魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。

文化術

みなさん、こんばんは。

 

今日は、「文化」とは何か、について考えてみます。

 

文化とは何か?

 

文化とは「心のはたらきとその結果できてきたもの」のことです。

 

つまり、文化の原因は何か。

 

それは「心」です。

 

心のはたらきと、そのはたらきの結果できてきたもの、が「文化」と呼ばれるようですから、そのどちらも、生成の原因は「心」となります。

 

つまり、「文化は心でできています」

 

では、心とは何か。

 

これは目に見えないものですね。

 

非常に難しい問題です。

 

では、次のような主張はどうか?

 

「心とは脳である」

 

しかし、脳のどこを探しても、心は見つかりません。

 

では、

 

「脳の中の電気信号が心である」

 

だとすれば、パソコンや電気器具はみんな心を持っているでしょう。ICチップという「脳」に電気信号が流れていれば。もしかしたらそうかもしれませんが、しかし、一般的な表現ではありません。

 

では、

 

「人間の脳は特別な器官で、唯一心を有する。文化を持たない機械や動物とは違う」

 

という主張はどうでしょう?

 

可能性としてはそうかもしれません。しかし、脳と機械のどこがどのように違うのか、今一つ釈然としません。むしろ、単純に物質が全てであると捉えるなら、機械によって脳は再現できる可能性もあります。機械も脳も物質に過ぎないとすれば。この場合、「人間とは機械である」、ということになります。そうなのかもしれません。しかし、どうも一般的ではありません。

 

では、そもそも一般的に言って、心とは何なのでしょう?

 

上記の記述から推理していきますと、

 

心とは、「脳でも機械でも物質でもないもの」のことであると考えられます。それが、脳であったり、機械であったり、物質であったりするなら、それは、少なくとも「心」とは呼ばれないようです。

 

しかし、そんなもの存在するのでしょうか? 物質でないものなんて。

 

現状の僕には、少なくとも一つ思いつくことができます。それは、「変化」です。

 

なぜなら、変化とは、変化について記述した瞬間に変化するものであり、永久に捉えることができないものだからです。つまり、「変化」は「物質」として「捉える」ことができない。

 

なるほどそうかもしれません。しかし、次のような反論もあり得るでしょう。

 

「変化」は「物質」として、「認識」することはできない。しかし、認識されないだけで、「本当は」「物質」に過ぎない。

 

なるほど、「本当は」物質であるという可能性はあるでしょう。なぜなら、それらは「認識」できないからです。

 

では、認識できない物質とは何か?

 

通常、物質であるなら、それを認識することは理論上は可能であるはずです(顕微鏡などの「機械の目」を用いることもできます)。

 

認識できないということは、それらは「透明」であることになります。なおかつ、五感に触知されない。つまり、聞こえない、見えない、触れない、匂いもない、味もしない物質。

 

そんな「透明」なものが存在している可能性。それはあります。

 

私はひとつだけそれを知っています。それは先述した「変化」です。なぜなら、変化は認識できないから。

 

この場合、世界には、「認識できない物質」が存在していることになります。そして、その物質は、「変化」として認識されます。

 

では、認識できない物質を認識することは可能か。これは、論理的には難しいです。

 

物質とはそもそも何なのか。

 

これはそもそも、「感覚されるもの」のことです。

 

つまり、「認識できない物質は、物質ではない」と考えられます。

 

ならば、「心」とは、「変化」とは、物質以外の何かです。

 

つまり、「物質化」したものは、定義上、「心」とは呼ばないとも考えられます。

 

ならば、心とは、「幽霊」のようなものです。それらは、「魂」と呼ぶこともできるかもしれません。

 

つまり、文化とは、幽霊の所産、魂の所産であると考えられます。

 

それは、「変化」の所産であり、創造の所産です。

 

ポイントは、「文化は変化ではない」、ということです。文化は変化の「所産」であって、文化ではない。

 

つまり、文化とは、変化、創造、魂、心の名残、「痕跡」です。

 

その意味では、物事は非文化によって成し遂げられることになります。「変化」、「創造」によって。

 

ならば、その場所の文化の量を計測すれば、ある程度は、その創造量を計測できる、とも捉えることもできます。

 

そして、創造は、電球の発明や自動車の発明など、色々な利益を僕たちにもたらします。

 

つまり、創造の痕跡としての「文化」は僕たちにある種の利益をもたらしているようです。

 

心が創造を行い、そのはたらきの痕跡が、僕たちの生活を潤しているように見えます。

 

人間とは、本来、「創造的な種」であるのかもしれません。

 

さて、以上の基礎的な文化についての考察を踏まえ、では、もっと具体的に文化とは何かについて見てみようと思います。

 

まず、文化とは創造された「作品」のことであり、変化の痕跡です。

 

文化と呼ばれる代表的なものは、「芸術」や「学問」などでしょう。

 

あるいは、マナーとか、礼儀作法とかも、文化かもしれません。

 

それらは、物質化しているため、「固定化」しているように見えるのですが、もともとは「変化」の産物であると考えられます。

 

つまり、色々と変化してみた結果、そこに落ち着いた、という感じ。そして、これからも変化していくのかもしれません。

 

言語も礼儀作法も制度も、どんな文化も、徐々に変化していくようです。

 

おそらく、人間や生物というものが、根源的に創造的な種だからなのかな、と個人的には思います。

 

変化して変化して、その結果、どこにたどり着くのかは、僕にも今一つわかりません。

 

もしかしたら、全てのものは、心から作られたのかもしれません。

 

さて、心は物質ではないので、計量できません。しかし、文化は物質としての痕跡ですので、ある程度計量できるはずです。

 

ここに、「作品」を「批評」できる可能性が生じます。つまり、物質的に物事の良しあしをある程度判別できる可能性もあります。

 

文化の「痕跡量」から「創造量」を計測するわけですね。これも非常に難しいですな(笑)

 

何を「痕跡」と定義するか。とても難しいです。

これもみんなで一緒に考えていけるといいのかもしれません。

 

とりあえず、この文化量を、「文化資本」と呼びましょう。

 

つまり、文化資本を大量に保有しているということは、その人は、それだけ創造的であったのだろう、と推理することがある程度できます。

 

要は、痕跡であれば、それはすべて文化ですので、ある意味、人間の生活で生じる排泄物なども長期的に見れば、文化と呼べるのかもしれません。化石になって発見され、文化資本になるかも(笑)

 

このように考えた場合、文化資本とは、まさしくすべてのもののことであり、全ての資本であるということになります。

 

例えば、「お金」という概念やシステムも、一種の文化ではあります。お金を「資本」と仮に呼ぶとすれば、「文化資本とは資本である」となります。

 

このように、物事の区別は非常にあいまいで、グレーゾーンに溶け合っています。どこからが、文化資本で、どこからがお金なのかが今一つわからないのです。

 

「お笑い」などの文化もお金になることもありますが、こうした例は、文化資本がお金であることを示すいい例であると思います。科学などの学問もさまざまな技術を生み出し、「貨幣化」していますね。その意味では、文化資本とは一種の「お金」であると言えると思います。

 

つまり、本質的には、文化資本を大量に所有している人は、大量のお金を所有しているのと同じことであるとある程度は推理することもできます。

 

そして、文化資本とは一種の「情報という資本」でもあり、この情報資本は、「本」などの物質に見られる通り、消費しても保存されるという特徴を持っています(本は読んでもなくなりません)。

 

したがって、どんどん本が図書館や電子書籍などで流通し、これらの文化資本が人々に行き渡れば、それらの情報資本は「貨幣化」し、国の経済を潤すであろうとも推理することもできます。

 

では、文化資本をどのように分配するか、という問題があります。

 

図書館などの充実や主には、「教育」かもしれません。

 

「教育」

 

これはこれでなかなかにたいへんな話題かと思います。そのうち、機会があれば、何か書くこともあるかもしれません。

 

今日はこんな感じにしておこうかな。

 

 

~今日のポイント~

 

1.文化資本はお金になり得る

2.文化資本を国に行き渡らせることができると国全体のお金が増えるかも

3.文化資本という「富」を積極的に再分配すると人々の生産性が向上するかも

 

 

名誉術

 みなさん、こんばんは。

 

 今日は、「名誉」について考えてみたいと思います。

 

 つまり、「どうすれば褒められるか」、ということ。

 

 褒められる方法についてです。

 

 まず、みなさんはどのような時に人を褒めますかね?

