魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。

サイコパスとの共存術

 みなさん、こんばんは。

 

今日は「サイコパス」について考えてみましょう。

 

では、サイコパスとは何か。

 

これは、「良心を持たないか、あるいは良心が極めて少ない人」のことのようです。

 

僕は、個人的には、良心が全くのゼロであるということは果たしてあり得るのか、と懐疑的なのですが、「良心がゼロの人間はいる」という考えも原理的にあり得ますし、可能性としてもあり得ます。

 

まず、サイコパスとは、概ね、反社会性パーソナリティ障害と被る概念のようです。

 

したがって、サイコパスの概ねの短所は以下の通りになります。

 

1.法律や規範に従うことができない

2.利己的に他人をだます

3.衝動的かつ計画性がない

4.喧嘩や暴力をしやすくちょっとしたことで怒りやすい

5.自分や他人の安全を考えられない

6.無責任

7.良心の呵責の欠如 

wikipediaを参考にしました)

 

法律や規範から逸脱してしまいますと、社会秩序を乱してしまいます。利己的に他人をだますと、被害にあった人は詐欺にあってしまいます。衝動的すぎてなおかつ計画性がないと、長期的なスパンで物事を考えづらくなります。多くの貴重な技能は一朝一夕に身につくものではないことを考えると、そうした技能は身につけづらくなるのではないかと推理することもできます。暴力などを振るいやすいと社会秩序を乱しやすく、また、怒りっぽいということは、攻撃的な人であるというふうにも考えられます。安全について考えられないというのは、ハイリスクハイリターンを好むことを示します。つまり、失敗した時の打撃が非常に大きいです。最後が最も重要な点かと思いますが、サイコパスとは「良心」が欠けている存在とされているようです。良心が欠けていれば、規範判断や法律に従うことが困難になりますし、良心の呵責がないのであれば、何かサイコパスの人が犯罪を犯したとしても、その刑事責任を問うて、それに対し罰を与えても、改善は期待しづらいことになります。

 

 以上の特性を逆算すると、サイコパスの長所は、次の通りになると推理できます。

 

1.戦争や諜報活動などの脱法的領域において力を発揮しやすい

2. だますのが得意なので、食うか食われるかの過酷な環境に適応しやすい

3.衝動的なので、攻撃力が強い

4.暴力を振るいやすいので、攻撃力が強い

5.安全を気にしないので、危険な仕事に適応しやすい

6.無責任なので、重要な責務を背負っても押しつぶされづらい

7.良心の呵責がないので、脱法的領域において力を発揮しやすい

 

通常の人間にできないようなことができるということは、サイコパスの短所であると同時に、「競争」面では強みでもあります。上記のサイコパスの長所としての特徴を見るに、サイコパスは戦闘的というか、熾烈で過酷な競争環境に適応するのには向いているようだ、というふうに推理できます。そのせいなのか、一説によると、サイコパスには社会的地位の高い人が多いのだそうです。 

 

現実的に、僕たちの住む世界は問題だらけで、なおかつ、それなりには腹黒い世の中なのかな、と思います。それに、色々なものが国際化している時代ですので、競争も世界規模になり、熾烈化していくかもしれません。

 

そのような過酷な環境においては、競争に強いサイコパスの資質はそれなりに有用なものとなりえるのかもしれません。

 

しかし、一方で、サイコパスには秩序をあまりに致命的に乱してしまう可能性もそれなりにあるという短所もあります。

 

では、そのようなサイコパスの人たちとうまくウィンウィンな関係を築きながら、共存していくにはどうすればいいかを考えてみたいと思います。

 

まず、サイコパスの最大の特徴は、おそらく、「良心の欠如」なのだろうと個人的には考えます。

 

では、良心の欠如した利己的な人に対し、どのように接すれば、良心のある人たちは、彼らと共存することができるかについて考えます。

 

まず、良心が欠如しているということは、彼らは純粋な贈与(個人的には、「愛」などはこれなのかな、と思っています)ができないのだろう、というふうに推定できます。つまり、全てを等価交換の原則で考えているのだろう、と推定することができます。

 

利己的であるということは、逆に言えば、自分に利益があれば、その通りに動いてくれるというふうに推理できますので、ある意味、行動が分かりやすくなります。

 

また、衝動性があるのなら、難しい話を延々と聞いたりするのには向かないでしょう。

 

ならば、非常に簡単な話法で、犯罪をした場合よりも犯罪をしない場合の方がサイコパスにとって得であるような世の中であることを説明すればよい、ことになります。

 

これが可能であるためには、世の中自体が、前提として「公正」である必要があります。なぜなら、正直者が馬鹿を見るような環境であれば、サイコパスの行動原理にのっとって、犯罪を犯した方が、功利的に見て、合理性があると判定されてしまうであろうからです。

