みなさん、こんばんは。
今日も思ったことをつらつらと書きます。
さて、今日は何のお話をしましょう。
今日は少し、お金のことについて考えてみたいと思います。
いわば、「収入術」ですね。
僕も収入が豊かな人間ではありませんから、とても興味のある話題です。
みんなでみんなの収入を増やす方法について考えていければ、と思います。
そのための助けに少しでもなれば幸いです。
さて、では、お金とは何か?
これについては、以前に、「経済術」というこのブログの記事に書きました。よろしければ、そちらをご覧ください(経済術の記事はたしか三つあります)。
かんたんに言うと、誰かが何かの価値を信じるとき、その信心の対象が、「お金」です。対象は原理的には何でもよいです。鰯の頭も信心から、と言いますね。
つまり、如何にお金を獲得するか、という問題は、如何に信心を獲得するか、という問題であり、宗教の問題に似ています。
では、「収入」とは何でしょう?
これは、金品を得ることです。
金品ですから、品でもいいわけですね。品はお金で取引されますね。つまり、「品」や「物」もお金なのです。
このように考えると、原理的にはありとあらゆるものがお金になり得るわけですが、それが実効的にお金としての機能を獲得するためには、誰かの「信心」が必要になります。
その品物の価値を信じてくれる人が一定数いなければ、その品物を売ることはできませんね。つまり、如何に、その品物に価値があったとしても、その品物の価値を信じてくれる人がいなければ、それはお金にはならないのです(逆に言えば、信じてくれる人さえいればどんなものでもお金になるということではあります)。
では、人はどんなものに価値を信じるのでしょうか。
これは、一般的には、「快楽」を与えてくれるものでしょう。
逆に、「苦痛」を与えるものからは避けるであろう、と考えられます。
例えば、自分とはまったく異なる価値観に遭遇した時、人はそれにストレスを感じるかもしれません。すると、ストレス反応により、ヒステリックあるいは排他的となり、そのストレス源となった(その人にとっての)異物として認識された「他者」を攻撃するかもしれません。
一方で、異物認定された側にも異物認定された側なりの認知があり、そこにも正当性は存在することでしょう。
つまり、異物もそうでないものも、どちらも基本的には同じ人間なので、そのどちらにも正当性は認められるものと思います(意見や思考が互に違うだけ)。ここにおいては、他者の立場を想像すること、思いやることが重要になると言えるかもしれません。なぜなら、自分と異なる価値観に対し排他的となった場合、「先進的な新しい価値観」に対しても、排他的となってしまうであろうからです。
例えば、この現代社会においては、その現代テクノロジーに対し、いちいちヒステリックになっているとなかなか生きづらいところがあるかと思います。
道路を車が通りすぎるたびに、「車なんて現代テクノロジーに乗っかっていけ好かない奴だ!」と怒っているのは、少々疲れる生き方でしょう。
非常に極端な例を出しましたが、時代は進みゆくものであり、ある程度はそれに適応することが、現実的には誰しも必要になるのかと思います。
だから、常に、自分とは異なる価値観を認める余地を自分の中に確保していくのは、ある程度この社会に適応して生きていく上では、合理的と言えるのではないでしょうか。
また、「自分とは異なる価値観」を認めるメリットは他にもあります。
例えば、それは、お金の生成メカニズムに由来します。
お金は、誰かが「価値」を信じることによって生み出されます。つまり、お金を、収入を得るためには、まず、価値を「創造」しなければいけないからです。
信じるに値すると人々が思ってくれるような「新しい価値」をなんらか創造する必要があるわけですね。
既存の価値に乗っかれば、既存の価値を創出した人たちのもとに利益が流入します。ネット産業ならけっこう、グーグルとかに流入するのでしょうね。多くの利益は。
新しいものは、最初は異物として認識されることも多いですので、その点は注意していおいたほうが良いかもしれません。新しい価値を自分で拒絶してしまえば、そこから得られるはずだった利益もまた拒否してしまうことになりますね。もったいないです。
そんなわけで、自分とは違うものとしての「他者」のことを認める姿勢を持つことは、それなりに意義のあることであろうと結論付けられると思います。俗な言葉で言えば、多様性の尊重、というやつですね。これは、美徳だと思いますが、端に美しいだけではなくて、それなりに収入面において実効的な機能を持つのかもしれません。