 

 その人が優秀だったり、すごい人だったりするときかもしれません。

 

 では、「優秀」とは結局何なのか? 優秀な人はおそらく、少なくとも次の三つの要素を備えていると仮には考えられます。

 

1.希少な能力がある

2.判断が正確である

3.思考が論理的である

 

まず、希少な能力があれば、それは優秀と判別されやすいかもしれません。さらに、その能力や能力の保有者の判断が正確であれば、優秀と判別されやすいかもしれません。そして、その判断に至るまでの思考が論理的で間違っていなければ、優秀と判別されやすいかもしれません。

 

逆に、替えが効く能力だったり、判断や能力が不正確だったり、思考が非論理的であったりすると、優秀とは判別されづらいかもしれません。

 

では、希少な能力とは?

 

これは珍しい能力です。ひとつとは限りません。例えば、日本人で英語ができる人は、それなりにはいるかもしれません。しかし、これが、英語と中国語ができる人、というふうにスキルがダブルに重なった場合には、その希少価値はさらに高くなるであろうと推理できます。したがって、能力の希少価値は、次の二つの要素により計測されます。

 

1.能力の質

2.能力の量

 

能力の質が高く、保有する能力の量が多ければ、それは希少な能力と判定されやすいかもしれません。

 

さて次。では、「正確な判断」とは何でしょうか?

 

正確な判断とは間違っていない判断です。統計的に考えれば、正確な判断は次の三つの特徴を備えていると考えられます。

 

1.データ量が多い

2.データが無作為抽出されている

3.データ解析が論理的

 

そして、こうした特徴を備えた正確な判断は正確で的確な能力を養成するであろうと考えられます。

 

よって、希少な能力は次の特徴によって産出されると推理できます。

 

1.豊富なデータの所有

2.出所が様々な多様なデータの所有

3.多様で正確なデータ解析手法の所有

 

これらの三つの性質を持った人を、「情報資産家」と呼びましょう。情報資産家は大量で質の良い情報を保有していると考えられます。

 

つまり、「大量で質の良い情報は、大量で質の良い能力を生み出す」と推理できます。

 

また、一般的に「能力」は、適切な環境が整えば、換金可能性を持ちます。つまり、次の連鎖によって、お金や名誉は生成されると推理できます。

 

1.情報資産→2.能力資産→3.お金や名誉などの資産

 

つまり、まず、適切な情報を得て、次に、適切な情報に基づいて適切な能力を養成し、その末に、その能力がお金や名誉になるであろう(能力への賞賛など)、という仮説的なモデルです。今回はこの仮説にのってみましょう。

 

今回の意味で言えば、情報とはある程度資産であるとみなせます。情報がお金や能力や名誉を生み出すと考えられるからです。

 

例えば、農業を考えます。農耕作業をするのに道具がないと不便です。ここにもしも、「鍬」という概念、つまり知識が備わっていれば、それだけで、農耕作業は段違いに効率化します。すると、農耕から得られる成果が上昇します。つまり、「概念」とは資産であり、情報とは資産であるというふうにみなすことがある程度可能となります。

 

 また、良い情報とは、上記の通り、大量の多様な論理的に妥当な情報に触れることにより養われるものですから、一朝一夕にはできるものではないとも推理できます。

 

 つまり、いきなりお手軽には情報資産家にはなれないと考えられます。

 

 逆に、これをお手軽になそうとした場合、それでは情報量が少なくなってしまいますし、そうなれば多様なデータも収集できなくなります。データという元手がない状態で、色々な妥当な論理手法に通じるのもむずかしいでしょう。ならば、情報資産家になるためには、ある程度、労力を惜しまないことが必要であると考えられます。楽をするということは、基本的には、情報資産家への道ではないと推理できます。

 

 そして、今回の仮説に沿えば、情報資産家に大なり小なりなることなしに、能力を養成することは難しいですから、結果として、褒められることもむずかしくなると推理されます。

 

 つまり逆に言えば、褒められるためにはまず情報資産家になればよい、と推理できます。

 

 そうして、様々な情報やデータを積み重ね、たくさんの色々なデータを分析していく経験を積めば、少しずつ情報資産家になっていけるのではないか、と考えられます。

 

 蛇足ですが、このことから、富を再分配するためには、情報資産を再分配することが非常に有効であると推理できます。

 

 例えば、ネットにみなさんの情報が結集して、その解析が進み、なおかつその解析結果がみなさんに還元されれば、周り回ってみなさんに情報資産が蓄積され、その情報資産は能力を養成し、そして、いつしかお金や名誉に変換されるのではないか、という仮説です。

 

 格差社会に嫌気がさしている方などいらっしゃいましたら、積極的に情報資産を再分配してみるのもひとつの手かもしれません。

 

 ただ、現状では、「著作権」というものなどがありまして、その辺は気にしないと犯罪になってしまう可能性がありますので、ご注意ください。

 

 個人的には、いつか著作権が撤廃され、情報がすべてフリーになったら、どうなるのだろうな、とたまに想像してワクワクしております(笑)

 

 僕のこのブログに関しては、そこに掲載されている情報など基本的にフリーですので、アイデアなどもしもご参考になりましたら、お好きにお使いください。ただし、転載はご勘弁を(笑)ご自分で咀嚼して、自分の言葉で書き直してみてくださいね。

 

 何にしても、自分で大量の情報を集め、それら多様なデータを慎重に比較検討し、質の良い解析を施していくことが、情報資産家への道であろうと思われますので、このブログにしても、決して鵜呑みにせずに、色々と気が向いたらご想像なさって見てくださいませ。

 

 

 「今日のまとめ」

 

 ☆褒められるためには労力をかけて色々なことを経験するとよいのかもしれない

 

サイコパスとの共存術

 みなさん、こんばんは。

 

今日は「サイコパス」について考えてみましょう。

 

では、サイコパスとは何か。

 

これは、「良心を持たないか、あるいは良心が極めて少ない人」のことのようです。

 

僕は、個人的には、良心が全くのゼロであるということは果たしてあり得るのか、と懐疑的なのですが、「良心がゼロの人間はいる」という考えも原理的にあり得ますし、可能性としてもあり得ます。

 

まず、サイコパスとは、概ね、反社会性パーソナリティ障害と被る概念のようです。

 

したがって、サイコパスの概ねの短所は以下の通りになります。

 

1.法律や規範に従うことができない

2.利己的に他人をだます

3.衝動的かつ計画性がない

4.喧嘩や暴力をしやすくちょっとしたことで怒りやすい

5.自分や他人の安全を考えられない

6.無責任

7.良心の呵責の欠如 

wikipediaを参考にしました)

