魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。

ちょっと具体的な政治指針について考えてみた(原発篇)

 原発について。

 

 ちょっと調べてみたのですが、情報が錯綜しすぎてて何が何やら不明です。

 

 考えことを簡単に書いていきます。

 

 

 原発の主張。

 

 放射能は高リスクだ。よって、原発はやめるべき。

 

 

 原発推進の主張。

 

 放射能は低リスクだ。よって原発は進めるべき。

 

 

 すると、放射能の危険度の規準が問題になってくるのですが、何やらいろいろと基準があるようで、ある人は、「低放射線は低リスクだ」と言っているかと思えば、同じ線量の放射能でも、「それは高リスクだ」と言っている方もいらっしゃるようです。

 

 ドイツ基準とか国際基準とか、まず基準自体がいろいろみたい。

 

 それで、お互にいろいろな基準で話していますので、意見もいろいろになるようです。

 

 実際に放射能がどの程度危険なのかを確かめるには、たくさんの実験が必要になると思いますが、人間に放射能を浴びせて実験するわけにもいかないですし、実際問題、どの程度の放射能が人間にどのような影響をおよぼすのかはよくわからない感じなのかな、と思います。

 

 放射能症とか、あまりにも事態が広範囲の出来事過ぎて、どうやって確かめたらいいかわからない感じですし。原発を爆発させて実験する事もできませんし(「あってはならないこと」については、実験できないので、知識が乏しく難しいです)。

 

 それで、結論を言うと、兎に角、何が何やらわからないという感じに僕は思ったのですが、取りあえずこれはおそらく確かなのではないかと思うポイントをすこしだけ。

 

 1.放射能は高エネルギーであるらしい。

 2.高エネルギーのものは、分子構造を破壊するらしい(原子炉には修理が必要ならしい)。

 3.生体はたんぱく質などの分子構造でできているらしい。

 4.ならば、放射能は大なり小なり生体の構造を破壊はするのだろう。

 5.とはいえ、別に原発がなくても、私たちは自然の放射能に絶えず被曝しているらしい。

 6.だから、原発をなくしても、放射能をゼロにすることは不可能らしい。

 7.すると、反原発にせよ、原発推進にせよ、放射能リスクはゼロリスクではないらしい。

 8.自然に放射能が存在するのに、僕たちが生きていられるということは、ある程度は放射能に耐性があるのかもしれない。

 9.すると、問題となるのは、放射能の「有無」ではなく、放射能の「量」であるらしい(生体のホメオスターシス構造がくずされない程度の線量なら放射能があってもOK)。

 10.しかし、その放射能の量の安全基準は色々あるようで、ひとつに絞れないらしい。

 11.これは、人体実験をできないのでしょうがない。

 12.一方で、原発ができると、かなりのエネルギーになり、エネルギーがあると、色々な機械を動かせるようになるし、一説によると無尽蔵のエネルギーといえるくらいだそうなので、エネルギー問題が解決する。

 13.すると、エネルギーが安くなるので、色々なエネルギーの必要なすべてのものが安くなるのかもしれない。

 14.石油に依存しなくなるので、地球温暖化とかにもいいのかもしれない。

 15.みたいに、色々なメリットはあるし、ゼロリスクはそもそもないけども、失敗すると、チェルノブイリみたいになる。

 16.福島原発みたいな事故が起こる可能性も、放射能のリスクと同じくゼロリスクではない。

 17.だから、無尽蔵のエネルギー? から受けられる様々なメリットと放射能リスクを比べたとき、あなたはどっちを取りますか? という問題らしい。

 18.基本的に、リスクを取らなければジリ貧であるということには同意するけど、だからと言って、人が死んでいいということにはならず。

 19.エネルギーが安くなって色々なものが安くなれば、アフリカとか色々な所の貧困も良くなるかもしれない。そうすると、貧困で死ぬ人達がいなくなる。

 20.一方で原発事故が起こると、たくさんの人たちが死ぬかもしれない。そして、どんなに頑張っても、そのリスクはゼロには決してならない。

 21.だから、この問題を決定するには、どちらかの命を大なり小なり危険にさらさねばならない。

 22.しかし、命に優劣はないし、どの命の価値も平等である。

 23.であるなら、この問題は、どちらが正しいか道徳的に決定することが困難である。

 24.すくなくとも、反原発についての情報も、原発推進についての情報もあまりに氾濫しており、僕のような凡人には到底理解不能である。

 25.情報が不十分で、尚且つ、考えられる情報から得られる解答が、「決定不能」であるので、より正確で、より詳細な情報が必要だが、情報が錯綜し、政府の判断も正しいのかどうか、信じていいのかどうか正直微妙である。

 26.ならば、まずは、このような情報の混乱が起きないような仕組みについて考えることがそもそも正しい判断のためには大切なのかもしれない。

 27.現在の政府とか、政治制度を一度見直して、それがちゃんとした管理ができるようになったなら、――例えば、原発風評被害とかあるいは絶対安全神話とかが無くなる程度なのかな? よくわかりませんが――そのちゃんとした管理者に、原発を運営してもらえば、一番ウィンウィンなのかもしれない。

 28.その際には、原発の利益が、みんなにいきわたるように注意しないといけないけど(エネルギーが安くなって、社会の機械化が進めば、色々な人たちの仕事が無くなりながら、機械を所有できる富裕層にまず富が集まると思うので、ある程度は、富を再分配しないと、仕事がなくなって、生活の手段がないなんてことになってしまいかねない。そうしたら、とりあえず、生存権のためにベーシックインカムが必要)、それをするのにも、ちゃんとした管理者が必要。

 29.政府を信用していいのかどうかが、そもそもからして、ちょっとよくわからない。正直、色々な方の意見を聞いていると、不安。

 30.だから、信頼できる政治家の方が出てきてくれたらうれしいな、と思った。

 

 

 みたいなことを思いました。結論、「よくわからん!」

 すいませんね。脆弱な脳みそしか持っていなくて(笑) 原発問題、僕にとっては難しいです。

 

 僕、あんまり政治にくわしくないので、ずっとこういう話しないで来たのですが、たまーに、ちょっとだけは発言しておきます。一市民として。

 

 僕は普通の人間なので、なかなかこういう難しい問題についてはわからないのですが、取りあえず、一市民がどんなことを思っているのかな、ということについての参考になれば幸です。

色んな術とかサイコメトリーとかについて

 こんばんは~

 

 今日も気になったこと書いてきますよ。

 

 生成術について。

 

