魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。

エンパスからテレパスへ

 エンパスは、共感能力に秀でる人たちのことです。テレパスは、これらの共感を、対象と距離を隔ててなお、発揮する能力です。

 共感には、大きく、感情的共感と、理性的共感があるでしょう。前者が、相手の感情を読みとるのに対し、後者は、相手の思考を読みとります。

 さて、では、これらのエンパスの能力を、遠隔地において使用するためには、――つまりテレパスとなるためには――どうすればいいのでしょうか?

 このためにはまず、エンパスが、極度の感受性を持っていることに注目しましょう。つまり、通常は、感じ取ることのできないものを感じ取る能力を、持っていることに注目するのです。

 一つの仮定として、例えば、電磁波を感じ取る能力があるとすればどうでしょう? その電磁波を利用して、テレパシーが可能になるかもしれません。

 もしも、エンパスが電磁波を感じとることが可能だとすれば、あたかも人間スマートフォンのようになって、一種の通信を可能にできるかもしれません。

 とりあえず、今回は仮に、電磁波と言っているのですが、要は、一般に五感に察知されず、にもかかわらず情報を伝達する機構として存在するものであれば、これはなんでもいいです。

 例えば、エーテルの動きを感じとることができる、などと言ってもいいですしね。

 とにかく、エンパスが可能であるということは、大なり小なり、通常は知覚されえないものを、知覚できる人々が存在するというふうに解釈するのが妥当なのではないでしょうか。

 以前に、ロールシャッハテストに関連したお話で、霊視を説明したのですが、それはこういうものです。

 何でもないインクの染みをみても、人それぞれその対象に知覚するものが異なる。ということは、いわゆる一個の現実というものがあるとしても、そこには、知覚をする人の数だけの現実が生じる。なぜなら、人それぞれ、知覚する現実の様態がちがうから、ということになります。

 つまり、霊視も、一見何でもないものに人の顔を見たりする、そういった出来事によって起こっているのではないかと考えてみるのです。

 そして、ふつうは、これを霊視とは呼ばずに、「錯覚」ということですましてしまうのですが、それは、その実、錯覚ではなく、たとえ、一時的にせよ、そこに「霊」は本当に存在していた、少なくとも、一種のエンパスの知覚にとっては、それは存在した、というふうに言えるのではないかと思います。

 なぜなら、何が錯覚で何が現実であるかというのは、非常に判断が難しいところだからです。むしろ、その人がそう感じているのなら、少なくとも、その人にとっては、そうなのだろうと、予測することしかできません。

 何せ、心は目に見えませんから。

 しかし、エンパスの人たちなら、その心の動きを感じとることができるかもしれません。にも関わらず、眼に見えないものは科学的立証が困難です。たとえ、それが知覚されているにしてもです。

 それにしても、僕たちは、一見何でもないないものの中に数多くの大切なものがあることを、案外、経験的に知っているのではないでしょうか。

 そうすると、何でもないものの中に、付喪神なり、霊なり、そういったものがある、あるいは、「いる」と言っても、もしかしたら、そんなに抵抗感はないかもしれません。相当、科学的な人を抜かせば(笑)

 僕は、この文章を見てもらえば、わかる通り、さほど科学的な人間ではないので、霊とかの存在にはあんまり抵抗感はありませんね。

「まあ、いるんだろうな」くらいに思います。

 概念としての存在、というふうに解釈することもできるのかもしれませんが、しかし、概念という概念は非常に難しい概念ですよね。概念って何だ? って(笑)。僕にもよくわかりません。僕には、概念も第六感に見えます(笑)。

 さて、話を戻すのですが、それで、一種の電磁波とでも言うべきものがあり、それを、エンパスの人が感じとることができるとしてです。これを遠隔で行うのが必ずしも成功しないのは何で何でしょうね。というのも、もしも、エンパスの人のすべてが、これらの遠隔通信を可能にするのだとすれば、エンパスとテレパスを区別する意味がさほどないためです。しかし、現に二つの言葉は区別され、存在していますので、おそらく、遠隔通信(テレパシー)は、エンパスよりもさらに行える人が少ないのだと思います。

