魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。

想像的な人と現実的な人

 みなさん、こんばんは~

 

 今日は「空想」について書こうかな、と思います。

 

 想像力や、創造力は、魔術師にとって、割に有効な手法なのではないかと思います。

 

 発想を広げていくためには、自由に想像力を広げていくことは有効です。

 

 また、それまでになかったような発想を得るためにも有効なので、やはり、創造面でも非常に有用でしょう。

 

 今回は想像的な人と、現実的な人について考えてみたいと思います。

 

 想像的な人とは何か。

 

 想像的な人は、色々なことを思いめぐらしていて、主に、様々な「可能性」を想定します。ただ、通常よりも極めて多くの可能性について思考するので、普通の人から見ると、いささか「杞憂」めいて見えることもあります。想像的な人たちはとにかく、可能性を見ることには長けており、これからどうしていくかを考えるのには向いた頭脳であると言えます。

 

 例えば、現段階の人間の文明では、いわゆる「魔術」と呼ばれる範疇のものなどは、一種のファンタジーであり、実現不可能であると考えられることが多いです。

 

 いわゆる「現実的な人」たちは、そのように考えることが多いように思われます。すべての現実的な人がそうではありませんが、こうした、幻想傾向に、一種の「アレルギー」を持っている人もおり、そういう人に対し、様々な可能性について列挙すると、「どうしてそのようなことを考えるのか」が分からず、混乱してしまいます。可能性を想定する能力には、どうも個人差があるようで、誰もが、想像力や創造力を重視するわけでもないようです。

 現実的な人たちは、こうした、「創造力」や「想像力」というものに対し、どちらかと言えば否定的な傾向があり、彼らは、何かを生み出すというよりも、「既存のシステム」の中でいかに最適化して生きるか、ということを重視します。

 よって、どちらかと言えば、保守的な傾向を持ち、生産するというよりも、既存のリソースの取り合い、――つまり、「競争」に終始するという特性を持ちます。

 よって、現実的な人たちには、「既存のシステムをそのままに最適に運用することに長けている」という長所があります。

 ただ、裏を返せば、「既存のシステムから外れた事態を想定したり、対応したりすることができず、アレルギー反応を起こしやすい」という短所があります。

 

 つまり、既にあるものを利用する能力は現実的な人の方が高いのですが、未だ存在しない物事についての対処(未曽有の事態とか、進歩とか、発明とか)を行うのには、想像力のある人の方が向いています。

 よって、想像力のある人には、「新たな画期的なシステムを生み出すことができる」という長所があります。逆に「既存のシステムにそのまま定住しづらい」という短所があります。彼らは常に「変化」を求めます。

 

 つまり、現実的な人とは、定住民的であり、固定的です。逆に、想像的な人とは、遊牧民的であり、流動的です。

 

 想像的な人には、あらたな利益を創出し、より多くの人類を養うことができるという能力があり、また、現実的な人には、想像的な人たちが創り出したものを最適に運用する、という能力があります。

 

 つまり、現実的な人が優れているとか、想像的な人が優れているとかの問題ではなく、彼らは互に互いを補い合う傾向にあり、どちらの種族の人々も存在することで、多様な環境に適応するためのリスクヘッジを得ることができます。

 

 ならば、想像的か現実的か、の二者択一ではなく、そのどちらもを、備えている中間を取ることがのぞましいのであろうと推理することもできます。

 

 いずれにせよ、想像的な人も、現実的な人も、互いに共存していくことが最適打であることは、現実的にも、想像的にも、ほぼ間違いないのではないか、と思います。

 

 世の中には、ファンタジー小説のようなものを好む人もいますし、また、ノンフィクションのような現実味のある書物を好む人もいます。

 

 好まれるジャンルやバランスは、まさに人それぞれです。

 

 そういった、多様な人たちが存在することで、世の中はまわっているのかもしれません。

 

 僕は、個人的には、想像的な人も現実的な人も好きですが、どうなんでしょうね。はたして彼らは僕のことを好かないまでも、嫌っているか否か。

 

 僕は、何かと言えば、中間を取るので、結果、想像的な人からも現実的な人からも攻撃を受けることがあります。

 

 四面楚歌ですな(笑)

 

 しかし、やはり、既存の回路をまわすにしても、新たな回路を作るにしても、どちらの立場を取ろうとも、最適打は、共存だよな、と思います。

 

 なので、問題は、「共存の方法」なんですよね。

 

 まず、想像的な人は、一般に、包摂的な傾向を持っているように思われます。彼らはそもそもからして、色々な可能性を想定して生きているので、変化する環境に適応するのに向いています(逆に隔離されたりすると、苦しむことになると論理的には考えられます)。つまり、さまざまな人を受け入れることが、割に得意です。

 

 そして、現実的な人は、一般に、排除的な傾向を持ちやすいように思われます。彼らは、既存のフレームを変化させようとは考えず、あくまでその既存のゲームの中でいかに利益を最適化するか、というふうに行動しますので、何かを創出したり、作りだしたりするのには向かない傾向があります。また、そもそもフレームの変化に慣れていないので、自分のキャパシティを超える情報や質感に出会ったりすると、パニックを起こし、結果、排除的となることがあるように思われます。

