魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。

サイコパスとの共存術

 みなさん、こんばんは。

 

今日は「サイコパス」について考えてみましょう。

 

では、サイコパスとは何か。

 

これは、「良心を持たないか、あるいは良心が極めて少ない人」のことのようです。

 

僕は、個人的には、良心が全くのゼロであるということは果たしてあり得るのか、と懐疑的なのですが、「良心がゼロの人間はいる」という考えも原理的にあり得ますし、可能性としてもあり得ます。

 

まず、サイコパスとは、概ね、反社会性パーソナリティ障害と被る概念のようです。

 

したがって、サイコパスの概ねの短所は以下の通りになります。

 

1.法律や規範に従うことができない

2.利己的に他人をだます

3.衝動的かつ計画性がない

4.喧嘩や暴力をしやすくちょっとしたことで怒りやすい

5.自分や他人の安全を考えられない

6.無責任

7.良心の呵責の欠如 

wikipediaを参考にしました)

 

法律や規範から逸脱してしまいますと、社会秩序を乱してしまいます。利己的に他人をだますと、被害にあった人は詐欺にあってしまいます。衝動的すぎてなおかつ計画性がないと、長期的なスパンで物事を考えづらくなります。多くの貴重な技能は一朝一夕に身につくものではないことを考えると、そうした技能は身につけづらくなるのではないかと推理することもできます。暴力などを振るいやすいと社会秩序を乱しやすく、また、怒りっぽいということは、攻撃的な人であるというふうにも考えられます。安全について考えられないというのは、ハイリスクハイリターンを好むことを示します。つまり、失敗した時の打撃が非常に大きいです。最後が最も重要な点かと思いますが、サイコパスとは「良心」が欠けている存在とされているようです。良心が欠けていれば、規範判断や法律に従うことが困難になりますし、良心の呵責がないのであれば、何かサイコパスの人が犯罪を犯したとしても、その刑事責任を問うて、それに対し罰を与えても、改善は期待しづらいことになります。

 

 以上の特性を逆算すると、サイコパスの長所は、次の通りになると推理できます。

 

1.戦争や諜報活動などの脱法的領域において力を発揮しやすい

2. だますのが得意なので、食うか食われるかの過酷な環境に適応しやすい

3.衝動的なので、攻撃力が強い

4.暴力を振るいやすいので、攻撃力が強い

5.安全を気にしないので、危険な仕事に適応しやすい

6.無責任なので、重要な責務を背負っても押しつぶされづらい

7.良心の呵責がないので、脱法的領域において力を発揮しやすい

 

通常の人間にできないようなことができるということは、サイコパスの短所であると同時に、「競争」面では強みでもあります。上記のサイコパスの長所としての特徴を見るに、サイコパスは戦闘的というか、熾烈で過酷な競争環境に適応するのには向いているようだ、というふうに推理できます。そのせいなのか、一説によると、サイコパスには社会的地位の高い人が多いのだそうです。 

 

現実的に、僕たちの住む世界は問題だらけで、なおかつ、それなりには腹黒い世の中なのかな、と思います。それに、色々なものが国際化している時代ですので、競争も世界規模になり、熾烈化していくかもしれません。

 

そのような過酷な環境においては、競争に強いサイコパスの資質はそれなりに有用なものとなりえるのかもしれません。

 

しかし、一方で、サイコパスには秩序をあまりに致命的に乱してしまう可能性もそれなりにあるという短所もあります。

 

では、そのようなサイコパスの人たちとうまくウィンウィンな関係を築きながら、共存していくにはどうすればいいかを考えてみたいと思います。

 

まず、サイコパスの最大の特徴は、おそらく、「良心の欠如」なのだろうと個人的には考えます。

 

では、良心の欠如した利己的な人に対し、どのように接すれば、良心のある人たちは、彼らと共存することができるかについて考えます。

 

まず、良心が欠如しているということは、彼らは純粋な贈与(個人的には、「愛」などはこれなのかな、と思っています)ができないのだろう、というふうに推定できます。つまり、全てを等価交換の原則で考えているのだろう、と推定することができます。

 

利己的であるということは、逆に言えば、自分に利益があれば、その通りに動いてくれるというふうに推理できますので、ある意味、行動が分かりやすくなります。

 

また、衝動性があるのなら、難しい話を延々と聞いたりするのには向かないでしょう。

 

ならば、非常に簡単な話法で、犯罪をした場合よりも犯罪をしない場合の方がサイコパスにとって得であるような世の中であることを説明すればよい、ことになります。

 

これが可能であるためには、世の中自体が、前提として「公正」である必要があります。なぜなら、正直者が馬鹿を見るような環境であれば、サイコパスの行動原理にのっとって、犯罪を犯した方が、功利的に見て、合理性があると判定されてしまうであろうからです。

 

彼らに対し「罰」が効力を持たない(一説によると、サイコパスは良心が欠如しているため、罰を与えても反省しない、とされているようです)ということは、彼らの利己心に働きかけるしかない、というふうにも考えることもできます。

 

つまり、世の中が「不正」であれば、サイコパスの犯罪は増加するかもしれません。

逆に、世の中が「公正」であれば、サイコパスの犯罪は減少するであろうと推理できます。

 

よって、不正な社会と公正な社会を判別するには、サイコパスの犯罪数を計測するというのもひとつの手かもしれません。

 

サイコパスの犯罪数が多いということは、その世の中自体に不正が多い可能性があると推理できます。

逆に、サイコパスの犯罪数が少ないのなら、その世の中自体の公正が多い可能性があると推理できます。

 

つまり、サイコパスの人も犯罪をしないような世界は、非常に公正なのであろうと予想することもできます。

 

逆に、サイコパスの人たちが犯罪に走らざるを得ないような世界は、非常に不正なのであろうと予想することもできます。

 

この点から、サイコパスの人たちには、その世の中の公正さを測る一種のバロメーターとしての機能があると推理することもできます。

 

サイコパス犯罪が増えて困るということは、もしかすれば、それだけその社会は欠陥を抱えているのかもしれません。

 

したがって、良心のある人たちが、サイコパスの人たちと共存するには、社会が次のような状態になればいいと考えられます。

 

1.功利的な説明がうまい

2.公正である

3.犯罪をしない方が得である

 

つまり、社会が、公正で、犯罪をしない方が得ができて、そのことを分かりやすく説明することのできる機能を持っていれば、サイコパスの人たちと共存できるのではないか、という一つの仮説を立てることができます。

 

簡単に言いますと、「正直者が馬鹿を見る」というふうな社会の場合には、サイコパスによる犯罪数が増えるのではないか、というふうに考えられます。正直な方が得をするのであれば、――あるいはそのことが適切に了解されているのであれば――サイコパスは利己的であると今回想定していますから、彼らは正直になろうという選択を採るはずです。

 

ならば、犯罪を減らすためには、サイコパスの人たちが割を食わないような適切な公正さを持った社会であることがまず、前提として必要となるのではないか、と個人的には思います。そもそも、社会が公正でないのなら、公正でない社会が、サイコパスを裁くというのもおかしい話になります。

 

では、「公正」とはどのような状態なのか。

 

まず、公正には二種類あるであろうと考えることもできます。

 

1.機会の公正

2.結果の公正

 

類似概念に、「平等」というものがあります。この場合、

 

1.機会の平等

2.結果の平等

 

となります。

 

まず、機会について。

 

これは、平等で公正であることが望ましいでしょう。なぜなら、そもそもの端緒である「機会」が欠如していた場合、たとえいかに才能があったとしてもそれを発揮することはできないであろうからです。したがって、機会は平等で公正であることが望ましい。

 

では、結果はどうでしょうか?

