魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。

学歴術

 学歴って、現代の人間にとっては、非常にセンシティブな話題なんでしょうね。

 

 確かに、学歴を気にする人って、割にいるのかもしれません。

 

 今日は、ちょっと学歴について考えてみます。

 

 学歴とは何か。

 

 これは、学業の経歴です。 

 では、学業とは?

 

 これは勉強をすること。

 

 経歴とは?

 

 これは今まで経験してきた事柄です。

 

 つまり、学歴とは、

 

 「今までにしてきた勉強」のことです。

 

 このように考えると、非常に素朴には、

 

 学歴とはそれまであなたが勉強したことすべてを指示しています。国者数理英はその中のほんの一部を計測するものですね。

 

 実際には外国語は英語だけではありませんし、数学は三角関数だけではありません。無数の言語や無数の関数がこの世界には存在しています。いわゆる高校までの勉強で計測することができるのは、そのうちのほんの一部分だけです。

 

 これは、データとしては非常に偏っていますね。もっとちゃんと学歴を計測しようとするなら、もっと大幅な範囲のテストを偏りなく行わなければなりません。しかし、日本にはお金がありませんので、あまり大々的なテストは行うことは難しいかもしれませんね(笑)

 

 すると、受験なり試験なりというのは、ある程度間違ってはいるけども「必要悪」として受け入れざるを得ないのかもしれません。

 

 いずれにせよ、現在のテスト形態が、未来永劫万全な体制だなどと言うことはまずありえないはずですから、これからも少しずつ、みんなで改善していく余地があるものと思います。

 

 実際、いわゆる「学歴」や「偏差値」のせいで、傷ついている人はいっぱいいるようにも感じられます。

 

 どのような理由があっても、人を傷つけるのは余り生産的な事ではありませんから、学歴や偏差値を崇拝するのは、あまり有効的な手立てとは言えないかもしれません。

 

 あくまで、不完全な指標であることを念頭に置いて、その指標に自分のすべてを委ねるようなことは無いようにするのがいいのではないか、というふうに個人的には思います。

 

 現行の「学歴」が好きな人は、一生懸命受験勉強するのはいいと思うし、好きなことを一生懸命やっているなら、その人は素敵なのだと思います。

 

 しかし、嫌々だったりするのであれば、必ずしも、現行の「学歴」にこだわる必要はないのかもしれません。

 

 そもそもで言えば、その人の今まで経験して学習したことのすべてがその人の「学歴」なのですから。それは出身校だけで決まるものではありませんね。

 

 データなりパラメータを見るときは、部分に囚われず、全体を見通す必要があるかと思います。

 

 ならば、狭い意味での出身校などで決まるいわゆる「学歴」を重視し過ぎるのは、偏りが多く、いささか選抜方式として危険でしょう。部分に囚われず、人間を、全人的にみる必要があるのかと思います。

 

 とは言え、先述した通り、あまり選抜にお金をかけるわけにもいかないのが現状なのだろうと思いますが。

 

 ビジネスなどには、コストの問題が非常に密接にかかわってくると思いますし、人事選抜だけに多大なコストをかけるわけにもいかないのだろうと思います。

 

 そうなると、お手軽なのは、取りあえず、現行の出身校にもとづく「学歴」を使って選抜することなのかもしれません。

 

 悪は悪でも、「必要悪」なのだとすれば、なかなかどうして、学歴社会を否定するのも難しくなってきます。

 

 結論を述べれば、いわゆる出身校にもとづく「学歴」は不完全な尺度だが、人間を選抜するコストが安くて済む方法が他に見つからないので、しょうがないので、「学歴」で人を選抜するしかない、ということになるのかもしれません。

 

 ただ、さきほども書いた通り、学歴が抽出できるデータはその人のほんの一部分なのだと思いますので、一概に学歴だけで、その人間を測ることはできない、というのは恐らく言えることなのではないかと思います。

 

 さて、では、全人的に他人を評価するのと、部分的に他人を評価するのはどちらが得をするかを考えてみましょう。

 

 まず、全人的に他人を評価する場合、これは、対人関係に慎重な態度で臨むことになるかと思います。インスタントにお手軽な手法で人を選抜せず、人を見るのに非常に時間をかけますので、悪い人に騙されたりとかはしづらいかもしれません。また、よく人を見ている分、いい人とつながることができるやもしれません。しかし、仲良くなる人は少数になるかもしれませんね。仲良くなるのも時間がかかるかもしれません。

 

 次に、人を部分的に評価する場合。これは、例えば、学歴なら学歴だけで人を評価したりとか。楽ですよね。社会が作ってくれた学歴という概念にフリーライドしておけば、後は自分で考えなくても、人を選抜することができます。したがって、非常に効率的に他人を選抜していくことが可能となります。ただ、このいわゆる「学歴」は全人的な評価では必ずしもないと思いますので、どうしても判断に偏りが出てくるものと思います。偏った判断では、エラーは避けられません。したがって、全人的に他人を評価する場合に比べると、本当にいい人とつながるのは難しいかもしれません(無論、「善い」などと言う善悪の判断はそれこそインスタントに決めることは不可能だと思いますが)。

 

 そう考えると、判断のエラーを少なくし、こちらの損失を少なくするためには、人を学歴だけでは見ず、全人的にみることが必要になるのではないかと思います。

 

 また、道徳的にも、人間をいわゆる学歴だけで測ってしまった場合、この時その人にとっては、「人間とは学歴であり、学歴とは人間である」ということになってしまいます。これは、人間を、学歴という「物」として扱う行為ですので、あまりよろしくないかもしれません。人間は物ではありませんね。人間は人間ですので。また、道徳も無意味に存在しているというよりも、それを守ることはある程度有効性があるから、今まで残っている面も無きにしも非ずだと思いますので、なかなかバカにできませんよ。道徳はある程度は守っておくのが吉かもしれません。そうじゃないと社会自体回らないし。

 すると、人間を人間として扱う、全人的な評価をする方がお得なのかもしれません。

 

 すると、学歴の定義を次のように変更すれば、上手い手法となり得るかもしれません。

 

 「学歴とは出身校である」

 

 という従来の学歴概念を、

 

 「学歴とは今までにその人の経験し、勉強したことの全てである」

 

 というふうに変更しておくと、人を物扱いしない分、対人関係などで良好な結果がでる可能性も出てきますし、また、偏りの少ない判断となりますので、いろいろな判断におけるエラーが生じづらくなるものと思います。

 

 とは言え、人間の労力は限られており、人間選抜だけで人生を終えるわけにいきませんので、実際には、どの人間の判断も、ある程度偏ったものではあると思います。

 そのうえで、少しでも判断の偏りを減らすにはどうすればいいかを考えていくのがこれからの課題になるかもしれませんね。みんなで考えていきたいところです。

 

 さて、では、これらの「学歴」概念を踏まえ、つぎは、「高学歴」とは何かについて考えてみましょう。

 

 高学歴とは、高度な学歴のことです。

 

 高度とは何か?

 

 これは程度の高いことです。

 

 程度とは?

