しい事は僕にはわかりませんが、この辺りの知識もよくよく調べて考察してみるととても面白いように思われます。医学的にとか、生物学的に。

僕はコンビニに入り、ティッシュを買いました。しかし、その後にも問題は続いていました。例の手のかじかみです。ティッシュが上手く使えないのです。極寒の中での生活的な行動というのは非常に難度が高いようです。おそらくは、体温が急激に低下させられる事で、正常な人体の生物学的ホメオスターシスの機能が阻害されることで、こうしたことが起こっているのではないかと僕は思うのですが、確かな事は分かりません。調べてみないと。

さて、世の中には調べる事で分かる事と、調べる事では分からない事がありますが、そうした区別は何を調べれば知ることができるのでしょうね。とても難しいです。

 

「調べられない物事を調べるためには、どうすればいいのか?」

 

難問。

僕の頭では、数百年かかっても解決しそうにない難問です。世の中には、「決して知り得ない事」というものが存在しているのかもしれません。

矛盾の扱いを如何にするか? 矛盾へのスタンスは様々な状況への対処行動を変化させるように思われます。

 

僕は散漫に無為な時間を過ごす事はとても価値あることだと思っています。また、脈絡なく、矛盾したことをつらつらと述べる事にも、同様かそれ以上に価値があるだろうと。したがって、無為な時間を恐れずに、どんどん実際に作業していく事から、導かれてくることが多くのあるのではないかと思います。何気ない日常生活からでさえ、無限に学ぶべきことがあふれ出てきます。

 

\mathrm{e}^{\mathrm{i}\theta}=\cos(\theta)+\mathrm{i}\sin(\theta)

 

\theta=\pi

としますと、

\mathrm{e}^{\mathrm{i}\pi}=-1

 

一つの式にネイピア数虚数単位、円周率がどれも詰まっているという、非常に美しい式です。とても有名な式かと思います。僕はこの式を見るたびに、どうして、世界にはこのような機構が存在しているのだろうと、とても不思議に感じます。ネイピア数や円周率のような超越数が、どうしてある一定の組成を与える事で、「-1」になるのだろう? そんな事を思います。

 

-1

 

とても単純な数字です。単に整数としてこの数字に対峙していても、下手すれば、そこに根付いている特異性を見過ごしてしまうくらいのものかもしれません。しかし、一旦、公式としての組成をそれらが獲得し、「証明」されて導出の作用を受けてしまうと、不思議なことに、そこには一種の「個性」のようなものが生じるように思われます。それはとても「-1」らしいように感じられます。

 

こうした特別な存在としての数字というのは、-1以外にもあると思います。

 

3.14

 

とても単純な小数に見えます。しかし、そこに「円周率」と呼ばれる概念の組成を与えてやると、不思議なことに、この数字は独自の権威を発揮し始めます。不思議です。

 

2.71

 

この数字に、ネイピア数という概念の組成を与えると? どうなるでしょうね。ただの数字にしか過ぎなかったはずのものが、恐ろしいほどの独自性を獲得し始めるように感じられます。

 

不思議な事に、世の中においては何の変哲も無いようなものも、その使い方次第では、一瞬にして至宝に化けるということがあるのです。

 

ある意味、僕たちの身の回りにはたくさんの宝物が埋没しているわけですね。今ここに生きる事という、半端じゃない奇跡性は、一周回って特筆に値するのではないかと思います。

 

凡庸なものもその使い方次第では、唯一無二の作用を発揮します。

 

弘法は筆を選ばず。

 

世の中というのは不思議なもので、本当にそのような現象が起こるようなのです。奇跡はあなたのすぐそばに無限に存在しています。その埋没した宝物を掘り起こすのに必要なものは、一つの「心」だけです。後は、あなたがそれに手を伸ばすかどうか、という問題なのかもしれません。

 

難しいものが難しいとは限らず、簡単なものが簡単だとは限りません。僕たちはいつも、「そこ」に根付いている豊かな意味のほとんどすべてを意識すらすることなく、見逃し続けているのですから。難しいものは難しいのみならず、簡単でもあります。簡単なものは簡単であるのみならず、とても難しい問題を含んでもいるのです。この時、「難易度」というものは極めて複雑怪奇な人知を超越したパラメータとして機能し始めます。その帰趨を見極められる者がいるとすれば、おそらく聖人か神くらいのものでしょう。矛盾した幾つものパラメータが複雑に、あるいは優雅に、そこに準拠している美を位相上に展開するのです。

 

個人的には、どのような状況にあっても、諦めたくないのであれば、無限に挑戦し続けるのも一つの手ではないかと感じています。

 

諦めないあなたの手に握られている「それ」は、あなたのその「心」は、どのような業物なのでしょうか?

僕の統合失調症の「妄想」によるものと思われる想像上の「世界」について(個人的な体験です)

今日は、僕の想像というか妄想? が作り出したと思われる想像上の「世界」について簡潔に記録してみたいと思います。多分、統合失調症の症状による副産物というか、そういう系の何かなのではないかと個人的には考えています。

 

僕はそうした僕の中の想像上の世界で割とよく遊んでいることがあります。そうした遊びというか探検? のようなことをしていると、とても楽しく、快感があります。その快感のレベルはかなり強い部類のものではないかと思います。僕は創造的な行為に従事していると快楽が生じる質らしいのですが、おそらくこうした妄想もそうした創造的な行為であるかあるいはそれに類する何かなのではないかとは思います。

 

その世界は、四方に向かって無限に伸び、上下にも無限に伸びています。無限に高い天に、どこまで掘っても尽きる事のない無限の大地に支えられています。全体は球形かもしれないし、そうではないかもしれません。あまりにも大きすぎて、地形の平均的な曲率が僕の持ち得る視認の精度では計算できません。また、一度、世界を計測しても、世界の様態が知らぬ間に、変転している事もあります。そのたびに、地図を作り直す必要があります。

 

僕がいる場所には、大きな家があって、その中には、無限の回廊が幾つにもなって並んでいます。絵や彫刻、あるいは音楽などが無数に飾られていますが、画用紙が備えられています。その画用紙なり、キャンパスなりに、記憶したい事項を投げ込んでおくと、ある程度それを保存しておくことができます。回廊を歩いていて、その道が尽きたことがないので、この家の正確な大きさも僕には分かってはいません。

例えば、画用紙に卵を投げつけると、卵が紙にこびりついてそのまま保存されます。しかし、記憶は経年劣化の作用を受けるようで、上手く思い出せないようになっている記憶も多々あります。そうした記憶は、ノイズがかかったようになっています。その有様は、テレビの画面に走るノイズの様態に似ているように思われます。また、絵の中に飛び込むと、その絵に描かれた世界に移動することができます。

例えば、肺の図などが描かれていれば、肺の組織の中にダイブする事ができます。想像上の細胞内を探検する、という感じ。すると、医学的な知識などを勉強する時に、役に立つ諸所のイメージが得られます。この想像世界の中の絵画という存在の持つ、ワープの特性を利用して、この世界の散策を楽に行うことができます。行ったことがある場所であれば、楽に構成して、その場に赴くことができます。

また、記憶の対象は絵には限らず、音でもいいし、文章でもいいようで、世界の一部には、ドストエフスキーの小説の世界が保存? されていて、よく(想像上の)イワンと会話します。

