魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。

「福祉」について

「福祉」について、興味が出てきました。今日は、杉本一義氏の『人生福祉の根本問題』(2014)を引用しつつ、自分なりにこの問題について考えてみたいと思います。ページ数は引用させていただいた引用文毎の末尾の括弧の中に記しておきます。

 

まず、杉本氏によれば、人間というのはそれぞれがそれぞれに「固有」の状況に投げ込まれているのだと考察されています。このように考える場合には、一つとして同じ状況というものはないということになるのでしょう。同じ状況がないなら、それぞれの具体的な人間の抱えた問題に切り込むためには、それぞれの「固有性」を把握しながらに、それぞれの仕方でもって、それぞれの自己実現を目指すことが必要であることになるように思われます。

 

人間は一人ひとりが、人生のそれぞれの時期に、それぞれに固有の状況にあって、それ相応の成熟を遂げながら生活している。 (p.9)

 

もしも、人間というものがそれぞれに固有の状況に投げ込まれているのだとするのならば、必然的に科学的な態度で以ってそこに迫るアプローチにも限界が生じるでしょう。科学は、何らかの再現性、「法則」を明らかにしようとしますが、普通に考えると、固有のそれぞれの状況に対して、そうした一般的法則性はかなり無力であろうからです。その意味では、非科学、つまり「宗教」という概念もある程度、重要なものであるということにもなるのかもしれません。「人間」というものを科学だけでもって断じようとするのはいささか狭量な価値観なのかもしれません。そしてまた、そうした狭量性ではなくて、むしろ寛容な「包容力」のようなものこそが、人間が自己実現を果たすことを助けるのではないか、というふうにも思われます。

 

問題の原因を究明し、それを除去し解決していこうとする科学的態度も重要ではあるが、他方、問題、苦悩を受容していこうとする宗教的態度もまた重要である。受容することによって問題のもつ問題性、苦悩のもつ苦悩性が希薄化し、軽減し、自己実現への動きが容易になり、人間性が活性化するからである。(p.17)

 

とは言え、方法や理論というようなものが、かなりの程度で無力であるような領域が存在するとしても、それらなしには如何ともしがたい「状況」というものもまたありえるような気がします。それぞれの人間が、それぞれに固有の状況に投げ込まれ、それぞれの方法を要するとしても、また、狭量な一般性では人々の人生を完全には把握しきれないとしても、少なくとも現象をある程度で説明可能な原理としての理念が、大枠の方向性を定める上では有効であるのだ、とも思います。そうした理念、理論、方法は、固有の状況に十分に対処できるだけの柔軟な視野を持ちながらに、以前からの問題から新しい問題に至るまで、広い分野において、その対応の幅を持つことができるようなものであることが望ましいのかもしれません。

 

新しい方法がその意義を理解され、広く実用化され、効果をあげるためには、その方法が新しく生じた問題だけでなく、以前から存在する問題にも対応できるものでなければならない。(p.55)

 

「人間」が抱える固有のそれぞれの状況に対応できるためには、その都度のケースにおいて、援助者自身が「成長」を成し遂げることが要請されます。なぜなら、それぞれのケースが全く固有の現象であるために、そうした固有性に対応できるためには、援助のその都度に、今までとはまた違った創造的なアプローチの成立が求められるのであり、援助者が援助者であり続けるためには、常に、自分自身を創造し続けることが必要であると考えられるからです。そうであるのに、あまりに過度に頑固に理論に固執したり、自分にコントロール不能な目の前の人間から逃避したりすることで、自己批判や自分の行いを改める機会を逸することは、あまり好ましくはないのかもしれません。その意味では、自分自身との対決は、臨床家にとって不可欠なものであるとも考えられるのだとも思います。

 

そこで援助者自身としては、時と場合に応じてまず自己自身の人格構造を修正して、自らがより豊かな成長を遂げなければならない。ここで専門家にとって自己自身との対決が求められるわけである。ところでややもすると専門家はこの対決から逃れて、オーソドックスな、かたくなな理論や学説に逃避しようとする。自己批判と積極的な自己修正とは個々の子どもを真に理解しようとする臨床家にとって必須不可欠であることを自覚しなければならないのである。(p.81)

 

