みなさん、こんばんは!
今日は、先日書いた、当事者概念についての補足をしたいと思います。ご興味のある方はお付き合いください。
もしかしたら、先日言っていることと、逆のことのように一見したところ聞こえるということもあるかもしれませんので、その点は論理の構造がどうなっているかに注意して下さるとうれしいです。
では始めます。
まず、当事者と非当事者の区別が非常に難しいというのは先日指摘したとおりです。
そして、前回の「当事者について――Main Character」(ブログ内検索からご覧ください)という記事の一つの結論が、「ある意味では、すべての人が世界の当事者である」というものです。
この論証は、暫定的にはある程度は正しいとし得るものかと思います。
ただ、これは、ひとつ盲点をかかえた論法でもあります。
それというのは、この論法は、「世界」の範囲を地球上に限っているという点、それゆえに、「人間の知識はある程度有効な判断を下せるのに十分なほどに成熟しているであろう」という「推定」です(宇宙のことは知らずとも地球のことならかなり知っているであろうという一種の楽観的推定があるという感じです)。
つまり、この「世界」の範囲を、「宇宙」に拡大すると、これは、「未知」の状態となります。人間は宇宙のことについてまだあまり詳しくないので。
すると、この場合には、「人間の知識は、有効な判断を下すのに十分ではない」というさきほどとは逆の帰結が導き出されます。
この場合には、「人間の知識は不完全なので、必然的因果則によって、世界を把握するのは、不十分な結果に終わるであろう」、という思考回路となります。
つまり、世界とは、「偶然的」であるという一つの案です。
実際、僕たち人間の力は非常に限られたものであり、また、世界が必然的なのか偶然的なのかもよくわかりません。
だから、世界に対するスタンスは、人それぞれとならざるを得ず、つまり、多様なスタンス、この二項対立を採用するなら、「世界は必然的である」というスタンスと、「世界は偶然的である」というスタンスがあり得ます。
このスタンスの区分はさらに細かく分類することも可能で、「必然か偶然、どちらか一方にスタンスを決めるべきである」という主張や、「両者の中間を取るべきである」という主張、はたまた、「中間など幻想である」という主張もあり得ます。意見は多様です。ある意味では、意見の多様性があってよいことである、というふうにも言うことができるかもしれません。
いずれのスタンスにも利点と欠点があるでしょう。思想の自由を人々に強く認めるとすれば、偶然的なスタンスも、必然的スタンスもどちらを取るのも、当人の自由とされるのだと思います(思想の自由は大切だと思います)。
そして、世界が、根本的に、偶然的(「原始偶然」など参照)なのか必然的(「決定論」など参照)なのかがわからない以上、どちらのスタンスを取るのもあり得てくると思います。
世界が偶然的なのなら、「責任」を取ることは厳密には不可能です。なぜなら、過失の原因を因果則によって帰属することができなくなるから。したがって、この意味で言えば、いわゆる「当事者」でさえも、当事者であり得なくなります。ある意味では、「すべての人が、非当事者、である」という前提はあり得ます。
なので、僕は、無理に公共的な判断は下さないでおきます(つまり、僕の言うことは基本として聞かなくてよい)が、個人的な考えなら多少、拙いながら、記すことができます。ご興味のある方はお付き合いください。
まず、主体と影響と対象という三項図式を仮に想定します。
つまり、主体があり、影響があり、その影響が主体から対象に及ぼされる、という図式です。
僕の場合には、この三項図式の原因をさかのぼってみます。
思考は、「分析」(分割すること)や「総合」(結合すること)によって豊穣となると考えます。
つまり、思考は、何かを分析することで成り立っている、あるいは分析したものを、あらたな組み合わせとして結合(創造)することで成り立っているというふうに考えてみます。
つまり、今ある思考とは、何かを分析し、それを新たに総合した結果、生じてきたものであると想定します。
この場合、根本的な事象は、分析されていない、また総合もされていない、つまり、全的一体な何かであると想定されます。
ならば、世界は、「主体、影響、対象の三項図式に分割される前の状態」(純粋経験など参照)を何らかの形で持っている、と考えます。
「関係性」とは、上記の三項図式を想定する概念かと思いますが、そもそも、その三項図式ではない、状態を想定してみるのです。