 

概ねここで意見が割れるのではないか、というふうに個人的に思うこともあります。

 

まず、結果が「不正」であった場合、これはどうでしょうか。不正な結果ならば、これはよくありませんね。したがって、結果は「公正」であることがより望ましいとも考えられます。

 

問題は、「結果」を「平等」にするか否かなのです。

 

これはけっこう難しい問題だな、と個人的に思っていました。

 

ただ、サイコパスの人たちと共存を目指すという方針を採るのならば、割にスパッと判断していけるかもしれません。

 

まず、サイコパスの人たちは競争分野に強い、というふうに先ほど考えました。

 

ならば、サイコパスの人たちの心を満たすためには、その競争分野に長けた才能を活かす環境が必要になります。ハイリスクハイリターンな環境が。

 

したがって、この観点からは、結果は平等にするべきでない、というふうに判定できます。

 

つまり、社会に競争の余地を、当面は残しておくのが最適打かもしれません。

 

また、現実的に、世界における競争も激化していく中で、そのような事態に適応するためには、サイコパスの人たちの力が必要となるのではないか、とも考えられます。

 

その点から見ても、サイコパスの人たちと共存を画策するのが合理的でしょう。

 

少なくとも言えるのは、サイコパスの人たちの力が必要とされる場面自体は現実的にかなり多くあるのではないか、ということではないかと思います。

 

 

好むと好まざるとにかかわらず、サイコパスとは共存してゆく道を模索するのが人類にとって最善の選択であると、私は考えます(中野信子,『サイコパス』,文藝春秋,2016,p.230より引用)。

分術

みなさん、こんばんは~

 

今日のお話は、「分ける」ことについてです。

 

分けるとは何でしょう?

 

これは簡単に言うと、「差別」をすることです。

 

物事の「差」を見て、それで、その対象を「別」にするわけですね。

 

これは、「区分」とか「分割」とか色々に呼ばれます。

 

では、こうした「分ける」という行為には、どのようなメリットやデメリットがあるのかを考えてみましょう。

 

まず分かりやすいように極端な例を考えてみましょう。

 

何でもかんでも差別した場合、これはどのような世界になると思いますか?

 

あれも違う、これも違う、どれも違う、何もかも差異がある。このにんじんとあのにんじんは違う。あのにんじんはにんじんだが、このにんじんはあのにんじんとは差異があるので、このにんじんではない……云々。

 

これでは、まったくらちがあきません。言葉が使えなくなってしまいます。

 

では、何もかも差別しない場合はどうでしょうか?

 

にんじん=キャベツ=大根=トランプ=オバマプルースト村上春樹京極夏彦……云々。

 

これでもらちがあきません。言葉が使えなくなってしまいます。

 

したがって、差別は、ちょうどよく、有効性のある形で用いられる必要があります。

 

また、やっていい差別と絶対にやってはいけない差別もあります。

 

例えば、「優生思想」などは、「ナチス」を彷彿とさせる概念で、「劣った人間は人間ではない」という感じの思想です。

 

実際には、優劣というのは時の運の要素も非常に強く、容易に転覆されます。これを、「盛者必衰」と呼んだりもします。

 

したがって、いわゆる「劣った」人と、いわゆる「優れた」人とは、変に争わず、協力し合うのが最適打であるということになります。

 

どちらかがどちらかに、「劣っている」というレッテルを貼った場合、そもそも概念自体が時の運ですから、言葉が「時の運」に支配され、普遍的に使用できなくなってしまいます。これでも言葉が通じず、互いに争うことになる可能性が高くなるのではないかと、推理できます。

 

つまり、言葉の機能を有効に担保し、そのようにして、争いを避けるためには、極力、「優劣」という概念を避ける必要があります(比喩的に、「この人は優秀だ」というふうに「仮に」言葉を用いる場合はあると思いますが、その概念を「徹底」してしまうと非常に危険であるということは留意しておくのもひとつの手かもしれません)。

 

時の運で、ガス室に送られて殺されてはたまったものではありません。「ユダヤ人」は別に劣っていませんね。仮にいうなら、優秀なくらいかもしれません。

 

優秀な人を殺していったのでは、人類の未来は先細りです。

 

そして、優劣というのは時の運です。

 

人間の判断能力も万全ではありません。当然、優劣もしっかりと判断することはできません。

 

ならば、リスクヘッジして、出来る限り、多様な種類の人たちに対し投資をしておき、人間の適切な発展可能性に備えるべきでしょう。人間は未来を予測することに向いた種族ではないのだと思います。そうでなければ、幾度も幾度も殺戮の戦争という失敗を繰り返す理由が説明できません。

 

このような不確定な状況においては、リスクヘッジとしての、多様性の尊重が必須であるとも推理することはできるのではないでしょうか。

 

少なくとも、「仮に」進化論の論法を今回採用するとすれば、これまで生き残って繁殖に成功してきたすべての個体は、人類の生存の成功のために必要であったから、今日まで生き残ってきたのだと思われます。

 

それはゲイの遺伝子でも同じですし、統合失調症の遺伝子でも同じです。

 

今日まで生きているすべての種族は、人間という種全体が生き残るために必要であったために、あるいはそのために「有効」であったために、続いてきた遺伝子なのであり、その意味では、今生きている人たちはみな、生物としてはエリート中のエリートであるということになります。仮に進化論を用いて考えるなら(なぜなら、繁殖に積極的でない個体でも、優秀な人はいくらでもいるだろうから。ゲイやレズビアンでも教養や能力のある人はいくらでもいるでしょう)。

 

このように、例えば、「優劣」という差別は、極力しないのが得策であると推理することもできます。それらは、用いられるとしても、「必要悪」として「仮に」用いられるものに過ぎず、その観念を前面に出すべきではないとも推理できます。

 

このようにしない方がいい差別もあることにはあります。

 

しかし、いい差別もあります。

 

例えば、ある程度のレベルの次元までは、「適材適所」という観念は非常に効果的です。

 

あまりにこれを徹底しすぎるのも、過剰すぎて、バランスを欠くこともあるかもしれませんが、ある種の人たちにとっては、自分の適さない箇所で無理をしないための方便となり、ケースバイケースに有用です。

 

農業に卓越した人もいれば、政治に卓越した人もおり、それぞれの適した分野にコミットできれば、よい効果が期待できるであろう、という推理です。

 

他にはそうですね。

 

例えば、喫煙に向いた人と向かない人がいますね。

 

タバコが好きな人と嫌いな人がいます。この場合、多様性尊重の観点から、どちらの遺伝子も尊重しておくのが望ましい。そのことが、世界全体のリスクヘッジとなり、長期的にみれば、人間という生物が長く生存しやすい戦略であろう、と推理できます。

 

したがって、適材適所、の概念をここで援用して、タバコが好きな人にはタバコを推進し、タバコが嫌いな人にはタバコの煙を抑制できるような環境を整えるのは、リスクヘッジの観点から理に適っているということになります。

 

創造性の種はどこにあるか分かりません。それはタバコの生み出す「覚醒状態」の中に眠っている可能性もあるのです。

 