 生成術というのは、生成する術です。まんまですが(笑)。例えば、多世界生成術なら、色んな世界を生成する術、という意味です。このブログに書いたやつは、特に、「想像世界」を創造する術式です。「記憶の宮殿」という概念がありますので、あわせてみてみると面白いかもしれません。

 世界生成術の他に、人格生成術や、人格よりも創造性の欠ける形の、プログラム上の何かを生成する術もあります。

 

 自我肥大術について。

 

 これは書かないことにしていますが、ちょっとだけ。

 みなさん、どんな時にがんばるでしょうか? 多分、自分に関連していることについてはがんばり、関連していないことについては頑張らないのではないかと思います。では、もっといろいろなことについてがんばるためにはどうすればいいだろうか? と考えるのです。その場合、「すべてのことを自分に関連づけてしまえばいい」と考えられます。大体、こんな感じが自我肥大術です。ただし、全てが自分に関連するので、どんな罵詈雑言もすべて自分への罵詈雑言として知覚されてしまい、結果、傷つきやすくなってしまうのではないかな、と思います。自己愛性パーソナリティの人は傷つきやすい自己愛を抱えていると言われていると思いますが、そんな感じです。普通と呼ばれる人の場合、適度に他者を自分とは無関係のものとして切りすてて、自己の安定を図っているものと思います。人間の能力には限界があるので、或る程度そう言った、切り捨ては有効となります。他者の評価ばかり気にしている、といえば悪い性質に見えますが、ある意味、それだけ他者の存在に重点を置いているわけですので、かなりつらい生き方だと思います。どんな人も切り捨てないわけですから。普通は大切な他人の評価しか気にしないかもしれません。後は聞き流すスタイルとか(笑)

 

 サイコメトリーについて。

 

 多分、誰でもある程度は情報自体は、読み取れるのだと思います。個人差はあると思いますけど。ただ、その読みとったものを、この世界において、曲がりなりにも有効な形に序列化する能力に差異があるのではないかと思います。古いものに触っていると、何となく感慨深い気持になったりすることってないですかね? そして、その気持ちをさらに有効な形に変換することができると、いわゆるサイコメトラーと呼ばれる人になるのかもしれません。

 あと、最近ちょっと考えてることも書きますと……

 何か情報があって、それで何か質量をもった媒体があるとしますよね。すると、その媒体に情報が触れると、情報が媒体に刻印される、というふうに考えます。これは、媒体が柔らかいほど刻印されやすいですが、柔らかすぎると流動性が強く、いろいろな場所に刻印された情報が拡散されるとかんがえます。ですので、固体、液体、気体で言ったら、一番刻印されやすいのは気体だけど、流動性が高過ぎて情報の混線が多すぎる。個体だと情報の混線は起きないけど、刻印されるために必要なエネルギー量が大き過ぎる。そう考えると、サイコメトリーの能力を最も発揮しやすいのは、おそらく、液体なのだろうな、と思います。水には、さまざまな者たちの記憶が眠っているのかもしれません。

 

 テレパシーについて。

 

 これは、サイコメトリーの延長です。この場合、「気体」の情報を読みとる能力と考えます。ですので、情報の混線が多く、有効性を持った形に、その情報なり、「記憶」を序列化するには、かなりの知能?(この知能なるものが一体何なのかは不明) が必要なのではないかと考えます。

 

 呪術に必要なことについて。

 

 基本的に、何でもだと思います。一体何が役に立つか分かりませんので。というか、普通の人が見過ごしている、「ガラクタ」に意味を見いだし、結果として、他の人にない効力を上げることを目指すのが、呪術というか、魔術だと僕はかんがえていますから、人によって、何を呪術としてもいいのではないかな、と僕の流派?(笑)では考えます。

 強いて言えば、千のプラトーをお勧めしますが、読みたくなければ、別に必須ではないと思います。

 あとは、ひたすらに語学に手を付けまくるのも面白いかも。すると、言語の共通性が見つかって来るじゃないですか。その共通性を、非言語として見落とされるものに適応した場合、それを、「霊視」と僕は呼びます。あるいは、そこから得られる独特の様式の言語の音に似た知覚を、「幻聴」と僕は呼びます。これが視覚になれば、「幻視」、感覚になれば、「体感幻覚」と呼びます。

 なので、この場合、基本は言語で考えています。ただ、非言語と呼ばれているものも言語のカテゴリーにいれているので、とても特殊な言葉の使いかたはしているかもしれません。

 

 コードの人格へのトレースとその適応手順について。

 

 何やら、難しい感じの見出しになってますが、何のことはない、ただの「読解」です。本を読んで、通底している論理を読みとり、それを記憶し、後は、その記憶に従って、体が動くように、無意識に身を委ねる。

 楽器とかって、最初は意識的に手とか動かすじゃないですか。それで、やっているうちに、無意識に自分ではない誰かが勝手にやってくれるようになると思うのですが、それを、日常生活に応用した感じです。

 「文体模写」という概念について、考察すると、何か有益な情報が得られるかも知れません。あるいは、文体とは何か? この場合も、基本は、「言語」となります。このブログで言えば、「言語術」ですね。

 

 neruさんのマイネームイズラヴソングについて。

 

 だいすきな曲です。「愛のなる方へ」

 ただ、難しいですね(笑)愛は難しいです。難題です。

 

 れるりりさんの乱躁滅裂ガールについて。

 

 これもすきですね。

 「援交」とか調べてみると、いろいろな解釈ができて面白いかもしれませんよ。

 出会い系とか。調べてみると、とてもおもしろいのかもしれませんが、しかし、「性」の問題ですので、何分、慎重にならざるを得ませんが。少なくとも、僕には無理ですね。

 

 思考流出について。

 

 これ、統合失調症の症状なんですけど、僕にもありますよ。なんだか、自分の思考が人に漏れている気がするのです。

 ただある方が皮肉を利かせて、「統合失調症者がAといった後、私がAを少し言い換えると、それで、彼/彼女にとっては私が思考を読んだことになるのだ」とおっしゃっていました(笑)。

 例えば、このブログを、著名人の方々が見ているような気がしたりとかね。そういう妄想知覚? とかが生じます。

 あまり気にしすぎると、体に毒ですので、注意が必要な点ですね。

 これも掘り下げると、おもしろいですよ。僕の個人的な考えとしては、おそらく、「本当に」思考は流出していると言えるであろう、みたいな感じです。Aにしても、言葉というかたちでAが漏れていて、それを言い換えることができたということは、その言表以上のものが相手に伝達されている、つまり、言表以上のなんらかの目に見えない精神体としての「思考」が流出していると考えられるのではないかと。すると、この話は、テレパスとかに繋がって来て、とてもおもしろいです。