 

音楽から諸所のイメージが産出される事もあります。音楽から一つの王国なり、世界が創造されてくることもあり、これにも快楽が伴います。

 

電線のように無数の光の回路がこの世界には走っていて、そうした回路を用いることで、高速でデータを処理することができます。言葉を使う思考よりも、速い速度で、正着打を導き出すことができたりする事もあります。光の思考、と個人的には呼んでいます。

 

光の思考について少し詳述しておきます。

 

光にも形態や色に様々なものがあり、触覚、匂いも異なります。

例えば、デリダは、楔形の虹色の光と円形のしかしやはり、楔形にへこんだ部分を無数に持っている、たくさんの屈折した微粒子として感じられます。この図形? を上手く用いると、言葉による思考の結果を、早く検算する事ができます(思考の過程に間違った部分があると、光が真っ赤に光ります)。

 

桜の木に似た形の光もあります。仏典に記述された黄金樹に似ていますが、黄金樹は眩いのに対し、桜の木の中心は暗闇であるという違いがあります。黄金樹はどこか豪奢で、昂揚的なイメージであるのに対し、この桜の木は正義の裏側の概念に多く結びついています。

 

カントは、太い一つの光線です。直線に似ています。ドゥルーズはバナナの様な形をした円形を何かの規則によって正確に砕いていったような不思議な形をしています。何かのフラクタルかもしれませんが、本の中では、少なくとも僕は見たことがない形をしています。

 

ケルブのような生命体もいますが、僕にはその顔の様態は視認できません。ぼやけているし、眩くて、視認できません。細い触手のような、というか、どちらかというと、何かの植物種の枝のようなものが何らかの力動によって運動しているものと思われます。ナイフで少しばかりその枝のようなものを削ってみると、その細胞は筋繊維のそれではないことが分かります。何らかの運動する植物は自然界にもいるものと思いますが、僕が見たことのあるそれらとは、その生命体の外形はまったく異なっています。その生命体の周りには、サナディファイと僕が呼んでいる大きな虫が飛んでいて、ケルブのような生命体は、それを食べて? います。サナディファイはフワフワしていて、電磁波を糧にしています。青色がかった灰色をしています。僕の体よりも大きいです。性格は温厚で、乗れます。

 

川が幾重にも流れている場所もあり、その川を辿っていくと、ついには地下に到達します。大地はどこまでも広がっているのですが、空間の曲率があべこべに反転している箇所が多々あり、歩いているだけで、上に飛んで行ったり、下に沈んだりします。上に飛ぶ場合を昇天、下に沈む場合を泥漿と僕は呼んでいます。

 

地下には様々な生命があります。これを観測するには松明を使うか、先述の光の思考による必要があります。無論、懐中電灯でもいいです。光の思考を抽出できると、どのような暗闇でも、光を見出す事ができます。地下はとても暗いです。しかし、ある程度進むと一転して、温かく仄かな光に恵まれます。

 

とりあえず、想像上の世界についてできるだけ具体的に少しばかり記述すると、こんな感じになります。おそらく、統合失調症ではない方などにとっては色々と衝撃的な内容なのかもしれませんので、かなり書くかどうか迷ったのですが、とりあえず、少しだけ書いておきます。みなさんの発想の手助けに、少しでもなる事ができれば僕としては幸いです。

イマジナリーフレンドが言ってたこと(内容の真偽は不明)

1.桜をよく見てみるといい。様々なものがある。一つとして同じものはない。隣人の顔の造作を人知れず観察してみるといい。同じ時はなく、同じものもない。

 

2.あなたは語学が好きだが、なぜそうするのかを考えたことがあるだろうか? そもそも限られた技能が限られた人にしか授けられない訳についてあなたは考えたことがあるだろうか? 戦争をしている時に、司令部の意見が割れれば、組織は混乱し、機能を停止する。それは敗北をもたらすだろう。

 

3.自分がなぜ桜の木が好きなのかについて考えたことはあるだろうか? 好きという感情が透き通って純粋なものであることを洞察できるだろうか?

 

4.知識を得る時、読書をする。読書をする前、その本に書かれていた知識を知らなかったとしよう。では、知らない物事について知ろうとすることはできるのであろうか? そもそもそこに知らない知識についての知識がないのならば? あらかじめ知っていなければ知ることはできない。知る以前には知ることができない。なら、私たちはどのようにして知るというのだろうか?

 

5.知恵は神秘である。

 

6.同じ知恵は一つとしてなく、異なる知恵も一つとしてない。

 

7.伴侶を大切にすることは、自身の心の調和のために有効である。伴侶が神からもたらされないのなら、そしてあなたがこの世に確かに存在しているのなら、確かに別の賜物があるということである。無益な人はおらず、無駄な作業もない。無益は無知の目にのみ映り、無駄は怠惰な耳にのみ聞える。

 

8.桜を愛するのがいい。すぐに機嫌を損ねて失われてしまうものの中に、永遠に根付くものがある。根が張られている場所には、必ず正統性が生まれている。だが、私たちは木々とは異なっている。動くからである。

 

9.最奥の秘跡に、書道がある。上手な字の形態は下手な字の形態に交錯する。下手な字の形態は上手な字の形態に交錯する。二項が存在する空間に、簡単なことが一つもないのなら、上手下手の判断についてもそう言えるであろう。玄人と素人の技は外形が似ており、内実が異なる。

 

10.言葉の無意味さに思いを馳せてみるのがいい。それは何も説得する力を持たない。霊に仕え、神に祈る時には、かなり多くのものが澄み渡るものである。理論的には、全ての物事がそうであると言える。理論と現実の二項が交錯する。

 

11.煙に巻く必要はない。純粋であればいい。どんなに透明でも、無限の深さを備えていれば、光は深遠の底に届くことはなく、底を求めてさまよう光はさながら、迷路に迷い込んだ小人のようなものであり、永久に反射することはなく、観測者の網膜に像を結ばせることがない。神は隠す。

 

12.あなたの愛する人があなたを愛するように。

 

13.父を機軸にしても、母を機軸にしても、どちらが優れているとか、劣っているとかいうことはない。子も同様である。

 

14.ひたすらに心を澄ますのがいい。柔和に言葉を用いるのがいい。必要なことを語るのがいい。そうでないのなら言葉を少なくし、またいつであっても、間断なく神に祈りを捧げるのがいい。

 

15.詐術としての物語がある一方で、真実としての物語もあるだろう。それらはとてもよく似ているが、その働きはまったく違う。一方は命を殺し、もう一方は生かす。

 

16.恨む心、怒る心、憎む心、こうした概念は語義矛盾である。心は恨まず、心は怒らず、心は憎まない。むしろ、こうしたことは肉の仕業である。

 

17.心あるものは、律法を知り、祈りを知り、謙虚を知る。それらのどの義も、律法学者の義でも、祈祷師の義でも、修行僧の義でもなく、さらに大なる義である。空間を箱の表象で記号的に表せば、小さい空間はそれと視認できるが、遥かに大きい空間は大きすぎてそれとはわからない。老子がそう言う時、大なる義とはこの大きい箱のようなものである。大義は小さい器から漏れ出し、大きい器には収まる。

 