そうでなければ、なぜ今日まで、長い生存競争の中を生き残ってきた「人間」の少なくない人たちが、わざわざ発癌性があるとされる、いわゆる「有害」とされる文化をはぐくんできたのか。その説明がつきません。

 

おそらく、タバコには、生物学的に何らかのメリットがあるのでしょう。

 

また、創造できなければ、社会はジリ貧です。人はどんどん生まれてくるのに、雇用や利益が創出されないのなら、にっちもさっちもいかないでしょう。

 

創造性とは、自由性のことでもあります。自由とは、一種の無作為性を可能とする能力です。

 

ならば、創造性とは、無作為的に分布するものであって、どこに眠っているかわからないものであるということになります。

 

子供の才能を発掘するには、色々と挑戦する環境を与えて、実際にやってみるしかないように、無作為なものをコントロールしきることは論理的にはできません。

 

この点からも、リスクヘッジとしての多様性の尊重は理に適っています。なぜなら、創造性、自由性、つまり、社会を発展させる「天才性」は、誰に、どこに眠っているか判定できないため、そのような不確定な因子に対するリスクヘッジには確率的にアプローチせざるを得ないためです。

 

何が何の役に立つか分かりません。とにかく、極力はリスクヘッジをしておくのが得策でしょう。

 

したがって、喫煙の例で言えば、「分煙」を行うのが最適打となると推理できます。

 

リスクヘッジを適切に行うためには、多様な文化を失うべきではないでしょう。

 

このケースのようによい差別もあります。

 

優生思想の場合の「差別」は多様性の排除を生み出し、長期的に破綻する確率が高くなると予想されますが、「分煙」という区分、差別は、逆に多様性を保護する役割を持った差別となります。

 

このように差別とひと口に言っても、その有効性や効能は一律のものではなく、多様性を破壊したり、守ったりする、様々で、多様な「差別」が存在します。

 

したがって、その様々で多様な差別概念について、これからみんなで、少しずつ検証し、その最適なケースごとの選択をあきらかにしておくことができると、よりよい――遺伝という資産をも含めた――投資行為が可能になるかもしれません。

 

今日の結論をまとめます。

 

 

1.「分ける」ことには善い区別と悪い区別がある

2.善い区別は、多様性を保護し、生存競争におけるリスクヘッジに有利に働く

3.悪い区別は、多様性を排除し、生存競争におけるリスクヘッジに不利に働く

 

 

つまり、多様な価値観に寛容な差別は善い差別であり、多様な価値観を排除する差別は悪い差別である、というふうに今回の論法の場合には考えることもできます。

 

色々な考えがおありかと思いますので、鵜呑みにせず、みなさんで考えてみてくださいませ。

 

したがって、差別の善悪について考えたいときには、多様性を保護しているか排除しているかに着目するのもひとつの手かもしれません。

 

例えば、優生思想のような感じになっていたり、ナチズムのような感じになっていると、それは多様性を排除する思想状況となってしまうかもしれません。その場合、一時的には、遺伝淘汰の過剰によりその現在の環境への適応性は向上するかも知れませんが、長期的には、「過剰適応」となり、滅びる可能性が高いと考えられます。未来の人たちや、自分の子供たちのためには、やはり、多様性を尊重し、リスクヘッジをすることで、様々な可能性を持った遺伝形質を保存していくのが正着打となるかと思います。

 

人間の判断能力は本来、はなはだ不完全なものなのですが、不完全なものを完全なものであるというふうに思考を停止してしまうと、その誤謬から悲劇が生まれる可能性があると思います。

 

もしもよろしければ、みなさんも長期的な環境を生物が生き残っていくためのリスクヘッジとしての多様性の尊重にご協力ください(笑)

 

とは言え、タバコには有効性もある可能性がありますが、害もあると考えられますので、この辺りも、「バランス」が大切かもしれませんね。

 

タバコ反対派の人とタバコ推進派の人たちの間の意見の均衡をうまく調整できるバランス感覚が必要なのかもしれません。

 

どこに最適打があるのか。非常に難しいですが、妥当なのは、やはり「分煙」と言ったところなのかもしれません。

 

麻薬犯罪などは、規制しても一向になくなる気配がありませんが、タバコも規制が強すぎると「タバコ犯罪」が生じるようになるかもしれません。犯罪が増えるとみなさん不安でしょうから、「規制」を不用意に強くしないように注意することは必要かもしれません。何か規制が強くなることがあったら、みなさんよーく耳を澄まして、その話を聞き、分析してみてくださいませ。もしかしたら、それは「結果として犯罪を増やす規制」かもしれません。不満が溜まれば、犯罪が増えるとも推理できます(例えば、タバコを不用意に規制しすぎると、タバコを吸えない人たちやその周辺の人たちに不満が溜まります。すると、その不満がはけ口を求めて、犯罪化する、というふうに推理することもできます。うまく色々な人たちの不満を調整していけるといいのかもしれませんが、これはこれで難しい問題になります)。

 

さまざまなご意見があるかと思いますので、みなさんもどんどんお考えになって、発信なさるといいかもしれません。データ数は多く、データの出所がさまざまで多様(無作為抽出)であるほど良いとも考えられますから。

 

今日は以上です。

 

ではでは~

村上春樹さんの『騎士団長殺し』について

 みなさん、こんばんは♪

 

 今日は機嫌がいいプルプルタンです。

 

 夜は多少、統合失調症の影響かどうかわかりませんが、鬱になるのですが、今日は村上春樹さんの新刊を読んだせいか、気分がいいです(個人の意見です(笑))。

 

 『騎士団長殺し』という作品ですが、みなさんお読みになりましたでしょうか?

 

 個人的にとても好きな感じの作品でした。

 

 ネタバレとかは極力しませんが、迂回しながら、思ったことを書いてみようと思います。

 

 すごく仏教色が強く(仏教を肯定しているとか、そういう感じの単純な意味ではない)、また題材が「絵画」であるということもあって、三島由紀夫の『豊饒の海』を思い出しました。豊饒の海も大好きな作品なのですが、騎士団長殺しもかなり好きです(笑)

 

 けっこう複雑な文章だったというふうに個人的に感じました。僕は複雑な文章が大好きなので、――理由はそれだけではありませんが――すごくお気に入りな作品になりました。これ書き終わったら、また最初から読みなおそうかな、と思ってました(笑)

 

 本当は、一週間くらい時間をかけて読もうと思っていたのですが、おもしろかったので、一気に読んでしまいました。読んでしまったというより、読まされたのかもしれませんが。

 

 いずれにせよ、とても好きな作品でした。

 

 必然とか偶然とか運命とか生殖とか遺伝とか才能とか時間とか、すごく哲学的な感じのことも触れられているように個人的に感じました。

 

 特に「秘密」というテーマが大きいように感じました。個人的に。

 

 非常に多くのことが入りくんでいて、みなさんそれぞれ、いろいろな読み方ができる小説なのではないかと思いました。

 

 また、『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』という作品のある意味、続編というふうな見方もできるのではないかというふうに個人的に感じました。

 

 この作品に、出てくる「シロ」と呼ばれる女の子がいるのですが、その子を「別の形」で書き表してみたのかな、というふうに感じる面もありました(かなり違いはありますが)。

 

 また、「色がない」ということはどういうことなのか、ということに非常に強い力点が置かれているように感じました。

 

 仏教ふうに言えば、「無色界」みたいな言葉になるのかもしれません。あるいは、「色即是空」とか。

 

 「色が無い」感じ。

 

