いつの世の中でも理不尽というのはあるものである。というかそればかりだ。それは当事者たちにとって辛く厳しい。そういう道だ。しかし、それでもそうした道までが、いつの日か必要なものとなるような、そして完全に解釈が変わってしまうような救い、そういうものにこの世が支配されてくれるような日も来るかもしれない。私はそうした日を待ち望んでいる。今も、明日も、そして遥かな過去にも。
佐奈は「自分は今、何を考えているのだろう?」と自問した。それが彼女の作法だった。何をするにもすべてをそこから演繹するのがその思考の癖であった。彼女は今日見た夢のことを考えていた。その夢によれば、どうも自分は近いうちに死んでしまう。なら、今何をするべきだろうか? そう思った。佐奈の「夢」の精度はこの世界のあらゆる現実の複雑性を打ち砕けるほどのものである。彼女の「夢見」にかかれば世界の原理は瓦解してしまう。
――危険な性質である。
世間も当然そう判断した。そこで彼女は病院の中に隔離されているのであった。
佐奈の夢見が現実化するまでにはいくつかの工程があり、幾重にもあるその段階を通過しないことには、さすがに世界の原理を変質するまでには至らないのだ。そこに付け入り、彼女を隔離することに成功したのは当時の精神医学であったが、そこにはベルグソンの時間論やフェヒナーの精神物理学の着想が大きな役割を果たした。
佐奈は来る日も来る日も本を読んだ。彼女はかなり精度の高い直観像記憶を持っていて、ものすごく記憶力がよかった。生物学の本に彼女は最初に手を付けた。「人間」について並々ならぬ関心を示していた。そこから医学に関心は移り、その必要性から諸々の自然科学分野にまでその興味は波及していった。文学的技術は彼女の膨大な知識の中では比較的劣り気味であった。それでも得意の記憶力を用いて、様々な文献を記憶し、頭の中で正確に整理し、それを長期にわたって保持することができた。図書館の司書のように。彼女は聖書やタルムード、そしてコーランなどを好み、初期の頃には既に独学で暗唱できた。
彼女はダニエル書をよく読んでいた。自分の夢を解くのに使うのだと彼女は言う。しかし、それがどういうことなのかは私には分からない。
彼女の隔離されている区域は病院であると同時に学校でもある。社会から見て問題があるとされている人々が隔離されている。
佐奈達にはそれぞれに特有の「病名」がつけられていたが、彼女のそれは「先天性異常記憶亢進型反世界性人格障害の境界例」というものであった。実際には彼女の人格はとても立派でかわいらしいものであったが、世間が才能ある人々に辛辣なのは常にそうである。
佐奈のカルテには佐奈についての事実がたくさん書かれていたが、それらの事実は佐奈の人格の一片も適切には表していなかった。非人間的で冷酷な記述の数々であり、触れることさえ私にはおぞましい。
佐奈は定期的に医師の「診察」を受ける。医師にも様々な人がおり、その多くは佐奈を物象化していた。それは医学の一つの側面ではある。対象の人格性を破壊せずに保持したままでは、その体にメスを入れることさえできないのだから。佐奈にたびたび用いられたのは物理的な「メス」ではなかったが、言わば「精神のメス」とでも言うべきものがそれであった。このメスの恐ろしいのは、原理的に意識のある状態で使用されるものなので、麻酔などは併用しないということである。幼い彼女の心は見事にズタズタに切り裂かれ、彼女が泣きじゃくることもしばしばであった。
それなのに佐奈があえて自身に対する虐待者である「人間」に関心を示し続けたのは奇跡的なことであった。彼女の生来の慈愛の深さがそうさせた。
さて、そんな佐奈も成長していった。十五歳の頃に彼女は一人の同年代の男の子に出会った。とても頭の良い男の子でその名前を冬と言った。
冬は佐奈に言う。
「初めまして、佐奈さん。僕は冬と言います。今日からあなたについての監査を手伝うことになるので、よろしくお願いします」
佐奈は、何も言わず、微笑んで会釈を返した。
その時に冬は佐奈の瞳に吸い込まれそうになる自分を感じた。佐奈は美しかったし、聡明でもあったので、彼が彼女に惚れ込むのにさほど時間はかからなかった。
佐奈と冬は色々なことを語らった。佐奈も冬との時間がとても楽しかった。それは独りぼっちだった彼女の生活に差したただ一つの茜だった。
冬の愛着は佐奈に移っていき、組織への信頼は彼の中でガラガラと崩れていった。彼は思う。
――なぜこんなにいい子がこんな場所でこんな扱いを受けていなければならないんだ?
