魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。

悲しみを越えて……(大変にキュートな時空の不思議☆)

悲しいのは、悲しいものだな……とふと思いました。

 

それにしても、書くことがない!

 

文章について一つのパッケージが完成してしまったのかもしれません。自分の中で。

 

僕は別に文章の達人とかではないですが、色々なことに自分なりの答えが出ているのかもしれません。あるいは「出つつある」ということなのかな? とも思います。

 

しかし、如何に書くことがないとしても現実的には書くことは可能です。というのも、文章は自律的なものですし、僕に何も書けないとしても文章は勝手に紡がれていくようです。

 

不思議です。

 

世の中には無数の優れた音楽があり、そのことが僕のことを鼓舞してくれているようにも思います。

 

その中では、喜びの持つ意味は多大ではあるものの、限定的です。一方で、悲しみは無限の広がりを持っているように見えます。

 

不思議です。

 

僕はずっとこのような無限の悲しみに対抗する術を求め続けているのですが、なかなか短絡的な範囲では有効な解決策は見えません。

 

例えば、焦れば文章は壊れますし、遅滞すれば文章は消失します。これと同じことが人間の精神にも言えます。

 

言いたいことを自由に言う、というただそれだけのように思えることは、実のところ、非常に高度です。

 

少なくとも僕にとってはそうで、自由な主張は極めて、極めて高度な実現の一つです。

 

さて、何もかも消え去っていく中で、それでもなお抗いながら、僕たちにできることを探していかねばなりません。それが生きることなのだろうと思います。

 

悲哀は安易であるとする論調もあるかもしれませんが、僕はそうは思いません。

 

無論、喜びは安易である……とも思いません。

 

喜びもまた深遠なものだと思います。それは素晴らしいとも。

 

そして僕が思うところの最高峰の知見としては、そのような深淵――無論、この場合のそれは悲哀のそれですが――としてはある種の「滑稽さ」こそが突破口になるように思います。

 

耐え切れない苦痛を前にする時に、真にそれを受容し切ることは容易ではありません。なら、どうするべきでしょうか?

 

そのような時、僕たちはおそらく「笑う」しかない。

 

そのように思うのです。

 

たとえ何もかもが失われ、何もかもが壊され、何もかもが過ぎ去ったとしても。笑う。そういうことを大切にしたいように思います。

 

それはいわゆる嘲笑とは違うものです。

 

それと言うのも、どんな悲しみに塗れた人生にも、必ずいくらかの光はあるものだからです。

 

その時に、「それだけでいい」と本心から言い切ることができるのなら、もう人生はその人の勝ちなのではないかとも思います。

 

笑いの裏には大きな苦しみが横たわっています。それが様々な事象に対する答えでもあるのかもしれません。

 

繊細な感受性にはあらゆる刺激が毒になるように、鈍感な感受性にはあらゆる刺激が重荷になるようです。

 

本当の人の想いというのは都合よく整備されてはいませんし、でこぼこと荒れているものです。それを精細に感受することは多くの場合、人間業ではないですし、そういう読みづらい文章にこそ真に大切なことが詰まっているように思います。

 

すべての自己弁護を薙ぎ払って、僕たちが自分の道をまっすぐに、時に曲がったとしても、それは他者への思い遣りに萌している……などという時に、最も善い効果というものが得られるように思います。

 

書きたいことを整理する必要はありません。ただ、そのままの真心をぶつけるだけでよい。そうも思います。

 

……とかまあ、偉そうに色々と書いてみましたけど、まあ、それでも僕の本心にある程度は近接しているように思います。

 

一般に、相手に勝利することよりも、相手に手加減がばれないように上手に負ける方が難しいとされますが、これは重要な知見だと思います。

 

僕は手加減してくれる人が大好きで、それと言うのも単に自分の自尊心が満たされるためなのかもしれません。

 

一方で、本気の人も好きです。いつも本気で超情熱的です。かっこいいです。これはこれで素晴らしい。

 

……で、この文章を書いていて、心境の変化があったので、ちょっと魔術について言及してみようと思います(前置きめっちゃ長い(笑))。

 

いやー、最近の僕の個人的なトレンドは正規分布でした。いやー、綺麗ですよね。正規分布。美しいベルカーブ。素晴らしいです。まったく素晴らしいです。

 