 勝手な思い込みだったのかもしれませんが、村上春樹さん、あんまり絵画はお好きじゃないのかな、というふうに個人的に思ったりもしていましたので、こうした絵画が主題的に出てくる作品をお書きになるのは意外な感じがしました(実際には他にも美術を扱った作品はあったと思いますが。何故か村上春樹=絵嫌い、みたいな勝手なイメージが僕の中にあったようです。勝手なイメージに過ぎないのかもしれませんが)。

 

 「色」は、多崎つくるの物語でも主題になっていて、この作品もおもしろくて、僕は好きですので、ご興味ありましたら、騎士団長殺しと多崎つくる、どちらもお読みになってみるのも、ひとつの手かもしれません。

 

 騎士団長殺しは、二巻構成になっていますが、筋の置き方が、ゲーテの『ファウスト』を何となく彷彿とさせる感じに思いました。

 

 ファウストは、最初普通のリアリズムっぽい感じ(悪魔とか出てきますけどね(笑))なのに、途中第二部から超メタファって感じの作品になるのですが、騎士団長殺しも、そんな感じの印象を受けました。

 

 ファウストと違うのは、――そんなところいっぱいあるのですが(笑)――ファウストはメタファから帰ってこずそのまま昇天なさってしまう印象なのですが、騎士団長殺しは、メタファの世界から帰ってきて、あくまで現実に着地します。

 

 ただ、その現実が、「本当に現実なのかわからない」みたいな感じ。

 

 この感覚は何となくわかる気がします。僕も、この現実が本当に現実なのかどうかわからない感じが常にありますので(笑)すべて幻覚であるような気もします。

 

 観念とかイデアについてもかなりふんだんに触れられています。

 

 決定的世界と非決定的(少なくともそう見える)世界の両立を目指しているような印象を受けました。

 

 イデアは――あるいは一歩踏み込むとその顕れは――決定的かもしれませんが、メタファは遷移しますので、そのどちらもを描いているということは、決定でも非決定でもないということなのかもしれません。

 

 つまり、決定、非決定の二項対立を越えた先にあるものを描いているのかな、という印象を個人的に受けたりもします。

 

 必然でも偶然でもなくて、その先にあるもの。

 

 また、この作品の中にある生殖観がすごく面白くて、ぜひお読みになってみてほしいのですが、いわば、「夢魔による生殖」みたいなことについて書かれていて、この辺は、ドゥルーズ好き好きな僕としては、「キターーーー!!!」って感じでした(笑) 超テンション上がりまくってた(笑)

 

 ある意味、「生殖価値観」に一石投じていると言えるのかも知れません。エッチなこととか、生殖にご興味のおありの方はお読みになってみるのもいいかもしれません(笑)

 

 「子供」についてとか、けっこう書かれてて、その辺の感じのことに興味おありの方もいいかもしれない。

 

 後は、「時間」についてとか。いろいろ考えるのにもいいかも。

 

 僕たちの知覚する時間構成とイデア界というか、イデア的にみたときの時間構成の差異、という感じのことに触れられていて、おもしろいなと思いました。

 

 これは前になんかの記事で僕も書いたかもしれません。このブログに(「創造術」だったかな? 気が向いたらお読みになってみてください)。

 

 騎士団長殺しって、「殺し」ってワードがどことなく不吉だったので、すこし不吉な小説かとも思っていたのですが、おもしろかったです(笑)

 

 ある意味、いい意味で、不吉ではあるかもしれないとも思いますが(笑)

 

 でも、そんなに後味悪い感じはしなかったですね。個人的には。むしろ、後味超よかった(笑)

 

 これ以上書くとネタバレとかになっちゃいますかね?

 

 この辺にしておこうかな(笑)

 

 あんまり書きすぎて、皆様の楽しみを奪ってもあれなので。

 

 ただ、「疑うことよりも信じること」の大切さを言っているようにも感じました。「何を」信じるのか、というのは非常に難しいのですが。強いて言えば、「イデア」でしょうか(笑) よくわかりませんが。二項対立的な可能性の領野から一歩踏み出す? というか、超越するというか。

 

 ニュアンスが「微妙」(幽玄)なのだと思いますので、気になる方は、ぜひお読みになってみるといいかもしれません。

 

 では、みなさん、今日はこの辺で、ごきげんよう~。

 

 とりあえず、好きな小説でした。

 

 

 

 

 

 

 

勉強術(教育術、就職術、国家術、受験術を少し含む)

 みなさんこんばんは~。

 

 今日は「勉強」のお話をします。

 

 みなさん、勉強というとどんなことを思い浮かべますか? 受験でしょうか。

 

 受験もおもしろいゲームですよね。

 

 今回は受験に限らず、勉強一般のやり方について考えてみましょう。

 

 では、そもそも「勉強」とは何なのでしょう? 少しずつ一歩一歩見ていきましょう。

 

 これは、学問とか何かの芸術とかを身につけるために練習することです。

 

 では、学問とは何でしょうか?

 

 これは、知識とか理論のことです。

 

 芸術は、美を表現する技術とか。

 

 だから、「勉強」とは、知識や理論や技術を身につけるために練習すること、です。

 

 つまり、勉強とは、練習のことです。

 

 では、練習とは何でしょうか?

 

 これは、くりかえすことです。

 

 つまり、勉強とは、くりかえすこと。

 

 何度も何度もくりかえすわけですね。

 

 つまり、何かを勉強したいと思ったときは、何かをくりかえせばよい、というふうに推理できます。

 

 例えば、覚えたい単語がある時は、その覚えたい単語を何度もくりかえし見ればよい、というふうに考えられます。

 

 覚えられない数学の解法がある時は、その覚えたい問題と数式を何度も繰り返し見たり、解いたりすればよい、というふうに考えられます。

 

 勉強とは「くりかえし」のことだからです。

 

 何度くりかえせば身につくかは個人差があるかもしれません。

 

 しかし、ただ確実なのは、勉強とはくりかえすことであり、単語も解法もくりかえしていれば、いつかは覚えられるということです。

 

 つまり、挫折せず、くりかえすことに成功しさえすれば、少なくとも学校の勉強くらいのものであれば、誰でも身につけられるのではないかと推理できます。「読書百遍義自ずから見る」、とも言いますね。

 

 では、どうすれば、挫折せず、くりかえすことを続けることができるでしょうか。

 

 要は、挫折を防げさえすればよい。

 

 そこで、挫折の原因を考えてみます。

 

 これには、以下の三つが考えられます。

 

1.焦る

2.一気に何もかもやろうとする

3.短期間の勉強ですませようとする

 

 焦れば、あたふたしてしまって、勉強を失敗してしまいます。一気に何もかもやろうとすると、いっぱいいっぱいになって嫌になってしまいます。長期的に勉強にとりくめないと、短期間で挫折してしまいます。

 

 つまり、勉強を挫折せず成功させるためには、次の三つの点を守ればよいことになります。

 

1.ゆったりとした気持ちを持つ(焦らない)

2.少しずつ勉強に取り組む(一気に何もかもやろうとしない)

3.気を長く持って勉強する(短気にならない)

 

 つまり、「ことわざ」で言いかえますと、

 

1.急がば回れ

2.塵も積もれば山となる

3.継続は力なり

 

 の三つを心にとめて勉強することが、勉強のポイントであると言えます。勉強を成功させたい方は、この三つのポイントを守って勉強すれば、高確率で勉強を成功させることができると考えられます。焦らず、少しずつ、長く勉強を続ければよい。

