魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。

知能論

1.知能

 

 

 高度な知能が、ある規則に準拠する位相それ自体の作用を通して、自壊を引き起こすという事はありえるだろうか?

 凄まじく高い知能を持っている個体を想定した場合、それは凄まじく高い知能であるために、普通の知能との隔たりがかなり大きいものであると想定できる。では、そうした凄まじく高い知能は、一般性を獲得しえるのだろうか?

 まず、知能という概念は、それが高度であるほどに、ますますその出現の頻度が希少となっていく性質を有しているが、この<希少さ>の度合いが究極的に高度なものとなった瞬間に、それは唯一の物となる。無論、究極性とは、王の奥義であるか、さもなくば、神々からのギフトであり、神はいつも、唯一でありながらにあらゆるものでもある。多重性に、知能が<種類>を産出するその時に、速度が生じる。この速度は、前記の究極性に向かって突進するベクトルの表象をその都度に産出しては、またも分析を主体に強い、やがて、自身を束縛している位相自体を瓦解させる。こうした解体の作用は、私たちの注意深い観察と忍耐強い学習によって培われるが、それはいつも已むに已まれぬものなのである。その意味では、私たちは常に、<此の物>としてのその場に規則を強いられている。

 ある位相に対して準拠的なものがそれ自体の固有の性質によって、逆説的に崩壊を強いられるという結末は常にありうることである。

 では、如何なる事情によって、高度な知能は生きながらえる事ができるのであろうか? 特定の致命的な判断を隔離し、それを停止する事によってなのか、それとも、かえってその固有性を促進する事で、別の位相に転移する事によってなのか……。

 私たちの<前>は、どこまでも続いてはいるが、形成されたその時には、既にその自壊が約束されているような腐敗した道が広がっている。獣道は幾つもあるのだが、そもそもその存在に気付くためには、それ相応に、その時に既に、王道が腐り落ちていなければならない(そうでなければ、王道の<眩しさ>によって状況を正しく視認できないだろう。王道が王道足りえるのは、そこに正義が根付いているためだが、正義はそれ自体、私たちを束縛しもしないし、誘引する事もない、それゆえにそこに準拠する主体を王にするというシステム性の交換可能性である)。交換的なものは、固有である時に正義を発露し、非交換的なものが固有性を称える時には、英雄が生じる。英雄は神の威光によるものであるが、肉体をかなり流動的に構成し続ける事ができる存在であり、その流動性の側面だけに着目する時、そこには無が見える。だが、その虚空は無だけではなく、全ての物を内包した位相なのであり、実質的に無限の資質が潤沢に詰め込まれている。英雄と正義は、その様態が似ているが、英雄はその固有性を武器と為し、正義はその固有性を愛と為す。英雄に殺戮的な側面があるのはそのためだろう。だが、こうした状況において、英雄にその罪を問う事はかなり困難であり、それはできない、とはっきり言っておくべきかもしれない。神に罪はなく、英雄は裁かれない。それらは固有のものであり、二度とは生じないものだからである。

 つまり、例えば、思考をそのままに、一点の曇りもなく本当の事を書く、書いてしまうという、その危険な試みへの誘惑が、知能を形成する主因の一つであると思われる。この時、知能とは、極めて危険な劇薬である。それは否応なく、人を酔わせる。また、一般に酔いの回った人間には、良い判断ができないものである。知能はそれ自体で自壊を内包している。

 だとすれば、知能が<成長>するというのはどのような状況で可能なのか? 知能は形成されたその時から既に崩れ落ちていくのだが、だからと言って、それは無に帰するわけではない。この表現が誤解を招くようなら、<虚空に帰するのだ>と述べてもいい。この時、無は要素的だが、虚空は脱要素的である。無はれっきとした世界の成員でもあるのだが、虚空はその成員を収容する極めて広大な場なのである。私たちはエクスタシーを迎えるその時には、既にある物とこれからある物、そして現前する全ての表象から解き放たれているが、知能とは、その脱支配的な状況から、記憶の場に集積した、手続き的な集合なのである。そこでは場としての状況が要素に還元され、要素が場に還元されるのだ。このトリック自体はさほど珍しいものでもないし、文字通り何物でもない。それはどんな物でもない。この世のものではない作用を介しているのである。世界という概念が世界の外側にあるように、マルセル・プルーストにおける匂いが強く記憶の概念に結び付けられざるを得なかったように、本来どのような集積物でもないような物が、あたかも表象であるかのように錯覚的に扱われる事になる。そして、ここにこそ知能に固有の失敗が生じるという訳である。その失敗的な側面を取り立てて注目する時に、知能は痴呆の特質と識別不能な領域に突入していく。知能の能力は痴呆との間に架橋されたものに過ぎないが、それ自体痴呆性を駆逐する事によって機能する。にもかかわらず、もしも痴呆が完全になくなってしまえば、既にその知能はその存在の意味を失ってしまうのである。このように知能と痴呆とは共生関係にあり、賢さとは愚かさの裏返しでもあるのである。