 

 これは物事の価値を量的に捉えたものです。

 

 つまり、高学歴とは、「その人の持つ経験の量が極めて多いこと」、であると考えられます。

 

 では、経験とは何でしょう?

 

 経験とは、実際に見たり聞いたり行ったりしたこと、です。

 

 つまり、高学歴とは、

 

 「実際に見たり聞いたり行ったりしたことの量が極めて多い人」

 

 このように考えるなら、高学歴とは、いろいろなことに挑戦した量の多い人のことを指すものと考えることができます。

 

 つまり、たくさんの色々なことに挑戦している人が高学歴であると考えることができます。

 

 この場合、挑戦せず、レールに乗っている状態は高学歴とは考えづらくなります。

 

 むしろ、レールから積極的に外れ、色々なことに果敢に挑戦している状態が「高学歴」の状態であると考えられます。

 

 また、これは、部分的な出身校による学歴選抜に比べ、全人的な評価となりますので、判断の妥当性はより高いはずです。

 

 従って、学歴の程度はつぎの指標により測定されます。

 

 学歴の高さ∝挑戦量の多さ(学歴の高さは挑戦量の多さに比例する)

 

 以上のことから、「学歴を高めよう」、という際には、いわゆる受験勉強だけに縛られず、様々な事柄に積極的に挑戦して、経験を積むことが正着打となると言えるかもしれません。

 

 部活動でもいいですし、読書でもいいですし、恋愛でもいいと思いますし、量子力学とか相対性理論とかマルクスとか、高校とか中学のうちに読んでいってもいいと思います。この理屈で言えば、もちろん、受験勉強に挑戦するのも悪いことではありませんね。とにかく何にでも「挑戦」することが正着打となります。

 

 とにかく挑戦し、経験した量が「学歴の高さ」を指示すのではないか、というふうに考えてみました。

 

 気が向いたら、ひとつの意見としてご参考下さい。

 

 

P.S.さて、では、この記事に書かれた「学歴」概念を踏まえ、どうやって、この「いわゆる学歴社会」を渡っていくべきかについて考えてみようと思います。

 まず、今の社会では、「いわゆる出身校による学歴フィルター」なども存在し、かなり「いわゆる出身校による学歴」によって、判定されているのが現状なのかと思います。おそらく、その代償として、ある程度、「いわゆる出身校による偏差値」と「能力」との間にある程度解離が起きつつあるはずです。つまり、能力がきちんと測定されていない可能性が割に高いかもしれません。

 ですので、仮にあなたに能力があったとして、このいわゆる学歴社会においてそれが評価される可能性は、少なくとも100%ではありません(どのような指標も多分に不完全なものですね。科学ですら「八割は間違っている」と主張する人もいます。まして学歴をや)。

 なので、ここでは、ひとまず、社会からの正当な評価は諦め、ひたすらに自分の能力や実力を、高めていくのが正着打ではないかと思います。「名を捨てて実を取る」、的な。

 すべてのものはある意味、資本であるとも言え、トレードオフの関係も大なり小なりあるかと思いますので、あんまり、外面ばかりに気をつけすぎると、中身が薄っぺらになってしまいかねません。

 ですので、外面はほどほどに、(例えば、志望を地元の国立大学くらいにしておくとか。東京大学に行くにしても、受験勉強以外のことをこれでもかとたくさんやるとか)とにかく、実力(挑戦量の多さ)を主眼に養成することがある程度有効かもしれません。

 

 特に、魔術師を志す人には、外面ではなく物事の内実を見ることをお勧めいたします。

 

 例えば、私のこうした意見を見たなら、それを鵜呑みにするのではなく、「この人はどうして、こういう意見を言うのだろう?」とか、「この点の妥当性をもう少し測ってみよう」とか色々と検証してみることをお勧めします。とにかく、情報の外面に囚われず、内実を見る癖を身につけるのが有効かと。それこそ、人や物事を「全人的全体的に評価すること」が有効です。部分に囚われず、ということですね。

 

 学歴の問題は、それなりにデリケートなところでもあるかと思います。書こうかどうか迷ったのですが、結構お悩みの方がいらっしゃるようにも見受けられますので、一応、僕の個人的意見を書くだけ書いておきます。

 

 それこそ、色々な意見や価値観があっていい点かと思いますから、みなさんもできるだけ楽しく、わいわい、いろいろと考えたり話し合ったりしてみてくださいませ。

 

 「挑戦」については、このブログの「失敗術」などの記事も参考になるかもしれませんので、気が向いたら、ブログ内検索などからご参考下さい。

マウンティングについて

 みなさん。こんばんは。

 

 今日はマウンティングのお話から始めて、気分で話題をコロコロ転がします。

 

 マウンティングとは、自分が優秀だと誇示することなのだそうです。

 人間であれば、そういう気持ちは確かにあるかもしれませんね。

 誰にでも、プライドがありますし。

 

 プライドはもちすぎると、厄介ですが、持たなすぎるとそれはそれで厄介かもしれませんね(笑)

 

 高慢すぎてもむずかしいですが、卑屈すぎてもむずかしい。

 

 このように考えてくると、人間関係って、ほんとに面倒くさいですね(笑)

 でも、現実的に、人間関係なしでは生きていけないのもまた、事実なのだろうと思いますので、何とか折り合いをつけて頑張っていきたいところです。

 

 さて、みなさん、マウンティングをする人の心理について考えてみたことありますか?

 僕、あんまり考えたことないんですよね。だから、今日、みなさんと一緒に考えてみようと思います。

 

 まず、自分が優秀であることを示す必要があるというのは、程度問題ですが、基本的にそういう面、ありますよね。

 

 どんなに優秀でも、そのことを多少なりとも相手に伝えないと、仕事や対人関係に一種の損が生じるかもしれません。

 能力があるのに、それを隠蔽するのも、集団全体の労働効率を下げてしまいますよね。

 なので、社会的にも、ある程度、自分の能力や優秀な点について示すことは必要になるのだと思います。

 ですが、それが度を越して、ものすごーく自分の優秀さを誇示しすぎると、それは、マウンティングと呼ばれるみたいです。

 

 つまり、優秀な点を示すこと自体は悪い事ではないのですが、優秀な点を「過度に」誇示しすぎると、問題とされる場合あり、その場合、その行動には、「マウンティング」というラベルが貼られる、ということですね。

 

 個人的には、気にしなければどうということはないのではないかという気もしないでもないですが、世の中では、マウンティングを嫌だと思う人も結構いるのかな、と思います。(なんかネットでよく見かけるんですよね。この言葉)

 

 では、なぜ、過度に自分の優秀な点を誇示しすぎてしまうのかについて考えてみましょう。

 

 まず、優秀な点を誇示すると、その人に何かのメリットがあるのでしょうね。何かの欲求が満たされるのだと思います。

 

 日本だと、食欲とか命にかかわるような欲求は満たされていることも多いように思いますので、すると、もうすこし高次な欲求を満たすために、マウンティングを行うのかもしれません。

 

 例えば、承認されたいという欲求。

 

 つまり、承認されたくて、自分の優秀な点を誇示しすぎてしまう、というふうに単純には考えられますよね。すごく単純ですけど。

 

 あるいは、何かの目的を達成するために、マウンティングしている場合もあるかもしれませんね。

 例えば、何か人目を惹く必要があって、わざと目立つために、マウンティングをしているとか。そういうこともあるかもしれません。

 この場合、承認されたいというよりも、「注目」されたいんでしょうね。商売とかの場合は、この場合であることも多いのかもしれません。つまり、一種の「広告」のために、マウンティングするというパターン。

 商品は自分の思想かもしれませんし、何か具体的なものかもしれませんし、それはわかりませんが。とにかく何かの広告のために注目を集める、ということはあるかもしれません。

 

 つまり、承認されたくてマウンティングするパターンと、何か自分の目的を実現するために、マウンティングするパターンがあるかもしれません。

 

 承認とは何でしょう?