 

 したがって、想像的な人と現実的な人を見分ける方法は、次のようになります。

 

 1.排除的か包摂的か

 2.パニックを起こしやすいか否か

 3.既存の枠からはみ出た可能性を想定するか否か

 

 誰にでも、多少なりとも排除的な傾向はありますし、パニックもありますし、可能性を想定する能力の限界もあります。

 

 したがって、これは白か黒かという問題ではなく、程度問題ではあります。

 

 あくまで、程度の問題として、排除的な傾向だったり、包摂的な傾向であったりします。

 

 なので、どんな人も、ある程度は、想像的で現実的です。

 

 誰でも、隔離されれば、認知能力が低下したり、おかしくなったりしますし、逆に、あまりに自由過ぎても何をしていいかわからなくなってしまう人もいます。程度問題です。

 

 ただ、人によって、必要な状況は異なり、その人の快適だと感じる場所は異なります。

 

 ここで、想像的な人は、現実的な人とも関わって、混合して生きていく方が善いというふうに考えやすいようです。

 

 一方で、現実的な人は、想像的な人と現実的な人とは、互いに住む場所を異にして、ある意味、互に互いを「隔離」する形で生きたほうが善い、というように考えやすいようです。

 

 これらの認知特徴の差異は、おそらく、その「生産能力」によっているところが大きいのではないかと、僕は個人的には思っています。

 

 現実的な人は、既存のリソースを回します。つまり、何かを生み出したりとかは基本的にしないのです。逆に、想像的な人は、リソース自体を生産することを目指します。

 

 リソースを回す人とリソースを生産する人がいます。

 

 どちらも必要な人材でしょう。

 

 想像的な人自体は、あくまで包摂的な態度を取る傾向にありますので、共存を考える上では問題はあまりないと思います。

 

 ただ、現実的な人たちは、どちらかと言えば、排除的な傾向がありますので、彼らに、想像的な人たちを排除させないためにはどうすればいいかを考えてみたいと思います。

 

 現実的な人たちは、基本的に、既得権益を運用する人たちですので、そもそもリソースを取り合い、競争原理で動きやすいです。

 

 例えば、最近はやりの概念に、「サイコパス」というものがあるのですが、これは一種のマイナスイメージを伴ったレッテルとして機能しますので、どちらかと言えば、排除的な人の方が使いやすい言葉かもしれません。つまり、「人にサイコパスのレッテルを貼ることは、それ自体サイコパス的行為である」ということです(サイコパスという概念のメリットが発掘された状態ならそうはなりませんが。ただ、デメリット部分だけに着目している場合、そのレッテルを貼った人たちはサイコパス的な人たちなのかもしれません)。

 

 良心があるということは、他者の痛みを想像できる、ということを意味しますので、想像的であるほどに、サイコパスの傾向は低いのかもしれません。

 

 また、人間は反応に「慣れる」という特性を持ちます。人間はこの慣れの能力のおかげで、様々な環境に適応できるようになります。

 

 つまり、逆説的ですが、人の痛みを常日頃から感じとっている人は、その痛みに、「慣れやすい」環境にあると考えられます。

 

 逆に、人の痛みに、鈍感な傾向がある人は、その痛みに「慣れにくい」環境にあると考えられます。

 

 ならば、他者の痛みを頻繁に感じとっている人は、痛みに慣れやすく、痛みに対する感受性が麻痺しやすいというふうにも推理できます。

 

 これらのことを考慮すると、例えば、脳における「痛み」を感知する部分の脳血流量を計測して、その人の感じている「痛み」を「計測」しても、そのことが直接、その人が、他者の痛みに鈍感であるのか鋭いのかを示す事にはならず、つまり、共感能力の有無をそこから判断することは難しいのではないか、と考えることができます。

 

 よって、現状では、脳を調べることによって、その人のサイコパス性を正確に判断したりすることは難しいのではないか、というふうに思われます。

 

 つまり、脳科学的基準では、すごく痛みに敏感な共感的な人が、痛みの感覚が麻痺しているばかりに、サイコパスとして認定されることがあり得るのではないか、という推理です。

 

 こうしたなんとも微妙な事情がありますので、なかなかに、脳科学を絶対視することは難しい、というふうに個人的には考えています。

 

 脳科学はとても面白い分野で、非常に夢が詰まっており、楽しいのですが、まだまだ発展する余地のある学問なのであろう、と思っています。非常に将来有望な分野です。

 

 これは、脳科学にかぎらず、あらゆる人知は絶対のものではない、ということは押さえておいた方が、みなさん得することもあるかもしれません。

 

 気が向いたら、ひとつの意見として、鵜呑みにせずに、ご参考下さい。

 

 あらゆるものが絶対ではないので、もちろん、僕の記述も相対的なものに過ぎません。

 

 その点はどうかご了承ください。