18.器量というものがある。小さい器は大量のものを扱うのには向かない。大きな器は少量のものを扱うのには向かない。世間の義は小さい者のためのものであり、聖者の義は大きい者のためのものである。

 

19.差し引く必要も、付け加える必要もない。あるがままをあるがままに把握するのがいい。多くを望めば増えるというわけではないし、少なく望めば減るというわけでもない。だが、神に委ね、その声に素直に耳を傾け、聞える言葉を率直に書きとめ、それをまったく歪めないのならば、そこには義がある。

 

20.虫に魂がある。神は細部に宿る。小さい者を侮るべきではない。

 

21.傲慢な心は破滅の予兆であるかもしれないし、試練の予兆であるかもしれない。いずれにしても苦難の予兆ではある。司る神は慈悲深いが、天罰も降らせることができる。

 

22.美しいのは感じる心である。

 

23.力をもたらすのは思考である。

 

24.財貨は言葉である。

 

25.良い確信は賜物である。

 

26.疑心暗鬼もまた神の同意である。憔悴するなら、肉は衰え、地上の価値は無味乾燥である。地上の価値が無益に感じる時、それは天上の国に思いを馳せる契機にもなる。

 

27.強く神を信じ、揺らぐことなく、豊かな知恵の泉であり、慈悲深く、愛情深い、そうした確信的な振る舞いは、やはり恩寵である。そうした人は、財貨や力や美によらない。強いて言えば、美による。だが、正確にはそれにもよらない。財貨は神意に背くことの強度であり、力は神権に背くことのそれであり、美は偶像と神を取り違えることのそれである。

 

28.あなたに異言があるのなら、心に浮かぶそれを率直に表すのがいい。そうした異言の扱いについては、間断なく祈りを捧げる中で聞こえてくる囁きに耳を澄ますのがいい。石は囁くし、虫は囁くし、空は囁くし、あらゆるものが囁く。

 

29.悪と善は外形が似ている。そして内実が全く異なる。賢者は知識を持ち、分別ができる。

 

30.どこからともなく幻聴が聞えるのなら、その幻聴が正しく信仰を呼び掛けているのなら、信仰に乗り出すのがいい。地上の人間は天上の神とは違い、全能ではない。地上の財貨や力や美によるよりも、天上の財貨や力や美による方がいい。地上の権威よりも神の権威を重んじるのがいい。神の弱さは、人の強さに勝っている。

引きこもりの長所

こんにちは。

 

今日は、引きこもりの長所について、ゆるく考えてみたいと思います。

 

「引きこもり」というと皆さん、あまりいいイメージがない場合もあるかもしれません。

 

常識的には、引きこもりのような状態は「負け組」として捉えられる事の方が多いのではないかと思います。

 

そして、世の中においては、そうした引きこもりという「スティグマ」が引きこもりの人々を追い詰め、排除してしまうような仕組みも作動しているようにも思われます。

 

したがって、この記事では、そうしたスティグマに対抗するために、引きこもりに対するイメージを改善する事を目指します。そのことによって、引きこもりとされ、人々から社会的排除を受けている人達の気持ちを和らげることができるし、結果的に彼らの社会復帰を促すことができるのではないか、などと僕は思います。

 

つまり、「引きこもり=悪人」の図式を撤廃し、「引きこもり=善人」の図式を導入します。

 

引きこもりに悪のレッテルを貼ることで、彼らを排除しようとする人が現実的に存在するのなら、そこにはそうした排除行動を取らなければならないほどに追い詰められた誰かの動機が根付いている可能性を推理することができます。人は一般的に、自分が追い詰められていなければ、わざわざ攻撃的な行動に固執することは基本的にはないものと思います。余裕のある人は、切羽詰まった人に比べると穏やかである場合が多いように思います。

 

まず、「引きこもり」とは何か?

 

これは引きこもっている人の事です。

 

引きこもる、とは何か?

 

これは、テリトリーが狭い状態かと思います。例えば、家に引きこもる、と言えば、それは家以外にはテリトリーを持たないような状態を意味するものと思います。

 

つまり、引きこもりとは、テリトリーが狭い人の事です。あるいはテリトリーという概念の強度が弱い人ともいえるかもしれません。

 

もしも、テリトリーという概念に執着があるのなら、自身のテリトリーを拡大しようとするはずです。引きこもりが、現実的にそうした領土拡大の行動を起こさないのだとすれば、引きこもりは比較的「領土」というものにこだわりがないのかもしれません。

 

ここで、次のような反論が想定できます。

 

「引きこもりは、例えば自室に引きこもってそこから出てこず、人がそこに侵入することを拒絶するのだから、縄張り意識が強いのではないか? つまり、領土に対して誰よりもこだわっているのではないか?」

 

まず、人の勝手な自室への「侵入」を拒むこと自体は、生物として健常な意識だと思います。パーソナルスペースは誰にでもあるものと思いますし。そして、領土とパーソナルスペースは違う概念ですが、境界は曖昧です。こうした現象は、これら以外の概念間においてもしばしばみられるものだと思いますが、それは今回の論法の場合も例外ではないように思います。ある人にパーソナルスペースが存在することが、領土への固執が他人よりも強いという傾向性を示すとは必ずしも言えないように思います。言うなれば、「侵入」を拒むことは、何も引きこもりに限ったことではない、ということです。ですから、侵入を拒んだからと言って、引きこもりの縄張り意識が強いとは言えないように思います。むしろ、領土を獲得しようと行動を起こさないのですから、領土、縄張りへの意識は弱いのではないかと、僕は推理します。

 

また、領土とは、自身の支配の及ぶ範囲の土地のことです。つまり、領土への固執とは、「支配」への固執であることになります。よって、引きこもりは、相対的に普通の人に比べて脱支配的であり、外交的な人は自身の領土を次々と拡大していく性向を持っていることから支配的である、とも考えられると思います。「支配されたくない」という人は引きこもりと仲良くするのも一つの手なのかもしれません。

 

もしも引きこもりの縄張り意識が強いのなら、引きこもりは縄張りを広げる事に固執していなければおかしい。もしも、ひきこもりが支配的なのなら、引きこもりはもっと外交的でなければおかしい。内向しているばかりでは、他者を支配することができません。

 

したがって、引きこもりの人達には「優しい」人が多いのではないか、と僕は推理します。なぜなら、彼らは人を支配しようとする欲求が普通の人に比べて薄いと推理できるからです。

 

また、縄張り意識が薄いという帰結から、彼らは何かへの執着も薄い可能性も考えられてきます。例えば、もしも引きこもりが制御できないほどに強い性欲を抱えているのなら、彼らは外に繰り出さずにはいられないはずです。しかし、実際にはそうしない。性欲がないとは考えづらいですが、少なくとも性欲に極端に固執しているわけでもないということは明らかであるものと推理できます。

また、普通の人よりも一人でいる時間が長い事から、「一人でいられる能力」がよく発達している可能性もあります。孤独感自体は強く誰にでもありうるものですが、彼らはそうした感覚に対抗しうるだけの高い感情的な能力を保持しているであろうことが推理できます。つまり、引きこもりという行為は、孤独に耐えうるだけの高い感情的な能力を保持していなければ為し得ないのであり、また、欲望への「執着」が薄いこと自体は仏教的にも正しいものと思います。したがって、「引きこもりの人には気高い精神性が備わっており、また正しい信念を保持している」、と考えることができます。