 

 承認の行動を具体的にみてみると、「すごいね」と褒められるとか、そんな感じではないでしょうか。褒めるのが承認。あるいは、共感も承認かもしれませんね。「そうそう、俺もそう思ってた!」とかって共感されると、承認された感じしません? 承認とはこんな感じのものなのだと思います。

 

 では、自分の目的を実現する、というのはどういう行動でしょうか?

 

 この場合、何か、自分の中にある目的のようなものを、実現するための行動ですので、承認自体が目的ではありませんね。むしろ、承認を得るのは、自分の実現するもののための、「手段」となっています。つまり、承認の欲求との違いは、この場合、承認は、「手段」にすぎない、ということですね。目的ではない。

 

 まとめると、つぎのようになります。

 

 1.承認欲求:承認が目的。

 2.自分の実現するものをもとめる欲求:承認が手段。

 

 つまり、マウンティングには、承認が目的のばあいと、承認が手段の場合があると考えられます。

 

 承認が目的である場合には、承認を得ることで、その人の欲求は留まり、そこで満足して行動が留まるとかんがえられます。

 逆に、承認が手段にすぎない場合には、承認を得ても、欲求が留まらないので、その人は行動し続けます。

 

 この点で言うと、承認を目的としている人よりも、承認をひとつの手段としている人のほうが、行動的であると言えるかもしれません。

 

 では、「行動的」とは何でしょうか。

 

 これは、活発な印象を与える言葉ですね。そして、仕事に精力的なイメージもあります。ならば、行動的、という言葉は、概ね、その人にとって、利益になるそれなりに良い状態を指示していると言ってもいいかもしれません。

 

 じゃあ、「行動しない」人については、どのような印象をうけますか?

 

 何か、口先だけで、動かない人という印象がどことなくある気がします。行動的な場合と比べると、あまり、少なくともいわゆる利益はなさそうにも見えます。

 

 ならば、どちらかと言えば、人はある程度は行動的であったほうが、いいものなのかもしれません(そもそもまったく行動せずに生きることもできませんね)。

 

 そういうことですので、この限りにおいては、単に承認を目的とするよりは、承認の向こうにあるものを求めつつ、承認を「一つの手段」と割り切って考える方が、適応的に行動できるのかもしれません。つまり、承認が得られなくても、一種、別に構わないわけですね。他にも手段があるので。

 ただ、承認が目的となってしまう場合には、そうはならなくて、承認自体が「目的」となっていますので、承認を得られないとパニックになってしまったりするかもしれません。そして、そのパニックの症状のひとつを、「マウンティング」と特に呼ぶのかもしれません。

 

 このように考えますと、承認を手段としている人は、マウンティングをすることはあるかもしれませんが、マウンティング以外にも手段を持っていますので、マウンティングに固執することはないでしょう。

 しかし、承認を目的としている人の場合には、マウンティングをしつこく繰り返すであろう、と考えられます。

 

 そして、マウンティングはおそらく、概念として、「しつこさ」をふくんでいるように思われます。別に、自慢したとしても、あまりにしつこい度を越した範囲でなければ、「可愛げ」ということで済むのではないでしょうか。

 

 問題なのは、マウンティングが「あまりにしつこい」ということ。

 

 すると、二種類あるかに見えたマウンティングですが、実は、一種類で、それというのも、承認を目的とする場合のマウンティングが真のマウンティングである、と言えるのかもしれません。

 

 さて、今日のお話をまとめます。

 

 マウンティングとは、たんなる自己誇示(自慢とか)ではなく、「しつこい自己誇示」のことである。つまり、しつこくない自己誇示なら、ある程度正当である。これはマウンティングではない(つまり、自己誇示している人のすべてがマウンティングをしているわけではない。商売や何か別の目的のために自己誇示をしている可能性がある)。

 そして、自己誇示は二種類に分けられる。

 

 1.承認を目的とした自己誇示(マウンティング)

 2.承認を手段とした自己誇示(宣伝、広告)

 

 この場合、前者の自己誇示を特に「マウンティング」と呼ぶ。

 そして、恐らく、行動的なのは、承認を手段とした場合であり、つまり、マウンティングをするのではなく、どちらかと言えば、自分を宣伝したほうが利率が良いのかもしれません(宣伝するからには、なんらかの「ウリ」を持っていなければなりませんが。長所とか能力、資質とか)。

 ですので、承認を求めてマウンティングするよりも、承認を一つの「手段」に過ぎないと捉えて、自分の能力なり資質を伸ばすことに専念したほうが、利率が高いと考えられるかもしれません。

 ですので、マウンティングされたら、それにマウンティングで応じる必要は必ずしもないと思いますので、相手を承認し(マウンティングの目的は承認であると考えられるので)、一方で自分はせっせと能力の研鑽に励めばいい、というふうに思います。面倒臭いと思う事もあるかもしれませんが、承認されたらうれしいということ自体は、おおむね誰でも同じですね。ある程度はお互いさまと思って、あきらめるのが現実的なのではないでしょうか。少なくとも、マウンティングにいらいらし続けるよりは、健康的なのではないかと(笑) マウンティングで足を引っ張り合うのではなく、自己誇示を手段のひとつとして、お互いの能力を少しずつ研鑽していけるといいのかもしれませんね。

 

 マウンティングというか、自尊心の近辺の問題は、非常にセンシティブな領域かと思いますので、みなさん、各々考えるところおありかと思います。皆さんも、気が向いたら、ご自由に色々と想像してみてくださいませ。

 

 分析は魔術の手法の基本となるものかと思いますので、気になったこととかあったら、積極的に分析してみるのも、魔術修業にはいいかもしれません。

愛と欲望について

 みなさん。こんばんは。

 

 今日もつらつらと思ったことを書いていきますね。

 

 立法について。

 

 立法っていうと、何だと思いますか? これは、法を立てることです。

 つまり、法則を設定することですね。

 世の中には色々な法則が設定されていて、みんなその中で生活しています。

 法則は、それぞれみんな違う人同士がいっしょに暮していくためには、今のところ、ある程度有効ですね。

 そんなわけで、僕たちの生活は、様々な法則によって、プログラムされています。良きにせよ悪きにせよ。

 では、法則というものはどのようにプログラムされているのか。

 まず、すべてのものに因果律が成立すると仮定してみましょう。

 この場合、ある法則Aの原因は法則Bです。法則Bの原因は法則C……というふうに延々と続いていきます。

 だから、あるプログラムには、あるプログラムが生まれた原因となるプログラムがあって、そのプログラムにもまた原因があって、またまたそのプログラムにもまた原因が……

 というふうにきりがないわけです。

 それで、この切りのない原因探求の最終的な目的地を「極限」と呼びましょう。

 そして、原因探求の先端部分を、そのまま「先端」と呼びましょう。

 