それで正規分布に物理性を付与してみたくなって、その順接的な定立を正とすれば、その裏側に反物理性のようなものが生じるだろうな、と思ったんですね。その反定立を負とします。

 

すると、多分、想定の範囲としては、正規分布の下側に、正規分布を逆さまにしたような負の正規分布が想定できてきます。そして、これらは無限遠点では、横軸方向の極点は究極的には交わると想定されます。

 

この時に、その無限遠点で正と負の正規分布が交わっているというのはどういうことなのかな、と考えていたのですが、縦軸方向の座標としてはその無限遠点は必然的にゼロだと思いますし、正と負の同形状の積分値はどこを取っても綺麗に相殺されてしまうでしょうし、これって何もない状態に近いな……とか思いました。

 

無。

 

無以外の何物でもない、無。

 

それで僕は以上の術式をなぜ今回に必要としたのかということについて少し書いてみます。

 

まず、いわゆる最新鋭のピカピカな超弦理論先輩を召喚して考えてみますと……。

 

一本の有限値の長さを持った線分を想定します。線分は両端を持ちます。その両端が接触している面をDブレーンと仮に呼ぶことにしてみます。そして、その線分をくにゃくにゃと自在に想像の中で動かしてみてください。すると、Dブレーンも連動してくにゃくにゃ動くはずです。そうして面を時系列に従って像として蓄積して、連続的な射影を記憶し、想像をそのまま継続していくと、面は複雑な立体を形成します。それらのあなたの頭の中に生じているであろう立体は三次元のユークリッド空間的な認知の特性を受けることで変質していますが、実際にはもっと複雑な理念を内に含んでいることが直感的に分かると思います。というのも、それらの線分とDブレーンの連続的な連なりはその内に多くの次元を生じさせているように感じられるだろうからです。あまりの複雑さゆえに。

 

例えば、その幾何的な造影を二次元平面に射影として写し取れば、その射影は多くの要素を失いながらも、ある点では幾何的な性質を何らか受け継いでいるはずです。このように本物のDブレーンの構成している空間の連なりと疑似的に僕たちの頭の中に造影されている三次元的なユークリッド空間の像はある点では連動しつつも、全く別種のものであり、少なくとも現行の人類の脳の特性ではそれを想像することさえできないことが見えてきます。

 

そこで、記号的な演算を導入します。例えば、以上の帰結は幾何的に考察するがゆえに困難を持っていたので、それをまず無視します(上記の例で言えば、正規分布の正負、および、あの宇宙の形に酷似した上下逆さまのベルカーブを合わせた謎の図形を放棄し、その論理的な射影だけを参考にします)。

 

つまり、反物理性と物理性の性質をそれぞれβ、αと簡略に表記してしまいましょう。この時、上記の図形の論理的な特性だけを射影させれば、無限遠点では、α=βが成立しているはずです。

 

思うに、これはおそらく正の方向での何らかのホールを形成します。負の方向での無限遠点をブラックホールと呼ぶことにすれば、その無限遠点の正の方向のホールはホワイトホールと呼べるかもしれません。

 

そして、有限値のケースでは円と線分は弁別可能なのですが、無限値だと――つまり無限に大きな円と無限に長い直線の場合だと――それらの弁別は困難になります。この論理特性を用いることで、上記の正規分布を用いた図形はお互いに循環し、連結していることが分かり、これが、ここで言うブラックホールとホワイトホールの間の連結を果たしていると言えます。

 

つまり、α=βは同時に、もう一つの次元であるγを導入してその値を例の二つの正規分布の上下的な重ね合わせの幾何に対する横軸とすれば、γ=α=β=ーγが成立します。これは例の図形における無限遠点における論理図式です。ところで、正負の符号を以てイコールを構成できる数字はゼロしかありませんから、これらの等式の値はゼロになります。このことからも、正規分布が何らかの物理性を付与されて、その後に反物理性を与えられると無に帰することが分かります。

 

ここで、例の紐のような線分を円形の場合にして考察し直します。この場合、紐はDブレーンを原理的に持ちえません(円なので線分的な両端がない。よって両端が固着すべき如何なる面も存在しない)。こうした、空間的な位相の性質を抜け出す因子を「重力子」と呼ぶことにしましょう。この時には、重力子は空間の作用を少なくとも直接は受けません。

 

ところで、この幾何の総体の値は、直線として現れ、それは無限値において無限に大きな円形を帰結したのですから、総体は重力子となり、空間の拘束作用を逃れると考えられます。