 みなさんも気が向いたら、いろいろとご想像なさって見てくださいませ。

 

 魔術師と専門家について。

 

 どちらも、各々に味があって面白いのではないでしょうか。それなりに、上手くやっていけるといいですね。

 

 嘘について。

 

 嘘は多分、世の中からなくなることは当分ないでしょうからうまく付き合っていきけるといいですね。

 

 不安について。

 

 僕も、不安になることありますね。そんなときは、紙に自分の思考を書いて、それを少しずつ前向きな方向にシフトさせたりします。他人には見せられないけど(笑)

 

 神秘について。

 

 世界は結構神秘的な所もありますよね。少しずつ科学が解明しているようですが、まだまだ分からないことだらけ。僕たちが生きている間には、神秘が無くなることはないかもしれませんね。

 

 合理性について。

 

 神秘があると、なかなか合理性に徹するのは難しいところもあるのかな、と思う事もあります。

 合理性にも力はありますが、ある程度、神秘にも力がありますし。

 神秘と合理性。

 一体どっちが正しいのかはわかりませんが、今のところは、上手く折衷していくのが重要かもしれません。

 とはいえ、新興宗教や疑似科学にも問題はあるのでしょうから、なかなか難しい所だろうと思います。

 合理的すぎると危険だと思いますし、神秘的すぎると危険なのかな、と。

 うまく中間を縫っていけるといいのですが。非常に難しいことだとは思います。

 

 

精神病とか人間関係とか学術とかについて。

 はいはーい。

 

 みなさん。こんばんは。

 

 今日も気になったこととか書いてきますね。

 

 精神病について。

 

 僕も精神病(統合失調症)を患っているのですが、割に軽症で済んでいるようです。クスリのみ忘れているときの、集中力が愛おしい(笑) でも、クスリは飲んでおりますよ。それでも、妄想と呼ばれうる症状はきえませんし、僕の文章はもしかしたら全般におかしいかもしれません。連合弛緩とか。

 論理とかの飛躍が多いかもしれませんし。話の飛躍が多いとはよく言われます(笑)

 精神病があると、就職とかも制限が出てきたりすると思いますし、偏見もあると思いますし、結構大変ですよね。

 それに、普通の人(「普通」などと言うことがあり得るとすればの話ですが)と、感性自体がけっこう違っているところとかもあって、結構生きていくの大変な面もあるかと思います。

 細かくは書きませんが、僕もいろいろ大変ですね(笑)

 だからと言って、どうしようもありませんので、できることをしていこうとは思っています。

 精神病でも精神病でなくても、就職難もありますし、学歴社会もありますし、偏差値教育も、イスラム国も、無差別殺傷も、ブラック企業も、貧困問題も、もうありとあらゆるところに問題が山積みですが、なんとか生き残れればいいですね。

 

 人間関係の締結と別れについて。

 

 どんな人同士でも相性はあるものですね。誰かと仲良くしたりするのも相性。誰かと別れるのも相性。多分、どっちかが一方的に良かったり、悪かったりということはないのではないかという気もします。縁は、時の運みたいなところもありますし、一方で、つかみ取るものであるという面もありますね。でも、一度はつかみ取っても、すぐにはなれて行ってしまうかもしれませんし、それは、相性ですね。やっぱり。人は変わるものですし、一所にはとどまっていませんから、出会いも別れも、一期一会の気分でやっていくのがいいかもしれませんね。諸行無常です。

 

 知識人について。

 

 色々な定義がありますよね。気持ちを重視する人もいますし、学歴を重視する人もいますし、そう言ったものとは関係なく知識や研究能力を重視する人もいます。一律な定義はないみたいです。

 きっと、色々なことをご存知な立派な方たちなのでしょうから、がんばっていただきたいな、と思います。

 僕には大したことは何もできませんが、それでも、そっと陰ながら応援しています。

 僕と意見が同じでも、違っていても、分かり合えても、分かり合えなくても、お互に受け入れられなくても、尊敬はしています。

 

 優劣について。

 

 これは、厳密には存在しないと思います。ただ、社会上のゲームというか、社会を回すためにはある程度必要かもしれません。ある程度ルールブレイカー(イノベーター)の存在も必要だと思いますし、逆にルールを保持する人(保守的な人?)も必要だと思います。バランスの問題ですね。ルールブレイカーの人もルールを保持する人も、あまりがちがちにならずに、それなりに上手くやっていけるといいですね。とは言え、時々けんかするくらいないいのではないでしょうか。お互に意見があって、しかも、それを言えるというのは、捉えようによっては、いいことであるとも言えるような気がします。

 

 自殺について。

 

 僕も自殺についてかんがえることありますよ(笑)。僕の悩みなんて巷の悩みに比べたら全然浅いものに過ぎないかもしれませんけど。なんだか、自殺のことを考えていると心が落ち着くことがあります。一種の精神安定剤なのかもしれません。僕にとっては。多分、自殺についてかんがえることも、必要な人にとっては、必要なこともあるのかな、とも思います。それに、僕には、自殺を否定できるだけの論拠も持ち合わせがありませんし(そもそも自分が自殺のこと考えてることあるし(笑))。だから、あんまり言えることはないかもしれません。ただ、ネットを見ていると、自殺を考えている人で、とても魅力的に見える人もいるのは事実ですので、そういうのを見ていると、何とはなしに、反射的に、死んでほしくないな、と思ってしまうことはありますが、それは、僕にどうこうできることではないので、詳しいことについては口をつぐんでおこうと思います。

 

 乱躁滅裂ガールについて。

 

 なんか、乱躁滅裂ガールの解釈が求められている模様。だれか、世の乱躁滅裂ガールにくわしい方々、解釈書いてくださいませ(笑)

 僕は、あんまり詳しくないので、なかなか書けないですね(笑)

 それにしても、いい曲ですよね。すごいノリノリな感じのリズムだし、歌詞もすごく色々と想像できておもしろいですし。

 みなさんの解釈がネットにあがるの心待ちにしております。

 でも、そのうち、何か直観術ならあげられるかも知れませんね。気が向いたら、上げるかもしれませんので、気が向いたら、見ていてくださいませ。

 すごいですよね。この曲。ニコニコで即一位になってたし。ホントすごいと思います。

 

 学術について。

 

 以前、医師と「ドゥルーズは学術ではない」みたいなお話をしたのですが。なるほど、と腑に落ちる今日この頃。とは言え、ドゥルーズを研究なさっている方ももちろんいらっしゃると思いますし、それはそれで全然いいと思いますが。世の中には色々な学術というか、色々な世界があるのでしょうね。それぞれに派閥があるようです。あんまり「排除」というか「いじめ」にならないようにというか、少なくとも、「なりすぎない」ようにしながら、上手く「包摂」していけるといいかもしれませんね。いろいろな多様性を。その路線が、無難なのだろうな、と思います。