 これはちょっとわかりづらいかもしれませんね。

 

 原因が

 

 123456……

 と並んでいますよね。

 これは、無限の列なので、最終的には、極限に至るのですが、先端は6です。

 

 この無限の原因の列を、

 12345678.……

 

 と8まで数えたら、先端は8です。そして、さっきと同じように、最終的には、極限に至ります。

 このように最終的な極限と、列の先端を区別してみましょう。

 

 このように考えると、有限である先端と、無限である極限のあいだには、越えがたい断絶があるのがお分かりになるでしょうか。

 

 つまり、どんなに一生懸命先端を伸ばして数えて行っても、永久に極限に到達しないわけです。これは、有限と無限のあいだにある壁ともいえるかもしれません。

 

 そして、その壁をポンと越えると極限(無限)の世界に、あるいは、反対側からポンと越えて戻ってくると先端(有限)の世界にやってくるわけです。

 

 この壁を乗り越える作業を、「超越」と呼びましょう。

 

 すると、この世界には、有限の世界と、無限の世界があるわけですが、その間に横たわる壁をよいしょと乗り越えることができるわけです。

 

 もちろん、人間には個人差がありますので、有限の世界に留まる人と無限の世界へと超越する人と大きく二種類の人がいるでしょう。

 

 どちらの人間も何らかの欲を抱えて、立法されたプログラムの中で、折り合いをつけているというのは同じなのですが、超越した人と超越しない人とでは、この欲の性質も違ってきます。

 

 有限の欲を、「欲求」と呼びましょう。

 無限の欲を、「欲望」と呼びましょう。

 

 有限の欲求は、有限の世界のものなので、有限の原因を持っています。

 無限の欲望は、無限の世界のものなので、無限の原因を持っています。

 

 それで、わたしたちは、どう頑張っても、超越した無限の原因を書ききることはできませんね。無限の原因を見えるように表現することができないです。

 

 ただ、有限の原因なら、ある程度、見えるように表現することができます。

 

 でも、有限の原因は、先端をいくらでも数えていくらでも伸ばしていくことができますね。だから、いくらでも「可視化」していくことができます。だけど、どんなに欲求の先端を数えあげて行っても、無限の原因である欲望には到達しません。

 

 だから、どんなに欲求を満たしても、欲望に到達することはなく、そこには壁があるように思われます。

 

 欲求は表現できますが、欲望は完璧には(少なくとも論理的には)表現できないわけですね。

 

 その見えないもの(超越)を見よう(数えよう)とすることを、ここでは、可視化と表現しました。

 

 すると、ここには一つの錯覚が生じ得ますね。

 

 つまり、「ずっと原因を数えていけば、超越が見えるようになる」という錯覚。

 

 例えば、「ずっとデータを収集すれば、やがて最終的な目的地が見えるようになる」(統計)、という錯覚です。

 

 でも、これは、先述の通り、論理的にはあり得ないだろうと個人的には思います。

 

 どんなに欲求を叶えても、欲望は叶わない。

 

 例えば、性欲なら、性器をいくら刺激しても(これは見える欲なので、欲求ですね)、欲望(超越世界の欲です。無限の欲ですね)は満たされないであろう、ということになります。

 

 このように考えると、欲望を否定したくなりませんか? そんな無限だの極限だのなんてものは存在しない、って感じに。実際そうした人も出てくるかもしれません。

 

 すると、ここでもまた、大きく二種類の人に分かれますね。

 

 欲求側の人間と、欲望側の人間。

 

 欲求の人間は、データベース(見えるもの、有限)を作って、統計(可視化)的に欲を充足していきます。欲望の人間は、超越(見えないもの、無限)によって欲望を充足させていきます。

 

 実際には、無限(見えないもの)の概念も数学などで使われており、有効性はあるのですが、それでも、見えないものは否定したくなる人も、もしかしたらいるかもしれません。

 

 見えないのにあるんだ、と言われてみなさん信用できます?(笑)(こうした、見えないのにあるものを「幽霊」と呼ぶこともありますね。端的に「霊」とか。だから、霊はいると思うんですよね。どうなのか。悩ましいところです)

 

 それで、その行動原理や、立法のプログラムが「見える」のは、人間が欲求で動く場合です。欲望で動く場合には、プログラムでは考察できません。

 

 その意味で言えば、人間性、人間味? があるのは欲望で動く人間かもしれません。欲求で動く人間は、立法によってプログラムされることになります。

 

 ですので、欲求を満たす方法、というのはあり得ますが、欲望を満たす「方法」というものはないかもしれません。欲望は方法(プログラム)的でない。むしろ、脱方法(超越)的。クリエイティブというか、創造的な領野ですね。

 

 ですので、人間を創造的に進化、発展させるものとは、欲求というよりも欲望であると言えるかもしれません。

 

 それで、他者の欲望を欲望することを、「愛」と呼びます。つまり、他者に自分を欲望して欲しい、という気持。

 

 これが、他者の欲求を欲求すること、というふうになると、これは「性欲だけの関係」と呼ばれる状態ですね。つまり、愛のないセックス。無限に相手を欲しているのではなく、あくまで有限に条件付きで相手を欲している状態(体目当てとか、お金目当てとか色々ですね)。

 

 それで、人間を創造的に発展させるものは、どちらかと言えば、性欲求よりも「愛」の方ですね。論理的には。

 

 そのように考えると、ひとまず、みなさんにおすすめなのは、性欲を満たすことではなく、「愛」を持つことである、というふうに言えるかもしれません。

 

 そうした利害の関係ない利他性が人間の利益を最適化するものと思われます。

 

僕の好きな君 その君が好きな僕

そうやっていつしか僕は僕を大切に思えたよ(nightcore,『me me she』より引用)(RADWIMPSの曲) 

 

 

 お世話になった、参考にした文献

 東浩紀,『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会』

 東浩紀,『ゲーム的リアリズムの誕生――動物化するポストモダン2』

ナルシストの長所

 さて、今日は、ナルシストの機能について書きます。

 

 みなさん、ナルシストというと、どんな人を想像しますか?

