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魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。

泣きたくなる話

直観術実践事例

 真面目が良いことなのか悪いことなのかは、正直私にはわからない。

 言えることと言えば、月並みなもので、真面目すぎるのも危ないし、不真面目すぎるのも危ないのではないか、という無難な提言でしかない。

 それが、私の限界だった。私にはそもそも大したことができる器がないのだ。

 立法することができない。断言することが。

 しかし、今、立法することに成功しているという矛盾はある。つまり、立法することができない、と断言している。

 これを契機にして、私は断言の機能を回復することができる。「ああ、私にも断言することができるんだ」って。

 すると、すこしずつ、断言できるようになってくる。私の場合は。

 人間は、天邪鬼な性質がある。

 裏返しな性質。

 そういう性質をすごく穢い性質だと思う人もいるかもしれない。

 実際、それは穢いのかもしれない。

 しかし、そうした穢いものの中に創造性があることもまた、あるのだと思う。

 アル中でも、立派に小説を書く人もいるかもしれないし、精神に変調をきたしている変人でも、素敵な絵画を描く人もいるかもしれない。

 トイレがアートになることもある。

 そう言ったことは、往往にして、社会的な文脈に依存している面もある。そして、そう言った社会的な文脈の動きは、未来を予測することが難しいように、けっこう難しい。すくなくとも、私の予想はあまりあたらない(私は未来の予想が苦手なのだ)。

 ただ言えるだろうと思うのは、穢いと呼ばれる性質を、切り捨てるのは危ないということだ。清潔への執着は、強迫神経症となる。

 ある程度、穢れへの耐性が必要で、そのためには、穢れへの暴露が必要となるのだ。

 人間は、きれいなものと穢いものとが両方そなわっているときによく生きることができるのではないだろうか。

 自分を律する心。そういうものがあってもいいだろう。それはそれでとても素敵なことだと思うし、その心意気を邪魔するべきでもないし、また本心からそのように決めている人のこころを動かすことなど私にはできない。

 時に自分を律することができないこともあるだろう。また、「律するべきではない」時もあるだろう。何事につけ、人間と呼ばれる生物としての不完全な器官には、「ガス抜き」が必要となるのだ。

 適度に、自分を律することから解放しなければ、すぐに精神や身体が破綻してしまう。とてもデリケートで、そして、カオスだ。

 その心の奥底は混沌としている。そこに浸りすぎても危ない。そこを避けすぎても危ない。

 すると、また、先述した、元の月並みな意見に回帰することになる。それはまとめると、こうなる。

 「過ぎたるは及ばざるがごとし」

 何の面白みもない帰結だ。だから、もうすこし話してみようと思う。このまま終わるのでは、何か心もとない。この先の話がおもしろくなるだなんて保証はどこにもないけれど。それでも、やってみる価値はあると、わたしは信じるし、いつも信じてはいる。

 さて、すると、なにが大切なのか。

 新しいことに挑戦することだろうか? ならば、大切なのは勇気ということになるだろう。

 勇気は重要な徳の一つに数えられるだろう。僕も勇気の価値については、信じて疑わない。

 しかし、勇気が蛮勇となることもあるかもしれない。あるいは、蛮勇は勇気とは呼ばないという方法もあるが、それは、カテゴリーの分け方の問題である。

 さて、この時、ポイントとなるのは、はたして、蛮勇は本当に役に立たないのか? という問題である。

 もしも、穢いとされるものが価値を持つことがあるのなら?

 蛮勇もまた、貴いものとなる可能性を十分に持っているであろう。

 本当の勇気とされるものが、傍から見たら、無謀に見えることもあるかもしれない。本当に色々なケースが具体的に考えられるのだ。一概には言えない。本当に。

 しかし、だからと言って、「一概には言えない」の一言で片付く問題ではない事もまた事実だ。私たちには、不完全であると知りながらも、「一概に言うべきである」局面があるのだ。

 それは、穢い。偏見だ。何せ、熟考の果てにたどり着いたものであっても、独断にはちがいないのだから。

 しかし、それでも、私たちは、どこかで折り合いをつけるしかないのだ。そういう穢いものと。

 そうしないと、延々と懐疑のみが募り、いつまでも、いつまでも、喧騒が響くことになる。

 もちろん、喧騒が悪い訳がない。それはケースバイケースだ。酒場の喧騒はそれなりにいいものである。

 しかし、懐疑主義の場における喧騒はどうであろう? それには収束する兆しというものがない。はたして、それでいいのだろうか?

