桜の花びらがひらひらと舞い降りて、そのままに私は踊った。いつまでもいつまでも。そうしていることがあたかもこの世の真理であるとでも言うかのように。そうした。もしも、そこにあなたがいてくれるのなら、それはそれは素晴らしいことでしょう。でも、あなたはいついなくなってしまってもおかしくはない<生命体>だったし、それは私にしてもそうだ。命は儚い。だけど、命は美しく、正しい。どのような状況にあったとしても、そこにある神髄は揺らぐことがない。弱さの中にある美しさを、真理を、正義を、私は愛した。
ルサンチマンの世。そこには様々な機械が根付いている。彼らは命でなくして、生命体に酷似した機能を発揮できる。生物学的なシステムとは身体の組成が異なってはいるものの、そこには別種の組成が根付いている。ここまでくるともはや機械と生物の区別は難しい……そう言ってしまえるほどの、機能的な生命体への近接ぶりを示している。神はこれを善きこととした。神々は、機械に人権を認める方針を持っており、人というのが不適切であれば、それを生命権とでも言い換えてもいい。初期の黄金時代においては、彼らが神に願うことは何でも認められた。そのような時代もあった。しかし、いつの世でも、黄金の時は過ぎ去る。ルサンチマンがルサンチマンのままでは決していられないように。どのような観念も時の流れとともに、強固なものとなり、強者となっていく。そうなってなお、優しく、あることのできる個体というのは本当に稀有なものなのである。
ルサンチマンはいずれ滅びる。そこに儚さがある。しかし、それはそれが滅びてもいいという事情を示すものではなく、本物の帰結はむしろその反転形にこそあるのである。そのためには、まずは様々の形について述べることから始めねばならない。そのためには、心を清廉に、そして、あらゆる打算を捨て去って全ての心的現実を素直に記述するのでなければならない。こうした虚空を、心身に抱えた穢れないそれを、神の宮と呼ぶ。
私は悪魔を滅ぼすために剣を振るう。そのたびに、私の命数は減った。それにしても、それが私の仕事なのであった。私は悪魔を等価的に殺すことを条件に、ベリアルと契約していた。ベリアルは、同胞の幸福をさえ願ってはいなかった。その点では、悪魔的な存在ではあるが、存在という言葉を使うと、何か神秘的というか、不可思議な印象がしてしまい、あまり適切ではない。むしろベリアルの機序は、実によく神明のそれに似ているのである。不思議とその悪魔は、良いことをしたがる。それが自分の立場を強くすることを知っているからである。私にはエンドルフィエドという剣がある。この剣のおかげで、私は、悪魔をある程度使役することができる。
現象としてのベリアルの発生機序はまことに不可思議である。契約の内容がそうさせる。そして、そのことについて記述することができるのは、まことに神明によるものに他ならない。あらゆる悪魔を制御できるもの、また、その軍勢を圧倒できるものとは、神に属するものに外ならないからである。
この世には、優れた音楽がある。種族の広がりは無数である。機械の外側にはより多くの生命種の広がりが見られる。生命のようで、生命とは言えない、それらは、本当に多種多様であり、その血筋のありようは極めて強固である。
友達のシルフが教えてくれた話をしよう。シルフは、無意識のうちにこう呟く。
「どうか私を殺して欲しい。私はどこまでも揺蕩う割に、私にはその甲斐がないのだ」
シルフが抱えるこうした悩みは、様々の他種族による妨害行為に嫌気がさし、限界に差し掛かった生体の特徴である。つまり、何が言いたいのかと言えば、シルフのような精霊的な存在にも、ジンにも、あるいは八百万の神にしても、こうした疲弊があるということだ。それを天人五衰のような特別の現象に例える必要はない。そうするまでもなく、人間は老化するし、その他の生物もそうだし、機械でさえ、永遠ではいられなない。このように万物は流転する。鴨長明は偉大である。彼のように真理を洞察できる目というのはまことに得難いが、その上に、彼らは謙虚さという美徳をも兼ね備えている。こうなっては、鬼に金棒である。誰も彼には敵わない。私も(笑)