 

彼らに対し「罰」が効力を持たない(一説によると、サイコパスは良心が欠如しているため、罰を与えても反省しない、とされているようです)ということは、彼らの利己心に働きかけるしかない、というふうにも考えることもできます。

 

つまり、世の中が「不正」であれば、サイコパスの犯罪は増加するかもしれません。

逆に、世の中が「公正」であれば、サイコパスの犯罪は減少するであろうと推理できます。

 

よって、不正な社会と公正な社会を判別するには、サイコパスの犯罪数を計測するというのもひとつの手かもしれません。

 

サイコパスの犯罪数が多いということは、その世の中自体に不正が多い可能性があると推理できます。

逆に、サイコパスの犯罪数が少ないのなら、その世の中自体の公正が多い可能性があると推理できます。

 

つまり、サイコパスの人も犯罪をしないような世界は、非常に公正なのであろうと予想することもできます。

 

逆に、サイコパスの人たちが犯罪に走らざるを得ないような世界は、非常に不正なのであろうと予想することもできます。

 

この点から、サイコパスの人たちには、その世の中の公正さを測る一種のバロメーターとしての機能があると推理することもできます。

 

サイコパス犯罪が増えて困るということは、もしかすれば、それだけその社会は欠陥を抱えているのかもしれません。

 

したがって、良心のある人たちが、サイコパスの人たちと共存するには、社会が次のような状態になればいいと考えられます。

 

1.功利的な説明がうまい

2.公正である

3.犯罪をしない方が得である

 

つまり、社会が、公正で、犯罪をしない方が得ができて、そのことを分かりやすく説明することのできる機能を持っていれば、サイコパスの人たちと共存できるのではないか、という一つの仮説を立てることができます。

 

簡単に言いますと、「正直者が馬鹿を見る」というふうな社会の場合には、サイコパスによる犯罪数が増えるのではないか、というふうに考えられます。正直な方が得をするのであれば、――あるいはそのことが適切に了解されているのであれば――サイコパスは利己的であると今回想定していますから、彼らは正直になろうという選択を採るはずです。

 

ならば、犯罪を減らすためには、サイコパスの人たちが割を食わないような適切な公正さを持った社会であることがまず、前提として必要となるのではないか、と個人的には思います。そもそも、社会が公正でないのなら、公正でない社会が、サイコパスを裁くというのもおかしい話になります。

 

では、「公正」とはどのような状態なのか。

 

まず、公正には二種類あるであろうと考えることもできます。

 

1.機会の公正

2.結果の公正

 

類似概念に、「平等」というものがあります。この場合、

 

1.機会の平等

2.結果の平等

 

となります。

 

まず、機会について。

 

これは、平等で公正であることが望ましいでしょう。なぜなら、そもそもの端緒である「機会」が欠如していた場合、たとえいかに才能があったとしてもそれを発揮することはできないであろうからです。したがって、機会は平等で公正であることが望ましい。

 

では、結果はどうでしょうか?

 

概ねここで意見が割れるのではないか、というふうに個人的に思うこともあります。

 

まず、結果が「不正」であった場合、これはどうでしょうか。不正な結果ならば、これはよくありませんね。したがって、結果は「公正」であることがより望ましいとも考えられます。

 

問題は、「結果」を「平等」にするか否かなのです。

 

これはけっこう難しい問題だな、と個人的に思っていました。

 

ただ、サイコパスの人たちと共存を目指すという方針を採るのならば、割にスパッと判断していけるかもしれません。

 

まず、サイコパスの人たちは競争分野に強い、というふうに先ほど考えました。

 

ならば、サイコパスの人たちの心を満たすためには、その競争分野に長けた才能を活かす環境が必要になります。ハイリスクハイリターンな環境が。

 

したがって、この観点からは、結果は平等にするべきでない、というふうに判定できます。

 

つまり、社会に競争の余地を、当面は残しておくのが最適打かもしれません。

 

また、現実的に、世界における競争も激化していく中で、そのような事態に適応するためには、サイコパスの人たちの力が必要となるのではないか、とも考えられます。

 

その点から見ても、サイコパスの人たちと共存を画策するのが合理的でしょう。

 

少なくとも言えるのは、サイコパスの人たちの力が必要とされる場面自体は現実的にかなり多くあるのではないか、ということではないかと思います。

 

 

好むと好まざるとにかかわらず、サイコパスとは共存してゆく道を模索するのが人類にとって最善の選択であると、私は考えます(中野信子,『サイコパス』,文藝春秋,2016,p.230より引用)。