冬は当初、佐奈は筋金入りの人格障害者であり、世界を滅ぼしかねない悪党であると組織から吹き込まれていた。しかし、聡明な彼の目にその嘘は空しい張りぼてにすぎなかった。
冬は佐奈に自分の計画を話した。
それは冬の知能の全力を尽くして計画されたこの隔離施設からの――もっと言えばこの世というものからの――「脱走」の道筋であった。この時には、彼は佐奈を守るためなら何でもすると心に決めていた。
冬は佐奈に言う。
「ここから逃げよう。ここは佐奈にふさわしくないよ」
佐奈は言う。
「逃げれる場所なんてこの世界のどこにもないよ。みんな私のことが嫌いだもの」
冬は言う。
「少なくとも僕はそうじゃない。そして、僕なら君の持つその知識を有機的に連関づけて、実効的な戦略に昇華できる。僕はそういうことばかり教えられてきたから、荒っぽいことは得意なんだ。だから大丈夫」
佐奈は無言でうつむいている。冬は彼女に重ねて言った。
「こんなこと言うの恥ずかしいけど、僕は実は佐奈のことが好きなんだ。初めて会った時からずっと」
佐奈は顔を上げた。そして冬と目が合うと恥ずかしくて目をそらす。彼女も年頃の女の子であったし、冬は素敵な男の子であったから、自然とそうなった。
「……いいよ。冬の言うとおりにする……」
と佐奈は言った。
冬は思わず佐奈を抱きしめてしまい、佐奈はあわあわとうろたえていた。
それは佐奈の人生の幸せな瞬間であった。
そして佐奈と冬の脱走計画は始まった。冬は信頼のおける仲間に手際よく差配して、佐奈をその牢獄から連れ出した。
無論、追手は迫ってくる。一刻の猶予もないし、全体的な戦略の観点から見れば、佐奈は「世界の敵」にカテゴライズされるのだから、どうしてもその追及を免れることはできない。逃れられるとすれば、常に戦い続ける場合だけである。そして冬はもうその覚悟をしていた。彼は佐奈を守るためにこの世界を敵に回すと心に決めていた。
冬は見事な戦略的な手腕で追手を牽制し、時に殺した。
一人、二人、三人、四人……殺して、殺して、殺して、殺した。
しかし、如何に冬の頭脳が優れていても、この世自体が敵であれば、敵は無限に供給されてくることになる。いずれは破綻するのは目に見えていた。
冬の仲間も殺されていった。
一人、二人、三人、四人……殺されて、殺されて、殺されて、殺された。
冬は悲しかった。しかし、その悲しみが敵にもまたもたらされていることを洞察できない冬ではなかった。その心は死んでいく。
佐奈は日に日に傷ついていく冬を見ていられなかった。彼女は思う。
――おかしい。彼が傷ついていい道理なんてないのに。なぜ彼が傷ついている?
そして佐奈は言う。泣きじゃくりながら。
「冬ごめん。全部私のせいだ。冬の人生めちゃくちゃにしちゃった。ごめん。もう私のことはいいから、冬だけでも逃げて。それで生きて」
冬は佐奈を泣かしてしまった自分を悔いた。彼は思う。
――結局、自分も彼女を泣かせている。これでは奴らと何も変わらない。
冬は苦笑した。そのあとに涙がぽろぽろと流れてきた。彼は思う。
――佐奈を守りたかった。だけど、それはできなかった。自分は無力すぎた。
冬と佐奈は最後の日に互いの身体を抱きしめ、そして口づけた。
佐奈は思った。
――自分がもっとしっかりしていたら、冬を巻き込まずに済んだのに。ごめん、冬。
冬は思った。
――自分にもっと力があれば、佐奈を守り通せたのに。ごめん、佐奈。
現実は非情なものである。彼らの想いとは裏腹にこの世は彼らの運命を飲み込んでいく。
そしてその時が来る。
やがて捜索隊は佐奈と冬の遺体を発見した。彼らの死に顔には涙の跡が残ってはいたが、とても安らかなものであった。そして記録された。
――二人は逃亡の末に行き詰まり、自殺したものと見られる。
さて、一体何が正解であったのだろう? それは私にもわからない。
生きていく意味を
ここで探すなら
誰も悪を望みはしない
水谷瑠奈, 「Philosophyz」の歌詞より引用