 

 逆に、焦って、一気に、短い期間で勉強をするとうまくいかない可能性が高くなると推理します。

 

 みなさんも焦って勉強した場合とゆったりと勉強した場合でどちらがいい成果が出るかを測定してみるといいかもしれません。僕の場合、焦ると、なかなか勉強をつづけることができなくなってしまうので、一応、みなさんに、僕の個人的な学習方法をお伝えしておきます。

 

 さて、それでは、大まかな勉強方法が分かったところで、もうすこし細かく勉強について考えてみましょう。

 

 勉強とは、何かの知識とか理論とか技術とか、つまり、「能力」を身につけるための練習です。

 

 では、どのような課題を勉強すれば、能力は身に付きやすいと考えられるか。これについて少し考えてみましょう。

 

 まず、身の回りのことを何もかもやってくれるロボットを考えてみて下さい。そういうロボットがいたら、人間は身の回りのことをする必要がなくなりますね。すると、その身の回りのことをする能力は退化することになります。

 

 つまり、能力を育てるためには、これと逆のことをすればよいと考えられます。

 

 これは、「便利さを避ける」、ということです。

 

 次に、挑戦をせず簡単な問題を解き続けている人と、色々な難しい問題に挑戦し続けている人では、どちらが能力が高くなりやすいかを考えてみてください。

 

 これは、挑戦の量が多い人の方が能力高くなりやすいのではないかと推理できます。

 

 つまり、「難しい課題に積極的に挑戦する」、ということです。

 

 さて、最後に、たくさん勉強している人と、すこししか勉強していない人では、どちらが能力が高くなりやすいと考えられるでしょうか。

 

 これは、「たくさん勉強している人」ですね。

 

 つまり、「勉強に時間をかけている人」です。

 

 よって、勉強をよく行うためには、次の三つのことを心にとめていればよい、と考えられます。

 

1.便利なものを用いるのではなく、手間をかけて勉強する

2.できる問題ばかりやらず、自分にできないかもしれない難しい問題に挑戦する

3.勉強に時間をかける

 

 これをより単純にすると、次のようになります。

 

1.手間をかける

2.挑戦する

3.時間をかける

 

 つまり、勉強は、手間をかけるほどよく、挑戦するほどよく、時間をかけるほどによい、というふうに考えられます。

 

 例えば、余裕ですぐに解ける挑戦を必要としない簡単な問題を解くよりも、手間がかかり時間がかかり挑戦心を必要とするような難しい問題を解いたほうが、いろいろと勉強になるところが大きいだろう、というふうに推理されます。

 

 気が向いたら、お試しあれ。

 

 以下、勉強のコツをまとめます。

 

 

1.ゆったりと、少しずつ、長く勉強しよう

2.焦らず、楽をしようとせず、気長に勉強しよう

3.手間をかけ、挑戦し、時間をかけよう

4.何度も何度もくりかえし勉強しよう

5.学問に王道なし

 

 

P.S.以上の勉強のコツから、教育手法のコツも推理することができます。教育術、ですね。

 

今回の論法の場合には、上記のコツを子供などに習得させることができればよい、というふうに考えられます。

 

つまり、教育は次の環境を子供に提供すればよい。

 

1.ゆとりのある環境

2.負荷のある環境

3.挑戦できる環境

 

つまり、たっぷりの色々なことをする時間とたっぷりの色々な難しい課題とたっぷりの色々な挑戦ができる環境を、作ることができれば、教育は有効に作用するであろう、と推理できます。

 

逆に次のような条件がそろっていると、教育はうまくいかないであろうと考えられます。

 

1.色々なことに取り組める時間がない

2.色々な難しい課題に取り組めない

3.色々な挑戦ができない

 

これは、次のように変換できます。

 

1.単調(色々な多様性がない)

2.単純(課題が簡単で単純)

3.退屈(同じことの繰り返しばかりで発展性がない)

 

つまり、よい学校とは、多様な人がいて、多様な複雑な難しい課題があって、多様な新しいことへの挑戦ができる学校のこと、というふうに考えられます。

 

逆に、悪い学校とは、同じような人しかいなくて、同じような単純な課題しかなくて、同じようなことの繰り返ししかできない学校のこと、というふうに考えられます。

 

このことから、よい先生とは何かについても推理することができます。

 

よい先生とは、多様性に寛容で、多様な複雑な事情に通じていて、多様な新しいことへの挑戦を促してくれる先生のこと、というふうに考えられます。

 

逆に、悪い先生とは、排除的で、単純な事情しか分からず、生徒の挑戦心を挫く先生のこと、というふうに考えられます。

 

これらのことから、あなたを育ててくれるよい企業とは何かについてもある程度類推できます。

 

よい企業とは、多様な人がいて、多様な複雑な共同体で、多様なイノベーションを行っている企業、というふうに考えられます。

 

逆に、悪い企業とは、排除的で、単純な似た人たちしかいない共同体で、新しいことへの挑戦が活発でない企業、というふうに考えられます。

 

これらのことから、よい国家とは何かについても類推できます。

 

よい国家とは、多様な人がいて、多様な文化があって、多様な創造活動がある国家であると類推できます。

 

つまり、人々の成長を行うのに適したよい国家は次のことを行うであろうと推理できます。

 

1.移民を受け入れる

2.色々な出自の人たちと仲良くする

3.創造性に投資する

 

逆に、悪い国家は次のことを行うであろうと推理できます。

 

1.外国人を排除する

2.人を不当に差別する

3.既得権益に固執する

 

無論、ここに書かれたことは、「仮説」であり、しかも、ものすごく単純な推理に過ぎないので、鵜呑みにはせず、みなさんでじっくりと検証なさってみてくださいませ。

 

よい国家に所属し、よい企業に所属し、よい学校に所属し、よい教育を受け、よい勉強をすることができるといいのかもしれませんね。

 

色々な意見がおありかと思います。

 

みんなで少しずつ正確な知識を持てるように勉強していけるようになるといいのかもしれませんね。

 

では、最後になりますが、みなさんの関心事かもしれない、「受験術」について少し考えてみましょう。

 

つまり、よい受験は次の性質を備えています。

 

1.多様性を尊重している

2.挑戦を尊重している

3.自由を尊重している

 

よって、個人的には、人の多様性を尊重し、人の挑戦を尊重し、人の自由を尊重している、そういう受験を受けることをお勧めいたします(日本にそういう学校あるかな?(笑))。

 

つまり、多様なことに自由に挑戦する人を積極的に受け入れている学校に入ればよい。

 

逆に、次の受験が悪い受験であると考えられます。

 

1.排除的である

2.挑戦心を挫く

3.自由を抑圧する

 

したがって、排除的で、挑戦的でなく、自由でない受験は、個人的には受けないことをおすすめいたします。

 

難しいですけどね。ここに書かれたことは理想論ですから(笑)世の中なかなかうまくいきません。

 

適当なところで妥協しつつ生きていくしかないのかもしれませんが、理想的には以上のような結論になるかと思います。

 

つまり、受験制度は次のように改変する事が出来れば、理想的だとも考えられます。

 

1.入学条件の緩和(入学試験を易しくするとか)

2.卒業に必要な課題の難度を上げる(単位認定試験を難しくするとか)

3.色々な出自の人たちを入学させる(学費の免除とか)

 

これできたら面白いですけどね(笑) できたらどうなるんでしょうね、日本(笑)。いろいろと想像してみるのもおもしろいと思います。

 

ぜひ、みなさんも気が向いたらいろいろとご想像なさってみてくださいませ。

 

今日は以上です。

 

ではでは~♪

 

 

P.S.2

ちなみに「勉強」の場合は、手間をかけたほうがいいですが、その「能力」を「応用」する場合は、「便利」なものを使うことが有効になります。気が向いたら、「応用術」として書くこともあるかもしれません。

また、国家なり共同体に所属することを今回否定していませんでしたが、そもそも国家とかに疑義を呈する論法もあります。そのうち気が向いたら書くかもしれません。

「正しさ」とは何か(正義術)

 こんばんは。

 

 今日は「正しさ」とは何か、について考えてみたいと思います。

 

 みなさんはどんなものが正しいと思いますか?