 

 統合失調症と「君の名は。」について。

 

 これについては、あまり詳しく書きませんが、例えば、あの映画を、三葉の「妄想」として捉えると面白いかもしれませんね。そして、その妄想が、紆余曲折を経て、現実に「接続」したというふうに見ると面白いかもしれません。現実のレイヤーがあって、虚構のレイヤーがあって、それらが交わった部分に三葉が「たまたま」いた。そして、「たまたま」、「運命的出会い」を果たしたのかもしれません。いろいろと想像できるところだと思いますので、気が向いたら、みなさんご自由にお考えになってみてくださいませ。

 

 オタクについて。

 

 これも色々な意味合いでつかわれる言葉ですよね。多分、ケースによって、結構ニュアンスが違う。

 学者がハイデガーオタクと呼ばれることもあるのかもしれませんし、アニメオタクと呼ばれる人が、アニメの専門家として呼ばれることもあるかもしれません。その辺りは、諸行無常なめぐりあわせというか、色々な要素が絡み合って成立する所かと思います。

 僕は、個人的には、あんまりこの言葉に思い入れはありませんが、非常におもしろい概念なのだろうな、とは何となく思います。

 ただ、それ自体としては、良くも悪くもないような気も。

 オタクであるうえで、どのような行為をするかによって、色々と意味合いが変わってくるのだろうな、と思ったりはしますが、よくわからないです。

 少なくとも、何か夢中になれることがあるというのは、夢中になることがない人からしてみれば、幸せなことに見えるのではないかな、というふうに想像することもあります。

 

 必読書という概念について。

 

 いいとは思います。ただ、社会を回すための機能上の言葉として捉えておくのが無難なのかもしれません(個人的には、厳密な意味で「必」読書というのはないのではないかとは思います)。一般的には、「おすすめの本だよ!」 くらいの意味でつかわれているものと思います。気が向いたら、必読書、どんどんお読みになってみるといいのではないでしょうか。気が向かなかったら、まあ、無理に読まなくてもいいのではないかなと思います。

 

 言論の自由について。

 

 あんまり人を傷つけるのはどうかとは思いますが、でも、深刻な他害がないのなら、基本的には認められてもいいのではないでしょうか。

 とはいえ、ひたすらに人の悪口を言っている人とかでも、なんというか、根の部分? ですごくいい人だな、と感じる人とかもいらっしゃるみたいですね。だから、そういう方のことも、上手く包摂していけると、すごくいい社会になるんじゃないかという気もする。これだけでは、ちょっと楽観的過ぎるとは思いますが(笑)悪口を行っている人が根っから悪人かというと、別段そういうわけでもない印象も受けます。勿論、実際にかかわりを持つかどうかは、相性の問題もありますし、色々なめぐりあわせの問題もありますので、一概には言えませんが。

魅力的な人たちってどんなこと考えてるんだろう? な話

 キラキラしてる人っていますよね。

 

 魅力的な。

 

 ああいう方たちは、普段どんなことを考えていらっしゃるのでしょうね。調べてみたら面白そうです。

 

 僕のような一般ピーポーからすると、ああいう方たちは、雲の上の存在と言ったところでしょうか。それじゃ、調べられねえんじゃね? とか思いますけど、彼らけっこう優しかったりするようなので、機会があれば、割にお話することも可能なようです。

 

 でも、キラキラしてる人たちのグループって、いくつか派閥があるような気も……

 あんまり詳しくないので、下手なことは言えないのですが、そんな気もする。

 

 僕は思うのですが、おそらく、万人から好かれるというのは、原理上不可能に近いのではないでしょうか。

 

 とはいえ、表現上、「誰からも好かれる」、と言えるくらいの人は幾人もいらっしゃるのでしょうが。

 

 おそらく、完璧な人間というのはいないはずなので、そういう方たちをあんまり理想化しない方がいいのかもしれません。というのも、多分、あんまり理想化されると窮屈になってしまったりするのではないかとか他人事ながら想像します。

 

 アイドルの人たちは、キャラを作っていると思うのですが、それってわりに疲れると思うのです。

 

 罵倒され過ぎるのも嫌ですけど、褒められすぎるのも嫌って方もいらっしゃるのかもしれません。難しいところだとは思うのですが。

 

 それで、ここまで書いておいてなんなのですが、これは考えすぎかもしれない(笑)

 

 キラキラしている人たちは、あくまですべてがキラキラしていて、完全無欠なのかもしれない、という気もしてきた(笑)

 

 そして、彼らはキラキラしているので、その周囲には、キラキラしているものしか寄ってこず、悪いものが寄って来ることはないのかもしれません。類は友を呼ぶ、的に。

 

 彼らが完全無欠の人間なのだとすれば、彼らはもしかしたら、真のエリートなのかもしれない(笑)

 

 苦しみも痛みもなく(というのは言い過ぎかもしれませんが。比較的少なく)、(相対的に)とても楽しい人生を送っていらっしゃるのやもしれません。

 

 真実はどっちだ?(笑) 検証が待たれますね。待ってるの僕だけかもしれませんが(笑)。

 

 この問題、個人的にすごい面白いと思うんだけどなあ。

 

 これ調べて、小説でも書くか(笑)。

 

 『吉里吉里人』ならぬ、『キラキラ人』。なかなか語呂がいいよ。うん。

 

 でも、僕からしたら、大体の人たちがキラキラして見えるからな。僕が研究しても、客観的に問題のある研究にしかならないかもしれない。僕、主観的なものしか書かないし。てか、個人的な意見とかしか書けないし。

 

 華やかな方々は見ていて和みますね。

 

 あと、優秀な方とかも和みますよね。彼らの考えとかを聞いていると和みます。

 

 すると、優秀で華やかだと、超和むことになるのかもしれません。

 

 いや、その場合、「委縮」する可能性も高いな(笑)

 

 華やかの基準とか優秀の基準とかもいろいろとあるのかもしれませんね。多様性というか。

 

 すると、色んな華やかグループやいろんな優秀グループが生じるのかもしれません。すくなくとも、ひとつではないでしょうね。おそらく。ある程度、多極的なのだと思います。

 

 僕は、今のところ、完全無欠な人は見たことはないので、もしかしたら、厳密な意味では、キラキラしている人たちに会ったことはないのかもしれません(僕は非常に不完全な人間ですので、キラキラしている人たちから弾かれていたとしてもおかしくはないですし)。

 