 

法律や規範から逸脱してしまいますと、社会秩序を乱してしまいます。利己的に他人をだますと、被害にあった人は詐欺にあってしまいます。衝動的すぎてなおかつ計画性がないと、長期的なスパンで物事を考えづらくなります。多くの貴重な技能は一朝一夕に身につくものではないことを考えると、そうした技能は身につけづらくなるのではないかと推理することもできます。暴力などを振るいやすいと社会秩序を乱しやすく、また、怒りっぽいということは、攻撃的な人であるというふうにも考えられます。安全について考えられないというのは、ハイリスクハイリターンを好むことを示します。つまり、失敗した時の打撃が非常に大きいです。最後が最も重要な点かと思いますが、サイコパスとは「良心」が欠けている存在とされているようです。良心が欠けていれば、規範判断や法律に従うことが困難になりますし、良心の呵責がないのであれば、何かサイコパスの人が犯罪を犯したとしても、その刑事責任を問うて、それに対し罰を与えても、改善は期待しづらいことになります。

 

 以上の特性を逆算すると、サイコパスの長所は、次の通りになると推理できます。

 

1.戦争や諜報活動などの脱法的領域において力を発揮しやすい

2. だますのが得意なので、食うか食われるかの過酷な環境に適応しやすい

3.衝動的なので、攻撃力が強い

4.暴力を振るいやすいので、攻撃力が強い

5.安全を気にしないので、危険な仕事に適応しやすい

6.無責任なので、重要な責務を背負っても押しつぶされづらい

7.良心の呵責がないので、脱法的領域において力を発揮しやすい

 

通常の人間にできないようなことができるということは、サイコパスの短所であると同時に、「競争」面では強みでもあります。上記のサイコパスの長所としての特徴を見るに、サイコパスは戦闘的というか、熾烈で過酷な競争環境に適応するのには向いているようだ、というふうに推理できます。そのせいなのか、一説によると、サイコパスには社会的地位の高い人が多いのだそうです。 

 

現実的に、僕たちの住む世界は問題だらけで、なおかつ、それなりには腹黒い世の中なのかな、と思います。それに、色々なものが国際化している時代ですので、競争も世界規模になり、熾烈化していくかもしれません。

 

そのような過酷な環境においては、競争に強いサイコパスの資質はそれなりに有用なものとなりえるのかもしれません。

 

しかし、一方で、サイコパスには秩序をあまりに致命的に乱してしまう可能性もそれなりにあるという短所もあります。

 

では、そのようなサイコパスの人たちとうまくウィンウィンな関係を築きながら、共存していくにはどうすればいいかを考えてみたいと思います。

 

まず、サイコパスの最大の特徴は、おそらく、「良心の欠如」なのだろうと個人的には考えます。

 

では、良心の欠如した利己的な人に対し、どのように接すれば、良心のある人たちは、彼らと共存することができるかについて考えます。

 

まず、良心が欠如しているということは、彼らは純粋な贈与(個人的には、「愛」などはこれなのかな、と思っています)ができないのだろう、というふうに推定できます。つまり、全てを等価交換の原則で考えているのだろう、と推定することができます。

 

利己的であるということは、逆に言えば、自分に利益があれば、その通りに動いてくれるというふうに推理できますので、ある意味、行動が分かりやすくなります。

 

また、衝動性があるのなら、難しい話を延々と聞いたりするのには向かないでしょう。

 

ならば、非常に簡単な話法で、犯罪をした場合よりも犯罪をしない場合の方がサイコパスにとって得であるような世の中であることを説明すればよい、ことになります。

 

これが可能であるためには、世の中自体が、前提として「公正」である必要があります。なぜなら、正直者が馬鹿を見るような環境であれば、サイコパスの行動原理にのっとって、犯罪を犯した方が、功利的に見て、合理性があると判定されてしまうであろうからです。

 

彼らに対し「罰」が効力を持たない(一説によると、サイコパスは良心が欠如しているため、罰を与えても反省しない、とされているようです)ということは、彼らの利己心に働きかけるしかない、というふうにも考えることもできます。

 

つまり、世の中が「不正」であれば、サイコパスの犯罪は増加するかもしれません。

逆に、世の中が「公正」であれば、サイコパスの犯罪は減少するであろうと推理できます。

 

よって、不正な社会と公正な社会を判別するには、サイコパスの犯罪数を計測するというのもひとつの手かもしれません。

 

サイコパスの犯罪数が多いということは、その世の中自体に不正が多い可能性があると推理できます。

逆に、サイコパスの犯罪数が少ないのなら、その世の中自体の公正が多い可能性があると推理できます。

 

つまり、サイコパスの人も犯罪をしないような世界は、非常に公正なのであろうと予想することもできます。

 

逆に、サイコパスの人たちが犯罪に走らざるを得ないような世界は、非常に不正なのであろうと予想することもできます。

 

この点から、サイコパスの人たちには、その世の中の公正さを測る一種のバロメーターとしての機能があると推理することもできます。

 

サイコパス犯罪が増えて困るということは、もしかすれば、それだけその社会は欠陥を抱えているのかもしれません。

 

したがって、良心のある人たちが、サイコパスの人たちと共存するには、社会が次のような状態になればいいと考えられます。

 

1.功利的な説明がうまい

2.公正である

3.犯罪をしない方が得である

 

つまり、社会が、公正で、犯罪をしない方が得ができて、そのことを分かりやすく説明することのできる機能を持っていれば、サイコパスの人たちと共存できるのではないか、という一つの仮説を立てることができます。

 

簡単に言いますと、「正直者が馬鹿を見る」というふうな社会の場合には、サイコパスによる犯罪数が増えるのではないか、というふうに考えられます。正直な方が得をするのであれば、――あるいはそのことが適切に了解されているのであれば――サイコパスは利己的であると今回想定していますから、彼らは正直になろうという選択を採るはずです。

 

ならば、犯罪を減らすためには、サイコパスの人たちが割を食わないような適切な公正さを持った社会であることがまず、前提として必要となるのではないか、と個人的には思います。そもそも、社会が公正でないのなら、公正でない社会が、サイコパスを裁くというのもおかしい話になります。

 

では、「公正」とはどのような状態なのか。

 

まず、公正には二種類あるであろうと考えることもできます。

 

1.機会の公正

2.結果の公正

 

類似概念に、「平等」というものがあります。この場合、

 

1.機会の平等

2.結果の平等

 

となります。

 

まず、機会について。

 

これは、平等で公正であることが望ましいでしょう。なぜなら、そもそもの端緒である「機会」が欠如していた場合、たとえいかに才能があったとしてもそれを発揮することはできないであろうからです。したがって、機会は平等で公正であることが望ましい。

 

では、結果はどうでしょうか?