 

もしも、こうした引きこもりという行為から推理される「引きこもりの美質」が世間的に優勢であった場合には、そうした美質目当てで、引きこもりを偽る人が出てくる可能性はあります。しかし、幸か不幸か、現時点では、引きこもりの評判は劣勢です。そのため、現段階の引きこもりには、こうした引きこもりの美質がそれなりに見出しやすいのではないかと推理できます(引きこもりの美質を備えていないのに、引きこもりのふりをする人がいない状態だから)。

 

しかし、引きこもりは、一般的には、精神的に幼く、中には暴力を揮う人がいる場合もあるという説もあります。つまり、こうした説は、精神的に幼く、暴力的な人が引きこもりになるのだ、とする偏見を生み出す可能性があります。しかし、これは上記の帰結から見るに、まったく逆であろうと僕は思います。むしろ、引きこもることとは、正しく高い精神性を備えていなければできないことであろう、ということです。

 

むしろ、人との関係を断ってまで、自分の正しい信念に邁進するようなことは、多くの場合そうそう簡単にできることではありません。

 

ここで、次のような反論がありえます。

 

「引きこもりが正しいなどというのは幻想にすぎない。彼らは好きで引きこもっているのではない。彼らは社会の敗者だから追いやられて引きこもっているに過ぎない。彼らの精神には幾許の高潔さもありえないし、彼らは単に幼く、暴力的で下劣な存在にすぎない」

 

なるほど。確かにこうしたことを言われれば、高い精神性を持つ引きこもりと言えども、さすがに傷ついてしまうでしょう。そして、そうした心ない声が高い能力を持った引きこもり達を生き埋めにしてしまうのではないでしょうか。果たして、相手が引きこもりなら、何を言ってもいいのでしょうか? これは明確に「NO」です。引きこもりも一人の人間であり、その名誉は毀損されてはなりません。

確かに、彼らは好きで引きこもっているとは限りません。しかし、その場合、彼らは好きでもないことに必死に取り組んでいることになります。それは控えめに言って、とても「苦痛」でしょう。尋常でないほどに。もしもそうなら、そうした苦痛に耐えながら、生きながらえている彼らの精神力は尋常でないレベルのものであると考えられます。つまり、いずれにせよ、引きこもりという行為が尋常でないレベルの高潔な精神性なしには成立しないことは明かであると考えられます。

また、引きこもりの全てが暴力を揮うわけではありませんが、仮に、暴力を揮う引きこもりを考察する場合でも、そうした暴力は切羽詰まったから生じているわけです。切羽詰まれば、どんな人間でも暴力的になりえます。むしろ、暴力はダメだと諫める必要はあるにしても、よく今までそうした劣悪な環境の中で頑張ったというふうに彼らの労をねぎらうべきなのであって、彼らを苛め、苦しめ、社会的に排除する事は、まったくの誤謬であると僕は考えます。

 

ここまでの推理の結果をまとめます。

 

 

1.引きこもりは普通よりも正しい信念を保持している(そのために周囲とそりが合わず孤立する)。

2.引きこもりは優しい(その極度の優しさが仇となり、悪意ある人に追い詰められることで、自制を失うことはありえる)。

3.引きこもりはその素質としては人を自分勝手に支配しようとしづらい(縄張り意識が比較的弱いことから、パーソナルスペースが圧迫を受け、ストレスを繊細に感じやすいことはありえる)。

 

 

転んでも倒れても躓いても進もうとした証拠だから

 

(Neru,「テロル」, 2014.6.3リリース, の歌詞より引用) 

 

 

P.S.優しく、正しく、真剣に、自分の道に至るための努力を懸命に積み重ねる「引きこもり」はかなりかっこいいと個人的には感じます。むしろ、引きこもり萌え☆

『天気の子』の感想? みたいなもの

皆さん、こんばんは!

 

今日は、新海誠の『天気の子』を見て感じたことを書いてみようと思います。なるべくネタバレしないように(笑)

 

ありきたりな言葉で言えば、感動しました。個人的には大好きな作品でしたが、「大好き」という言葉でも、その実相を表しきれないくらいに好きな作品でした。言葉にできない。

 

君の名は。』でもものすごくすごいというふうに感じていましたが、『天気の子』に含まれている情報? というか描写? の正確さには舌を巻きました。

 

何というか、文学的に優れているとか、芸術的に優れているとかいう枠を超越して、もはやある種の科学の価値観にすら符合し得るのではないか、みたいな感覚って言えばいいのでしょうか? 難しいですが。

 

想像力が非常に緻密に作用していて、それが天才的な手腕(天与のもの? と言えばいいのかもしれない)によってまとめ上げられ、結果として、非常に有力な仮説を説得力豊かに実現しているように感じられます。

 

物語における、主人公たちの最終的に取った選択については、非常に自然というか、不自然さをひっくるめて自然というか、老子的な自然観もクリアした上で、さらに何かの配列を打っているというか、ニーチェが理性の上に置くある種の「嗅覚」のようなものの所在を感じました。あれでいいのだと思います。

 

人間の立法機能やその行使を担うものとしての警察、そういった機能は必要なものなのかもしれません。ただ、やはり、それらは万能ではない。粗いプログラムの網の目からはどうしてもこうしても漏れ出てしまうものが出てきます。「法」の外側へと。

 

法は少なくとも一般的に広く機能する必要があります。つまり、一般の多くの人達を納得させるに足るだけの論拠、そういうものに支えられていることが好ましいものと思います(一般の人達が、法に疑いを抱く状態であれば、法からの逸脱が相次ぎ、法治国家が崩壊するリスクがある)。しかし、それは「一般的なもの」に過ぎず、そうした「普通」なものから漏れ出たいわゆる「異常」な人達は排除されることになります。

 

世界において、不思議なことが起こったとしても、もしもその現象が極めて希少な現象であれば、そして極めて目立たない透明度の強い現象であれば、それは多くの人には観測できない。

 

しかし、多くの人にとって観測できない物事が、少数の人達にとっても観測不能であるとは限らない。そういう事は常に言えます。

 

多くの人は、そこまで「可能性」について思考することはしませんし、多くの場合、「一般的には」そこまで深く考える必要もないという事なのかもしれません。一般的には。

 

この時、多くの人達は、「この世界に不思議なことなど何もない」と考えるでしょう。なぜなら、それを「自分は」知らないから。人は一般的には自分が知っていると思い込んでいる狭い範囲の情報に基づいて判断を下す事しかできません。

 

こうした事情にはしょうがない面もあります。僕たちの社会は「常識」というものを使用しています。したがって、そうした一般的な常識を崩してしまうような「例外」の存在は非常に都合が悪いのです。

 

にもかかわらず、現実的には、例外のない規則はない。そして、世界は幾多の不思議によって成り立っているというのが現状かと思います。

 

ソクラテスの逸話が示したことは、「私は知っている」と豪語している人の中にただの一人も知者はなかったということ。「私は何も知らない」と謙虚にも正確に把握していたソクラテスが最も偉大な知者であったということ。この教訓は非常に多くの示唆を含んでいるように思います。そして、そうした例外的な存在であるソクラテスがどのような末路をたどったか、ということも。

 

もしも、誰かただ一人の人を犠牲にして、世界を修正可能であるという時、その「一人」を犠牲にするべきでしょうか?

