魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。

統合失調症の制御術

今日は統合失調症を制御する術式について考えてみます。

 

結論から言うと、大きく二つのポイントがあります。

 

  1. 多様な現象について感じること
  2. 多様な現象について考えること

 

逆に言うと、バリエーションのない無味乾燥な環境はおそらく統合失調症にはあまりよくないように思います。そうではなく、豊かな刺激のある環境に身を置くことが重要です。

 

以上のポイントを一つにまとめるなら、統合失調症を巧く制御できるためには徹底的に多様性を尊重する姿勢が重要であると言えます。

 

では、具体的な「感覚」の仕方と「思考」の手順について考えてみます。

 

例えば、「私の命が狙われている!」というような妄想が生じたとします。この時には、まずは多様な現象についてよく感じられるように努めるのがいいように思います。

 

もしも本当に命を狙われているとすれば、それは一大事です。しかし、一方で、もしも本当は命を狙われていないのに命を狙われていると殊更に喧伝してしまえば、周囲の人たちに対するあなたの権威は失墜してしまうでしょう。その場合、「大げさな人」と思われたり、「妄想に囚われた人」、あるいは「頭のおかしい人」というような類のレッテルを貼られて差別を被り、現状よりももっと強い排斥を人々から受けるリスクが非常に高いです。これは明らかにあなたの利益になりません。ゆえに、ひとまず次の三つの判断基準を設けることが重要です。

 

  1. 命が狙われているとすれば猶予期間はどの程度あるか?
  2. その猶予期間の算定方法は事実に基づき、論理的であるか?
  3. 猶予期間が限りなくゼロである場合、警察に連絡するべきである。

一つずつ説明します。

 

まず、自分の命にどの程度の猶予が残されているかを大雑把に確認します。ここで、例えば、「幻聴が一時間後に世界が滅亡すると主張している」というような事柄がその判断のひとまずの根拠であるとします。

 

では、次に、その猶予期間の算定方法が事実に基づいているかを確認します。この時にそれまでの幻聴についてのデータを頭の中で軽く整理してみてください。おそらく、真実の神託を授けてくれる聖霊や神霊は希少であることから、ほとんどの幻聴の内容は何らかの欺きや嘘で構成されているはずです。つまり、そうした幻聴の内容は十中八九で外れているはずです。

 

そこで、論理的に思考を展開してみましょう。まず、幻聴による預言のほとんどは悪霊による欺きであり、ほとんど当たらない。次に、常識によった知識は大きなベネフィットはないものの、手堅く高い確率で的中しやすい。また、神霊による預言であれば、どのような常識や理論によっても論破不可能な絶対の言葉がそれであり、それらの内容は普遍的であるのだから、どこにいても通用する洗練された美しさを持っていなければおかしい。したがって、まずその幻聴による「預言」が「美しい」ものであるかを確認してみましょう。汚言で構成されていたり、物事の価値を貶めるような穢れで構成されている言説であれば、心をかき乱すことはあっても、美しい印象は持たないはずです。その点を確認したら、次に自分の知っている限りのすべての「常識」を十全に「統治」できるだけの実力をその預言がもたらしているかに着目し、常識とその預言を論戦させてみてください。悪霊による幻聴であれば、ほとんどの場合、常識による理論の方が整合性が強く、未来を有効に予測しやすいはずです。基本としては、より当たる確率の高い方の理論に批准するようにします。以上のことから、次のポイントを確認すべきでしょう。

 

  1. その幻聴による預言は美しいか?
  2. その幻聴による預言は常識よりも当たる確率が高いか?
  3. その幻聴による預言はあなたを現に長期的な幸せに導いているか?

 

つまり、美しく、高確率で有効な行動につながり、なおかつそれが偽りなく現にあなたのことを幸せに導いていれば善い幻聴であり、聖霊ないし良性の精霊の「声」として判定します。一方、醜く、ほとんど無効な行動につながり、なおかつそれが現にあなたの幸福に貢献しないのであれば悪い幻聴であり、悪霊ないし悪性の精霊の「悪戯」として判定します。また、そのどちらでもなく、つまりいわゆる「霊」によらないような明白な「物理的な危機」に直面しており、状況が手に余る場合には、速やかに警察などの公的機関に連絡すべきです。

 

幻聴の基本的な扱いとしては、良性の精霊の声に耳を傾け、悪霊の悪戯は避けるようにするといいでしょう。そのための霊についての判定基準は先述の通りです。

 

以上のメソッドは急迫の事態に対処するための判断のアルゴリズムですが、余裕のある時で、法律を越える必要性などが特段ない時には、常套手段として、最初に述べた「多様性の尊重」を用います。