 

概ねここで意見が割れるのではないか、というふうに個人的に思うこともあります。

 

まず、結果が「不正」であった場合、これはどうでしょうか。不正な結果ならば、これはよくありませんね。したがって、結果は「公正」であることがより望ましいとも考えられます。

 

問題は、「結果」を「平等」にするか否かなのです。

 

これはけっこう難しい問題だな、と個人的に思っていました。

 

ただ、サイコパスの人たちと共存を目指すという方針を採るのならば、割にスパッと判断していけるかもしれません。

 

まず、サイコパスの人たちは競争分野に強い、というふうに先ほど考えました。

 

ならば、サイコパスの人たちの心を満たすためには、その競争分野に長けた才能を活かす環境が必要になります。ハイリスクハイリターンな環境が。

 

したがって、この観点からは、結果は平等にするべきでない、というふうに判定できます。

 

つまり、社会に競争の余地を、当面は残しておくのが最適打かもしれません。

 

また、現実的に、世界における競争も激化していく中で、そのような事態に適応するためには、サイコパスの人たちの力が必要となるのではないか、とも考えられます。

 

その点から見ても、サイコパスの人たちと共存を画策するのが合理的でしょう。

 

少なくとも言えるのは、サイコパスの人たちの力が必要とされる場面自体は現実的にかなり多くあるのではないか、ということではないかと思います。

 

 

好むと好まざるとにかかわらず、サイコパスとは共存してゆく道を模索するのが人類にとって最善の選択であると、私は考えます(中野信子,『サイコパス』,文藝春秋,2016,p.230より引用)。

分術

みなさん、こんばんは~

 

今日のお話は、「分ける」ことについてです。

 

分けるとは何でしょう?

 

これは簡単に言うと、「差別」をすることです。

 

物事の「差」を見て、それで、その対象を「別」にするわけですね。

 

これは、「区分」とか「分割」とか色々に呼ばれます。

 

では、こうした「分ける」という行為には、どのようなメリットやデメリットがあるのかを考えてみましょう。

 

まず分かりやすいように極端な例を考えてみましょう。

 

何でもかんでも差別した場合、これはどのような世界になると思いますか?

 

あれも違う、これも違う、どれも違う、何もかも差異がある。このにんじんとあのにんじんは違う。あのにんじんはにんじんだが、このにんじんはあのにんじんとは差異があるので、このにんじんではない……云々。

 

これでは、まったくらちがあきません。言葉が使えなくなってしまいます。

 

では、何もかも差別しない場合はどうでしょうか?

 

にんじん=キャベツ=大根=トランプ=オバマプルースト村上春樹京極夏彦……云々。

 

これでもらちがあきません。言葉が使えなくなってしまいます。

 

したがって、差別は、ちょうどよく、有効性のある形で用いられる必要があります。

 

また、やっていい差別と絶対にやってはいけない差別もあります。

 

例えば、「優生思想」などは、「ナチス」を彷彿とさせる概念で、「劣った人間は人間ではない」という感じの思想です。

 

実際には、優劣というのは時の運の要素も非常に強く、容易に転覆されます。これを、「盛者必衰」と呼んだりもします。

 

したがって、いわゆる「劣った」人と、いわゆる「優れた」人とは、変に争わず、協力し合うのが最適打であるということになります。

 

どちらかがどちらかに、「劣っている」というレッテルを貼った場合、そもそも概念自体が時の運ですから、言葉が「時の運」に支配され、普遍的に使用できなくなってしまいます。これでも言葉が通じず、互いに争うことになる可能性が高くなるのではないかと、推理できます。

 

つまり、言葉の機能を有効に担保し、そのようにして、争いを避けるためには、極力、「優劣」という概念を避ける必要があります(比喩的に、「この人は優秀だ」というふうに「仮に」言葉を用いる場合はあると思いますが、その概念を「徹底」してしまうと非常に危険であるということは留意しておくのもひとつの手かもしれません)。

 

時の運で、ガス室に送られて殺されてはたまったものではありません。「ユダヤ人」は別に劣っていませんね。仮にいうなら、優秀なくらいかもしれません。

 

優秀な人を殺していったのでは、人類の未来は先細りです。

 

そして、優劣というのは時の運です。

 

人間の判断能力も万全ではありません。当然、優劣もしっかりと判断することはできません。

 

ならば、リスクヘッジして、出来る限り、多様な種類の人たちに対し投資をしておき、人間の適切な発展可能性に備えるべきでしょう。人間は未来を予測することに向いた種族ではないのだと思います。そうでなければ、幾度も幾度も殺戮の戦争という失敗を繰り返す理由が説明できません。

 

このような不確定な状況においては、リスクヘッジとしての、多様性の尊重が必須であるとも推理することはできるのではないでしょうか。

 

少なくとも、「仮に」進化論の論法を今回採用するとすれば、これまで生き残って繁殖に成功してきたすべての個体は、人類の生存の成功のために必要であったから、今日まで生き残ってきたのだと思われます。

 

それはゲイの遺伝子でも同じですし、統合失調症の遺伝子でも同じです。

 

今日まで生きているすべての種族は、人間という種全体が生き残るために必要であったために、あるいはそのために「有効」であったために、続いてきた遺伝子なのであり、その意味では、今生きている人たちはみな、生物としてはエリート中のエリートであるということになります。仮に進化論を用いて考えるなら(なぜなら、繁殖に積極的でない個体でも、優秀な人はいくらでもいるだろうから。ゲイやレズビアンでも教養や能力のある人はいくらでもいるでしょう)。

 

このように、例えば、「優劣」という差別は、極力しないのが得策であると推理することもできます。それらは、用いられるとしても、「必要悪」として「仮に」用いられるものに過ぎず、その観念を前面に出すべきではないとも推理できます。

 

このようにしない方がいい差別もあることにはあります。

 

しかし、いい差別もあります。

 

例えば、ある程度のレベルの次元までは、「適材適所」という観念は非常に効果的です。

 

あまりにこれを徹底しすぎるのも、過剰すぎて、バランスを欠くこともあるかもしれませんが、ある種の人たちにとっては、自分の適さない箇所で無理をしないための方便となり、ケースバイケースに有用です。

 

農業に卓越した人もいれば、政治に卓越した人もおり、それぞれの適した分野にコミットできれば、よい効果が期待できるであろう、という推理です。

 

他にはそうですね。

 

例えば、喫煙に向いた人と向かない人がいますね。

 

タバコが好きな人と嫌いな人がいます。この場合、多様性尊重の観点から、どちらの遺伝子も尊重しておくのが望ましい。そのことが、世界全体のリスクヘッジとなり、長期的にみれば、人間という生物が長く生存しやすい戦略であろう、と推理できます。

 

したがって、適材適所、の概念をここで援用して、タバコが好きな人にはタバコを推進し、タバコが嫌いな人にはタバコの煙を抑制できるような環境を整えるのは、リスクヘッジの観点から理に適っているということになります。

 

創造性の種はどこにあるか分かりません。それはタバコの生み出す「覚醒状態」の中に眠っている可能性もあるのです。

 

そうでなければ、なぜ今日まで、長い生存競争の中を生き残ってきた「人間」の少なくない人たちが、わざわざ発癌性があるとされる、いわゆる「有害」とされる文化をはぐくんできたのか。その説明がつきません。

 

おそらく、タバコには、生物学的に何らかのメリットがあるのでしょう。

 

また、創造できなければ、社会はジリ貧です。人はどんどん生まれてくるのに、雇用や利益が創出されないのなら、にっちもさっちもいかないでしょう。

 

創造性とは、自由性のことでもあります。自由とは、一種の無作為性を可能とする能力です。

 

ならば、創造性とは、無作為的に分布するものであって、どこに眠っているかわからないものであるということになります。

 

子供の才能を発掘するには、色々と挑戦する環境を与えて、実際にやってみるしかないように、無作為なものをコントロールしきることは論理的にはできません。

 

この点からも、リスクヘッジとしての多様性の尊重は理に適っています。なぜなら、創造性、自由性、つまり、社会を発展させる「天才性」は、誰に、どこに眠っているか判定できないため、そのような不確定な因子に対するリスクヘッジには確率的にアプローチせざるを得ないためです。