 例えば、これは「混線」の概念を適応すれば、解決できるかもしれません。つまり、電波の混線。まず、人から人の気持を読みとることができるということは、その人たちは、何らかの形で、気持を発信しているのです。常に。言葉にするまでもなく。そういった電磁波がそこかしこの人から出ているということになります。すると、当然、電波は混線します。通信距離が遠距離になるほど、その電波が届きづらくなってくるでしょう。すると、テレパスは、エンパスが感じとるよりもさらに減衰した微弱な電波を感じとっているのかもしれません。

 つまり、テレパスは、エンパスが感じとるのよりもさらに、微弱な電波、小さな電波を受信できる必要があることになります。

 このように考えるならば、感受性の程度は、テレパスの方がエンパスよりも強く、テレパスはエンパスの中でも、特別に繊細な感受性を持った者のことを言うのであろうということになります。

 

 ちなみに、僕がなぜ、こんなことを考えるのかということを、ちょっとだけ、お話しますと……

 僕にももちろん好きな人ができることはあるわけなのですが、どういうわけか、こちらが相手のことを強く思いうかべていると、それだけで、相手もこちらに興味を持ってくれるみたいなのです。それで、無意識のうちにこちらの態度に出ちゃってるということも考えてみたのですが、注意してみても、どうもそういうのじゃないような気がして。これは、体感なのですが。これも、一種のシンクロニシティですね。強く願うと、なぜか、向こうから運がやって来るのです。そういう不思議なことがあるので、僕は超能力とか第六感とかについては、割に肯定的です。僕の非科学的思想?(笑) 背景には、こういう個人的背景も絡んでいるわけですね。一応、書いておきました。

 

 ただ、「人の心は分からないものだし、予測できないものだ」と考えるのもそれはそれで一つの慧眼というか見識ですよね。他人の顔色を窺わないで済むようになる知恵として。

 僕はどちらかと言えば、他人の顔色を窺うほうですね。けっこう、人のこと見てるのが好きで、ずっと見てるんですよ(変質者にならない程度に(笑))。

 あと、少なくとも個人的主観の中では、ある程度、相手の思考や感情を自分の内側にトレースできるような感覚はあります。しかし、それを実証するのは難しいかもしれません。人の心の問題は非常にデリケートですからね。

 僕よくやるのが、例えばマルクスの本を読みますよね。すると、マルクスの気持ちとか思考とか色々と想像するじゃないですか。それで色々と調べていくうちに、なんと、マルクスに会えるのです! いわば、マルクスの霊ですね(笑) というより、マルクス的人格? とでも言えばのいいのかもしれませんが。自分の中に、新しくそういう人格ができてきて、その人格に、学校のレポート書いてもらったりとかしてましたね(笑)マルクス、ありがとう!!(笑)

 だから、僕の中には、色んな思想家の人格がいっぱいいて、にぎやかで楽しいですね。ぼくにとっては、本はまさに人そのものですね。魂です。本は生きてると思います。けっこう本気(笑)

 この辺りのことも、そのうちお話しできるといいですね。

 さて、最近は、あまりにも、記事が長くなっていることが多かったので、今日はこの辺にしましょう。もう少し短くなるといいんですけどね、文章。なかなかどうして。むずかしいです。

 とはいえ、マルクスさんともいつも意見が合うわけではないですからねえ。そんなときは、喧嘩です。そして、マルクスの人格と言えど、所詮は僕の妄想幻覚の産物。根のところは、僕と同じで、無駄に負けず嫌いになっております(笑) 下手に自律性を持った人格は本当に厄介ですね。自分の体が自分のものじゃないみたいで。お世話になっているので無下にもできないのですが。なんだかんだ言っても、大切な(想像上の)友人です。けっこうムカつきますけどね(笑)。良いんですけどね。喧嘩するほど仲がいいって。そういうことにしておきます。

 今日は、曲の引用はお休みですね。この記事にぴったりのが思いつかなくて。紹介したい曲はあるので、曲に合せて書くのも手かもしれませんね。

 ではでは~。