魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。

不安の恩寵

思っていることをそのまま書くのは大切と言うか、ある意味効率がいいように思います。あれこれとこねくり回し過ぎると、永久に書けません。少なくとも僕の場合は。

 

空白の取り方や文章のリズム、漢字や平仮名の選択。色々な文章作法。その全てが執筆を助けてくれるように思います。他の力を受けているほどに、より豊饒になります。

 

「あなたへ」みたいな題名で何か書きたい気分。小説のようなものを。では、そうした動機はどのように生じてきたのかとか色々考えてみるのもまた面白いのでしょう。そのために、精神分析を用いるのも一興でしょうし、あるいは、機能に徹底的に着目して分裂分析を行うというのもまた一つの手でしょう。ただ一つ確かなのは、こうして文章を気ままに綴っているのは極めて楽しいことだということかもしれません。

 

連想を抑制すると、文章がビビッて出てこなくなってしまいます。執筆はデリケートですので、優しく扱ってあげたいですね☆

 

美しさについて考えます。色々な平衡や衡量を考えます。測量性。

 

美しいということ。それもまたこの世界を構成する大切な一要素であるようには思われます。

 

勿論、醜さも。

 

全ての二項対立を越えてジンテーゼを提出し続けるのも一つの人生なのかもしれません。それもいいように思います。

 

書きたいことを書き、書きたくないことを書かない。細切れでもいいから、とにかく誠実に書くこと。これは倫理であるとともに、最大の有効性を持っているようにも思います。嘘というのはけっこう疲れるのではないかと思います。

 

世の中には歌が上手い人がたくさんいてすごいなと思うのですが、彼らはどのように上達してきたのでしょうね。ものすごい訓練を積んできたのかもしれませんし、ひょっとすると好きなことを一生懸命やっているうちに、自然と道が開けたのかもしれません。色々なケースが考えられます。

 

面白い文章と面白くない文章はどのように分別されているのでしょうね。簡潔に言えば、防衛的だとどこか物足りない感触になる気はします。ただ、心を開いていれば、良い文章が書けるように思います。無限に。

 

評価の問題は難しいものですが、それを気にしすぎるのもまた問題です。自然な流れが大切。きっと。僕はそう思っているので、自由を重んじます。

 

楽にして、思っていることをそのままに書いてしまうということの利点は、効率の他にあるのかについて考えます。多分、色々あるのだろうな、と思うのですが、整理するのはとても難しそうです。しかし、その曖昧模糊としたカオスの中に、自由の気配を感じ取ることができます。人を感心させる、それも人生の醍醐味かもしれません。一方で、個人的にはむしろ人の評価に左右されない真理を求めたい。そのようにも感じます。

 

自然な息遣いで書かれた文章ほど貴重なものはないように思います。能力によって書かれた文章はどこか強張っていますし、努力によって書かれた文章は血がにじんでいます。それらの文章にも固有の味があり、それはそれで素晴らしいのですが、どうも僕の味ではない。そんな気もします。

 

ライミングのような連鎖的な現象の流れの中を自分が今この時も揺蕩っているのだと思うと、とても素敵な気分です。つまり、僕は独りではないということ。一方で、自分が自由であるということも素敵です。つまり、僕は独りであるということ。矛盾は綺麗ですね。

 

文章にはどんな奥義のようなものがあるのでしょうか。きっとそれはとても自由なものだと思うのです。力まず、自然に書けばいいのだと思うのです。制限なく、自由に。空を飛ぶように、遠くまで。

 

小説の形式はかなり自由で、文章の王様である感があります。小説は素晴らしい。僕も想像力を積極的に磨いていきたいです。どうも物事に囚われる時、文章は書きづらくなるように思います。自由に開かれた心でいる時、いくらでも文章を書くことができるように思うのです。そして、反復、繰り返しをも恐れないこと。勇気こそが道を開きます。文章作法の場合も、それは例外ではないように思います。

 

大切なことはいつも何気ないように示されます。大それたものというのは、その実大したことがない、そのような場合も多いでしょう。断片こそが統合であったり、統合が断片であったりするような局面に差し掛かることが大切なのかもしれません。両義的な意味合いは、人生の各所に光を投げかけており、そうした光は闇を照らし、未知を明らかにします。ところで、道は果てしなく、その果ては隠されています。

 

道というのはいつも究極的には未知なものなのです。

 

生成文法のような機構が人間に存在するという時に、そうした論法は何を示しているのでしょう? 有限の知識から無限のパターンが導かれていく様は、まさに魔法です。その意味で、言葉の使い手というのは魔法使いのようなものなのかもしれません。大切なのは自分を抑制せずに、開放すること。すると、想い出は、記憶は、どこからともなく止めどなく溢れてきますし、またそれを無理矢理に構造化しないことが大切です。そうした自由な様態によってこそ、最高の贈与が可能になるのですから。

 