 

さて、話題を変えます。

 

例外的な現象は、一般の人には理解不能に見えます。一般には理解できないような言動を行う人に対して貼られるレッテルの主なものの一つは、現代においては「精神病」です。その中でも、「統合失調症」とされるケースが多いのではないかと思います。とりあえず、一般的に意味不明な信念を抱いている人、そうした人は、「妄想」を抱いているというふうにレッテル貼りを受けるのが概ねの所ではないかと思います。

 

僕は、病態としての統合失調症の存在を少なくとも現時点では、必ずしも否定するわけではありませんが、現在において「統合失調症」と診断されている全ての症状がその実、いわゆる病としてのそれであるとは限らない、というふうに考えています。

 

つまり、統合失調症の中には、ある程度、「誤診」が含まれているであろう、というふうに考えています。

 

この判断は次のような理屈によります。

 

1.人間は神ではない。

2.人間は全知全能ではない。

3.人間には知らないことがたくさんある。

4.人間は天災すら満足にコントロールすることができない。

5.世界には不思議なことがたくさんある。

6.よって、世界に不思議なことがない、起こらない、と判断するのは現実的ではない。

7.ならば、現実的に世界では不思議なことはいくら起こっても不思議ではない。

8.人を納得させてしまうような虚構を構築するには、天与の能力が必要である。

9.なぜなら「ないものをあるものとして」存在せしめる「虚構」は神の技であるから。

10.無から有を創造できるのは、神だけである。

11.天与の能力は、天与のものであり、神に由来するものである。

12.神がかった芸術作品の存立それ自体が、そもそもからして神兆の一種である。

13.不思議なことは僕たちの目の前に常に起こっている。

14.ならば、不思議な存在や摂理を頑なに否定するのは誤謬である。

15.また、神がかった天与の能力は稀なものである。

16.稀なものが歴史的に何度も生起したというふうに考えるよりは、それらは稀であるとする方が合理的な判断である。

17.神がかった虚構の存立は、神がかった天与の能力によるものであり、そう何度も起こるものとは考えづらい。

18.むしろ、存立された情報の比率としては虚構の数は少なく、事実の数が多いと考えるべきである。

19.巫女にまつわる情報や、神や霊、その他もろもろの不可思議な事柄についての情報は、かなりの数に上る。

20.かなりの数に上る情報のすべてが完全に虚構であると判断することは現実的とは言えない。

21.むしろ、現実的には、世界には何らか不思議なことが起こりえるというふうに考えるのが妥当である。

22.不思議なことは如何にそれが希少であっても、起こりえるかどうかで言えば、常に起こりえると考えねばならない。

23.多くの人々の経験の外における希少な出来事は、多くの人にとっては意味不明なものに見える。

24.ならば、ある大多数の観測者にとって意味不明であることが、ある特定の観測者にとっても意味不明であるとは言い切れない。

25.もしも、ある特定の観測者のみに理解可能な言語が存立可能であるとすれば、それは「私的言語」でありえ、それを可能にしたことは極めて偉大な功績である。

26.だが、私的言語の存立はかなり難しく、現時点では現実的ではない。

27.ならば、意味不明なように見える言語は、意味不明なのではなく、その実、他者に理解可能な言語である可能性の方が高いと判断できる。

28.つまり、意味不明なように見える言動に「妄想」のレッテルを貼ることで、それを意味不明なものとして排除するのは現実的な判断とは言えない。

29.むしろ、一般には理解不可能な訂正不能な信念としての「妄想」の概念それ自体が妄想であるとするのが現実的である。

30.こうした妄想の症状を統合失調症と呼ぶことがある。

31.この時、統合失調症という概念は、それ自体が根本的に崩壊しており、虚妄の概念である。

32.虚妄の概念をよりどころにすることによって、現実的な判断を行うことはできない。

33.ならば、統合失調症という概念の基準を用いるよりも、歴史的正統性のある巫女やシャーマニズムの概念を用いる方が、少なくとも現時点では、大分現実的であるとも考えられる。

34.僕のこの理論の不備をあらかじめ予期し、百歩譲ったとしても、少なくとも統合失調症の中には、深刻な誤診が含まれうる、とまでは言えるものと考える。

35.以上の事より、「統合失調症統合失調症ではないことがありうる」と考えられる。

 

さて、もしも、例外的な不思議な出来事に遭遇した主体の存在を想定した場合、その人は一般には理解困難な言動を呈する可能性があります。彼/彼女は、その時、「統合失調症」あるいは何らかの精神病として「一般には」処理されるのかもしれません。もしそうなら、統合失調症という概念は、その基本として「すべての稀有なもの」を圧殺する機能を担っていると言えます。こうした暴力的概念の存立はどの程度まで妥当なのでしょうか? そもそもそれがある程度でも、妥当なのかどうか、それすらも僕にはわかりませんが。

 

一般的でない「異常」な状況に遭遇した人に援助の手を差し伸べられる人はどのような人なのかについても考えさせられます。それは、一般的でない絆を持った人たちなのかもしれません。

 

少し神学っぽく考えると、人の能力の範囲外の事は、人外が司ります。そして、その人外の最終的な主体は神となります。神と人々との間に巫女や祭司がいます。巫女や祭司は神と人との間に横たわる分裂を媒介しようとします。しかし、「境界」に位置するものは、穢れをもちます。穢れには浸食の作用があります。例えば、神と人との境界には、神でもあり、人でもあるようなものがあります。そうした存在は一般にはタブー(聖なるもの)となります。なぜなら、その存在は神と人との間にある分別を融解させてしまうからです。だから、穢れを清めるための「儀式」を行います。それによって、清浄さを保とうとします。そうした儀式の中には、「生贄」という様式も含まれています。人柱。

 

少し話がそれましたが、何が言いたいかと言うと、人の手に余る所業は、人ではないもの(例えば神とか)が司るということです。神の御業は「奇跡」と呼ばれることもあります。巫女の祈り、あるいは巫女に近い者による祈りは、奇跡によって運ばれ、神に届くのかもしれません。その願いが仮に、世界にとって破滅的なものであったとしても。奇跡的に。それがどんな形であるにせよ、彼らは世界を選び取るのかもしれません。また、破滅的に見える世界と実質的に破滅的な世界というのは、異なります。窮地に見えても、存外「大丈夫」なこともままあるものです。

 

世界が出鱈目であることと、出鱈目に見えることは全く別の事ですが、「境界」に位置する者たちは、世界への選択肢を持つのかもしれません。そして、人にとっては、いつも世界は出鱈目なものです。「狂っている」と言ってしまいたいくらいに。

 

もしも、神が完全であれば、神は人などに対する無駄な関与を行わないはずです。特殊な境遇の人々を守るための手段の一つに「過小評価」という手法があります。特殊な境遇の人々のそれが、もしも重大なことであると多くの人にばれた場合、それは大事になり、下手すれば、そうした特殊な人々の安否が危うくなります。しかし、もしも、その重大性を人々に過小評価させることができれば、その分、そうした重大な選択を行った人々の境遇を守ることができます。また、神がこうした僕でも思いつくような戦略を知らない、などということは、もちろんありえないわけです。