 

 僕には二つの説がまず思い浮かびます。

 

 

1.正しさとは善である

2.正しさとは理に適っていることである

 

 

 では、善と、理に適っていることは、何が違うのでしょう?

 

 理に適っていれば、それは善であるような気もします。

 

 このように考えた場合には、例えば、「愛は善である」、という言説。

 

 これは、「愛は理に適っていれば善で、理に適っていなければ善ではない」、ということになります。

 

 では、そもそも、愛が理に適っていないということはあり得るのか。

 

 まず、人間のもとめるものは何であるか。

 

 まず、ひとつの有力な説は、「お金」ですね。お金はある程度大切です。

 

 では、人はお金のために行動しているのでしょうか?

 

 どうもそうではないようです。

 

 なぜなら、人は、お金を使用しますね。

 

 つまり、お金は、「手段」であって、それ自体、「目的」ではないのではないかと考えられます。

 

 次の説、「性欲」

 

 つまり、人間は、セックス、あるいは繁殖するために、生きているのでしょうか。

 

 では、セックスや繁殖していない人たちは、生きていないのでしょうか?

 

 そうとも言えません。彼らも生きていますし、子供を持たずとも、有益な成果をもたらしていると言える人は多くいるでしょう。

 

 すると、人は性欲のために生きているというわけでも、ないのかもしれません。

 

 では、愛はどうか?

 

 愛には色々な種類があり、友愛とか、博愛とか、色々とあります。

 

 では、人間は愛のために生きているでしょうか?

 

 愛があって、お金がない場合、これはどうか。

 

 この時、二人(厳密には、三人でも四人でも何人でもよい。最近は「ポリアモリー」というものもあるようです)は幸せを感じるか否か。

 

 お金がある人というのは、「富裕層」と呼び得る人達かと思います。富裕な人が価値を持っているとすれば、おそらく富裕な人が希少価値を持っているからでしょう。つまり、富裕な人は普通の人と比べると、希少なのかもしれません。

 

 では、その希少な富裕な人たち以外には、愛を得ることはできないのでしょうか。

 

 しかし、これはどうも実態どおりではない。

 

 必ずしも富裕でなくても、愛を得ている人はいるように思われます。

 

 つまり、愛の幸福自体は、富裕でなくても、入手し得るものであるのかもしれません。一時の愛にせよ、長期的な愛にせよ。

 

 では、性欲主体ではない愛はどうか?

 

 これもある程度成立するようです。「プラトニックラブ」という概念がありますし、また、そうした純な愛を描いた漫画作品などもわりに見受けられます。

 

 すると、必ずしも、性欲がなくても、愛は成立し得るようです。

 

 友愛などはこれなのかもしれません。親友との語らいなどは、基本的に、至福のものかと思います。

 

 そのように考えると、人間は、お金や性欲を満たすことでは、幸せになれるとは限りませんが、愛を満たすことができるとある程度幸せな気分になれるのではないか、という仮説を抽出できます。

 

 そのための手段として、お金や性欲が用いられることが多いのでしょう。目的自体は、おそらくあくまで、「愛」であろうと思われます。

 

 では、愛を求めない人はいないのか。原理的にはそういう人も想定できるはずです。その人たちは幸せになれないのでしょうか?

 

 これは非常に難しい問題です。

 

 しかし、個人的な見解としては、基本的にそういう人はいないのではないかと思います。ぜひ、みなさんのデータも教えて下さるとありがたいです。一応、このように観察結果だけは報告しておきます。

 

 では、愛とはどうも目的であり、その限りで、それを目指すこと自体が理に適っているもののようです。

 

 ならば、愛とは善であり、かつ、理に適っている、と言えそうです。

 

 では、愛とはそもそも何なのか?

 

 これは善なのだとすれば、愛について記述することは難しいです(これについては、当ブログの「創造術」という記事をブログ内検索からご覧ください)。

 

 ただ、愛への「固着」については記述できるかもしれません。それは「変化」ではないからです。

 

 愛とは「幽玄」なものなのかもしれません。

 

 愛とは「よくわからない」もの

 

 では、この世界に、よくわからないものは存在すると言えるか。

 

 世の中、そんなことばかりですので、これは存在すると言えるかもしれません。

 

 そもそも、「世界」とは何なのかが不明です。ならば、世界の中に存在するように見える、愛についてもやはりよくわからないです。

 

 愛とは「空」(仏教用語です)なのかもしれません。

 

 定義上、愛は「奇跡」の類のもので、論理的考察には限度があるようです。もしかしたら、語り得ぬことなのかもしれません。

 

 しかし、語り得ぬことと、それがこの世界に存在しないことは別の話になります。

 

 例えば、僕たちは、「世界」そのものについて語り得ませんが、世界は紛れもなく存在しているとも考えられるかと思います。一般的には。

 

 つまり、愛とは、よくわからないけども確かに存在するもの、であるということになります。

 

 また、僕たちが、愛によって幸福を感じるということは、曲がりなりにも、愛を知覚できるということです。

 

 すると、愛とは、「よくわからないけども確かに存在し、また論理的にはその実体についてはわからないが、それが存在する時はそれと分かるもののこと」、ということになります。

 

 つまり、いかなる論理によっても、愛は計測不能である可能性があります。

 

 それは非論理です。

 

 したがって、次のように結論できます。

 

 正しさとは、「善であり、愛であり、論理的にはよくわからないが、それが存在するときにはそれと分かるもののこと」を指していると言えるかもしれません。

 

 前回の「モテ術とか説得術とか」という当ブログの記事で、「正しい人がモテるのかもしれない」という仮説を立てました。

 

 それと今回の考察結果を合わせてみますと、

 

 モテる人とは、「善であり、愛であり、論理的にはよくわからないが、それが存在するときにはそれと分かる人のこと」であると考えられます。

 

 このように定義するとすれば、モテる人とは、やはり、「記述不能」となります。善とは変化であり、記述しようとしたそのそばから、「変化」してしまうと考えられるからです。

 

 つまり、「モテる」とは、論理的には定義不能の言葉となります。

 

 今回の話の筋の場合には、論理的には、どんな人のことを「モテる」というふうに表現するのかがよくわからないのです。

 

 モテる人とは、一個の謎であり、世界の隠された「秘密」であると言えるかもしれません。

 

 同じように、正しさとは、「一個の謎であり、秘密である」というふうに言えることになります。

 

 正しさは、唯一のものなのか、それともケースバイケースのものなのか、それすらも正確なところは不明です。

 

 ただ僕に、非論理的な知覚ながらも分かるのは、「親友なり恋人なりが寄りそってくれている時、自分はたまらなく幸福を感じているようだ」ということです。

 