 

 鼻もちならない人でしょうか。傲慢で自分勝手でしょうか。

 

 確かに、ナルシストは、ある種、鼻持ちならない人かもしれません。 

 僕は、ナルシストの善悪については判断しないでおきます。なぜなら、善悪は、論理的に決定できないからです。

 

 ですので、ここでは、ナルシストによって、何を得られると考えられるかを書きます。つまり、ナルシストの機能についての考察です。

 

 ここでは、ナルシストを、取りあえず、自己愛性パーソナリティ障害の人として考えてみます。

  

 ナルシストには、次のような機能が備わっています。

 

 

 ナルシストの持つ能力

 

 1.自分は重要であると信じる能力。

 2.理想を追求する能力。

 3.自分の特別性、唯一無二性を信じる能力。 

 4.大量の賛美を求める能力。

 5.自分の持つ権利を強く主張する能力。

 6.強く自分の目的を達成しようとする能力。

 7.周囲の反応に囚われない能力。

 8.嫉妬し、理想の追及へと向かう能力。また、他人の持つ嫉妬の感情を見抜く能力。

 9.周囲に対し、自信のある態度を示すことのできる能力。

 

 

 ナルシストには、これらの能力が備わっています。

 

 では、これらの能力がどのような機能を果たすかを順に見ていきましょう。

 

 まず、現代社会にある問題を簡単に列挙してみましょう。

 

 

 社会の問題点

 

 1.人間が代替可能な商品として扱われること(貧困問題を抱えた資本主義)。

 2.絶望があること。理想をうまく持てないこと。

 3.自分が社会の歯車の一つにすぎず、代わりはいくらでもいるという虚無感。

 4.自己卑下。

 5.自分の果たした役割への対価を求められないこと(ブラック企業、泣き寝入り)。

 6.自分の目的を設定し、追及できないこと。

 7.付和雷同して、物事の本質を見失うこと。

 8.ハングリー精神がない。他人に攻撃(嫉妬)されても自分を責めてしまう。

 9.自信のある態度を周囲に示すことができず、他人の信用を集められない。

 

 

 さて、これらの問題は、先の自己愛性パーソナリティの能力によって、ある程度、解消することができますね。

 

 まず、人間を、物扱いさせないためには、自信を持つ必要があります。自分で自分を物扱いしてしまったら、本当に物扱いされてしまいますね。この点、ナルシストは、非常に有効です。自分は特別な存在であると信じることができますので、人間を物扱いする社会を打破するのに大なり小なり役立つでしょう。

 また、様々な事情で絶望する人たちが多い中で、自分の理想を追求できることは非常に重要な資質となります。ナルシストのそうした強い資質は、付和雷同の機能を通じて、人々に、理想を伝染させる働きを持つでしょう。

 自己卑下する人はたくさんいますが、ナルシストの自信のある態度は、ある程度、彼らにも普及するでしょう。そのようにして、自信のある人が増えれば、社会も、他人のことを物扱いする確率を減らさざるを得ないでしょう。

 すると、自分を安売りする人が減り、ブラック企業などの存立も難しくなるでしょう。人々が、自身に見合う対価を、自信のある態度を示しつつ、要求する勇気を持つことができれば、企業は大なり小なりホワイト化する確率が高いでしょう。

 ナルシストは、目的や理想を強く追及していきますので、目的や理想を持てずに、悩んでいる人には、なんらかの模範を示すことができ得るでしょう。

 そして、彼らは、嫉妬できますので、その能力を有効に生かすことができれば、どこまでも、自分の理想を追求していくことのできる資質を発現することができるでしょう。また、攻撃されても、相手の嫉妬の感情のせいにすることによって、自身の理想を強く貫くことができるでしょう。

 自信のない人に、人はついて行きづらいかと思います。自信のある人は魅力的ですね。ですので、彼らには、ある種のカリスマ的な資質があり、人々に対し、大きな影響をおよぼす力があるでしょう。彼らの理想は、一般の場合よりも、強く周囲に伝染せることができるでしょう。

 

 このように、ナルシストには、非常に有効な機能が多くあります。

 

 しかし、如何せん、上記の通り、彼らには、社会を変革する力が備わっていますので、既得権益を持つ人たちとしては、ナルシストを放置するわけにはいきませんね。ナルシストたちの、「理想」によって、自分たちの権益が奪われてしまうからです。だから、何とかして、ナルシストたちをバカにして、自分たちが正しいと強く周囲の人々(国民)に主張することで、彼らを抑圧しなければなりません。

 

 ですので、ナルシストをバカにするために、次のような蔑称(スティグマ)を彼らにつけることにします。

 

 自己愛性パーソナリティ障害

 

 つまり、ナルシストたちは、障害者であり、健常な人間ではないというレッテルを貼ることによって、既得権益者たちは自分たちの利益を守ることができると考えられます。

 

 だから、何とかして、既得権益を持つ人たちは、ナルシストをバカにしなければなりません。

 

 例えば、

 

 自己愛性パーソナリティ「障害」の人は、「表面上」魅力的である。しかし、ついていくと、ぼろぼろに利用されて、捨てられる。

 

 と言えばどうでしょうか。

 

 さて、この中には、主に二つの論法が含まれています。ひとつは、既に、説明した通り、「障害者」として扱うスティグマ論法です。これにより、彼らの人望を有効に削ぐことができます。ふたつめに使われているのは、「表面上」という論法です。これは、ナルシストの持つ魅力の価値を削減させる効果を持ちます。彼らは確かに魅力を持っているのですが、それを何とか否定しないといけない。しかし、ナルシストが魅力を持っているという事実自体は変えられない。であれば、その魅力は、「表面上」のものに過ぎない、というふうにレッテルを貼ってしまえばいいわけです。そうすることによって、ナルシストの理想追求的「革命」的素質を、削ぐことができるわけです。みなさんも、誰かの何かを、否定したい時などは、彼らの利点の前に、「表面上」という言葉をつけてみてください。どんなものでもバカにすることができます(笑)。例えば、頭いい人がいて、悔しいな、と思ったら、「表面上頭がいい」と言ってみてください(笑)簡単ですね。この「表面上」という言葉は、魔法の言葉で、どんな価値あるものも否定することができます。呪いの一種ですね。自分より優れていて気にくわない人がいたら、ぜひお試しあれ。例えば、他にも、「表面上美人」とかありますね。この概念操作は、「雰囲気美人」とか、「オタサーの姫」とか、色々な概念に現れています。つまり、「本当は美人ではないけど表面上だけの美人だ」、というふうにレッテルを貼ることによって、美人の価値を失墜させることができるわけです。非常に、シンプルというか、原始的な呪いですが、何か気に食わないことがあったときは、試してみてください(笑)

 今日は、「表面上」という呪文を一つ紹介いたしました。相手の価値を手軽に失墜させたい時は使うのも手かもしれません。逆に、誰かが、表面上と使っていたら、ああ、この人は誰かの価値を失墜させたいんだな、と考えることができる、というふうなお話でした。

 

 ナルシストに限らず、バカにされているものがあったら、「どうしてバカにされてるんだろう?」とその原因を考えてみると面白いと思います。すると、色々なことが見えてきて、結構楽しいですよ。

 

 気が向いたら、戯れに、人間観察をしてみるのもおもしろいかもしれません。

 

 僕にも、ナルシストが善いことなのか、悪いことなのかは、正直分かりません。ただ、彼らの特質にも有効性はあるよ、というお話は一応しておきます。彼らも意味あって、この世界に存在しているわけですね。自然には無駄なものはひとつもありません。

 

 今日は、ナルシストの機能について書いておきました。みなさんも悪口の機能とか、マウンティングの機能とか、色々な機能について考えてみると、とてもおもしろいと思いますので、気が向いたら、お試しあれ。