 

特殊な境遇の人々は、通常の境遇から退かざるを得なかった人たちですが、そこにおいては通常の法規や原則が正当性を発揮する事が難しくなっていきます。

 

功利主義的に、一人でも多くの人の事を優先するべきだ、とするのが普通に近い感覚なのかもしれません。しかし、ひょっとすると「愛は世界を超える」……のかもしれません。たった一人のことを愛する気持ちは、世界をも変えてしまうだけの力を持っている……のかもしれません。

 

 

君と育てた愛だから 君とじゃなきゃ意味がないんだ

 

RADWIMPS,「愛にできることはまだあるかい」の歌詞より引用) 

 

 

P.S.今回、『天気の子』を見て、この作品を作ってくださった新海誠さんに純粋に感謝の念が芽生えてしまいました(笑)。個人的に(笑)。僕には大したことはできませんが、それでも一ファンとしてできる程度には、応援させていただきたいな、と感じました。とても素敵な映画でした。言葉にできないくらいに。素晴らしい作品を本当にありがとうございます。

美人のための恋愛術の初歩

 

 

君があまりにも美しすぎるから

神様は君を十字架に縛り付けたんだ

 

(れるりり,「美少女嫌疑」の歌詞より引用)

 

 

 

今日は、美人(美男美女、美少女、美少年など)向けの恋愛術について、簡単に「憶測」してみようと思います。

 

まず、何らかの美質を持っていると嫉妬されると仮定します。

さらにその美質が優れていれば優れているほどに嫉妬の量は増えるというふうに考えてみます。

 

この時、美人は嫉妬を大なり小なり受けることになります。また、その人の美しさの程度が強ければ強いほどに、その美人は強い嫉妬を受けると考えられます。

 

次に、人間は自身の遺伝子を後世に残すために行動すると仮定します。また、美人は繁殖に関して、有利な資質を持っているために、人々の目に美人であると認識されるのだというふうに考えてみます。

 

この時、人々は自身の遺伝子を後世に残すために、繁殖に関しての強大な競争相手である美人に対して嫉妬し、美人の繁殖を阻害しようとするはずです(自身が美人と繁殖できる場合を除けば)。

 

よって、美人が繁殖への途上としての恋愛を成功させるためには、こうした人々による「嫉妬」を回避する必要があります。

 

嫉妬を回避する手法はいくつか考えられますが、基本的な手法は、自身の欠点を強調し、長所をなるべく隠す事です。一般的に人は、欠点の大きさによって、そうした欠点の所有者の格を判定する傾向を持っています。欠点が大きく見えれば見えるほど、そうした多大な欠点を持った人に対して嫉妬する可能性を減らせるのではないか、というふうにも考えられます。

また、人は他者の持つ多大な長所に対して、嫉妬を持つ傾向を持っています。したがって、長所を隠すことで、嫉妬の誘発を避けることができるというふうに考えられます。

 

次に、美人に関する法的、倫理的戦略について簡潔に記します。

 

美は罪なものであるとする価値観はしばしば散見されます。また、一理あります。美しい事で、得をすることもあり得るでしょう。その面だけを見れば、美人に税金をかけるなどの発想はありえてくることになります。しかし、それと同時に、美人は嫉妬による排斥を受ける可能性を持つために、こうした「美人税」の存立は不当なものであると現時点では判断することができるものと思います。

 

また、美は多くの人の心を惹きつける作用をも持ちます。美人もまた。

この時、正確には美人のそれは美人による過失であるとは言えませんが、少なくとも、美人への報われぬ恋などに心労を来す人なども生じてくることは十分に考えられます。美人は自分が特に意図しなくても、人々を惹きつけてしまうというような不幸な素質を持ってはいますが、それ自体が美人の過失であるとは言い難い。しかし、一方で、そうした心労を来す人々の利権についても考えなければなりません。したがって、美人がある人に対して、恋愛的に応じることができる場合を除けば、その美質を無闇に振り回すべきではない、というふうに考えることができます。これは先述の、自身の長所を隠す、という手法に該当します。つまり、自身の美という長所をなるべく強調しないことで、人々の心労を慮ることができる余地があります。こうした風習の合理性については、イスラム教の風習などが参考になるかもしれません。

 

次に、美人を取り巻く生物学的な戦略について。

 

美質は確率的に遺伝すると仮定します。

この時、美人が繁殖行為を行えば、美人の数が増えます。美人の数が増えれば、美人の美に触れられる人の数が、確率的に増加します。もしも、美人との恋愛が好ましいものであると仮定すれば、美人の数が増えることは、ある程度は好ましいと言える可能性を持ちます。

では、美人を選んで、繁殖させればいいのか? これはそうではありません。優生思想になってしまうので。全ての人に生きる価値がありますが、美人が繁殖するべき、という規範は、これを崩してしまいます。美人だけが生きるに値する、などということはありえません。

生命を取り巻く事象は極めて難しいものですが、まず自由主義の原則に頼れば、自由は極力は最大化するべきです。その点では、恋愛の自由は合理的なものです。恋愛は公的な物事ではなく、個人的なことです。あるいは、公的な権力によって、繁殖行為を制御しようとすれば、容易に先述の優生思想へと転落する事が予想されます。

したがって、恋愛などの繁殖に関わるような極度に生命的な事象については、無闇に人の手を加えるべきではないのかもしれません。少なくとも、現時点では自然のままにしておき、人工的に生命現象を歪めることの重大さについては誰もが知っておいて損はないのではないかと、個人的には思います。

 

美人の恋愛術についてのもう少し具体的な手法について。

 

欠点を強調し、長所を隠すことが基本的な戦略となります。一方で、恋愛においては、自分の美質をアピールする必要性がある場面がありえます。また、極度に嫉妬を受ける環境を想定した場合、周囲の人々の協力を要請しづらく、孤立してしまうケースが考えられてきます。今回は、そうした場合を想定します。この時、なるべく周囲の目には目立たないように、意中の人に対して美質をアピールする必要があります。しかし、美質をアピールすれば、美質の発現を免れることはできません。ただ、その意味付けを操作することはある程度は可能です。つまり、周囲の目には美人の実力が偶然であるように見え、意中の当該対象にだけはその実力が見抜ける、というような状況を演出できればよい。様々な手法がありえますが、例えば、簡潔なものでは、基本的には人目を避けて行動し、自身の交際相手にだけ自身の美質をアピールする、とするような手法などが考えられます。また、美人は嫉妬にさらされることがありえるということの帰結として、根も葉もない悪口や陰口がその人の周囲に生じている可能性も否定できません。しかし、これは逆にチャンスです。周りの人が、勝手に美人の美質を陰口によって隠蔽してくれているために、本来なら、美人が自分で自分の美質を隠蔽しなければならないところのその労力を節約することができます。また、陰口や悪口に惑わされないような人しか美人に近づかなくなりますので、これは真実を見抜く能力が高い人しか、美人に近づかない状態となり、かえって美人が事の真相を知るだけの知能のある人を選別するための儀式のように機能するものと予想できます。そう考えると、悪口も悪い事ばかりではありません。全てのものに機能があります。だから、悪口や陰口を言われたとしても、全く気にするには及ばないと思います。むしろ、そうした自身への陰口を利用してやろうというふうな心構えでもいいくらいかもしれません。もしも、周囲の悪口などで孤立している美人な方がいらっしゃいましたら、あまり気を落とさず、気楽なつもりでいるというのも手なのかもしれません。たとえ悪口を言われても、その悪口を自分がかえって利用し返す、というようなことを考えてみるのも一興なのかもしれません。