 みんな、何かしらコンプレックスとかを抱えていらっしゃるような気もします。かなりすごい人とかでも。「いや、あなたの場合、それはその能力で帳消でしょ?(笑)」って感じの人とかでも、コンプレックス自体はお持ちであることが多いような気もします。

 

 あと、こういう問題を考える場合には、必ず、「嫉妬」の問題を考慮しないといけませんし。すべての物事が嫉妬で片付くというのはあり得ない話ですが、かといって、嫉妬がゼロかと言えばそんなわけもなく。というか、おそらくわりに人間にはありふれた感情なのかもしれません。七つの大罪の一つだったと思いますし。

 

 何が問題なのかというと、大きく二つありますよね。

 

 まず、本当は嫉妬されているのに、嫉妬されてはいないと思う場合。

 次に、本当は嫉妬されていないのに、嫉妬されていると思い込む場合。

 

 後者は簡単で、これは、いわゆる「妄想」となりますよね。あんまり強くなると、今のところは、社会生活上の問題となることも多いかもしれません。

 

 今回の問題は前者なんですよね。

 

 嫉妬されて攻撃されてるのに、そのことに気づかないで、大本の原因にもとづいた防衛ができず、そのまま攻撃にさらされ続けた場合、これはかわいそうだと思います。

 

 でも、これは人間の心の問題ですし、実際の現場における立証もいろいろと困難なのではないかと思いますので、嫉妬と嫉妬の妄想を区別できず、それで延々と悩むという事態もあるかもしれません。ただ、確か、心理学の研究で、美人の学生に対する成績評価の実験で、評価者が同性教授の場合には美人の学生に対し低い評価がつけられる、みたいなものはあった気もあしますので、まったく立証されていない訳ではないのだとは思います(記憶が定かではないので、気になった方はご自分で調べてみてくださいませ)。あるいは、嫉妬の有無を、ゼロか百かではなく、連続体として捉えるとすっきりするのかもしれません。60%嫉妬されてるとか。今回は30パーセントほどの嫉妬しかないな、とか(笑)嫉妬がゼロということもないし、100ということもないという発想(笑)

 

 こういう問題は全て一切考えない、という方針を取るのもひとつの見識なのではないかと思います。嫌われることを気にせず我が道を行くというのも一つの手ではないかと。考えても切ない。

 

 とはいえ、これ、単に一つの推理でしかないですし。まずもって嫉妬されることのない僕のような一般ピーポーには、あずかり知らぬ世界ですね。どんな世界なんだろう? 色々と想像できておもしろいですね。

 

 七つの大罪がない世界っていうのも想像するとちょっと恐いような気もするんですけどね(笑)。どんな世界なんだろ? だれも何にも嫉妬しない世界……これも、小説にすると面白いのかもしれません。何にも傲慢にならず、何にも欲情しない世界……うむ。

魔術師の学習方法? について。

 今日は、魔術師の学習計画について。

 

 何やらしょっぱなから語義矛盾なような気もしますが(笑)

 

 僕の魔術の場合は、まず、何事につけ、自由に学習するのが一番効率がいいだろう、みたいな感じです。ただ、いきなり「自由にやって」と言われても、できない方もいらっしゃるかもしれませんので、そういう方の参考に少しでもなれば幸です。。

 

 まず、こないだご紹介した、「読書術(教養術)」などがある程度参考になるかもしれません。

 

 フェルトセンスを意識して、日ごろの生活を営むと、とても面白いのではないかと。フェルトセンスは本だけではなく、花にもありますし、鳥にもありますし、石ころにもありますから、そう言ったものを読みとって、言語化してみるといい練習になるかもしれません。魔術の。

 

 後は、小説を読むこと。とにかく多視点化すること。専門論文などは、非常に効率的かもしれませんが、視点をしぼっていることが多い様に思われますので、多視点化するには、小説などの方が向くかも知れません。

 

 歴史に対する捉え方。

 

 歴史はとても重要な点なのですが、これも鵜呑みにはしない方向の方がいいかもしれません(魔術師の場合)。歴史の形成過程を自分で思考してみて、それを、色々な現象に適用する練習をしてみるといいと思います。例えば、何か巫女の踊りがおもしろいな、と思ったら、その歴史的形成過程を調べ、そこから抽象的な概念の構造を取り出して、さらに、それを別の現象に応用してみるとか。そんなのもいいかもしれません。

 まず、誰が歴史を書いているかに着目したりとか。すると、単純に考えれば、その語り手につごうの良い歴史になっている可能性が高いですから、その点のバイアスを考慮して読む練習をしたりとか、そういうことをすると、いい練習になるかもしれません。

 

 抽象化と具体化の練習というか。抽象的に考えた後、それを具体的に応用してみて、遊んだりとか。楽しいし、練習になるかもしれません。

 

 走ること。

 

 走るのはいいかもしれません。体引き締まるし。ボディイメージ、魔術にすごく影響するみたいですから、自分の好きなように体を引き締めておくのは有効かもしれません。あと、健康にもいいらしいですし。一石二鳥ではないでしょうか。体力もつくから、一石三鳥だろうか?(笑)

 

 服装について。

 

 これも、自分の好きな形をいっぱいためしてみるといいのではないでしょうか。類感呪術(当ブログの引力術など参照)があるとすると、服装は、もろにパフォーマンスに影響するはずですから、自分の好きなようにファッションするといいかもしれません。まず、形から入るって、結構大切だと思うのです。

 

 完璧志向について。

 

 これは、捨てたほうが楽かもしれません。そして、効率もいい気が。

 読書ひとつとっても、結局のところ、一冊の本すら、読み終わることは永久にないのではないかと思いますから、どこかきりのいいところで中断することは必要かもしれません。読書完了の定義についてかんがえてみてください。すると、永久に読書が完了しないことがわかるかな、と思います。完了は基本的にないものとして考えていた方がいいかもしれません。

 

 官僚について。

 

 魔術師は、基本的に敵を作ることはしない方針なのですが(僕の場合)、多少、官僚とは拮抗する所があるかもしれません。官僚は多分、優秀な方たちなのだと思いますから、ぜひ頑張っていただきたいな、と思います。魔術師は、支配体制からの脱走と言った側面が無きにしも非ずですので、どうしても国家体制からはみ出ちゃうようなニュアンスはあると思います。

 詳しい政治のお話については、僕は門外漢ですので、政治学者の方とか、識者の方に伺ったほうが良いかもしれません。一応、当ブログに、「政治術」という記事が上がっていますので、ご興味のある方は参考にしてみてくださいませ。

 

 指揮者について。

 