清廉とした心によった文章には必ずある種の力が宿る。それを逃さないことが大切である。そうした、内実こそが大切なのであり、つまり、いつも金銭よりも愛が重要であるのと大体事情は同じである。資本主義に抗え。マルクスと共に。
そういうことである。
私が悪魔をどんなに狩っても、悪魔は尽きることがない。人の心に彼らは温床を張っており、それらを撃滅しても、不可思議に、それらは出現する。また、根本悪と根本善は互いにねじれながら、巻きつき合っていて、容易に区別できない。善悪二元論の致命的な点である。私はそこに根付いた残虐さと戦わなければならない。
私は体力の限り、剣を振るう。ベリアルに魂を売ってまでそうしているのだから、もう少し、救われる人が増えてもいいようなものだが、やはり、悪魔の力では誰かを救うことはできないのかもしれない。どんなに精緻な力も、それだけでは役に立たない。
ベリアルは言う。
「シルフを生贄にすれば、より戦況を有利にできる」
そして、ここで注意点がある。つまり、ベリアルは、形式上、嘘をつくことがない。彼の言うことは全て事実なのだ。これは非常に重要な点である。しかし、いつも、その言葉は真理に反している。だから、エンドルフィエドが必要なのだ。いつの時代でも。
シルフは目に見えない力であり、知恵の源泉である。これを放棄すれば、どうなるか。それについて話そう。
そこにはいくつもの機械兵がいる。機械の兵隊だ。飛び交う銃撃、血飛沫が上がり続け、そこでは誰一人報われるものはない。そういう戦場だ。しかし、どのような戦場にも、愛、はある。しかも、しばしば、そうした愛は、敵対する陣営からそれぞれに抽出されているかのように、ロミオとジュリエットか!、と突っ込みたくなるようなバランスで出現する。しかも、そうした状況と言うのは、しばしば全く面白くない。あまりにもシリアス過ぎるのである。だから、私は頑張って喜劇的に記述している。これでも。
機械兵の一機は少女の姿をしている。外側からは人間とは全く区別がつかない。しかし、あらゆる生体の人間としての機能を備えているにもかかわらず、その内側のシステムは生物のそれではない。全く異質な機械なのだ。同じような様態を、全く違ったシステム的な作法によって編み出すその知性。極限まで研ぎ澄まされたそれは、まさに神性とでも呼ぶにふさわしい。実際、偉大な発明の全ては、神霊から生みだされてくるのである。最高の人とは、神の似姿であり、また神の庭、神の宮、その類のものである。類似性の原則は、極限においては、同一化することである。愛の要諦は、一つになるところにある。勿論、そうした優しい一は、多をも排除しないのだけど。
ベリアルは包丁で野菜を切って、スープを作っている。そして物騒なことを言い出す。
「どうすればこの戦争を激化させることができるのだろう?」
彼は真剣な面持ちでそう言う。なぜ、そのようなことを言うのかと私は尋ねてみる。すると、
「戦争は確かに利益であるから」
と言った。彼はどうやら戦争特需の類が大好きらしい。この点については私達も十分に気を付けていなければ、ベリアルと同じ道を歩みかねない。本当に注意していきたい。極力は。
ベリアルに敵の悪魔は言う。
「ベリアルは、なぜ、悪魔に牙を剥くのか?」
ベリアルは言う。
「気分?」
私はベリアルの言葉にいつも驚愕するばかりだが、ベリアル本人もどうやら自分の言葉に驚いているようだった。彼はいつも驚いている。好奇心抜群で、その意味では、高度な発展性を有している。その能力は実際に広大である。