 

何が何の役に立つか分かりません。とにかく、極力はリスクヘッジをしておくのが得策でしょう。

 

したがって、喫煙の例で言えば、「分煙」を行うのが最適打となると推理できます。

 

リスクヘッジを適切に行うためには、多様な文化を失うべきではないでしょう。

 

このケースのようによい差別もあります。

 

優生思想の場合の「差別」は多様性の排除を生み出し、長期的に破綻する確率が高くなると予想されますが、「分煙」という区分、差別は、逆に多様性を保護する役割を持った差別となります。

 

このように差別とひと口に言っても、その有効性や効能は一律のものではなく、多様性を破壊したり、守ったりする、様々で、多様な「差別」が存在します。

 

したがって、その様々で多様な差別概念について、これからみんなで、少しずつ検証し、その最適なケースごとの選択をあきらかにしておくことができると、よりよい――遺伝という資産をも含めた――投資行為が可能になるかもしれません。

 

今日の結論をまとめます。

 

 

1.「分ける」ことには善い区別と悪い区別がある

2.善い区別は、多様性を保護し、生存競争におけるリスクヘッジに有利に働く

3.悪い区別は、多様性を排除し、生存競争におけるリスクヘッジに不利に働く

 

 

つまり、多様な価値観に寛容な差別は善い差別であり、多様な価値観を排除する差別は悪い差別である、というふうに今回の論法の場合には考えることもできます。

 

色々な考えがおありかと思いますので、鵜呑みにせず、みなさんで考えてみてくださいませ。

 

したがって、差別の善悪について考えたいときには、多様性を保護しているか排除しているかに着目するのもひとつの手かもしれません。

 

例えば、優生思想のような感じになっていたり、ナチズムのような感じになっていると、それは多様性を排除する思想状況となってしまうかもしれません。その場合、一時的には、遺伝淘汰の過剰によりその現在の環境への適応性は向上するかも知れませんが、長期的には、「過剰適応」となり、滅びる可能性が高いと考えられます。未来の人たちや、自分の子供たちのためには、やはり、多様性を尊重し、リスクヘッジをすることで、様々な可能性を持った遺伝形質を保存していくのが正着打となるかと思います。

 

人間の判断能力は本来、はなはだ不完全なものなのですが、不完全なものを完全なものであるというふうに思考を停止してしまうと、その誤謬から悲劇が生まれる可能性があると思います。

 

もしもよろしければ、みなさんも長期的な環境を生物が生き残っていくためのリスクヘッジとしての多様性の尊重にご協力ください(笑)

 

とは言え、タバコには有効性もある可能性がありますが、害もあると考えられますので、この辺りも、「バランス」が大切かもしれませんね。

 

タバコ反対派の人とタバコ推進派の人たちの間の意見の均衡をうまく調整できるバランス感覚が必要なのかもしれません。

 

どこに最適打があるのか。非常に難しいですが、妥当なのは、やはり「分煙」と言ったところなのかもしれません。

 

麻薬犯罪などは、規制しても一向になくなる気配がありませんが、タバコも規制が強すぎると「タバコ犯罪」が生じるようになるかもしれません。犯罪が増えるとみなさん不安でしょうから、「規制」を不用意に強くしないように注意することは必要かもしれません。何か規制が強くなることがあったら、みなさんよーく耳を澄まして、その話を聞き、分析してみてくださいませ。もしかしたら、それは「結果として犯罪を増やす規制」かもしれません。不満が溜まれば、犯罪が増えるとも推理できます(例えば、タバコを不用意に規制しすぎると、タバコを吸えない人たちやその周辺の人たちに不満が溜まります。すると、その不満がはけ口を求めて、犯罪化する、というふうに推理することもできます。うまく色々な人たちの不満を調整していけるといいのかもしれませんが、これはこれで難しい問題になります)。

 

さまざまなご意見があるかと思いますので、みなさんもどんどんお考えになって、発信なさるといいかもしれません。データ数は多く、データの出所がさまざまで多様(無作為抽出)であるほど良いとも考えられますから。

 

今日は以上です。

 

ではでは~

村上春樹さんの『騎士団長殺し』について

 みなさん、こんばんは♪

 

 今日は機嫌がいいプルプルタンです。

 

 夜は多少、統合失調症の影響かどうかわかりませんが、鬱になるのですが、今日は村上春樹さんの新刊を読んだせいか、気分がいいです(個人の意見です(笑))。

 

 『騎士団長殺し』という作品ですが、みなさんお読みになりましたでしょうか?

 

 個人的にとても好きな感じの作品でした。

 

 ネタバレとかは極力しませんが、迂回しながら、思ったことを書いてみようと思います。

 

 すごく仏教色が強く(仏教を肯定しているとか、そういう感じの単純な意味ではない)、また題材が「絵画」であるということもあって、三島由紀夫の『豊饒の海』を思い出しました。豊饒の海も大好きな作品なのですが、騎士団長殺しもかなり好きです(笑)

 

 けっこう複雑な文章だったというふうに個人的に感じました。僕は複雑な文章が大好きなので、――理由はそれだけではありませんが――すごくお気に入りな作品になりました。これ書き終わったら、また最初から読みなおそうかな、と思ってました(笑)

 

 本当は、一週間くらい時間をかけて読もうと思っていたのですが、おもしろかったので、一気に読んでしまいました。読んでしまったというより、読まされたのかもしれませんが。

 

 いずれにせよ、とても好きな作品でした。

 

 必然とか偶然とか運命とか生殖とか遺伝とか才能とか時間とか、すごく哲学的な感じのことも触れられているように個人的に感じました。

 

 特に「秘密」というテーマが大きいように感じました。個人的に。

 

 非常に多くのことが入りくんでいて、みなさんそれぞれ、いろいろな読み方ができる小説なのではないかと思いました。

 

 また、『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』という作品のある意味、続編というふうな見方もできるのではないかというふうに個人的に感じました。

 

 この作品に、出てくる「シロ」と呼ばれる女の子がいるのですが、その子を「別の形」で書き表してみたのかな、というふうに感じる面もありました(かなり違いはありますが)。

 

 また、「色がない」ということはどういうことなのか、ということに非常に強い力点が置かれているように感じました。

 

 仏教ふうに言えば、「無色界」みたいな言葉になるのかもしれません。あるいは、「色即是空」とか。

 

 「色が無い」感じ。

 

 勝手な思い込みだったのかもしれませんが、村上春樹さん、あんまり絵画はお好きじゃないのかな、というふうに個人的に思ったりもしていましたので、こうした絵画が主題的に出てくる作品をお書きになるのは意外な感じがしました(実際には他にも美術を扱った作品はあったと思いますが。何故か村上春樹=絵嫌い、みたいな勝手なイメージが僕の中にあったようです。勝手なイメージに過ぎないのかもしれませんが)。

 

 「色」は、多崎つくるの物語でも主題になっていて、この作品もおもしろくて、僕は好きですので、ご興味ありましたら、騎士団長殺しと多崎つくる、どちらもお読みになってみるのも、ひとつの手かもしれません。

 

 騎士団長殺しは、二巻構成になっていますが、筋の置き方が、ゲーテの『ファウスト』を何となく彷彿とさせる感じに思いました。

 

 ファウストは、最初普通のリアリズムっぽい感じ(悪魔とか出てきますけどね(笑))なのに、途中第二部から超メタファって感じの作品になるのですが、騎士団長殺しも、そんな感じの印象を受けました。

 