 なんか魔法使いみたいですよね。指揮者の方って。多分、通ずるものあるのだと思います。ただ、指揮者がオーケストラを「支配」しているのではなく、多分、奏者と指揮者の間で「共生」関係が生まれているのでしょうね。魔術師は、支配者というよりも、共生することを志向するかも知れません。場合によるのでしょうが。

 

 魔術師の連携について。

 

 魔術師は連携を取ることに多少慎重かもしれません。連携しすぎると、一丸になりすぎてしまうリスクがあるというか、ファシズム? のリスクがあるようにも思いますので。とは言え、ある程度の連携は大切ですね。独立性を保ちながらも、一定の連携は事実上必要かもしれません。基本は連携というよりも、出来るだけ好きにすることというか、自由にするようにがんばることかもしれません。

 

 魔術の直観と合理性について。

 

 これ難しいです。そのうち気がむけば、記すかもしれません。多分、くっきりと意識化されていない論理が直感なのだと思います。無意識的論理。それで、いわゆる合理性というのは、意識的論理。何方か一つだけでは足りないので、どちらも必要なのかも。意識的論理だけに着目すると、酸っぱい葡萄、の逸話みたいな話になるのだと思います。無意識の論理を詳しく見ていくのも、魔術師のやることの一つと言えるのではないでしょうか。

 

 ルーチン業務について。

 

 今のところは、避けて通れない場合が多いかもしれませんね(笑)。これは、ミヒャエルエンデの『モモ』という本を読まれるといいと思います。ベッポおじさんという人が、道を箒で掃除する場面があるのですが、一歩前のことだけに集中していくと、あっという間に掃除が終わった、みたいなお話です。それがコツかもしれません。お読みになってみるといいかもしれません。魔術師としては、できる限り、ルーチンワークを放棄していく方針かも知れませんね。もちろん、ルーチンワークを極めたければ、それを極める魔術師がいても、おもしろいかもしれません。ご興味のある方は実験してみてくださいませ。

 

 統合失調症の視野について。

 

 これは、基本的に、あらゆるものが解体していく視野であると言えるかもしれません(僕の場合)。すべて、微粒子に見えるような感覚。何を見ても、どこまでも細かく分析されてしまって、跡形もなくなってしまう感じです。そのような過程の中で、いわゆる霊? と呼ばれうるものの存在が見える? というか、感じることはあると思います。多分、網膜に映っているっていうのとは違う感じがします。何なんだろう? 拡張現実みたいな感じなのかな? ちょっと自分でも分からないところではあります。一種の、幻日みたいなものなのかもしれません。

 

 魔術師としての善について。

 

 多分、大きく三つ。

 

 1.他害しない。

 2.自由の尊重。

 3.不幸の受容もある程度含めた上での幸せの尊重。

 

 最後のやつは、いわゆる不幸を幸福とする場合もおそらくあると思うので、そんな感じのニュアンスの意味です。自分の幸、不幸の観念を、他人に押し付けすぎると、それは他害になってしまうかもしれませんので、注意が必要なところかもしれません。あんまり、気にしすぎると、コミュニケーション自体取れなくなってしまうかもしれませんので、バランスが難しいところですが。

 

 世間について。

 

 僕は世間知らずですので、もっといろいろと知らないとなあ、と思っていました。もっといろいろなものを見てみたいですね。

 

 とりあえず、こんな感じでどうでしょう?(笑) 色々と不充分なところはあるのでしょうが、それこそ、完璧主義すぎると、僕のキャパシティーが容易にオーバーしますので、注意しないとな、と思います。

 

 あと、魔術師にならない方法について。

 

 多分、極力、思考を停止し、周囲に協調することを主眼として行動すればいいのかもしれません。それはそれで一つの生き方なのかなあ、とも思いますので、否定しません。

 

 ああ、シェアハウスについて。

 

 てか、家族概念? について。ネットで見たんですけど、みんなシングルマザーになって、シェアハウスすればいい、みたいな。おもしろい考え方だな、と思いました。それで、子供もみんなで育てるのだそうです。

 いわば、子供の共有。

 どうなるんでしょうね。おもしろいところです。実質的には、この場合、夫の共有、妻の共有、子供の共有、と三拍子そろっているのかも。

 意外に、一夫一妻制にこだわる必要ってないのかもしれませんね。みなさんもいろいろと気が向いたらご想像なさって見てくださいませ。

 

 今日は以上です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

孤独について

 こんばんは。みなさん。

 

 今日は孤独について。

 

 孤独というのも、なにやら難しいですよね。これ。

 

 僕思うんですけど、これって、もしかして理由なかったりするのかな、とかって。

 

 あるいは、単純に、嫌われてると孤独を感じるのでしょうか。

 僕なんかだと、色々と問題のある人間ですので、嫌われていたとしてもさほど驚きませんが。

 でも、嫌われているのはあまりいい気持はしないですね。

 

 さらに悪い場合だと、なぜ嫌われるのかがわからない時もありますからね。何が理由で嫌われているか本当わからないな、と思います。なんか、僕の服装とかに怒っている人とかも過去にいらっしゃいましたし(フォーマルな場ではなく、普通に遊びに行くときのお話)。おもしろい現象だな、とは思います。あるいは僕の服装があまりに奇抜すぎるのだろうか?(笑) でも、別の方に伺うと、別におかしくないって言われたりもしますし、ファッションセンスは人それぞれなのかもしれません。難しいです。少なくとも、万人のお気に召すファッションは無理なのかもしれません。なら、自分の好きにするのが一番理に適っている気もしないでもないです。

 

 こういう事言っても信用してはもらえないと思うし、なんか偽善的なので言うべきではない気もするのですが、ネットだし匿名だし、とりあえず言ってみると、僕あんまり人のこと嫌いにとかはならない方なのかもしれません。あんまり「嫌い」とは思ったことなくて(これは人に限らないですね。読書とかも雑食ですし。あんまり対象を選ばない性格なのかもしれません)。

 

 だから、あんまり、「嫌い」という感情がよくわからないのです。皆無というわけではないのですが。多分。気持ち悪くなる時とかは、勿論僕にもあるわけですからね。生理的に。だから、多分皆無ではないのだと思います。

 

 嫌い、っていうよりも、疲れることの方がおおいかもしれませんね。もしかしたら。嫌いって思う前に疲れるのです。

 

 それに、僕も嫌われるだけのことを無意識にしているのかもしれませんし、そう考えると、一概に、相手を責められないなあ、とは思いますね。嫌われても。

 

 なんか、そう考えると、あんまり相手のこと嫌いにならないんですよね。あんまり嫌いになるのが合理的じゃない気がして(知性化とかで、自分の感情が隠蔽されているという可能性は否定できませんが)。