 

 悪口言われたら、「どうして、この人は悪口を言わなければならなかったのだろう?」といろいろと考えてみるとおもしろいですよ(このように、視点をずらすことができると、悪口による傷つきも減らすことができるかもしれません。何よりもあなたの心を守ることに集中してください。それが一番大切なものなのですから)。悪口のすべてが嫉妬なわけではありませんが、嫉妬は人間にとって普遍的な感情であり、大体、大なり小なり混入していますので、その辺りも観察していけると、おもしろい研究結果が得られるかもしれません。

 

 ナルシストたちのおかげで、社会のバランスが保たれている側面もあるわけです。そう考えると、ナルシストたちがある種の魅力や能力を有しているのも、あながち偶然ではないのかもしれませんね。ナルシストは、いわば、「花」ですね。花はうまくいけば、やがて、実をつけるものと思います。その時、彼らはもうナルシストとは呼ばれないかもしれません。賞賛なしに、くつろぎながら「独りでいられる能力」を獲得するわけですね。そういう経路をたどるナルシストもいるかもしれません。もしかしたら、そうしたら、彼らはやがて家庭や子供を持つこともあるのかもしれません。父や母になって、「普通」の家庭と呼ばれる状態へと突入することも。それは僕にも分かりませんが。魅力や美というのはそもそも、文化や国によっても違うものですから、いろいろだと思うのですが、そのあたりのことについても考察してみたらおもしろいですね。要は、その文化において、大なり小なり美と認定されるものが美なのだと思います(「真実の美」というべきものも存在するのかもしれませんが。芸術の場合はこちらの問題なので、論理だけで考察するのは難しいかもしれませんね。それこそ、「真実の美」を作るのは「神」なのかもしれませんから、僕にはわからない(笑))。ナルシストには長所だけでなく、短所もいっぱいあるのですが、それはどんな人間でも同じですね。短所については、ネットに山ほどか書かれていますので、ここであえて触れることはしません(ネットは悪口の山ですからね。きっと悪口の天才がいるのだと思います。それはそれですごい才能ですね)。今日は、ナルシストのお話でした。

 

 

 

 

 ではでは~♪

 

 

魔術の基本用語集100(私説)

 魔術の基礎知識? というか、基礎単語? について書きます。ご興味のある方は、調べてみるのもおもしろいかもしれません。

 

 1.懐疑

 2.始めに言葉ありき

 3.精神分析

 4.アンチ・オイディプス

 5.連続/非連続

 6.粋

 7.シンクロニシティ

 8.光速と科学の持つ前提(ドクサ)

 9.資本

 10.性欲

 11.多重知能

 12.自由

 13.共感

 14.認知的不協和

 15.妄想

 16.人格

 17.防衛機制

 18.有性生殖のパラドックス

 19.嫉妬

 20.傲慢

 21.存在と無

 22.色好み

 23.時間

 24.霊

 25.タブラ・ラーサ

 26.生成文法

 27.遺伝と環境

 29.偶然と必然

 30.魂

 31.トランス状態

 32.クリエイティブエラー

 33.概念

 34.統計と占い

 35.第一運動と反動(ニーチェ

 36.超人とルサンチマン

 37.無条件の肯定的関心

 38.心と身体

 39.二元論と一元論

 40.美的判断

 41.肯定と否定

 42.因果律

 43.連想

 44.芸術

 45.虚構と才能

 46.嘘と知能

 47.道徳

 48.根拠

 49.サディズム/マゾヒズム

 50.五感(音、色、匂い、触感、味)

 51.感覚

 52.感情と理性

 53.認知閾

 54.排除と包摂

 55.外国と自国

 56.グローバルと多様性

 57.効率とセキュリティ

 58.第六感

 59.直感/直観

 60.論理と非論理

 61.言動の動機

 62.戦略

 63.真実

 64.事実と解釈

 65.意味と有効

 66.快楽と苦痛

 67.マシュマロ実験

 68.自由と自律

 69.短期的視野と長期的視野

 70.運命

 71.恋と愛

 72.進化と逆行

 73.個人と共同体

 74.男性性/女性性

 75.アンドロギュノス

 76.n個の性

 77.ジェンダー

 78.勧善懲悪

 79.単純と複雑

 80.神経症と精神病

 81.幻覚

 82.比喩

 83.胡蝶の夢

 84.計算

 85.プログラム

 86.自由意志

 87.完璧主義の問題点

 88.道徳療法

 89.悪意とユーモア

 90.ポリグロット

 91.万能

 92.適応と適応力

 93.タイムリミットと判断

 94.貧困と能力養成

 95.効率と心

 96.人間

 97.定義

 98.ただ一つ確かなことは、確かなものは何もないということだ。

 99.速断(焦り)と詐欺

 100.諸行無常

 

 

 以上、一応、100単語書いてみました。何かの参考になれば幸いです。

 

 

 P.S.いよいよ寒くなってきましたね。僕は毎日ランニングをしているのですが、寒くなって来て、ランニングがすこしつらい(笑) 

 ネットを見ていると、「魔法使いになりたいけど、何から手を付けていいかわからない」という意見がちらほら。

 大変ですよね。「魔法使いになりたい!」なんて言ったら、普通は、「は?(笑)」となるのではないでしょうか。情報もそんなにないと思います。多分、人によって、色々だと思いますしね。方法って。自由でいいと思います。基本は。

 上に書いた色々な単語は、本とかネットとかで調べてみて、自分なりに論理を組み立てて、つなげて考えてみるといいのではないかと思います。上の項目を、自分なりにすべて関連づけて、ひとつの体系を作ってみてください。すると、あなたの魔術体系ができてくるのではないかと思います。もちろん、ここに書いた語彙など、全く無視してくださっても構わないのですが。僕の魔術に興味のある方は、戯れにいろいろと考えたり調べてみるのも、ひとつの手ではあるかもしれません。

 そのうち、魔術師の参考文献みたいなの上げるのも面白そうですね。機会があれば、そういうこともするかもしれません。

 

 

 アクセス解析を見ていると、やはり『乱躁滅裂ガール』の検索数が多いみたいです。みなさん、エロいですな(笑)。

 これからも、そのあり余る精力で、楽しく人生を生きていってくださいませ。

 乱躁滅裂ガールは、捉えようによっては、別段エロくないのかもしれませんが(笑) そこは、色々な捉え方があっていいところかと思います。みなさんも気が向いたら、ご自由に考えてみてくださいませ。

 僕はモテないですので、こういうことはもっと詳しい方に御聞きになるのがいいかと思いますよ。

 

 みなさん、良い性の営みを♪(笑)

 

 

 

傲慢について

 こんばんは。

 

 さてはて。

 

 今日は何を書きましょう。

 

 書くこと書きながら考えてるので、どういうふうになるかはわかりませんが、取りあえず今日もファイト一発でなんか書いてみましょう。

 

 人間の行動の仕方って、概ね二つに分けて考えることができるやもしれません。

 

 一、私は善い。ゆえにあなたは悪い。

 ニ、あなたは悪い。ゆえに私は善い。

 

 みなさんは、どちら派でしょうか?