 ファウストと違うのは、――そんなところいっぱいあるのですが(笑)――ファウストはメタファから帰ってこずそのまま昇天なさってしまう印象なのですが、騎士団長殺しは、メタファの世界から帰ってきて、あくまで現実に着地します。

 

 ただ、その現実が、「本当に現実なのかわからない」みたいな感じ。

 

 この感覚は何となくわかる気がします。僕も、この現実が本当に現実なのかどうかわからない感じが常にありますので(笑)すべて幻覚であるような気もします。

 

 観念とかイデアについてもかなりふんだんに触れられています。

 

 決定的世界と非決定的(少なくともそう見える)世界の両立を目指しているような印象を受けました。

 

 イデアは――あるいは一歩踏み込むとその顕れは――決定的かもしれませんが、メタファは遷移しますので、そのどちらもを描いているということは、決定でも非決定でもないということなのかもしれません。

 

 つまり、決定、非決定の二項対立を越えた先にあるものを描いているのかな、という印象を個人的に受けたりもします。

 

 必然でも偶然でもなくて、その先にあるもの。

 

 また、この作品の中にある生殖観がすごく面白くて、ぜひお読みになってみてほしいのですが、いわば、「夢魔による生殖」みたいなことについて書かれていて、この辺は、ドゥルーズ好き好きな僕としては、「キターーーー!!!」って感じでした(笑) 超テンション上がりまくってた(笑)

 

 ある意味、「生殖価値観」に一石投じていると言えるのかも知れません。エッチなこととか、生殖にご興味のおありの方はお読みになってみるのもいいかもしれません(笑)

 

 「子供」についてとか、けっこう書かれてて、その辺の感じのことに興味おありの方もいいかもしれない。

 

 後は、「時間」についてとか。いろいろ考えるのにもいいかも。

 

 僕たちの知覚する時間構成とイデア界というか、イデア的にみたときの時間構成の差異、という感じのことに触れられていて、おもしろいなと思いました。

 

 これは前になんかの記事で僕も書いたかもしれません。このブログに(「創造術」だったかな? 気が向いたらお読みになってみてください)。

 

 騎士団長殺しって、「殺し」ってワードがどことなく不吉だったので、すこし不吉な小説かとも思っていたのですが、おもしろかったです(笑)

 

 ある意味、いい意味で、不吉ではあるかもしれないとも思いますが(笑)

 

 でも、そんなに後味悪い感じはしなかったですね。個人的には。むしろ、後味超よかった(笑)

 

 これ以上書くとネタバレとかになっちゃいますかね?

 

 この辺にしておこうかな(笑)

 

 あんまり書きすぎて、皆様の楽しみを奪ってもあれなので。

 

 ただ、「疑うことよりも信じること」の大切さを言っているようにも感じました。「何を」信じるのか、というのは非常に難しいのですが。強いて言えば、「イデア」でしょうか(笑) よくわかりませんが。二項対立的な可能性の領野から一歩踏み出す? というか、超越するというか。

 

 ニュアンスが「微妙」(幽玄)なのだと思いますので、気になる方は、ぜひお読みになってみるといいかもしれません。

 

 では、みなさん、今日はこの辺で、ごきげんよう~。

 

 とりあえず、好きな小説でした。

 

 

 

 

 

 

 

勉強術(教育術、就職術、国家術、受験術を少し含む)

 みなさんこんばんは~。

 

 今日は「勉強」のお話をします。

 

 みなさん、勉強というとどんなことを思い浮かべますか? 受験でしょうか。

 

 受験もおもしろいゲームですよね。

 

 今回は受験に限らず、勉強一般のやり方について考えてみましょう。

 

 では、そもそも「勉強」とは何なのでしょう? 少しずつ一歩一歩見ていきましょう。

 

 これは、学問とか何かの芸術とかを身につけるために練習することです。

 

 では、学問とは何でしょうか?

 

 これは、知識とか理論のことです。

 

 芸術は、美を表現する技術とか。

 

 だから、「勉強」とは、知識や理論や技術を身につけるために練習すること、です。

 

 つまり、勉強とは、練習のことです。

 

 では、練習とは何でしょうか?

 

 これは、くりかえすことです。

 

 つまり、勉強とは、くりかえすこと。

 

 何度も何度もくりかえすわけですね。

 

 つまり、何かを勉強したいと思ったときは、何かをくりかえせばよい、というふうに推理できます。

 

 例えば、覚えたい単語がある時は、その覚えたい単語を何度もくりかえし見ればよい、というふうに考えられます。

 

 覚えられない数学の解法がある時は、その覚えたい問題と数式を何度も繰り返し見たり、解いたりすればよい、というふうに考えられます。

 

 勉強とは「くりかえし」のことだからです。

 

 何度くりかえせば身につくかは個人差があるかもしれません。

 

 しかし、ただ確実なのは、勉強とはくりかえすことであり、単語も解法もくりかえしていれば、いつかは覚えられるということです。

 

 つまり、挫折せず、くりかえすことに成功しさえすれば、少なくとも学校の勉強くらいのものであれば、誰でも身につけられるのではないかと推理できます。「読書百遍義自ずから見る」、とも言いますね。

 

 では、どうすれば、挫折せず、くりかえすことを続けることができるでしょうか。

 

 要は、挫折を防げさえすればよい。

 

 そこで、挫折の原因を考えてみます。

 

 これには、以下の三つが考えられます。

 

1.焦る

2.一気に何もかもやろうとする

3.短期間の勉強ですませようとする

 

 焦れば、あたふたしてしまって、勉強を失敗してしまいます。一気に何もかもやろうとすると、いっぱいいっぱいになって嫌になってしまいます。長期的に勉強にとりくめないと、短期間で挫折してしまいます。

 

 つまり、勉強を挫折せず成功させるためには、次の三つの点を守ればよいことになります。

 

1.ゆったりとした気持ちを持つ(焦らない)

2.少しずつ勉強に取り組む(一気に何もかもやろうとしない)

3.気を長く持って勉強する(短気にならない)

 

 つまり、「ことわざ」で言いかえますと、

 

1.急がば回れ

2.塵も積もれば山となる

3.継続は力なり

 

 の三つを心にとめて勉強することが、勉強のポイントであると言えます。勉強を成功させたい方は、この三つのポイントを守って勉強すれば、高確率で勉強を成功させることができると考えられます。焦らず、少しずつ、長く勉強を続ければよい。

 

 逆に、焦って、一気に、短い期間で勉強をするとうまくいかない可能性が高くなると推理します。

 

 みなさんも焦って勉強した場合とゆったりと勉強した場合でどちらがいい成果が出るかを測定してみるといいかもしれません。僕の場合、焦ると、なかなか勉強をつづけることができなくなってしまうので、一応、みなさんに、僕の個人的な学習方法をお伝えしておきます。

 

 さて、それでは、大まかな勉強方法が分かったところで、もうすこし細かく勉強について考えてみましょう。

 

 勉強とは、何かの知識とか理論とか技術とか、つまり、「能力」を身につけるための練習です。

 

 では、どのような課題を勉強すれば、能力は身に付きやすいと考えられるか。これについて少し考えてみましょう。

 

 まず、身の回りのことを何もかもやってくれるロボットを考えてみて下さい。そういうロボットがいたら、人間は身の回りのことをする必要がなくなりますね。すると、その身の回りのことをする能力は退化することになります。

 

 つまり、能力を育てるためには、これと逆のことをすればよいと考えられます。

 

 これは、「便利さを避ける」、ということです。

 