 そこにある「何か」が、愛であり、正しさの正体なのかもしれません。

 

 性欲を満たしたり、お金を稼ぐことも、重要なことであり、それはそれで極めればすごいことです。

 

 しかし、性欲を満たす方法やお金を稼ぐ方法は、ある程度は記述できます。

 

 それに対し、愛を得る方法というのは記述がとても難しいように思われます。

 

 方法論的に得られた愛を、愛と呼ぶのかどうか、という問題もあります。なぜなら、その「愛と呼ばれているもの」は、方法論として「記述」されているため、その時点で、「変化」ではなく、善ではなく、愛ではない、と想定されるからです。

 

 強いて「説法」として言えば、このどうしようもない不確定な世界を知覚し、その中で生きること、つまり「空に回向すること」が、モテるための手法なのかもしれません。これがそもそも手法と呼べるのかどうかも定かではありませんが。それらは非論理的に直観することしかできず、論理的には理解できないものですので。

 

 正しさ、正義とは、どうも論理的に考えるならとても難しいもののようです。あんまり分かりやすい言葉でもないように思われます。これは、論理というよりも、文学的、芸術的、あるいは立法的な、「超越」した概念なのかもしれません(これについては、当ブログの「愛と欲望について」という記事をご覧ください)。

 

 今日は以上です。

 

 ではまた~

モテ術とか説得術とか

 こんばんは~

 

 今日は適当にお話を転がしていきます。散漫術です。

 

 つまらない文章ですので、読みたくない方は読まれない方がいいかもしれません。お好きにどうぞ。

 

 そうだなあ。

 

 よし。ちょっと恋愛における「モテ」のことについて考えてみようかな。まず。

 

 どうすればモテるのか。

 

 とか言いつつ、僕モテないですけど(笑) なので、いっしょに考えてみましょう。

 

 まず、以前に、「創造術」という記事で、「創造性のある人がモテるのではないか」というお話をしました。

 

 創造性があると、価値を創り出せますから、そういう人がモテるように進化してきた可能性も無きにしも非ず。

 

 そうですね。ちょっと今回は、進化論っぽく考えてみましょう。

 

 どういう個体がモテるのか。

 

 進化論っぽく考えるなら、繁殖しやすい個体、生き残りやすい個体がモテるのであろうと想定されます。

 

 なぜなら、繁殖しない個体が残っても、繁殖に有利に作用しないからです。

 

 だから、モテる個体は、以下の三つの特徴を備えていると考えられます。

 

1.創造性が強い

2.繁殖能力が強い

3.生き残る能力が強い

 

 では、創造性が強いとどういうことが起こるのか。価値を創り出せますので、色々な発明とかに有利です。イノベーションなどにも強いでしょう。また、創造性があるということは、新しい物事への適応能力も強いはず。ということは、新奇な事態に強く、適応力がある、と予想できます。

 

 では、繁殖能力が強いとどういうことが起こるのか。これは、簡単で、要は性欲が強いということと、性的魅力があるということなのでしょうね。容姿が優れていたりとか、あるいは能力に優れていたりとか。能力が仮に劣っていたとしても、「かわいい」という理由もあり得ますね。いろいろな繁殖能力が考えられます。

 

 では、生き残る能力が強いと? まあ、能力が高いのでしょうね。そして、いろいろな事態への適応力がある。

 

 ということで、上記のモテるための三条件は以下の三条件に変換できます。

 

1.適応力が強い

2.性欲が強い

3.セックスアピールが強い

 

 であれば、モテる個体は、これらの性質を備えていると考えられます。また、次のように推理できます。

 

 適応力が強いのがモテるのは、能力が高い方が生き残りに有利だからだろう。性欲が強いのがモテるのは、性欲が強い方が繁殖に有利だからだろう。セックスアピールが強いのがモテるのは、セックスアピールが強い方が、適応力があり、性欲が強いからだろう。

 

 非常に単純な推理で、突っ込みどころ満載ですが(笑) 今回はこの線で遊んでみましょう。

 

 つまり、セックスアピールを強めるためには、適応力を養い、性欲を強くすればよい、というふうに逆推理することができます。

 

 では、適応力とは何か。これは色々な環境に適応できる力です。「汎用性」ですね。だから、ただ「適応」しているだけではダメなわけですね。ひとつの環境に適応できたからと言って、他の環境に適応できるとは限りませんね。例えば、受験勉強に成功したからと言って、他のことができるとは限りません。つまり、「適応は適応力の存在を意味しない」ということです(これは、確か、宮台真司さんの本に書いてあったのかな? ご興味おありの方は、気が向いたらお読みになってみて下さいませ)。だから、モテたい人で、受験勉強で失敗した方などいらっしゃいましても、あまり気にしなくてもいいかもしれません。適応ではなく、「適応力」を示せればいいわけですので。一つ、二つ失敗しても問題ではなく、全体としての適応力がどうか、ということに注意する必要があります。そのように考えるなら、大局的に物事を見たほうが、モテやすいだろうとも推理できます。

 

 性欲とは? これは、エロいことです(笑) 健全にエロくなるためには、バランスよく栄養を取って、運動して、ちゃんと寝て、ホルモンバランスを整えることが大切なのでしょうね。後は、エロくなるべき時に、エロくなる、みたいな(笑) 簡単に言うと、セックスの途中で萎えてしまう個体よりも、ちゃんと最後までセックスを遂行できるエロい個体の方がモテるのであろう、みたいな話です。繁殖の成功率が高い方がモテるのであろう、と考えれば、進化論っぽくなると思います。

 

 つまり、セックスアピールを強くするためには、次の三つのことをすればいい。

 

1.大局を見る

2.バランスを整える

3.適応力をつける

 

 つまり、部分ではなく、大局を見て判断し、偏りないバランスの良い言動を持ち、色々な事態に適応できる偏りのない適応力を身につければ、モテるであろう、と推理できます。

 

 逆に、次のことをすれば、モテづらくなるのではないかと、推定できます。

 

1.偏見を持つ(あまりに偏りのある意見とか言動、あるいは、適応範囲の狭い意見)

2.バランスが悪い(生活のバランスの偏りとか、肌荒れとかかな?)

3.狭い範囲に極端に適応している(狭い範囲でしか生き残れない状態ということ)

 

 つまり、大局を見ず、部分で判断し、バランスが悪く、適応はしていても、適応力がない個体は、モテづらくなる可能性があるだろう、と想定されます。

 

 要は、大局を見て判断し、常にバランス感覚を持ち、適応力を向上させることができれば、セックスアピールを向上させることができるのではないか、という仮説です。

 

 勘のいい方はもしかしたら、お気づきかもしれませんが、これは、正しい統計判断が生じるための条件に似ていますね。

 

1.データ数が多い(大局観)

2.データが無作為に選ばれている(バランス)

3.データの解析が誤りなく論理的である(適応力)

 

 つまり、正しい統計判断ができれば、モテるのであろう、と推理できます。

 

 まとめると、「より正しい判断を下せる人ほどモテるのではないか」という仮説を立てることができます。

 

 さて、この仮説はどうなのでしょうか。

 

 みなさんの周りでは、間違っている人と正しい人、どちらがモテている印象がありますか?