 

 僕はおそらく、二なのですが、一を目指しています。

 

 それにしても、一はなにやら、傲慢に見えますよね(笑)

 

 実際、傲慢なのかもしれません。

 

 でも、僕は次のような理由から、一の方にあこがれを持ちます。

 

 というのも、一の方が、能動的じゃないですか。

 

 二の方は、自分の判断の基準が他者にあるんですよね。「あなたが悪いから、私が善い」っていうのはそういうことですよね。これは、他律ですよ。多分。

 

 それで、僕は能動的なのが好きなので、一の方が好きなわけです。「私が善いから、あなたは悪い」っていうのは判断の基準が自分にあるのではないかなあ、と思うのです。つまり、自律しているのではないかと。

 

 では、他律だと何が起こってくるのかを少し見てみましょう。

 

 まず、この場合、自己を肯定するためには、かならず、相手を否定する必要があるわけです。相手が悪い、というのがないと、自分が善いってならないのが、二の場合なので。

 

 ですので、このタイプの人は、基本的に、「敵」を必要とします。つまり、自分を肯定するために、「根拠」が必要になるわけですね。なんらかの他者が必要になります。

 

 そういう事ですので、なんらかの他者を見つけては、その人を攻撃することで、自尊心を保ちます。あるいは、自分の自尊心が傷つけられた場合、その対象を敵として認定することで、自尊心を保ちます。

 

 一方で、一の場合、つまり、自律的な自信、根拠のない自信を持っている場合は、これとは事情が異なってきます。

 なぜなら、根拠なく自信を持つことができるので、誰も否定する必要がないのです。

 ですので、この場合の人の、自尊心は、自律的で、自分である程度コントロールできるであろうと推定されます。

 

 つまり、一見、一の方が傲慢に見えるのですが、いわゆる傲慢というのは二の方をさすのかもしれません。

 

 なぜなら、傲慢というのは、概ね、現代においては、自己愛性パーソナリティ障害のような意味でつかわれるのだと思いますので、それにのっとって考えますと、これには、「傷つきやすい自己愛」という特質があると思うのですが、傷つきやすい自己愛を抱いているのは、むしろ、二の方ですね。つまり、他律です。一の方は、なんら根拠のない自信なので、逆に言えば、いかなる根拠によっても傷付けられることがないからです。したがって、この意味で言えば、傲慢なのは、自己を肯定するために他者への否定に駆り立てられる二の方であろう、と言うことはできます。

 

 このように、「傲慢」という概念も一筋縄ではいかなくて、何が傲慢かはその時によって、異なってくるものと思います。また、人によっても違うでしょう。

 

 一が傲慢だと思う人もいれば、二が傲慢だと思う人もいるのだと思います。

 

 そして、たぶん、それらの判断には、厳密には優劣はない。

 

 いうなれば、何が傲慢であるかを判定することが傲慢なのかもしれません。

 

 そして、この判断もおそらく、理屈によってくつがえすことは可能でしょう。

 

 例えば、「そんな事を言っても、実践的には何かを決めなければならない」と言われれば、そのとおりです、としか僕には答えることができないのです。

 

 この傲慢についての判定を僕は相対化しているのですから、それならば自分の判断もまた、相対化されなければなりません。

 

 つまり、一の意見も二の意見も絶対ではないように、僕の意見も絶対ではない。

 

 すべては、相対的であるからです。

 

 そのうえで、僕たちは生きるために判断し、尚且つ、多様性をある程度守りつつ、実践的に生きていかねばなりません。

 

 そのように考えると、どうも誰のことも否定できなくなってしまうのです。困ったことに。

 

 すべての物事に有効性があり、僕の目には「優劣」が見えないのです。

 

 そんなこんなで、僕はいろんなことを判断するのがとても難しいという思いにとらわれております(笑)

 

 というか、一の人も二の人も、それなりに仲良くできればそれが一番いいな、と個人的には思っています。少なくとも、仲良くは出来なくても、血で血を洗うことにならなければいいのではないかと(笑)

 

 傲慢概念ひとつとっても非常に難しいですから、これからも色々と試行錯誤していく必要があるな、と思っています。

 

 今日お話したことにご興味のおありの方は、ドゥルーズの『ニーチェと哲学』という本が、色々と考える際に、助けになるかもしれません。

 

 ご興味のおありの方は、この機会に読んでみてくださいませ。

 

 もともと人間には楽観的な認知のバイアスがあるようで、こういう性質は、うまくいけば、一に近いかもしれませんね。

 

 僕も極力楽観的であれるように精進したいです。おそらく、この世界を生きていくために、必要なものなのでしょうね。バイアスというと悪いイメージが専らなので、不思議な感じがします。

 

 多分、一の方は結構難しいのかな、と思います。むしろ、現状を見ると、人間にとっては、二の方が根本的であるくらいかもしれません(笑)

 

 だから、僕の目指している一は、机上の空論に過ぎないのかもしれませんが、それでも、自律した存在を目指していくのは無意味ではないと、とりあえず信じています(超不安ですけど(笑))。

 

 みなさんも気が向いたら、一を目指してみてくださいね。二でもいいですけど(笑)。魔術師(見習い)としては、自分から始めるものとしての、自律、つまり、「自由」ですね。これに夢を託したいな、と思っています。

 

 ではでは~☆

 

 

援助の不可能性について、あるいは「それでも援助を行う」ということなどについて

 みなさん。お久しぶりです。

 

 今日はまず、「援助」について書いていきたいと思います。

 

 援助はどういう意味でしょうね。

 

 これは、単純に言えば、「人などを助けること」という意味になるのかもしれません。

 

 では、助けるとはどういう意味でしょう?

 

 おそらくは、相手を幸福にすることなのでしょうね。

 

 でも、幸福は定義がむずかしくて、ケースバイケースになりますので、助ける手法もケースバイケースになることが予想されてきます。

 

 そもそも、そこに、助けるための、「一般的手法」なるものが存在するのかも、僕にはよくわからないです。

 

 多分、無いのかなあ、と漠然とは思うのですが。

 もしも、何か目途などありましたら、そのお考え、ネットにアップしてくださるとうれしいです。

 

 ですので、少なくとも言えるのは、完璧な援助は不可能であるということ。すると、援助はすべて、不完全な援助であるということ。不完全であるという意味で言えば、それは「援助」と厳密には呼び得る代物ではないこと。

 

 つまり、援助が不可能であるということ。

 

 すると、援助は不可能なのだと思うのですが、現実的には、何らかの援助に向けた方策は社会というか国家において、採られているようですね。

 

 生活保護とか障害者雇用とか、こういうのは、援助には厳密にはなり得ないのですが、援助に向けた行動ではあるのかと思います。

 

 こういうのは、社会体制以外にも結構色々あるようで、例えば、身近なところで言えば、家族が援助に向けた行動になっているケースも中にはあるようです(家族が援助に向けた行動にならないケースも多くあるものと思います)。

 

 それで、それらは援助になり損ねた、援助になり得ない、「仮初の援助」なのですが、それでも、有効性はありますね。

 

 厳密な援助ではないですが、少なくとも、仮の援助にはなり得るのかもしれません。

 