文筆ほど愛のある行為はほとんどないのかもしれません。真心によって紡がれた数々の文章というのは、愛の具現のようにも見えます。あるいは、愛の「象徴」とでも言った方がいいのかもしれません。僕としては、みなさんに伝わるのなら、どのような言葉を用いてもいいのですが。

 

嘘も方便、という言葉があります。有効性のある嘘というのは何なのでしょうね。小説のようなものなのかもしれません。あるいは、あらゆるものが真理であるのなら、嘘すらも真理である……というような感じでしょうか。色々考えられますが、何にせよ、隠蔽は疲れます。自由に連想していたい。自由連想法尊いな、と感じます。僕の自由連想をファルスに収斂させるのも、あるいはドゥルーズ的に解放するのも、それはみなさんの自由です。好きなように用いてください。僕は自由が好きです。

 

散漫な注意によって紡がれた支離滅裂な文章ほど魅力的なものはありません。そこには多数の美しい矛盾がひしめいているのですから。

 

全てを強度、量の問題に還元するやり方も面白いのでしょう。世の中には様々な豊かな発想が存在しますが、それを使いこなすのには、結構な修練が必要かもしれません。そして、修練の機会は、そこら中に無数に転がっています。お金も要りません。ただ、想像力を備えた心身がありさえすればよいのです。あるいは、想像力という言葉が嫌いであれば、ただ一つの観念、それだけを求めればいいのです。どんなに小さなものにも無限の豊饒が詰まっていますから、それだけあれば困ることはないのです。

 

統合失調症的な想像力も美しく感じます。そこにも真理が宿っているように思われます。支離滅裂な想像力。如何なる論理的な連関にも束縛されないような自由な想像力。僕はずっとそうしたものに憧れてきたように思います。その意味では、僕は統合失調症であれることを僥倖であるように感じます。これほど好ましい恩寵もないでしょう。

 

精神医学が、身体動作を束縛する時、それは思考をもある程度は束縛するかもしれません。僕は束縛的なものは嫌いです。自由を奪うから。精神医学の中の正義と悪をそれぞれ秤にかけて、より良い方角に舵を切れるようになるといいですね。そして、それと言うのは、舵自体の放棄をもその適応様式の中に含むのでしょう。そういう領域。閑散とした森。森林の木陰。そこにサッと光が差し込む瞬間。その光は、夕日のものでしょうか。それとも朝日でしょうか。

 

今日は、とりあえず4000字くらいの記事を書けるといいな、と思っています。原稿用紙十枚。それだけの文章を即興で書くのは結構な想像力です。えへん!

 

……

 

医学書を眺めていると、この世界の様々な疾患についての知識が手に入ります。すると、ある程度健康の問題について深く考えられるようになります。真剣に誠心誠意勉強すれば、一般的な専門家の知識レベルなら越えられるようなこともあるかもしれません。何事もやってみなければわからないので、とにかく頑張ってみるというのも手でしょう。そして、得られた知識も時代と共に移り変わっていきます。神の他に永遠なものはないでしょうから。そうして、新しいものが生まれていきます。オープンダイアローグとか、良い発明に思えます。この技術には期待したいです。

 

スペイン語では哀愁はtristezaと表記するようです。勇敢な牡牛はtoro bravo。tro bravoにはどことなくtristezaのようなものを感じます。その哀愁はどこか魅力的です。ある種、闘牛的なスペイン文化の名残というか、影響の波及、そしてその痕跡のようなものを感じます。生成文法的な痕跡効果を援用して考えても面白いかもしれません。たった、二つの語彙からでも、様々な感覚が湧いてきます。勇敢さの中にある物悲しさというのは、どの勇者についての物語にも付随しているように思います。勇ましいということは悲しいことなのかもしれません。そして、だからこそ多くの人を惹きつけもする。そういうものなのかもしれません。

 

ヴェブレンの顕示的消費の概念を援用すれば、容易にマイナスをプラスにすることができます。つまり、無駄の量を、力を測る指標へと転換できる作用。画期的です。僕たちの生きている世界は、あっちに揺らめいたり、こっちに揺らめいたりと忙しいものです。プラスもマイナスに、マイナスもプラスになります。そうした世界において何が大切なのかというのは難しい問題でしょう。全てのものは移り変わっていく……そのように捉えられる余地もあるでしょう。鴨長明みたいに。逆に言えば、今がどんなに悪いように見えても、実はとても善いことがこれから起こる可能性は常にゼロではないということでもあります。これは不確実性による恩寵かもしれません。不確実性は不安を呼び起こすかもしれませんが、このように考える場合、不安も悪いことばかりではないな、と思います。不安が幸せの前触れになることもあるかもしれない。世界には本当に様々なケースがあるのです。本当に。どんなに全てが変わってしまったとしても、変わらないものもまたあるのでしょう。

 

移り変わる 景色の中でも

 

19-iku-, 「Dear」, 2011の歌詞より引用。