 

個人的な観察の限りでは、妄想は多種多様なデータの不足から生じています。つまり、多種多様なデータを無理せずにバランスよく心身にインプットしてやれば改善するようです。

 

そのためには、身の回りのものを「集中せずに」ぼうっと観察してみるのが有効です(「デフォルトモードネットワーク」について調べてみるのもいいでしょう)。集中は認識をある部分に集中させ、偏りを生むからです。全体を俯瞰するイメージです。注意をなるべくランダムに色々なところに分散し、それによって色々なものを同時多発的に少しずつ観察します。

 

そして、「移動」も大事です。少し観察する場所を変えれば、認識上には無数の変化が生まれます。つまり、「散歩」のような習慣も有効だと思います。ただし、その際には車などに気を付ける必要もあり、ぼうっとしすぎると危険であるため、移動しながらぼうっと観察するというのはけっこうレベルが高いです。移動中は交通の状況に十分に注意して、車の交通などのリスクがないような、公園のベンチなどに座って辺りを三分ばかりぼうっと観察してみるのもいいでしょう。おそらくあなたが統合失調症であれば、それだけでも多種多様な有効な気づきが得られるはずです。それらの情報は大切にあなたの方で秘蔵しておいてください。

 

以上のメソッドを簡単に一言でまとめれば「注意力を積極的に周囲にバランスよく分散するように努める」ということです。

 

その上で、なるべくバランスよく「思考」を積み重ねます。

 

この際、「集中」しすぎないことが重要です。抗精神病薬の服用などによってある程度は前頭葉などの脳の機能が抑制されてしまっているために分かりづらいですが、統合失調症の人は集中力が非常に高いです。したがって、なるべく「集中しないように」努めます。

 

具体的には、「一つの物事を集中的に考えすぎない」ようによく注意します。なるべく思考をたくさんの分野に分散してください。例えば、三分間ほど恋愛のことについて考えたら、思考が煮詰まって来る前に頭を切り替えます。そして数学を三分間ほど考え、絵画のこと、料理のこと、生活のこと、お金のこと……などなど、「ありとあらゆることをそれぞれ少しずつ満遍なく思考するようにすること」が有効だと思います。このことによって、思考が煮詰まるのを防ぎ、思考が妄想になるのを防げる可能性があるように思われます。何事も焦ってしまうと物事に囚われてしまって現実が見えなくなりやすいように思います。何事も焦らず、少しずつ実践を積み重ねるのがコツです。大概、焦ってしまうと脳なり骨格筋なりが故障します。逆に言うと、じっくり少しずつ実践を積み重ねていけば、そうしたリスクを避けやすいです。急がば回れですね。いきなり完璧を目指すと挫折するので注意しましょう。

 

以上の手続きによって、感覚と思考を多様な分野に分散することが統合失調症の制御の基盤になると思います。

 

以下では、以上の術式の理論的基盤について軽く触れておきます。理論については必ずしも理解できなくても大丈夫ですので、面倒なら飛ばしても構いませんが、一応書いておくだけ書いておきます。

 

基本は、統計の原理に依っています。つまり、偏りのないデータの収集によって正しい判断を行えるようにしています。統合失調症の場合でも、偏りのない感覚を深めていくことで、より判断力を適正に強化できるように思われます。

 

また、そのために、デフォルトモードネットワークを積極的に用います。意識や注意を周囲に薄く広く分散するようにして、どこかに集中的に偏らないようにします。こうした意識が集中していない状態は「ぼうっとしている」と表現されやすく、これも重要です。積極的にぼうっとすることで注意力を分散し、感覚や感じられるデータが偏らないようにします。

 

そして、「感覚」の場合だけでなく、「思考」についても以上の「注意の分散」の原理を応用します。言わば、「思考の分散」ですね。このことによって、思考がカント的な「純粋理性」に衝突してアノミーになるのを防ぎつつ、多様なデータを広く偏見のないようにバランスよく処理することによって、より正確な判断力を養成するように努めます。

 

今回の記事の結論をまとめます。

 

  1. どんなものも広くバランスよく少しずつ観察してみるといい。
  2. どんなものも過度になると毒になる。集中力も同じ。「少しずつ」が大事。
  3. どんなものも広くバランスよく少しずつ思考してみるといい。

 

P.S.

あらゆる多様性の価値を尊重する姿勢はあらゆるもののことを優しく「愛するということ」でもあります。その意味では、「愛」の作用こそが統合失調症を治癒に導く可能性が高いです。愛されることにせよ、愛することにせよ。この点についてはオープンダイアローグの理論なども参考になるでしょう。興味があれば、調べてみてくださいませ~。