 

だとすれば、空間的な因果則によってこの正規分布的な図形の特性の論理的射影を取ることは原理的にできず、つまり、これらの図形は幾何的因果則を「総体」としては凌駕しています。

 

以上の帰結は「世界は存在しない」とも言いかえることはできます。

 

ここで、統計的原理を用います。つまり、正規分布大数の法則を導入すれば、これらの分布的特性に確率的な原理を投射することができます。

 

であるなら、あらゆる「確率」はその総体としては因果則を超出すると言えます。

 

ところで、これらの帰結は、正規分布に物理性と反物理性を付与的に仮定することから導出されています。ゆえに、これらの原理はその成立のために現時点では、物理性の付与を必要とします。

 

ここで、物理性の要件を確認します。仮に取りうる物理的な物質の最小の大きさを「プランク長」と呼ぶことにします。この際、プランク長と無限小およびゼロの間には無限の要素が空間的に連続的に詰まっています。ところで、先述の仮定から、これらの要素はすべて物質である限りで、確率の原理に従うことになります。

 

では、これらの「要素」は空間なのか? 物質なのか? と問うてみます。これは物質の皆無な空間や空間が皆無な物質が想定できないことから、ナンセンスであることが見えます。

 

仮にそれらの事象を仮定すれば、それは物質性と非物質性の対立になり、非物質は反物質としての性質を含意せざるをえないために、既に導かれた結論の通り、その総体の確率原理は因果則を超出します。

 

ところで、プランク長の大きさをここでは具体的に指示しておらず、また、量子力学的な原理も証明に用いませんでしたので、ここで言うプランク長の大きさは任意に取ることができ、つまり、いくらでも大きく、いくらでも小さく取ることもできます。よって、これらの知見は具体的な「数値」に依存的ではなく、仮に無限に小さな、現行では発見されてはいない微粒子が存在したとしても、変わらずに成立するはずです。

 

また、時間的な性質は僕たちの感性系では、(理性においては)幾何的にしか把握できず、ベルグソン的な直観によってしか把握できません。また、それらの直観を構成する要素としては消去法により、例の無限に大きな重力子が該当しえます。僕には現時点では他の可能性を想定できていません。

 

ただ、少なくとも幾何的に表せる数値的な「時間」はおそらく、確率的総体という「要素」によって無効化しうる余地が残ります。この場合、タイムトラベルが可能なはずです。

 

ただ、「急速な」タイムトラベルには多くの制約があり、時空の崩壊リスクが高く、おそらく極めて「低速な」タイムトラベルが無数に世界のそこかしこで起こっているはずです。その原因は例の確率的総体性ですが、これは人間の意識内における現象としてはおそらく「意志」です。意志はある程度、時空を予測的に改変する作用を持っており、しかも、そのようなほぼほぼ唯一の情報であり、物質だからです。

 

今、「情報であり、物質」と記述しましたが、これについても軽く説明します。二進法で示される情報にしても、量子的なアルゴリズムを想定するにしても、それらの情報は何らかの物質的な要件の射影であると言えます。それらの関係は、DNA情報が身体を構成するのに近い作用を持ちます。

 

この作用を「計画」と呼ぶことにします。この時、計画は未来の物質の予期としての性質を持っており、それも情報です。ところで、未来の物質は幾何的な時間を想定する限りにおいて、現在の物質から分離されますが、重力子は幾何の特性を免れますから、ベルグソン的な「時間」はアインシュタイン的に計量される時空の制約を受けないはずです。つまり、局所的な幾何としてはアインシュタインが正しいですが、幾何の確率分布的な総体値としてはベルグソンに分があるように思います。ゆえに、未来の物質は未来に物質化すると計画されている時点で、既に物質と異ならないと考える必要があることになります。

 

以上のことから、次のようなことが言えます。

 

1.世界は存在しないゆえに、世界は存在物としての制約を受けない。

2.時間の流れはその幾何的な要件の制約を受けないため、一定でない。

3.意志および直観はベルグソン的な「時間」を生成し、空間に拘束されない。

 

今回の記事の結論を非常に簡潔にまとめると「どんなに遠い世界も心によってつながっている」ということになります。

 

 

時間がすべての景色を変えても

 

ICHIKO, 「I SAY YES」, 2007 の歌詞より引用)