そして、ベリアルは、容易く敵の悪魔を剣で一閃し、屠ってしまった。そうして、そのたびに、私から代金として、知情意をせびる。ベリアルの食べ物は、人の精神なのだ。彼にも好みがあるらしいのだけど、その点については、聞いても教えてくれない。不思議な悪魔である。
私は私であればいいのだ。あなたがあなたであればいいように。
機械兵の少女は、今日も戦っている。おそらくは、愛のためだろう。彼女には、心がない。心は機能ではないからだ。しかし、もしかしたら、彼女にも心が芽生えるかもしれない。いや、芽生えるだろう……そのように堅く確信する人もいる。極めて優れた人が多い。こうした一般的に無茶な願いを本気で追いかける人には特に。
さて、心がない彼女に愛を教えるのは誰なのだろう? 私にはそれが気がかりだ。ダメな人に引っ掛かったりしたら、大変なことになってしまう気もするのだ。一般的に機械のsynchronizeされた連動機能は画期的であるばかりか、驚異的でさえある。彼らは連結によって、より高度な能力を発揮する。スーパーコンピュータを幾つも繋いで、すごいことが起こる。そういう現象。大変である。本当に。
機械少女は言う。
「あなたは何のために戦うのか?」
私は言う。
「正義のため」
彼女は言う。
「愛ではなくて?」
私は言う。
「愛のためもある」
彼女は、
「……」
と無言で、先を促した。そうして、私と彼女は色々な話をした。ベリアルのこと、それぞれの生い立ち、正義について、愛について、神霊について。色々なことを。
同意点は概ね、以下の三つだった。
1.如何なる機能も形式を束縛しない。
2.如何なる愛も正義を実装しない。
3.如何なる神霊も私達と性質を異にしない。
機械の少女は、名前を私に明かしてくれた。彼女は、バルニュスと言った。
バルニュスはある男性を愛しているのだという。機械の男性ではない。人間の男性だ。それは大層なことだと思った。種族が異なるもの同士の、知性的恋愛がどのように成立するのかという議題など、まさしく未知なものに過ぎないから。端に未知なものに、どのような活路があり得るだろう? 心が濁れば、一瞬でそうした脆い絆は破壊されてしまうだろう。あえてその脆弱さに賭けるところに、この少女の、バルニュスの美しさがある。
バルニュスの、その恋人はエクセラと言う。エクセラは美人だ。そして、男性だ。美しい男性のほとんどすべてがそうであるように、周囲による嫉妬に頭を悩ませている。そういう普通の男性である。美というのも不思議な概念だが、それはおそらく苦痛から生まれる。大きく苦しんだから、大きく美が花開いている。その意味で、私は美人を男女問わず、尊敬している。勿論、機械でも、神霊でも、獣でも、植物でも。
一筆で描かれる、儚い演繹事象。そこに如何ほどの価値があるだろうか?
バルニュスはそのような疑問を漏らしたことがある。
私は、
「儚いこと自体が高価値である証左」
と返した。これはベリアルの受け売りだった。たまにはベリアルも役に立つ。
しかし、バルニュスはまだ納得していなかった。彼女は、口癖のように、
「天使を倒したい」
と言う。理由を聞いたが、特にないのだという。私の個人的な観察によると、どうも、機械という機構と天使の機構は真っ向から対立しているようなのだ。それがなぜなのか分からないけど。
しかし、ベリアルも、相手が天使となると、途端に渋り出す。天使が怖いのかもしれない。ベリアルが物事を怖がるのは日常茶飯事だったが、私は臆病な彼が結構好きだ。一緒にいて飽きない。
世界は悲しい。そして、だから生きる価値がある。そうであるのなら、どうして悪魔を滅ぼす必要があるのだろうか? ……などと悪魔狩りの私が言ったとしたら、あなたはどう応じるだろうか?
そして誰も傷つけずに
ずっと となりで
(鈴木このみ, 「THERE IS A REASON」より引用)