 次に、挑戦をせず簡単な問題を解き続けている人と、色々な難しい問題に挑戦し続けている人では、どちらが能力が高くなりやすいかを考えてみてください。

 

 これは、挑戦の量が多い人の方が能力高くなりやすいのではないかと推理できます。

 

 つまり、「難しい課題に積極的に挑戦する」、ということです。

 

 さて、最後に、たくさん勉強している人と、すこししか勉強していない人では、どちらが能力が高くなりやすいと考えられるでしょうか。

 

 これは、「たくさん勉強している人」ですね。

 

 つまり、「勉強に時間をかけている人」です。

 

 よって、勉強をよく行うためには、次の三つのことを心にとめていればよい、と考えられます。

 

1.便利なものを用いるのではなく、手間をかけて勉強する

2.できる問題ばかりやらず、自分にできないかもしれない難しい問題に挑戦する

3.勉強に時間をかける

 

 これをより単純にすると、次のようになります。

 

1.手間をかける

2.挑戦する

3.時間をかける

 

 つまり、勉強は、手間をかけるほどよく、挑戦するほどよく、時間をかけるほどによい、というふうに考えられます。

 

 例えば、余裕ですぐに解ける挑戦を必要としない簡単な問題を解くよりも、手間がかかり時間がかかり挑戦心を必要とするような難しい問題を解いたほうが、いろいろと勉強になるところが大きいだろう、というふうに推理されます。

 

 気が向いたら、お試しあれ。

 

 以下、勉強のコツをまとめます。

 

 

1.ゆったりと、少しずつ、長く勉強しよう

2.焦らず、楽をしようとせず、気長に勉強しよう

3.手間をかけ、挑戦し、時間をかけよう

4.何度も何度もくりかえし勉強しよう

5.学問に王道なし

 

 

P.S.以上の勉強のコツから、教育手法のコツも推理することができます。教育術、ですね。

 

今回の論法の場合には、上記のコツを子供などに習得させることができればよい、というふうに考えられます。

 

つまり、教育は次の環境を子供に提供すればよい。

 

1.ゆとりのある環境

2.負荷のある環境

3.挑戦できる環境

 

つまり、たっぷりの色々なことをする時間とたっぷりの色々な難しい課題とたっぷりの色々な挑戦ができる環境を、作ることができれば、教育は有効に作用するであろう、と推理できます。

 

逆に次のような条件がそろっていると、教育はうまくいかないであろうと考えられます。

 

1.色々なことに取り組める時間がない

2.色々な難しい課題に取り組めない

3.色々な挑戦ができない

 

これは、次のように変換できます。

 

1.単調(色々な多様性がない)

2.単純(課題が簡単で単純)

3.退屈(同じことの繰り返しばかりで発展性がない)

 

つまり、よい学校とは、多様な人がいて、多様な複雑な難しい課題があって、多様な新しいことへの挑戦ができる学校のこと、というふうに考えられます。

 

逆に、悪い学校とは、同じような人しかいなくて、同じような単純な課題しかなくて、同じようなことの繰り返ししかできない学校のこと、というふうに考えられます。

 

このことから、よい先生とは何かについても推理することができます。

 

よい先生とは、多様性に寛容で、多様な複雑な事情に通じていて、多様な新しいことへの挑戦を促してくれる先生のこと、というふうに考えられます。

 

逆に、悪い先生とは、排除的で、単純な事情しか分からず、生徒の挑戦心を挫く先生のこと、というふうに考えられます。

 

これらのことから、あなたを育ててくれるよい企業とは何かについてもある程度類推できます。

 

よい企業とは、多様な人がいて、多様な複雑な共同体で、多様なイノベーションを行っている企業、というふうに考えられます。

 

逆に、悪い企業とは、排除的で、単純な似た人たちしかいない共同体で、新しいことへの挑戦が活発でない企業、というふうに考えられます。

 

これらのことから、よい国家とは何かについても類推できます。

 

よい国家とは、多様な人がいて、多様な文化があって、多様な創造活動がある国家であると類推できます。

 

つまり、人々の成長を行うのに適したよい国家は次のことを行うであろうと推理できます。

 

1.移民を受け入れる

2.色々な出自の人たちと仲良くする

3.創造性に投資する

 

逆に、悪い国家は次のことを行うであろうと推理できます。

 

1.外国人を排除する

2.人を不当に差別する

3.既得権益に固執する

 

無論、ここに書かれたことは、「仮説」であり、しかも、ものすごく単純な推理に過ぎないので、鵜呑みにはせず、みなさんでじっくりと検証なさってみてくださいませ。

 

よい国家に所属し、よい企業に所属し、よい学校に所属し、よい教育を受け、よい勉強をすることができるといいのかもしれませんね。

 

色々な意見がおありかと思います。

 

みんなで少しずつ正確な知識を持てるように勉強していけるようになるといいのかもしれませんね。

 

では、最後になりますが、みなさんの関心事かもしれない、「受験術」について少し考えてみましょう。

 

つまり、よい受験は次の性質を備えています。

 

1.多様性を尊重している

2.挑戦を尊重している

3.自由を尊重している

 

よって、個人的には、人の多様性を尊重し、人の挑戦を尊重し、人の自由を尊重している、そういう受験を受けることをお勧めいたします(日本にそういう学校あるかな?(笑))。

 

つまり、多様なことに自由に挑戦する人を積極的に受け入れている学校に入ればよい。

 

逆に、次の受験が悪い受験であると考えられます。

 

1.排除的である

2.挑戦心を挫く

3.自由を抑圧する

 

したがって、排除的で、挑戦的でなく、自由でない受験は、個人的には受けないことをおすすめいたします。

 

難しいですけどね。ここに書かれたことは理想論ですから(笑)世の中なかなかうまくいきません。

 

適当なところで妥協しつつ生きていくしかないのかもしれませんが、理想的には以上のような結論になるかと思います。

 

つまり、受験制度は次のように改変する事が出来れば、理想的だとも考えられます。

 

1.入学条件の緩和(入学試験を易しくするとか)

2.卒業に必要な課題の難度を上げる(単位認定試験を難しくするとか)

3.色々な出自の人たちを入学させる(学費の免除とか)

 

これできたら面白いですけどね(笑) できたらどうなるんでしょうね、日本(笑)。いろいろと想像してみるのもおもしろいと思います。

 

ぜひ、みなさんも気が向いたらいろいろとご想像なさってみてくださいませ。

 

今日は以上です。

 

ではでは~♪

 

 

P.S.2

ちなみに「勉強」の場合は、手間をかけたほうがいいですが、その「能力」を「応用」する場合は、「便利」なものを使うことが有効になります。気が向いたら、「応用術」として書くこともあるかもしれません。

また、国家なり共同体に所属することを今回否定していませんでしたが、そもそも国家とかに疑義を呈する論法もあります。そのうち気が向いたら書くかもしれません。

「正しさ」とは何か(正義術)

 こんばんは。

 

 今日は「正しさ」とは何か、について考えてみたいと思います。

 

 みなさんはどんなものが正しいと思いますか?

 

 僕には二つの説がまず思い浮かびます。

 

 

1.正しさとは善である

2.正しさとは理に適っていることである

 

 

 では、善と、理に適っていることは、何が違うのでしょう?

 

 理に適っていれば、それは善であるような気もします。

 

 このように考えた場合には、例えば、「愛は善である」、という言説。

 

 これは、「愛は理に適っていれば善で、理に適っていなければ善ではない」、ということになります。

 

 では、そもそも、愛が理に適っていないということはあり得るのか。

 

 まず、人間のもとめるものは何であるか。

 

 まず、ひとつの有力な説は、「お金」ですね。お金はある程度大切です。

 

 では、人はお金のために行動しているのでしょうか?