「人間」という単語には「人」という字とともに、「間」という字もまた含まれています。こうした現象は非常に示唆的なものであるように思われます。つまり、人間というものは、人と人との「間」にあるものなのかもしれません。その意味であは、人間性とは「関係性」に宿るものである、と考える余地もあるのでしょう。しかし、いつもいつも良い関係を作り上げることができない、というのもまた人間であるようにも思われます。それこそ、状況自体が、個々のケースによって、それぞれ固有に著しく異なるからです。対等な関係性ではなく、支配的な関係性を営んでしまう時、「人間」というもののあり方は、大なり小なり歪んでしまうものなのかもしれません。支配という行為が成立するためには、支配対象が必要ですが、その意味では、支配者はその支配対象に依存しているというふうに考えることができます。ならば、精神的に良く自立し、不合理な信念をその都度に修正し、孤独になることを恐れないなどの対策によって、歪んだ関係性が生じてしまうリスクをある程度下げることは可能なのかもしれません。

 

支配者は服従者に依存している。支配はいかなる場合にも依存の形態をとるので、支配者が一番恐れるのは服従者の謀反である。支配者は孤独になること、孤立すること、捨てられることを恐れる。これは親子関係や夫婦関係、友人関係の場合にもしばしばみられる現象であり、これも不合理な自己防衛に基づく関係の歪みである。(p.107)

 

歪んだ行動を避け、そうした歪みを修正していくためには、まず、自分自身が独立した自分という存在を確立していなければならないのかもしれません。そこでは、「一人でいられる能力」が非常に重要なものとなるでしょう。過度に依存をすることなく、自分が、自分自身の固有の人生を生きること。自己実現。そうしたことによってこそ、真に充実した人間性としての人と人との間の「関係」を取り結ぶことができるようになるのかもしれません。逆に言えば、支配的で利己的になってしまう振る舞いの原因は、何らか不合理な自己防衛の結果であるというふうに捉える余地もあることになります。

 

人間が利己的になるのは不合理な自己防衛によるものである。自分自身が一個の独立した存在として自己を確立していないために誰かを利用して防衛しようとする。自分自身の存在に対する真の意味での配慮や関心がなく、自分自身を存在として充足することができないために他人を利用して自分を守らざるをえない。こうして不合理な自己防衛の出てくる根本の原因は存在感覚の欠陥、つまり人間が真に人間として自己自身を生きていないことによるといってよいのである。(p.109)

 

「私」は「職業」ではありませんし、「お金」でも、「地位」でも、「名誉」」でもないわけですが、つまるところ、「私とは私」なのです。「あなたがあなた」であるように。このように、存在の根拠は地位とか社会的役割に依存するものではなく、それらは自分自身によるところのもの、つまり、「自由」であり、独立し、自律したものであるのだと考えられると思います。あなたは如何なる場合もあなた自身であり、そうしたあなたの存在を支配によって消し去ろうとすることなしに、そのままに認めること、そうした振る舞いを人は「愛」と呼ぶのかもしれません。

 

存在の根拠は自分の地位や社会的な役割などにあるのではなく、それは自分自身の存在そのものの中にあるのである。(p.110)

 

固有の状況と理論との間の相克から、問題は複雑化し、多様な現象が生じてもきます。そこに対処していくために、高度な知識や技術、そして、そうした既存の領野に留まることのない開拓的な精神が必要とされることは自明であるようにも思われます。確かに、そうした極めて難度の高い要求を現時点の人間が完全に成し遂げることは難しいこともあるかもしれませんが、そこは並大抵でない「努力」によってそれぞれが乗り越えていく以外には、方法らしい方法というものもないのかもしれません。時に独立し、時に助け合いながら、関係の相互作用と、自分という圧倒的なまでに絶えず自分というものを実現しようとしていく存在のただ中で、懸命に生き抜いていくしかないのかもしれません。

 

問題が複雑化し、ニーズの多様化した人間福祉の現実に的確に対処していくためには高度の専門知識・技術と合わせて開拓的精神に導かれた不撓不屈の努力が求められる。(p.114)

 

一人として同じ人生はなく、人生に再現性はありません。全ての人生は一回限りの全く固有のものです。今、僕たちの過ごしている「この時」が戻ってくることは、もう二度とないのだ、そう考えるのが基本だと思います。僕たちは、一人一人が抱く、かけがえのないこの一回限りのものとしての「生活」を営んでいるのです。僕たちは、それぞれが唯一の独創的な存在である、とそう捉えてもいいと思います。

 

一回限りの人生(この時)を、かけがえのない一人ひとりがそれぞれに、それぞれの生活空間を生きている。(p.141)

 

「人間」は、創造的な存在であるので、それらは絶えず、自己実現的に成長していくものと思います。「人間」というのは、一定のパターンに収まる何かではなくて、絶えず発見し、能動的に形成していかなければならない、そういう存在であると考えられるのです。

 

人間を発見し形成しなければならない。(p.143)