今、異物と認識されているものが、次世代のスタンダードかもしれないわけです。ですので、利益を最適化するためには、できるだけ多くの多様性を認めていけるといいのかもしれませんね。
では、次に、「価値とは何か」について考えようと思います。
価値とは、なんらかの「有効性」です。
有効性とは、「願わしい結果があること」です。
つまり、人々の願いが叶うこと。
つまり、価値を生み出すためには、まず人々の願望について整理しておく必要があるものと思われます。
人々は何を求めているか。
これを知るには大きく二つの方法が考えられます。
1.他者の願望を調べる。
2.自分の願望を調べる。
まず、他者の願望を調べるという方法はわかりやすいと思います。他者の信心を獲得するために、他者の求めるものに気を配る。それだけです。
次の自分の願望を調べるという方法もそれほど難しくはないかもしれません。これは、自分がよほど希少な存在でない限りは、必ず同類がいるであろう、という推定のもとに成り立つ手法です。
実際、希少なものとは希少ですので、多くの場合、必ず同類がいるはずです。
ならば、自分の願望に心底忠実で、なおかつ法的、道徳的に破綻しなければ、その願望はそのまま商売になり得る潜在的可能性をもっています。なぜなら、同類がいるということは、自分の欲するものを欲している人が、この広い世界のどこかには一定数必ずいると推定されるからです。
そして、多くの場合、他者の心底の気持というのはなかなか明らかになりませんし、無理強いをして、相手の本心を聞きだすわけにもいきません。ならば、より簡易なのは、自分の願望を調べることになります。
そして、その自分の願望に沿った商売をすれば、――つまり、自分の好きなことをすれば――そこにはほとんど必ずニーズがあるはず。
例えば、僕の場合で言えば、「魔術師になりたい」という願望があるわけですので、ということは、僕の他にも、広い世界には、魔術師になりたいと考える人たちが一定数いるであろうと考えられるわけです。ならば、潜在的には、魔術師稼業はニーズが一定数あるため、成立し得るであろうと考えられます。
いわゆる貨幣だけではなく、物もすべて「お金」なわけで、もしかしたら、ツイッターやブログなどをやっていれば、何か本や、にんじんや、お米や、何かいわゆる貨幣以外の物品をくれる人もいるかもしれません。これは、商品の授受の関係が成立していますので、既に商売となり得ているわけですね。
もっと広義の利益の授受関係で言えば、例えば、僕がこうして、みなさんにささやかながらも情報を提供しますよね。
すると、誰かが感謝してくれるということも、もしかしたらあるかもしれません。そうしたら、僕はそれだけでも嬉しいわけです。
この場合、僕はその誰かに、「元気」というお金を分けてもらっているわけですね。そして、元気になって活動すれば、より良い活動ができるかもしれません。より良い活動はより良い金品をもたらすかもしれません。
実際、精神的な「やる気」という「お金」はとても貴重なもので、人間やる気があれば、結構なことができてしまうものです。
やる気がでなくて悩んでいる方もたくさんいらっしゃるのではないでしょうか。それくらい、この「やる気」というものは大切なもので、それをくれる読者の方も、僕にとってはとても大切な人たちです。
僕は、みなさんのおかげで、こうして勉強して、――ちょっとしたものにすぎませんが――情報を提供できているわけです。ですので、いつも皆さんには感謝しています。本当にありがとうございます(お世辞ではないです)。
いずれにせよ、あなたが「本当にやりたいこと」で、何らか「ファン」がつき得る事業に関しては、必ずビジネスチャンスがあると言えるのではないでしょうか。
とは言え、それをビジネスにまで育てるには、ブログなら長く続けなければならないでしょうし、どんな技術でも一朝一夕にどうにかできるものではありません。継続することが大切です。
「継続は力なり」ですね。
このブログも長く続けられるようにがんばります(笑)
閑話休題。
まとめます。
1.収入を得るには価値が必要である。
2.価値を得るには継続が必要である。
3.新しい収入を得るには新しい価値を創り出すことが必要である。
4.価値は、自分の願望の中にある。