この状態には、「主体」(当事者)も、「影響」(関係、行為)も、「対象」(他者的当事者)もありません。
つまり、人がこの状態に身を置いた場合には、そもそも当事者問題自体が生じないスタンスとなります。僕は個人的にはこのスタンスのような感じかなあ、と自分では思っています。
そして、この状態は、分析で現れるものではありませんから、記述できません。そして、この記述できないもののことを、僕は仮に「欲望」と呼ぶことがあります。
欲望は、ある時別れたり反発したリ(分析)、ある時合流したり同盟したり(総合)する、ひとつの「流れ」です。
僕は個人的には、こうしたスタンスかなあ、と思います。
この領野には、そもそも、反発するものとしての「主体」がありませんので、ある意味では、全面的肯定となります。すべてはひとつのものであり、そのひとつのものの存在が肯定されているのなら、それはすべてのものを肯定することになるからです(この場合には、一応、一元論、ということ。しかし、この一元には、全面的な多元が含まれているため、多元論とも言い得る)。しかし、すべてのものであるからには、そこにはもちろん、別れや合流も含まれています。その流れ、「欲望」は反発として現れる場合もあるでしょうし、なんらかの反動として現れる場合もあるかもしれません。悲劇的なこともあるかもしれない。しかし、もしも、この「流れ」として生きるのなら、これは、全面的な事であり、これは、分析や総合、つまり、いわゆる「思考」の問題ではなくなる、と言い得ます。主体の喪失、ともいうことはできますので、現在の医学からすれば、「統合失調症」、あるいは、なんらかの病的な状態と捉えられうるかもしれませんが、僕としてはこの生き方に賭けています(笑)個人的な姿勢として御了解ください。
以上が、僕の「個人的な」思考法ですが、「流れを感じる」などというといささかオカルティックに感じられる方もいらっしゃるかもしれませんね(笑) そのような方には次のような思考法がお勧めできるかもしれません。
「さて、世界が手に負えないのはわかった。しかしだからと言って、私たちは自分の今ここにある生活、日常を放棄するわけにはいかない。それは私にとって大切なものである。たしかに、何もわからない。しかし、それでも私たちは少しでも確かと思えることに依拠し、考えていく必要がある。あるいは、考えない、という選択をも含めて」
非常に合理的な指摘であるように思えます。科学的実証性など、エビデンスに依拠して、生活を構成する手法です。
科学は不完全ですが、しかし、科学ではない悪徳なものに騙されて苦しんでいる人たちもいることと思います。であれば、それへの対策のひとつとして、科学の地位を高めに見積もり、そうしたものから、人々を守ろうとする意図は当然生じ得るでしょう。そのような人がいるとすれば、非常に優しい方なのではないでしょうか。世界にとって、とても大切な方だと思います。
僕個人は、科学が絶対のものとは考えていませんし、また宗教を擁護することもあるのですが、しかし、それとは別に、こうした優しい姿勢というのは、非常に合理的であるとも考えます。ケースバイケース。それぞれの立場によります。
つまり、「意見は違いますが、共生するべき方なのではないか」と個人的には思います。
ある意味では、議論があることは悪いことではなく、いいことだとも言い得ます。したがって、意見の対立は必ずしも忌むべきことではないし、意見を交換することで、より真実に近づける可能性もあります(弁証法など参照。逆に、「真理」なるものに近づけない可能性もあることにはあるのですが、ここではとりあえずその話は置いておきます)。
科学が人々の生活を豊かにしていること自体は、事実であり、その点で言えば、こうした主張は、極めて優れた指摘であると言えるのではないでしょうか。また、姿勢、戦略としても十分に合理的でしょう。
人の認知形態や知能にはさまざまなものがあり、そこに優劣はないので、色々な思想があってよいでしょう。そうして、色々な人がゆるく、時に強く、つながりながら、世界はまわっているものと思います。
したがって、その意味では、積極的に責任を持ち、当事者としてあり(つまり、必然的因果則を想定する、科学的態度)、そのように生きるというのは、非常に理に適った一つの生き方ではないでしょうか。どの生き方がいいかはケースバイケースかもしれませんね。
と、僕が個人的に思ったことをつらつらと書いてみました。
少しでも皆さんに有益な情報を提供できたら、幸です。
ではでは~♪