 

ハイデガーが人間を「死」に向かう存在であると捉える時、こうした理解の中にある人間とはどのようなものなのでしょうか。死とは存在しないものとしての代表的な存在です。そうした表象は一般的に「無」とも呼ばれます。それは存在しないものです。そうした非存在が、存在を形成するのだ、ということ。ここにはないどこかであるところのもの、こうしたニュアンスは「非」という言葉に現れてきます。世界内の現象は、もしかするとある種の宗教的でさえあるような「超越」によって成立しているというふうな捉え方も可能なのかもしれません。色々と考えてみると、とても面白そうです。

 

人間存在の感覚は、文化的・社会的次元における地位や役割によって得られるものではない。存在は非存在との対決においてこそ鮮明にその形姿をあらわにするものである。(p.243)

 

また、既存の知識を増やす事と、独創的であることとの間には、何らかの関係はあるかもしれませんが、一般的にそれらは同じことではないでしょう。知識だけ増やしても、そこに独創的な作用が働かなければ、新しいものは出てこない、そう考えるのが通常かもしれません。むしろ、固有性によって育まれるものたち、そうしたものにこそ積極的に注目していくべきなのかもしれません。他律的な「コピー」ではなく、自律的で独創的なもの。理論と実践の「間」にある多様で複雑な体験たち。それらを通して、自分自身の「哲学」を自分自身で作り上げていく、ということ。そうした生活的な営みの中、「人間」は芽生えるのです。

 

哲学的姿勢とは、必ずしも先哲の学をひもとき、その知識を増やしていくということではない。それぞれの境遇において、独自の体験過程を通して主体的な考え方、自己自身の哲学をつくりあげていくということである。(p.262)

 

机上で営まれることが全くの無駄である、ということはないでしょう。ただ、その一方で、実践的な知というものもありえます。援助において、そうした実践の場を統率しやすい価値観には、想像や共感、あるいは同情、理解など様々ありますが、机上の「理解」と実践の場での「理解」は異なることがあります。それがなぜなのかには、様々な理由付けができると思います。例えば、文脈の違いにより、理解の差が生じる、というふうに捉える時には、机上の場と実践の場で文脈が異なるために、それぞれに固有の異なった「理解」が生じてくるのであろうとも考えることができます。また、現実の援助活動とは、実際のものであるので、その現場に固有の多様な文脈に基づいて、臨機応変に「理解」し、行うべきものであると考えられます。現場には、机上の場とはまた異なった固有の展開が多々生じるのだ、ということだと思います。

 

援助活動の過程は展開的条件発生法によるが、そこにおける実践原理は「想像的同情」「共感的理解」である。人間援助の方法において、取り扱う「術」と理解する「術」とは必ずしも同じではない。ここで「理解」とは臨床的理解であり、参与的理解であり、それは人間援助の実践過程の中で体得される「臨床知」に基づくものである。(p.337)

 

人間は誰しも、死ぬときは一人です。一般的に、一緒に死ぬことはできません。どんなに裕福でも、どんなに名声があっても、死ぬときは一人なのです。一方で、人間は共生する生物であるとも考えられます。人間には、孤独でありながら、共に生きている、という二重の側面があり、こうした相克は、「人間」それ自体の原理でもあるのかもしれません。二律背反めいた機構は、世界の随所に見られます。その意味でも、両極端のどちらか片方ではなくて、それらの「間」にこそ真理が宿るということなのかもしれません。中間。

 

人間は共に生き一人死ぬ存在である。共に生きることはむずかしいけれども共に生きてゆかねばならない。また一人で死ぬことは寂しいに違いないけれども死ぬときは一人である。共に生きること、一人で死ぬことを学ばねばならない所以である。そこに人間援助の方法を考えるにあたってのこころすべき根本問題がある。(p.388)

 

しばしば、この世界において、絶対的であるとされている「真理」というのは、とても不確定です。もしかすると、こうした不確定性は、生と死という互いに営みの異なる二つの生活が激突することによって生じている、ある種のランダムなのかもしれませんが、正確なところは僕にも分からないです。あるいは、「分からない」としておくのが一番誠実な態度であるようにも思われます。そもそも、絶対的な真理というものが、人間に完全に把握できる程度のものなのだとすれば、それは神から絶対性を簒奪することにはならないのか、などと疑問は尽きません。いずれにせよ、絶対的な真理と呼ばれる現象は、しばしば人間にとって不確定のものとして現れるという面はあるのではないかと思います。

 