 それで、あらゆる仮の援助は万能ではないでしょうので(なにせ仮のものですので)、その援助からはかならず取りこぼされる人たちがでてきます。

 

 人間はいつ病気になるか分かりませんし、例えば、交通事故にあわないとも言えませんので、お互に仮初であっても援助しあうことは、十分とは言わないまでも、それなりに有効性を持つものと思います。

 

 そういうことですので、援助は不可能なのですが、その不可能に向けて行動することには有効性がある、と言えるのではないかと思います。

 

 不可能なのを承知で、それに向けた行動を取るというのは、表面だけを見ると、無意味な行動に見えますが、それでも、何らかの有効性は持ち得るのだと思います。

 

 ですので、援助が不可能であるから援助に向けた行動をしなくてもいい、という論法は成立しないのではないかなあ、と僕は思うこともあります。みんな、不可能なのは、承知のうえで、それでも行動しているという節があるのではないかな、と個人的に思います。

 

 なので、誰かを援助する意志などがおありの方は、援助は不可能であっても、それらの行動や意志がまったく無意味であるということにはならないのではないかな、と思います。

 

 とはいえ、援助に向けた行動によって、自分が崩壊してしまうのも危ないかもしれませんので、自分のペースで援助を行っていくのが現実的なのかな、と思います。無理はなさらない方が、場合によっては、いいかもしれません。

 

 まとめると、不可能にあえて挑戦することは無効ではなく有効である、と言えるかもしれません。

 

 さて、次。

 

 そうですね。

 

 「精神分析」、という言葉について。

 

 難しい立ち位置の言葉ですよね。人によっては、何かひねくれた感じの概念というふうに感じる方もいらっしゃるかもしれません。

 もしかしたら、そういう実感はあながち間違っていないのかもしれませんが(笑)

 確かに、精神分析、という言葉とかその周辺って、ちょっと性格悪い的な感じは無きにしも非ずな気が。

 でも、フロイトにせよ、クリステヴァにせよ、どちらもすごい思想家の方だな、と個人的には思いますので、その延長で、精神分析も、僕は嫌いじゃないですね。けっこうそういうことについて考えたりするのも好きかもしれません。

 つまり、僕は性格がひねくれているということなのかな(笑) そうかもしれませんね。気をつけないと。

 でも、精神分析という言葉には、人の心を切開するというか、悪く言えば「抉る」ようなところはあるかもしれませんので、その辺が割に多くの人に嫌悪感を与えてしまったりはするのかもしれません。なので、精神分析の言明にある程度気をつけたり、注意をするという行動指針もそれなりに有効なのかもしれませんね。言論の自由とのバランスがむずかしいところですが、あまり抑制せず、なおかつ他人をあまり傷付けず、無難な中間を取っていけるといいな、と個人的には思っています。

 

 バランスについて。

 

 真に「中間」を取るためには、「過剰」と「バランス」の中間も取らないといけないですね。ですので、時には過剰になることも必要なのかもしれません。色々な過剰があると思います。政治的過剰。経済的過剰。文化的過剰。性的過剰。食欲の過剰。睡眠の過剰……何でもありですね。いろいろな過剰があります。そして、ケースバイケースにせよ、それらの過剰が、人生のある時期において必要になることはあるのだと思います。そして、結局のところ、それらの過剰を、厳密な意味で断罪できる人はいないし、僕はそれはそれでいいのだと思っています。

 

 自殺について。

 

 僕も考えることよくあります。僕の絶望は世の絶望と呼ばれているものに比べると、底の浅いものに過ぎないかもしれませんが。

 なんというか、自殺のことを考えたり、ありもしない妄想について考えると、仮初ですが、気が休まるのです。自殺を考えるのも、妄想を考えるのも、あるいは人間という生物に備わった生きるための機能なのかもしれません。多分、一概に悪い、と言い切れるようなものではないのだろうな、くらいには思っています。とは言え、本当に自殺されると、僕としてはかなり悲しくなってしまいますが(笑)

 自殺について考えるのは悪いことではないのだろうと思います。かといって、辛い思いをしている人に対して、「生きろ」ともあまり強くは言えませんし。そもそも、僕も自殺を考えることはありますし。すごく難しいです。

 ただ、自殺してしまった人に対して、「甘えだ」とか「脆弱だ」とか言うのは、少し違うのではないかと思うことはあります。

 また、統合失調症だとか境界例だとかの自殺率は非常に高く、「死にたい」と言っている人が、実際に自殺する確率も、高いのだと思います。その意味では、自殺への意志の表明に対して、罵詈雑言を向けるのも、何か違うかもしれません。その人がその意志を表明しているのなら、かなりきつい状態であるケースも多いのではないかと思います。

 

 童貞/処女について。

 

 個人的には、必ずしもわるいことではないのではないかと思っています。

 それこそ、精神分析の一説では、セックスではなくオナニーを一次的な性行動として考えるものまであったと思いますし。つまり、オナニーはセックスの代用ではない、という考えですね。そういうのもあるようです。この場合、セックスなり恋愛なりは、趣味のひとつとして考えられるようです。趣味は人それぞれですので、みんな好きなことをすればいいと個人的には思います。

 ただ、人口は、適切に生存権を担保されている環境なら、富を生み出すかなり確実な資本のひとつだと思いますので、セックスおよび生殖がしたいと思う方は、積極的にセックスして子作りをするのも、生き方のひとつとしてありかもしれません。逆に、そういうことに関心がないのであれば、哲学でもアニメでもなんでもいいので、そういったものを深めて、自分の意見なり立場なりを表明していくのもひとつの態度としてありかもしれません。そのどちらもをやってもいいと思いますし、どちらもやらないで別のことをしていてもいいと思います。好きなことをやるのが一番大切なのかもしれません。

 

 出会いについて。

 

 謎ですね。偶然の賜物ではないでしょうか。出会わないと思っていても出会うこともあるかもしれませんし、出会うと思っていても出会わないこともあるかもしれません。縁の問題なんでしょうね。「縁」は不思議な概念ですね。いつどんなところでつながっているか分かりません。「あなた」とご縁があるといいですね。

 

 文脈について。

 

 これは何なのでしょうね。難しいです。これも、「縁」のひとつなのかもしれません。単語と単語の間にある縁のことを「文脈」と呼ぶのかもしれません。すると、「文脈」も不可思議なものなのかもしれませんね。

 ある場合には、「単語を創造する」、ことも必要なのかもしれません。概念の創造ですね。ある意味で、既存の「文脈」の無視になってしまいますが。「注目」が有効な機能を持つのと同じように、「無視」もまた有効な機能を持つのかもしれませんね。世の中にはなかなかどうして、無意味なものや役に立たないものというのを見つけるのがたいへんです。見たところ、全部有効性がありますからね。何かしら。

 

 

P.S.さてさて。

 

 何があるかわからない世の中ですが、ぼちぼちやっていけるといいですね。最近はすごく寒くなってきましたね。

 みなさんも寒さにはご用心くださいませ。

 僕は寒さに弱いからな(笑)

 気をつけないと。

 本当に寒いな(笑)