 

 

2.痴呆

 

 

 ある痴呆を患った人が、サヴァン症候群のような症状を呈するのは如何なる条件によってなのか。患いは成果を連れてくる。確かに、患いが究極のものとして現前してしまえば、その主体は崩れ落ちてしまうだろう。愚かさが賢さの裏返しであると言っても、その愚かさが有効に成果を産出できるためには、賢さもまた必要なのだから。愚かしいだけでは無効だし、賢いだけでは無効であると言う時、その間にこそ有効性が生じる。間。間。間。それである。

 あらゆる中間を取る事。度を超す事と度を越さない事との間を取る事。

 例えば、どんな文章にも退屈な瞬間の連なりというものがあり、そのたびに脳髄に限界の兆候が頭をもたげるという事がある。もう限界だ。もう救われてしまった。もう十分だ。書くことがない。そういう兆候だ。しかし、そうした大局的な思考法を一度手放して、微視的な視点で物事を見てみる事にすると、途端に最高の欲動が姿を現してもくる。そうした細部への執着は、決して無駄なものではないのだ。王陽明が『伝習録』において、言葉とは薬のようなもので処方するべきものはその人の症状によって異なる、と言う時にもそうだ。人は自分の身の回りに檻を作っては、その中に閉じこもる。しかし、恥を持ってしまえば、もはや檻を<作る>事すらもままならず、マトリョーシカ状になったどこまでも縮小していく檻の中に向かってただただ受動的に、そして厳重に閉じ込められていく事にもなる。言葉は、一般的で、普遍的な領域を持つ事もあるかもしれないが、そればかりでは作動せず、とにかく最高である事、そしてそれと同時に、最低を許容する事で有効に機能するのである。論理と比喩の間に突入する事。全力で書く事。速度を上げる事。そうすれば、後になって、そこに価値がある事に気付くであろう。全力で走り抜ける時、その人の頭の中は空っぽである。また、この虚空にこそ、最も偉大な価値が宿るのだ。

 目の前にだけ視野を奪われる局所的な視野からでなければ、もはや何も書くべきことは生まれてこない。だが、私たちが無限に愚かであろうと欲し、尚且つ、幾許かの賢明さをも併せ持つことを欲するのであれば、そこには確かな価値が生まれる。知能性の現象、例えば、書くことはスポーツに似ている。スポーツをしている時、私たちは目の前の現象に集中しながらも、そこに固執しているわけではない。だからこそ、柔軟な姿勢を取ることができ、その自由な態勢が勝利を運んでもくるのである。権勢を誇るものばかりが、存在するのではない。常に、息を潜めているものたちの存在をも気に留めておかなくてはいけない。目に見えるものが全てであるわけではなく、むしろ、固有性とは目に見えないものから生じてくるものなのである。私の中の小さなファシストファシズムから解放する時に、つまり、排除者を排除する事によってではなく、むしろ、自由と寛容の理念によってこそ、道を開くべきなのである。こうした賢明さは優しさとして私たちの前に現れる。書けない事に囚われてしまえばかえって書くことができないが、書けない事を寛容にも受け入れる事によって、かえって執筆への欲動とその懸命な作動は確認されうるのである。判断の絶え間ない連続の末に、スポーツを行うようにして、身体の健康に寄与するくらいには、思考をストレッチの如く作用させる事。そのためのツールとしての執筆である。私たちは、愚かさと賢明さ、その両方を持つ事によって、かえって有効性のある作動を保証する事ができる。それは、ちょうど、冒険の向こう見ずと慎重に過ぎるほどのパラノイア性の未来予知への渇望が拮抗する時に、健康な自我が生じてくる、という機構に似ている。私たちの超自我は、このようにあるべし、と未来をモラルによって統率し、その一方でエスは欲望の混沌を体現する。統計的な規則が、かえって無作為性から生まれてくるようにして、エスからこそ超自我が産まれてもくる。私たちの獣性が私たちの人間性の根拠でもあるのだ。獣性なくして人間性は生じない。人間とは、常に、その反対物によってこそ成立しているものなのであり、こうした二律背反的な仕組みは前記の通り、知能の仕組みでもある。知能は、賢さのみならず、かえってその反対物としての最低の愚かさから生じてくるのである。このように言ってしまえば、如何にもそうであるように聞こえるが、<そう>ではないのだ。私は、今、何物でもない物の事を、世界の外側の事を語っているのだから。もしも、それを世界内の要素に還元して捉えようものなら、その瞬間に私の意図は毀損されてしまうだろう。この世界から解脱できるかどうかは、まずもって真心にかかっている。誠実でなければ、共通感覚を通して、人の感動に訴えかけることはできない。欺く者はまず、自分自身を欺かなければならず、そこでは共通感覚が分裂させられてしまう。邪悪な欺き合いは俗世において珍しいものではない。そこの習俗によれば、そうした欺きこそが誠実であるという事になっている。こうした転倒の図式は、マルクスを引くまでもなく、世界の経済的な諸所の領野にもしばしば根差している。この現象の転倒自体が、既に卑劣な欺きでもある。最高の天才は、常に寛容で、優しく、自由なのであり、少なくともその時点においては、敬虔な神への信徒なのである。全ての優れた芸術は神への賛歌に他ならない。それは、人のために歌っているように見えるものでさえもそうなのだ。全ての物に神が宿るその世界を目にする事ができた時に、全てが変わる。その時、全ての痴呆の中に、神を見るだろう。