人間が死ぬということは疑うことのできない絶対的な真理であり、ところでこの真理である「死の時」がいつ突然やってくるかわからない。死ぬということはわかっているけれどもいつ死ぬかはわかっていない。絶対的真理の不確定性ということである。(p.395)

 

死に向かう存在としての人間にできることとは何でしょうか? 基本的には、「活動」であろうと思います。使わないものは衰える。筋肉でも脳でもそのような側面はある程度認められるものと思います。活発に活動することが、「人間」を「活かす」ことになるのではないか、そんなことも思います。

 

使わないものは衰えるということがいわゆる老化の原則である。(p.413)

 

人間性を活性化するための条件は、無論、厳密に言えば、それぞれに固有のものがありえるのかもしれませんが、それでも大枠の指針としての理念的条件を掲示することは無意味ではないのでしょう。例えば、「愛」などは、人間性の条件として数えられる性質の一つではないかと思います。

 

愛し、愛されることは人間性を活性化するための第一条件といってよいであろう。(p.416)

 

次に、人間には承認欲求があることから、こうした「承認」が人間にとってある程度の重要な意味を持つのではないかと考えるのは自然な理路でしょう。私なども、褒められると嬉しく感じることがあります。人にとって、認められることは重要な意味を持つのかもしれません。

 

人間はどのような状況にあろうとも、認められることが重要な意味をもつものである。(p.416)

 

また、人間を全体として包括的に捉える、ということも人間性を活性化するために重要な徳目であるようです。確かに、欠点だけの人や長所だけの人はおらず、全ての人が様々な特質にそれぞれ固有のバランスでもって恵まれています。細部に固執して、全体を見失うことは、人間性を損なう結果を生み出しえるのかもしれません。部分的理解が大切な場合もあるかもしれないが、一方で、包括的な理解というものの重要性はそうそう簡単には揺らぐものではないように思われます。

 

人間は部分的に欠点ばかりを指摘され、注意されるのではなく、短所はあっても長所もあるといったように全体的に理解されることが大切であり、これが人間性活性化のための基本条件である。(p.416-417)

 

つまり、人間は、統合的全体として存在する時に、真に生きていると言えるのかもしれません。科学や機械によってばらばらに切り刻まれただけの、部分的な「人間像」は真に生きているとは捉えることが困難な側面はあると思います。

 

人間は統合的全体として存在する時にのみ真に生きた人間であり得る。(p.417)

 

 

P.S.

今日は、杉本一義氏の『人生福祉の根本問題』の力を借りながら、思考を進めてきました。氏には感謝と敬愛の念をここに捧げます。

 

さて、少しばかり、「人間」についての個人的な考え方を書いておきます。僕としては、「統合」されたものとしての人間像の重要性を認めつつ、「分裂」したものとしての人間像の重要性について考えているところがあります。とは言え、その考察は、一見、今回の考察とは正反対に見えますが、実際には、かなり通底しているところが多いものであるとも思います。ある時、分裂とは統合であり、統合とは分裂である、ということがあるのです。直観的にも、論理的にも。人間に関する多くの重要な事柄は、突き詰めていくと、こうした二律背反に阻まれることが多いと思いますので、もしかしたら、僕の言っていることが体験として分かるという方もいらっしゃるかもしれません。いずれにせよ、それぞれの人達が、自由で創造的に、それぞれに固有のそれぞれの人生を、謳歌していけると良いのだろうな、と僕などは思っています。僕のこのブログの文章なども、少しでもそのための役に立てると良いなとは思うのですが、あまり上手くはいっていないかもしれませんね(笑) 僕はあまり文章が上手な方ではありませんので、自分の思っていることを人に的確に伝達するということがなかなかできないのです。みんなそれぞれに固有の問題を抱えていて、とても大変だろうなと思いますし、もちろん僕も色々なものを抱えているのですが、それでも全ての人達が幸せに暮らしていけるような世界を願ってもいます。人類の「福祉」というものも、存外、そうした個々人の精神的な自律と絶え間ない努力によって培われるのではないか、そんなことも考えるのですが、とても難しい問題です。詳しいところは、僕には判断しかねますので、それこそ福祉の専門家の方とかに尋ねてみてください(笑)

さてさて、ではみなさん。良いお年を。

僕も色々と頑張りますが、微力ながら、あなたの幸せをそっと応援いたします。多くの場合、祈ることくらいしか僕にはできないのですが。

 

いつものことながら、記事の内容は決して鵜呑みにはせず、ご自分でよく考えた上で良いと思う点はご自由に利用なさってください。

 

ではでは~☆

 

 

引用文献

杉本一義,『人生福祉の根本問題』,彩流社,2014