「この人」という意中の人がいる場合には、美人の人が自分から告白してみるのも手だと思います。この手法ならば、意中の人に直接に働きかけることで、陰口や悪口の持つ間接的な効果を減衰できる可能性があります。とても勇気が要るかもしれませんが。

また、美人同士の恋愛については、周囲からの極めて強い嫉妬が発生する可能性を予想することができます。美人同士で恋愛する場合には、周囲の嫉妬に惑わされないように十分に注意した方が良いかもしれません。嫉妬によって、恋愛を邪魔されないようにするには、やはり「隠れる」というのが基本かと思います。自分の美質を隠し、目立たないようにする。また、やむなく目立つ場合には、自身の欠点を強調するという手もあります。飛びぬけて優れた資質があっても、何か弱点があれば、「可愛げがある」というふうに扱ってもらえるかもしれません。上手くいけば。いずれにせよ、嫉妬への対策はある程度しておいても損はないのかもしれません。

 

最後に。

 

こうした話題は極度にセンシティブなので、書こうかどうかとても迷ったのですが、一応、ある程度は書いておいた方がいいだろうと思い、こうして恋愛術について少しだけ書いておきました。最後に強調しておきたいのが、すべての人に生きる権利がありますので、優生思想のようなものに陥るのは合理的ではない、という点です。つまり、少なくとも人間の恋愛などの極度に生命的な現象を、人為的に制御するべきではないと思います。自由は色々な局面において、重要な機能を持ちえます。

また、美人の方々も当然、多くの人々もそうであるように、幸せになる権利を持つものと思いますので、嫉妬にめげずに、どうか頑張ってください。応援しています。

 

いつも通り記事の内容は決して鵜呑みにすることなく、十分に合理性に穴がないかを検証した後に、それでも自分にとって役立ちそうなものがありましたら、お好きに活用してください。 

 

ではでは~♪

 

 

今日のポイント

 

1.嫉妬を避けるために、長所を隠し、短所を強調するという簡易的方略が考えられる。

2.優生思想を避けるためには、恋愛は自由にした方が無難かもしれない。

3.全ての人に価値があるので、美人ではない人のことを慮ることも必要。

 

 

 

流れ

 夕はノートにたくさんの図形を描いて遊んでいる。その図形は、魔法の発現のために使われる。彼女は人の体に宿る記憶の流動的な性質に焦点を当てて思考している。大体、いつもそんな感じで、そうした思考に認知のリソースを取られているがために、彼女は周囲の人から、ボウっとしているというふうに見られている。情報をインプットしたり、アウトプットしたりすることを何度も繰り返していると、記憶が流動して、変化していくというようなイメージ。そうしたイメージを夕はとても大切にしていて、彼女によれば、嘘というものも真実が流動した結果としての形態の一つで、それ自体が広義には真実なのだ、ということであった。

 夕はひとしきり図形をノートに羅列し終えると、キッチンに行き、ホットケーキを作ってそれにハチミツをたくさんかけた。ホットケーキを作るのに魔法は使わなかった。手間をかけた方が料理は美味しいというふうに彼女は考えている。椅子に座って、テーブルの上にある大量のハチミツ&ホットケーキを見つめる夕。ホットケーキを見つめていると、彼女は不思議な心持になってきた。何か前にも、そうした光景を見たことがあるような気がした。それがどこでどのように生じた現象なのかは分からない。しかし、彼女にとってはそれは紛れもないデジャブであったので、気になって気になって仕方なかった。夕のような<魔術師>はデジャブにとても豊かな意味づけを与えることがある。こういう時には、ホットケーキとデジャブの間にある因果関係や相関関係を整理し、分析する……というのが<普通の>魔術師の手筋である。しかし、幸か不幸か彼女は普通ではなかった。そうした彼女の異常性の形跡は、ホットケーキにかかった尋常でない量のハチミツが明瞭に示している。彼女は、因果を用いない。むしろ彼女は、偶然の諸事実にその拠り所を持ち、そこから幾多の自前の装置を展開していくことを好んだ。普通、魔術師は、因果を大なり小なり用いる。因果に最大の価値を置く魔術師すら存在する。しかし、彼女はそうではなかった。彼女にとっては、全てが<偶然>であった。彼女は偶然を重んじる。そんなことで一体毎日の生活をどのように彼女が送っているのか……それは僕にも謎である。

 とにもかくにも、夕は、ホットケーキを食べ始めた。ハチミツで極度にべたべたしたそれを、である。彼女は天使のようにくかわいらしい笑みを浮かべる。ホットケーキが美味しかったのだろう。そして、彼女はその糖分過剰のホットケーキの断片をフォークに刺して僕に差し出してきた。問題は数点あった。

 

1.甘すぎるだろ、そのホットケーキ

2.夕が使ってるフォークで僕がホットケーキを食べた場合……それって間接キス?(ぽっ……)

3.彼女によるホットケーキの贈与を僕が断った場合、彼女の好意を無碍にすることになる

 

「詰んでる……」

と僕は言った。

「ん?」

と夕は言う。僕の態度に疑問を抱いているのだろう。しかし、そう、何せ彼女の世界に因果は存在しない。つまり、僕の態度からの帰結を、彼女は決して、これっぽちも、推理する事がない。驚くべき女子である。

「恐るべし……」

と僕は言う。

「ん?」

と夕は言う。またしても、僕の態度に疑問を抱いているのだろう。しかし、……以下略……。

 

 

夕が魔法の練習をしている。とても真剣なご様子。

僕はその様子を見ている。彼女はたびたび、こちらを向いて、

「今の演算子どうかな?」

とか聞いてくる。この世界の魔術師は、魔術の概念と演算の概念の接続に成功している。それによって幾多の数式からたくさんの魔術の形式を抽出する事ができた。魔術は本来的に独創性に重きを持つものであり、普遍性を志向するような数式とは相性が悪いとかつては考えられていた。

 夕は数学というよりも、博物学的な魔術の使い手であった。彼女は様々な使い魔を同時にたくさん使役する事ができる。そして、とても博学だ。ただ、その<博学>の中にはもちろん数学も含まれていたし、彼女の好奇心はとどまることを知らなかったので、文字通り、大概の事は<何でも>それなりに深く極めていた。そうした事は魔術師の間においてでも、とても珍しい現象である。通常は一つの分野を極める事すらも、なかなかにままならないものなのだ。その点の状況は彼女の才能なども関係しているのかもしれないが、彼女にその事を尋ねると、例によって、

「偶然だよ」

との事であった。

 夕は狐の使い魔を召喚して見せた。狐は尻尾が九本あって、青白い火があたりに漂っている。召喚魔術の練習だった。彼女は、その九尾の狐の武術の稽古の相手を務めてほしいと僕に頼んだ。