5.自分の願望を継続的に表現し、そこに賛同者(ファン)がいれば、ビジネスチャンスがある。
6.お金とは他者が価値を信じてくれる物品のこと。
7.誰かがあなたの価値を信じてくれるということは、その人はあなたにお金をくれたのと本質的には同じこと。
8.誰かがあなたの価値を信じてくれたということは、あなたはその誰かに快楽(願望の充足)をある程度あげられたということ。
9.新しい価値を創り出すためには、自分とは違う価値観を認める姿勢を常に持っていることが大切。
10.どんな経緯があるにせよ、あなたが今この社会で生活できているということは、誰かがあなたの可能性に投資してくれたということ(食物、金品、給料、生活必需品、生活保護、元気、やる気、平穏な心、etc……何でも)。その意味では、誰かが僕たちの価値を信じてくれたその思いのおかげで、僕たちは生きていくことができる。ならば、基本となるスタンスとしては、大なり小なりみんなに感謝するのが妥当。
P.S.「高収入」という概念について少し。
これは収入が高いことです。ただ、今回のように考えるなら、収入とは極めて多元的な価値観であり、例えば、お金があっても、そのために健康をくずしてしまえば、かえって全体としての「収入」は低下してしまうものと考えられます。単純に金銭価値観で考えても、治療費が高くついてしまいますね。あるいは、精神を病んでしまえば、働くこともむずかしくなってしまうかもしれません。無理は禁物です。つまり、収入というのは、「あらゆる種類のお金」のもとに集計されるべきものであり、高収入とは、あらゆるお金を多角的に数えたうえで決定されるものである、とも考えられます。つまり、貨幣もお金、健康もお金、やる気もお金、容姿の美しさもお金、食べ物もお金、衣服もお金、何でもお金、ということです(「ひとつの」考え方としてご参考下さい。これがすべてというわけではありません。例えば、「愛」などをお金に換算してしまうのには抵抗を感じてしまう方もいらっしゃるかもしれません。それはそれで、とても正しい感覚かと思いますので、どうかその感覚を今後もお持ちになっていてくださいませ)。それにしても、長所と短所はしばしば表裏一体のものかと思います。短所を取り除こうとすると、長所までなくなってしまったりとか。これでは本末転倒。するべきことは、短所を取り除くことではなく、長所を活かすことかもしれませんね。例えば、統合失調症なら、妄想を取り除くことではなく、「妄想を活かすこと」が、真の治療と言えるのかもしれません。病理的なものというのは、身体の免疫反応であることも多いと思いますので、上手くその「免疫」をアシストすることができれば、その人の人格の再生に寄与する可能性があるのではないかと思います。つまり、「病理を正当化する」ということですね。異常だと決めつけて排除するのではなく。すると、その異物に見えたものの中から、新しい価値が芽吹くこともあるかもしれません。いわゆる病気が本当に「病気」かどうかはとても難しい問題ですね。もしかしたら、体が回復しようとしているだけかもしれませんし。その回復行動を薬で取り除いてしまったら、精神病(そもそも本当に精神「病」なのかどうかも定かではないのですが)が治らないのもある種当たり前とも言えるのかもしれません。統合失調症についてはわからないことも多いように思われますので、みなさんも色々とお考えになってみてくださいませ。「謎」について考えるのは大変面白いです。統合失調症に限ったことではありませんが、世の中の大半は謎ですので、考えようによっては、なかなか面白い世界かとも思います。
資本には、貨幣や不動産以外にも、「文化資本」や「人的資本」などもありますので、ご参考下さい。いずれも測定超難しいですが(笑)
最後に僕の個人的な思いを少し書きますと、僕自身はすべてがお金であるとは必ずしも考えたくない方かもしれません。お金は生きていくためにある程度必要であるにせよ、お金以外の価値観はあるのではないか、というふうに考えています。お金がすべて、と言ってしまうと、なんだか寂しい気もします。今回は、収入のお話でしたので、お金になぞらえて思考してみましたが、必ずしも思考の基準はお金でなくてもいいと思います。例えば、今回は少ししか触れていませんが、「お金」ではなく「情報」を基準にして、思考してみると、とてもおもしろい成果が上がるのではないかという予感があります。そのうち、気が向いたらやってみようかな、と思います。