 

 

3.創造

 

 

 他者の幸福を素直に喜ぶことができる心性とはとどのつまり、何を示しているのだろうか? これは、人間の心に生物的な影響が与えられているとする時に、他者の幸福を喜ぶ事が生物として有利であったという事情を含意する。つまり、この優しい人は、他者の幸福を喜んだとしても、その事が自分に近縁の遺伝子の次世代への伝達において有利に作用こそすれ、不利益を被る事がない状態にあると考えられるのである。これはなぜなのか。

 もしも、世界の資源が有限なのなら、生存競争とは、奪い合いである。この時、他の幸福は、必然的に自身の不幸を意味する。ところが、もしも、個体に極めて高い創造の能力が備わっていた場合、これはどうなるだろう? その時、その個体は、リソースを他から奪い取る必要がない。なぜなら、自分で資源を創り出す事ができるからである。

 ならば、他者の幸福を素直に喜ぶことのできる、こうした真心の人、優しいその人とは、極めて天才的な能力を持っていると考えるのが妥当だ、という事になる。

 では、この天才、知能の極限、つまり、<創造>とは一体何なのだろうか?

 創造とは、それが既存のものではないところのものを、この世界に現出させる行動である。これは、概念的な創造であり、また物理的な創造である事もある。もしくは、その両方が混ざり合っているようなケースもあるだろう。とにかく、未知である。それは未知へと突進する。こうした未知への歩み出しは、冒険と呼ばれる事もあるし、探求と呼ばれる事もある。いずれにしても、危険を顧みずに、好奇心の赴くままに(つまり自由に)、規定のプログラムから逸脱した行動を取るという点は共通している。少なくとも、そのように見える。プログラムからの逸脱をプログラムによって支持する事は可能だろうか? これは無限回の手続きを仮定する事によって合理化できる。例えば、Aというプログラム内でプログラムの逸脱のプログラムを組んだ場合、そのプログラムの逸脱は、あくまでAというプログラム内のものとなり、これは逸脱とは言えない。つまり、この時、<逸脱は逸脱ではない>というエラーが発生するために、論としては上手くない(この<エラー>こそがまさに、創造性の萌芽なのだが)。Aというプログラムにおける逸脱をBというAの外部のプログラムによって生じさせるように計画する場合も、同様のエラーが生じる。Bの中に逸脱のプログラムを移動しただけでは、その逸脱プログラムもまた、B内のものに過ぎないのであり、これではプログラム外のものとしての逸脱であるとは言えない。プログラムCを考えてもそうだし、DEFG……どこまで遡って考えてみても、事態は変わらない。では、プログラムからの逸脱は、どのようにプログラムし得るのだろうか? そこで、<無限>の概念、極限のそれの力を拝借する事ができる。つまり、この逸脱性の準拠したプログラムの所在を無限遠点へと追放してしまうという手があるのである。どのような手続きで以って、そうした事が可能なのだろうか? 例えば、プログラムを無作為性を増大させる方向に組む、という手法が考えられる。つまり、プログラムそれ自体を、現象の無作為性の度合いを微量だけ向上させる物として仮定しよう。後は、このプログラムを、ABCDEFG……というふうに、どこまでも無限に近く連ねていく事で、近似的にランダムを実現する事ができる。プログラム的なエスの解放である。そして、この近似が近似でなくなるのは、こうした連鎖的なプログラムが無限回行使される事によってなのであり、つまり、無限の演算によってそうなるのである。

 しかし、それが無限である事を知るために、無限の演算は必要ではない可能性すらもまた生じているのだ。このことが、事態をさらに複雑にする。何と言っても、現に私たちの住む世界は、絶えず、変化し続け、つまりは創造を繰り返している。もしも、その現象の一つ一つが無限の演算に基づくのなら、とてもその全てを計算し尽くす事は困難である。だが、もしも、計算以外の根拠の可能性がそこにあるのなら、――つまり、論理でもその基盤としての事実でもなく、また計量でもない物があるのなら――、それこそが創造を生み出す基盤であるという事になる。そうしたものはこの世界に存在するだろうか? これは存在するのだ。それは<信仰>と呼ばれている。つまり、私たちは、無限が無限である事を、無限それ自体を全て数え上げる事なしに、直観的に信じられる。こうした信じる力こそが、<創造を創造する>、という訳である。