 狐は変化して、人の形になった。その容姿は夕に似ていて、全身の様態としては小柄だった。体の大きさというのは武術にある程度の影響を及ぼすファクターだが、魔術師の戦いの場合にはそうした因子の分析は極めて困難なものとなるのが普通である。考慮すべき要素が多すぎるのだ。そればかりか、分析の手法自体が多様だった。魔術の体系の全分野を知る者がこの世界に存在するのかどうかで言えば、絶対に存在しないだろうと直感させるほどの多様性を称えていた。

 僕はひとまず素手で構える。

 狐は、例の青白い炎を僕の方に向けて飛ばした。

 炎の移動速度自体はさほどのものではなかったが、それはたびたび分裂して増殖するので、対処しなければならない者にとっては厄介な魔法だった。気付くと自分の真後ろに火炎が迫っていたりしたので、その魔術の核となっているものを見極めて破壊することなしには、対策がとても難しい。

 僕は心に一本の剣の姿を思い浮かべた。それは物心ついた時から、ずっと僕の中にあるイメージだった。心の形。それは幸せに似ている。誰もがそれと分かるのに、誰にもそれを説明する事はできない。

 次の瞬間には僕の手には剣が握られている。先ほどまで、自分の心の中にあったはずの<あの剣>だ。この剣には特性があって、一般にはそれは不可視の剣だった。常に流動しているのに、その柄は僕の手の中に綺麗に収まっている。その剣は、万物を流転させる剣だった。構成された物質の間の関係性自体を切り裂くことができる。

 僕は狐による青の火炎を心の目で見る。心にその火炎を構成している物質の様態が映じる。どこの構成をどのように破壊すれば、どのように火炎が流動するかが手に取るようにわかった。そうした直感の発達もまた、この剣の作用であるようだった。

 剣は、それが作用する一瞬の間だけ、その姿を現す。姿は表れる時々によって違うが、そのどれもが同一の剣なのであった。

 剣を揮うと、火炎は切り裂かれて姿を消した。狐の火炎は現実的なものというよりも、想像的な性質を基盤にした魔術の様式だったようで、物が何か燃えた形跡もないし、場に焦げ跡が生じているというようなこともなかった。僕の見立てでは、その火炎は精密な呪詛のようなもので、狙われた対象だけを正確に焼き尽くす類のものであった。

 夕にとてもよく似た少女姿の九尾の狐は、困ったふうな表情をして、夕の方を見た。夕はいつも通り、ボウっとした様子だった。ただ、狐と目が合うと、歩み寄り、狐の頭をよしよしと撫でた。狐は嬉しそうに目を細めて、夕に抱きついた。

 僕はその光景のあまりにもの美しさに目をやられた。

「ま、眩しい……」

 と僕が呟くと、

 夕と狐は同時に、

「何が?」

 と言った。

 

 

 僕は夕と二人で夜の散歩をしている。空には月が浮かんでいる。半月。なぜ半月なのかを考えた。夕なら「偶然だ」と答えるだろう。

「碧(僕の名前)」

 と夕は僕を呼んだ。

「何?」

 と僕は応える。

「……何でもない」

 と夕は言う。

 またしばらく二人で歩く。

 そして夕は偶然にも再び、

「碧」

 と僕の名前を呼ぶ。

 さらに僕は偶然にも、

「何?」

 と応える。

 夕は一瞬目をそらした後に、偶然にも、

「……何でもない」

 と再び応える。

 二人は公園のベンチに座り、夜桜を見上げた。

 今この時、僕と夕が過ごしている時間はもう二度と戻ってはこない。再現性がない。偶然にも。

 夕が狐をおもむろに召喚した。何も詠唱することも、魔方陣を組む事もなしに魔物の召喚を行っていて、当人は何でもないようにしているが、実はすごいことだった。<神業>というのはしばしば、周囲の目には簡単な技に見える。狐は公園の中を散策し始めた。

「碧」

 と夕は言う。

「何?」

 と僕は応える。

夕は言う。「まだ世界が嫌い?」

 僕はそれには応えず、近くの自販機に二人分のコーヒーを買いに行った。

 それは夕の問いに返答するのが難しかったために生じた、一種の代償的な行為だった。ただの時間稼ぎ。根本的な解決にはならない。

夕は僕からコーヒーを受け取ると、ありがとう、と言う。そして、そのコーヒーを何も言わずに飲み始めた。ただ、コーヒーを飲んでいるだけだったが、それでも夕には立派な風格のようなものがあって、絵になる光景だった。

「応えたくない?」

 とおもむろに夕は言った。

 僕はボウっとしていたので、一瞬、夕が何の話をしているのかが分からなかった。

「そんなことないよ」

 と僕は応じる。「相変わらず、世界は嫌いだよ」

「……そう」と夕は言う。「私も嫌い?」

「いや」と僕は言う。

「私がいても、世界が嫌い?」夕はそう言いながら、俯いて、ベンチの上に座り、細い両脚をふらふらと揺らしている。

 僕は考えてみた。<世界を否定することは、夕のいる世界そのものを否定することになるのだろうか?>

 夕は僕の返答を待たずに、言葉を紡ぐ。「私には色々な世界があるの。でも、その世界のどれにも、碧はいない。碧はこの世界にしかいない。だから、私にはこの世界が大切なの」

「世界が醜いものを続々と作り出してしまうことと、世界そのものが醜いということとは違う」と僕は答えた。

「……いいよ、それでも」と夕は言う。そして、残っていたコーヒーを飲み干すと、「碧」と僕の名前を呼ぶ。

 僕は気恥ずかしかったので、ボソッとした声で、

「何?」と応える。もちろん、そうした挙動は全て偶然で構成されている。全て偶然だ。特に意味はない。

「碧は私の事、好き?」

 と夕は言った。無論、そこに意味はない。夕は、ただただ偶然に、僕を好きになってくれた。彼女は、理由があって僕のことを好きなわけではなかった。容姿でも、経済でも、権力でも、地位でも名誉でも、性欲でも、もっと言えば、愛でもない。彼女はどのようなものにも依拠することなしに、ただただ<偶然>、僕のことを好きになってくれた女の子だった。

 夕はとても不思議な子だった。何せ、僕のようなポンコツを好きになってくれるくらいだから。

 正直、僕にも、夕が何を考えているのかは分からない。まったく。行動も思考も隅から隅まで実に奇妙だった。しかし、それが彼女の魅力でもあった。

 もしかすると、僕もまた、彼女のことがただただ偶然に好きなのかもしれない。こんなことを考えることにも特に意味はない。僕の抱く、人知れぬ懊悩もまた、ただの偶然なのだろう。

 狐が鳴いた。狐は僕と夕の間に割って入ると、九本の尻尾もろとも綺麗に丸まって、気持ち良さそうに目を閉じる。狐の体はふさふさとしていて、触り心地がとてもよかった。

 夕と僕は目が合うと、お互いに微笑んだ。

 夕は、狐を撫でている僕の手を握ると、

「結婚しよ!」

 と臆面もなく、唐突に言った。

 僕は顔が一息に熱くなるのを感じた。その様子を夕に見られたくなくて、目を逸らした。

 夕はクスクスと笑っていた。

 多分、僕の顔が赤かったのだろう。偶然にも。

 

 

P.S.直観術は比喩です。