 

 少なくとも、あんまり嫌いとか、怒りとかを感じることはない方なのかもしれません。自分のことって、すごい謎ですけど。自己イメージとか永遠の謎ですよね。てか、自己って何?藁

 

 好き嫌いは好みの問題もありますしね。相性とか。相性が悪いのだとすれば、それは相手が悪いわけではありませんし。

 それに、もしも、嫌悪が過剰な場合であれば、多分、その人はその人なりに大変な何かを抱えておられるのだと思いますし、そう考えると、やっぱり相手を責めるのはちがう。

 

 これって、きれいごとなのかな?(笑) 僕は存外、本気でそう思っているのですが(笑)

 

 でも、なんかこれはあんまり一般的な考え方というか、感じ方ではないようにも感じます(この世界に生きていて(笑))。

 

 みんな?(割と多数)の方たちが、お互いの悪口を言い合ってらっしゃる感じがします。それが、悪いことなのかどうかはわからないのですが。なんだか、どうも、悪口によって、感情の均衡を保ってらっしゃるように見受けられますので、本人たちがいいのであれば、それでいいような気も。

 

 僕としては、ちょっと寂しい気がしないでもないのですが(笑)。多分、あのみんなで悪口言っている時とかって、僕もその人の悪口言わないといけない流れなんですよね? 僕、悪口にマジレスしちゃってた時期あったからな(笑)。だって、あんまり非合理なんだもん(笑) しかも、なんというか、その人たちの本心? でもないような気もしますし。本当に言いたいことではない。その悪口たち。昔々のお話ですね。なつかしいです。最近は、悪口的な感じには、あんまり関わらないようにしているかもしれません。取りあえず、目下のところは僕には必要のない手続きなので、それでいいかな、と。

 

 悪口っていう言葉もなんかあれかな、と思うんですが、「悪」って決めちゃってますし。多分、あれはあれでちゃんとした社会的機能があるんだと思いますから、まあいいんじゃね?、みたいな(笑)

 

 この辺が、僕の孤独? を醸成しているのだろうか。しかし、孤独とは言っても、普通に人とお話もしますし、恵那(イマジナリーフレンド)もいるし、問題らしい問題もないのかもしれません。

 

 とはいえ、僕も、統合失調症と診断されているわけですので、多分、どっかに無理はかかっているのだろうとは思うのですが、その無理がどこにあるかわからん。無意識に無理しているのだろうか?

 

 てか、嫌われない事って不可能だと思うんですよね。だって、考え事してて、話しかけられたのに気づかなかったらそれで、「無視した。性格悪い」って言われますし(笑) ちょっと待って~~~!!! それで嫌いになっちゃう??

 

 って感じですね藁。

 

 もう何が何やらわかりませんよ。

 

 何もかもが無に帰していく。

 

 やれやれ。

 

 「私」って何?

 

 れるりりさんの新曲、すごくいいですね。癒されます。「乱躁滅裂ガール」って曲、ニコニコ動画にあがってますので、ご覧になってみてくださいませ。さっきからずっとリピートしてる(笑)

 

どこかに落としてしまった

私の中身 知りませんか?(れるりり、「乱躁滅裂ガール」より引用) 

 

 もしかしたら、最初から、僕には中身なんてなかったのではないかという気も(笑) からっぽなんでしょうね。からっぽ。

読書術(教養術)

 さて、今日はどんなお話をしましょう。取りあえず、教養? についてもう少し掘り下げてみようと思います。

 

 教養とは何か。

 

 ちょっと、ぼくにもよくわからないです(笑) 色々なことをおっしゃる方がいますね。どうも、一律ではないらしい。きっと、その人の置かれている立場とか状況によって、なにが教養であるかは異なってくるのでしょうね。ふしぎです。

 

 じゃあ、教養の機能は?

 

 多分、「持ってるとカッコいい」みたいな感じじゃないでしょうか(笑) 僕とか、もしも誰かがハイデガーをドイツ語で読んでたら、それだけで惚れますよ(笑) カッコよくないですか? (読解してその人がどのような話をするのかも重要なのですが。おもしろいといいな)

 

 もちろん、好みのストライクゾーンは人それぞれなのでしょうね。

 

 なんか、僕の好みは、周りの人となかなか合わないので、多分、特殊性癖なのだと思います(笑) だから、あまり一般的には当てにならない情報かもしれません。

 

 取りあえず、教養というのは、何か、持っていると人から評価されやすい装置なのかもしれません。

 

 さて、ここでは、的を読書的教養に絞って、読書術についてかんがえてみましょう。

 

 読書とは何か、というか、一体「読書をする」という時、僕たちはなにをしているのでしょう? という問題。

 

 まず、眼を紙のうえに走らせています。それで、どんな感じしますか? 頭の中で、文字の音が再生されていますね(多くの場合)。それから、単語が見えてきて、意味がポワンと浮かんでくる。そのあとに、意味が言葉となって形を持ってくる。

 

 みたいな感じに、読書をしていると思います。

 

 そして、僕がこの過程の中で、最も、大切だと思う部分は、「ポワン」です。

 

 そう、「ポワン」。

 

 では、ポワンっていうのは一体何なんでしょうね?

 

 これは、「何だか言葉にならないんだけど、何とも言えない感じがする……」みたいな時のあの感覚。言語になりそうでならないような。「意味は分かるんだけど、上手く表現できない」みたいな。それで、ある時、ふとした拍子に表現できるようになったりしますね。

 

 この感覚を仮に、「フェルトセンス」(詳しくは、フォーカシング理論参照)と呼びましょう。

 

 僕は、読書においては、このフェルトセンスがとても大切なのではないかと、考えています。

 

 よく「説明出来ないということはわかっていないんだ!」みたいなお話があったと思います。これには一利ないこともないのですが、現状ではあまりうまくないように、僕は思っています。概念の働き方が。

 

 さて、では、ここで、どうしたら「わかった!」と言えるのかについてかんがえてみましょう。

 

 みなさんは、どのような条件で、その人が本を「ちゃんと」読んでいると判断しますか?

 

 多分、「その本について、自分の考えを述べられる」ということが基準となると思います。本の内容を記憶するだけだったりなら、コンピュータで十分ですね。本当に分かっているといえるためには、本の内容を記憶するのではなく、その内容または自分の思考を創造的に発展させることが重要とされます。

 

 つまり、重要なのは、「記憶」ではないみたいです。極端な話何も覚えていなくてもいいのです。ただ、読む前よりも自分の考えが創造的に発展していればいい。

 

 すると、本を読む目的とは何んでしょう?