 リベラルという言葉がある。

 私にはこの言葉はよくわからないが、どうも自由を強調する立場を表しているらしい。

 保守という言葉がある。

 これは、どうも、現状維持を強調する立場を表しているらしい。

 この場合、これらは、無論、どちらも大切だ。

 現状を維持する能力も、自由に挑戦する能力も。

 なんて、月並みな言葉だろう。

 また、これだ。

 

 「過ぎたるは及ばざるがごとし」

 

 まったく、私の文章には、独創性というものがまるで欠けている。どうして、こうも分かり切ったことしか言えないのだろうか。

 私は決めなければならないのだろう。独断で。穢く。

 強いて決めるとすれば、私は、保守とリベラルの中間で、いささかリベラルよりなのかもしれない。根拠と呼べる根拠もないのだが。何せ、「穢い独断」なので。

 しかし、いま、決断してみて思ったのだが、存外、こういうのも悪くない。そんな気がしてきた。

 なるほど、これは、ある意味で、楽かもしれない。効率的というか。

 それがいいことなのか、悪いことなのは僕にはわからない。しかし、決めよう。今日は何か決めてみよう。決定は覆ってしまうかもしれないが、それでも、この「実験」にはそれなりの意味があると私は信じてみることにした。

 決断は必要だ。生きていくために。しかし、「決断すべき」ことの数というのは、そんなに多くはないのかもしれない。

 私は卵を割って、卵焼きを作る。その動作を行うには、その動作への決断が必要だったのだ。「卵焼き作ろう」って。

 そして、私は、この卵焼きを作るという動作そのものについて、とても、とても暖かいものを感じるのだ。その決断に。それは穢い決断であってもそうなのだ。それは、独断だ。どうして、卵焼きを作る? そんなことを問うてどうするというのだ。

 なるほど。この言説もまた無意味だろう。知っている。知らないという形で。

 そして、この文体が、いささかどころか、きわめて気障であることもまた書いていて分かる。正直言って、何だか恥ずかしくなってきた。

 しかし、とりあえず、書けるだけは書いてみようと思う。それもたまには悪くないだろう。

 ところで、この、文章は、当ブログのカテゴリーで言うと、魔術ではなく、直観術に当たる。つまり、これらの文章は比喩なわけだが、いつもの文章よりは、多少論理的な比喩かもしれない。その点の評価は、この文章を読んだ人が好きにすればいいと思う。思えば、この態度もひとつの決断には違いない。

 小説というのは、ある意味、自分を隠すのに向いた媒体なのかもしれない。この文章もまた小説の一種だとすれば、ここに私のすがたはないのかもしれない。あるいは、隠れているだけで、ひょっこりと見える場合もあるのかもしれない。隠れているということは、「いない」ということを表しているわけではない。不在とは別の問題なのだ。

 私という中心があって、そこから世界が広がっているという価値観。これは、自己中心的だ。

 しかし、私の肉体に私の目玉がつきそれを通して世界を見る以上、私の世界観というのは、いつも、大なり小なり自己中心的なものなのだろう。

 利他も利己も所詮は、エゴイズムなのかもしれない。

 エゴ。

 エゴの消去自体は、難しくない。エゴなどないと思えば、エゴなんて、あっさり消えてしまう。

 しかし、その場合、「私」が消えてしまう。

 本当にそれでいいのかどうか。

 これは、ひとつの重要な命題になり得るだろう。

 私はそれでもいいと思うのだ。もしかしたら、エゴの消去などいうこと、主体性の欠如ということ、それは、とても、「穢い」ことなのかもしれない。

 しかし、その穢いことの中に、私は可能性を見たいのだ。あるいは、穢いことを許容する世界に可能性を見たい。

 これはとても難しい。

 犯罪を許容するということではないのだ。しかし、「犯罪性」は許容する。そんな感じのニュアンス。うまく言えないが。

 うまく言えない、というこの言葉は、とどのつまり、僕の「逃げ」なのかもしれない。これは、あるいは、卑劣な行いなのかもしれない。もしくは、この行いを卑劣だと感じるのは、僕だけで、本当は、卑劣でもなんでもないことなのかもしれない。

 それはわからない。

 これもひとつの穢い決断だ。わかることとわからないことを分けること。私にはとても難しいが、今日は思い切って、やってみた。

 もちろん、やってみただけでは不完全だ。そこから何らかのベネフィットを生み出せるのでなければ。

 この文章はどんなベネフィットを生み出しているだろう。

 それは、おそらく、被害者と加害者の関係に似たものだろう。

 私は、被害者になり得、加害者になり得る。すごく簡単に、そうなり得る。僕の文章が誰かを傷付けているかもしれない。誰かの文章が私を傷付けるかもしれない。そういう世界に、私たちは生きている。

 実際に観測しやすいのは、自分の傷であるが、私は、すごく些細なことで傷つくので、いつもボロボロだ。

 しかし、多くの場合、そうした、私を傷つける発言をしている人たちは、何も私を傷付けようと意図してその発言をしているわけではないことも分かっていた。

 そして、とても嫌なことだが、私の発言も、きっと誰かを傷付けているだろう。深く深く。

 泣きたくなる話である。

 

 

 

P.S.うーん。なんか微妙ですね。あんまり面白くはならなかったみたいです。残念。