 

 どうもそうではないようです。

 

 なぜなら、人は、お金を使用しますね。

 

 つまり、お金は、「手段」であって、それ自体、「目的」ではないのではないかと考えられます。

 

 次の説、「性欲」

 

 つまり、人間は、セックス、あるいは繁殖するために、生きているのでしょうか。

 

 では、セックスや繁殖していない人たちは、生きていないのでしょうか?

 

 そうとも言えません。彼らも生きていますし、子供を持たずとも、有益な成果をもたらしていると言える人は多くいるでしょう。

 

 すると、人は性欲のために生きているというわけでも、ないのかもしれません。

 

 では、愛はどうか?

 

 愛には色々な種類があり、友愛とか、博愛とか、色々とあります。

 

 では、人間は愛のために生きているでしょうか?

 

 愛があって、お金がない場合、これはどうか。

 

 この時、二人(厳密には、三人でも四人でも何人でもよい。最近は「ポリアモリー」というものもあるようです)は幸せを感じるか否か。

 

 お金がある人というのは、「富裕層」と呼び得る人達かと思います。富裕な人が価値を持っているとすれば、おそらく富裕な人が希少価値を持っているからでしょう。つまり、富裕な人は普通の人と比べると、希少なのかもしれません。

 

 では、その希少な富裕な人たち以外には、愛を得ることはできないのでしょうか。

 

 しかし、これはどうも実態どおりではない。

 

 必ずしも富裕でなくても、愛を得ている人はいるように思われます。

 

 つまり、愛の幸福自体は、富裕でなくても、入手し得るものであるのかもしれません。一時の愛にせよ、長期的な愛にせよ。

 

 では、性欲主体ではない愛はどうか?

 

 これもある程度成立するようです。「プラトニックラブ」という概念がありますし、また、そうした純な愛を描いた漫画作品などもわりに見受けられます。

 

 すると、必ずしも、性欲がなくても、愛は成立し得るようです。

 

 友愛などはこれなのかもしれません。親友との語らいなどは、基本的に、至福のものかと思います。

 

 そのように考えると、人間は、お金や性欲を満たすことでは、幸せになれるとは限りませんが、愛を満たすことができるとある程度幸せな気分になれるのではないか、という仮説を抽出できます。

 

 そのための手段として、お金や性欲が用いられることが多いのでしょう。目的自体は、おそらくあくまで、「愛」であろうと思われます。

 

 では、愛を求めない人はいないのか。原理的にはそういう人も想定できるはずです。その人たちは幸せになれないのでしょうか?

 

 これは非常に難しい問題です。

 

 しかし、個人的な見解としては、基本的にそういう人はいないのではないかと思います。ぜひ、みなさんのデータも教えて下さるとありがたいです。一応、このように観察結果だけは報告しておきます。

 

 では、愛とはどうも目的であり、その限りで、それを目指すこと自体が理に適っているもののようです。

 

 ならば、愛とは善であり、かつ、理に適っている、と言えそうです。

 

 では、愛とはそもそも何なのか?

 

 これは善なのだとすれば、愛について記述することは難しいです(これについては、当ブログの「創造術」という記事をブログ内検索からご覧ください)。

 

 ただ、愛への「固着」については記述できるかもしれません。それは「変化」ではないからです。

 

 愛とは「幽玄」なものなのかもしれません。

 

 愛とは「よくわからない」もの

 

 では、この世界に、よくわからないものは存在すると言えるか。

 

 世の中、そんなことばかりですので、これは存在すると言えるかもしれません。

 

 そもそも、「世界」とは何なのかが不明です。ならば、世界の中に存在するように見える、愛についてもやはりよくわからないです。

 

 愛とは「空」(仏教用語です)なのかもしれません。

 

 定義上、愛は「奇跡」の類のもので、論理的考察には限度があるようです。もしかしたら、語り得ぬことなのかもしれません。

 

 しかし、語り得ぬことと、それがこの世界に存在しないことは別の話になります。

 

 例えば、僕たちは、「世界」そのものについて語り得ませんが、世界は紛れもなく存在しているとも考えられるかと思います。一般的には。

 

 つまり、愛とは、よくわからないけども確かに存在するもの、であるということになります。

 

 また、僕たちが、愛によって幸福を感じるということは、曲がりなりにも、愛を知覚できるということです。

 

 すると、愛とは、「よくわからないけども確かに存在し、また論理的にはその実体についてはわからないが、それが存在する時はそれと分かるもののこと」、ということになります。

 

 つまり、いかなる論理によっても、愛は計測不能である可能性があります。

 

 それは非論理です。

 

 したがって、次のように結論できます。

 

 正しさとは、「善であり、愛であり、論理的にはよくわからないが、それが存在するときにはそれと分かるもののこと」を指していると言えるかもしれません。

 

 前回の「モテ術とか説得術とか」という当ブログの記事で、「正しい人がモテるのかもしれない」という仮説を立てました。

 

 それと今回の考察結果を合わせてみますと、

 

 モテる人とは、「善であり、愛であり、論理的にはよくわからないが、それが存在するときにはそれと分かる人のこと」であると考えられます。

 

 このように定義するとすれば、モテる人とは、やはり、「記述不能」となります。善とは変化であり、記述しようとしたそのそばから、「変化」してしまうと考えられるからです。

 

 つまり、「モテる」とは、論理的には定義不能の言葉となります。

 

 今回の話の筋の場合には、論理的には、どんな人のことを「モテる」というふうに表現するのかがよくわからないのです。

 

 モテる人とは、一個の謎であり、世界の隠された「秘密」であると言えるかもしれません。

 

 同じように、正しさとは、「一個の謎であり、秘密である」というふうに言えることになります。

 

 正しさは、唯一のものなのか、それともケースバイケースのものなのか、それすらも正確なところは不明です。

 

 ただ僕に、非論理的な知覚ながらも分かるのは、「親友なり恋人なりが寄りそってくれている時、自分はたまらなく幸福を感じているようだ」ということです。

 

 そこにある「何か」が、愛であり、正しさの正体なのかもしれません。

 

 性欲を満たしたり、お金を稼ぐことも、重要なことであり、それはそれで極めればすごいことです。

 

 しかし、性欲を満たす方法やお金を稼ぐ方法は、ある程度は記述できます。

 

 それに対し、愛を得る方法というのは記述がとても難しいように思われます。

 

 方法論的に得られた愛を、愛と呼ぶのかどうか、という問題もあります。なぜなら、その「愛と呼ばれているもの」は、方法論として「記述」されているため、その時点で、「変化」ではなく、善ではなく、愛ではない、と想定されるからです。

 

 強いて「説法」として言えば、このどうしようもない不確定な世界を知覚し、その中で生きること、つまり「空に回向すること」が、モテるための手法なのかもしれません。これがそもそも手法と呼べるのかどうかも定かではありませんが。それらは非論理的に直観することしかできず、論理的には理解できないものですので。

 

 正しさ、正義とは、どうも論理的に考えるならとても難しいもののようです。あんまり分かりやすい言葉でもないように思われます。これは、論理というよりも、文学的、芸術的、あるいは立法的な、「超越」した概念なのかもしれません(これについては、当ブログの「愛と欲望について」という記事をご覧ください)。

 

 今日は以上です。

 

 ではまた~