 

 それは、本の内容を覚えることではなく、自分の思考を発展させることです。

 

 たいせつなのは、覚えることではなく(暗記型教育)、自分の為になることであるという一つの仮説です。

 

 つまり、みなさんは、コンピュータになるのではなく、コンピュータに今のところできないところをすることが重要である、ということです。

 

 例えば、何でもいいので、本を取り出してみてください。

 

 そして、一秒間、どこでもいいのでページを開いて、すぐに閉じましょう。

 

 さて、あなたのフェルトセンスは、どのように変化しているでしょうか?

 

 少しでも、「ああ、そうか!」という感覚があれば、たとえ、何も記憶に残っていなくても、そのフェルトセンスは、徐々に無意識の感情領域から脳において加工されて、あなたの意識に影響をおよぼしてくれます。

 

いわば、「無意識に読書をしている」という感じです。

 

 読書においては、その、あなたのフェルトセンス、「実感」が何よりも重要な指標になるでしょう。

 

 さて、では、読書の方法を簡単にまとめておきましょう。

 

 1.本を用意する。

 2.フェルトセンス(なんとなくの感覚)を意識する。

 3.フェルトセンスでもって、本の上に目を滑らせる(必ずしも、意識して型にはまった読み方をしなくてもOK。完璧に好きに読んでOK。後ろから読んでも、右ページしか読まなくても、何でもあり。ただし、もしも、フェルトセンスが、普通の精読を命じるなら、その時は、その感覚に従うこと。そこにはあなたにとって大事な情報があると思います )。

 

 すると、この読書法は、暗記教育型の読書ではないので、この読書法だけでは、テストで点数取るのなどは難しいかもしれませんが、ただ、非常に難易度の高い問題を解くときには、おそらくこのフェルトセンスをもちいた読解戦略が意味を持ちやすいと思います。難しい問題がわかるようになる時って、意識的にできるようになるというよりも、パッとできるようになりませんか? どちらかと言うと、無意識的なタイミングの方が要因として大きいように思われます。

 

 非常に簡単に言うと、言語ではなく、非言語によって読書をする、みたいな感じです。これを使うと、非常に大量の情報をわりに簡単に処理できるのではないかと思いますので、ご興味のある方は、御自分で、効果を検証なさって見てください。

 

 ちょっとだけ、理論的な背景を書きます。これ以降は、くどいので、面倒くさい方は読まなくても大丈夫です。

 

 さて、言語とは何かについて。考えてみましょう。

 

 「あ」。これ文字ですね。横線と、曲線と円に似た連続の曲線により構成されています。次に、「あい」という単語を見てみましょう。これは、「あ」と「い」という文字により構成されています。

 「あいはたいせつ」という文章。これは、「あ」、「い」、「は」、「た」、「い」、「せ」、「つ」という文字により構成されています。さらに「文章の右から左へ目を動かす」という規則がありますね。この文章は、これらの規則によって構成されます。

 

 では、これらの規則に対する反例はないのか。ありますね。右から左へと読む言語もありますし、「あ」は「a」とも表すことができます。

 

 だとすると、本質的には、日本語の文章も、右から読んだり、あるいは「あ」という形を、「a」として読んだりしても、一種の読解は成立するはずです。この際、「あ」と「a」の共通点は非常に簡単に言うと、一種の「丸み」です。

 

 すると、まず、「どう視線を動かして読んでも良い」という規則と、「文字をどのようなレベルの形態素にまでも分解して読んでも良い」という二つの規則が得られます。

 しかし、「あ」の形態素は、もはや「あ」ではありません。棒と曲線です。そして、それらの、形態素、つまり、文字を形成する、普段は意識されることのない細かな「言語」は、「いわゆる言語」には変換されていません。

 とは言え、現に、そこに棒やらなにやらについての何やらな「感覚」(フェルトセンス)自体は存在しています。

 いわば、「非言語という言語」を読みとることで、読書をおこなうことができるであろう、という発想です。

 非常に簡単に言うと、音楽や絵画を鑑賞するように、文字や文字列を見るということです。絵画を、文字列を見るように目を動かしてみる人はいないのではないでしょうか。どちらかと言えば、もっと自由にみますよね。きょろきょろと全体を。この全体を見る感覚がとても大切なのではないかと、僕は思います。

 

 みなさんも気が向いたら、全体を俯瞰する読書について研究してみてくださいませ。

 

 ポイントをまとめます。

 

 1.言語にならない感覚があるよ。

 2.すべてが言語になるわけではないよ。言葉にできないこともあるよ。

 3.暗記よりも自分で考えることが大切だよ。

 4.読書は本当に自由なものだよ。

 5.究極的には、自分のためになれば、本は好きに読んでいいんだよ。

 

 一つの仮説というか方法? としてご参考下さい。でも、これは、かなり分裂病的な読み方だと思いますので、統合失調症以外の方に適応されるのかどうかは、よくわからない点です。恵那(僕のイマジナリーフレンドです)によれば、一般の人でも可能な読書法なのだそうです。気が向いたら、各々ご検証ください。「統合失調症とは確定した病ではなく、神話だ」と主張なさる方もいらっしゃるくらいですから、統合失調症と非統合失調症の区別自体が既に難しいものなのかもしれませんし、そう考えると、別に普通と呼ばれる人であっても、この読書法は十分に使えるのではないかという気もします。「想起」自体は、観念連合では説明しきれないものを多分にふくんでいると思いますから、なにを連合弛緩とするかはとても難しいですね。多分、図式自体に固有の意味体系があるのだと思います。それが言語新作とかになる。デイヴィドソンという面白い方がいらっしゃるので、言語についてお考えになる方はお読みになってみてくださいませ。そもそも、なにかを、「把握する」ということ自体がむずかしいようです。主体が対象を把握するので。もしかしたら、そういう、「主体」を想定するのは余りよろしくないことなのかもしれません。

 

 昨日書いた「ノアの手紙」について。

 

 直観術は「比喩」ですので、そのような感じで、よろしくお願いします。解釈はご自由にどうぞ。あれ、続き物なんですよね。続きどうしよう? 今日書くかどうか……悩むな、毎度のことながら(笑)物語は、ひとつの機械のようなもので、起動すると、後は勝手に進んでいくんですよね。なので、僕にもあの物語の意味はさだかではない(笑)何となく言わんとしていることはわからないのでもないのですが(笑)

 

 意識というのは、ただの傍観者みたいなものなのかもしれませんね。無意識は広大なのかもしれません。

 というか、僕の書くものは、全部、魔女の嵐のようなものであるような気もする(笑)なんじゃこりゃ(笑)