 

 気が向いたら、データを収集してみて下さいませ。できれば、僕に結果を教えてください(笑)そうすると、僕のデータ数が増え、偏りのない大局観と合理的判断能力を獲得することで、モテない僕でも、モテるようになるかも! という希望を抱いて、さて、次の話題。

 

 相手に良心がない場合とか、あるいは良心が少ない場合とかどうするかのお話。

 

 できれば、説得したいものですね。

 

 説得できるためには、まず、自分がより正しい判断を下せることが条件になります。

 

 つまり、モテる人は、人を説得するのが上手いのかもしれません(笑) 色々考えられておもしろいですね。仮説ですが。

 

 説得の際には主に、次の三要件を備えていることが有効となります。

 

1.説得者が正しい

2.説得者が寛容である

3.説得者が魅力的である

 

 正しくなければ、説得も何もないですよね。まず前提として。次に、寛容でなければ、相手は排除されるのを怖がって、武装してしまいます。最後に、魅力的でなければ、話を聞いてもらえません。

 

 そして、上記のモテるための「仮説」によれば、魅力は正しさと合致するはずですから、説得者が正しくあろうとすれば、魅力的にもなれるだろうと思われます。また、創造性のある人は、寛容であると推理できますね。これはわかりますか?

 

 まず、創造性があるためには、色々なことを拒絶せず、受け入れることができることが必要だと推理できます。なぜなら、色々なことを経験していないと、色々なことが書けないからです。だから、色々な創造性のある話などができるためには、寛容であることが必要であるとも考えられます。逆に、非寛容で排除的な場合には、なかなか色々なことが経験しづらくて、創造性が育ちづらいと考えられます。

 

 つまり、要は、「正しければ正しいほど相手を説得できる確率が上がるだろう」と言えます。

 

 つまり、相手を口説く場合でも、正しければ正しいほどいいという推理ですね(笑)

 

 誰かを口説く際には、ぜひ、みなさん、正しくあるようにしてみてくださいませ。

 

 そして、正しければ正しいほどセックスアピールが上昇するという仮説ですから、正しくあることで、とても刺激的なセックスを楽しめるのかもしれません(笑)

 

 いいなあ。モテる人いいなあ(笑)

 

 刺激的なセックスが楽しみたい人は、ぜひ正しい人とセックスしてみて下さいませ(笑)

 

 みんなで、何が正しいのかを探究していくことができれば、ひいてはみんながモテるようになれるとも考えられますね。

 

 ならば、みんなで少しずついい世界にしていけると、その人はよりモテるようになるし、他の人もモテるようになるのかもしれませんね。

 

 正しい人は寛容なはずで、寛容であれば、排除しないで、協力をしてくれるはずですので、ある意味、周囲の人たちをモテる人間にする力を持った人はモテる、というふうにも言えるかもしれません。

 

 モテる人でさらにモテたい人は、ぜひ、あなたのモテモテパワーを周囲に感染させてみて下さい(笑)

 

 僕も感染したい(笑)

 

 モテる人は、どうか僕にそのモテモテパワーを分けてくださいませ。

 僕の他にもモテない人がいましたら、ぜひ、その方に協力してみて下さいませ。さらにモテるようになるかも?(笑)

 

 みんなで少しずつ正しいモテモテ社会にしていけるといいのかもしれませんね。

 

 ああ、あとですね。

 

 何だっけ?(笑)

 忘れた(笑)

 

 ああ、そうそう。

 

 一見、暴言的な人でも、その人が正しければ、モテるのかもしれません。漫画とかで、超ドSなイケメンとか出てくるじゃないですか。「SM」とかが楽しいという感性も世界には存在しているわけですし。だから、真の正しさは、暴言にも寛容である可能性が!! あるかも? しれない?

 

 でも、そうは言っても、世の中には見過ごすことのできないような暴力などもあるでしょうし。

 

 口で言うのは、簡単ですけど、寛容でいるということはとても難しいことなのかもしれません。

 

 難しいから、希少価値が出てくるのかもしれませんけど。

 

 例えば、暴言にしても、そのままに放置してしまうと、いくら寛容が大切だと言っても、社会に誤った情報が蔓延してしまうかもしれません。

 

 そうすると、嫌われることを恐れずに、そういった情報に対し、「否」と言える人も必要なのかもしれません。

 

 現実的には、何でもかんでも許すわけにもいかないのでしょうしね。それこそ、「バランス」が大切なのかもしれませんが、難しいです。

 

 世の中本当に難しいです。

 

 まず、世界が必然なのか偶然なのかがわからないし(笑)

 

 いったいどうなっているんでしょうね。世界。

 

 本当に不思議です。

 

 さて、今日もいろいろと仮説を立てて遊んでみました。みなさんも気が向いたら、仮説を立ててあそんでみて下さいませ。あくまで「仮説」ですので、鵜呑みにはせず、ほどほどにご参考下さい。仮説というのはどこかしら不完全なもので、より厳密な分析が必要なものでもありますから、気になった方など、ぜひあなたなりの分析など、どしどしネットに上げてみて下さいませ。みなさんがどういう分析をするのか、個人的に気になります(笑)

 

 さてさて、拙い文章でしたが、それでも、何かのお役に立てれば幸いです。

 

 今日はこんな感じです(笑)

 

 ではでは~♪

創造術(恋愛術、ある意味万能術)

 こんばんは。



 今日は、「創造は可能であるのか」について、考えてみようと思います。



 創造とは何か。



 これは、「新しいものを創り出すこと」です。



 では、「新しい」とは何か。



 これは、新しいわけですから、それまでに起こらなかったこと、それが起こることと考えられます。



 つまり、創造とは、「それまで起こらなかったことが起こること」です。



 これについてもう少し考察してみましょう。

 

 法則とは何か?



 これは事象の反復を見出すことです。



 例えば、重力の法則なら、何回も物体を髙い所から落としてみて、その落下速度を測るとある一定の反復、つまり、法則が見出されます。



 では、創造とは何かについて戻りましょう。

 

 創造とは新しいことですから、今まで反復したことのないもの、つまり、法則でないもの、のことと考えられます。



 はたして、この世界に法則に乗っ取らないものが存在するか否か。



 これは今のところ、不明です。



 なぜなら、僕たちは、未だに世界のさまざまなことに対して無知であり、多くのことについて正解が不明である上に、そのような茫漠とした答えのない平野をさまよっている状態にあるからです。



 この世界には、多くの場合、簡単に答えの出ることは存在しません。



 だから、科学は未だ、様々な法則について研究しますし、法律も未完成であるがゆえに、改正されたりもします。



 つまり、「法則は改正され得る」。



 法則が変化するとすれば、それは、今までの法則とは違ったことが起こる、ということでもあります。



 ならば、創造はこの世界に存在しているのかもしれません。いずれにせよ、創造が存在するかどうかは、世界が必然的であるか偶然的であるか、という問題でもあり、今のところ、答えが出ません。



 すべてが必然的なのなら、全ては法則通りであり、究極的には、全て予測できるはずです。



 すべて偶然なのなら、僕たちが見ている法則は不完全なもので、究極的には、事象は法則で全てを記述しきることはできないことになります。



 もしも、科学や法理論が万能のものであれば、世界は必然的であるので、創造、あるいは創造の力は存在しないことになります。



 しかし、本当の世界の姿がわからないとは言っても、わからないなりに僕たちは決断して、決めていく必要がある面もあります。生活して、生きていかないといけませんし。



 したがって、本当のところは不明ですが、ひとまず、現状では、どのような様態を世界が僕たちに対して表しているかについて考えてみましょう。



 まず、みなさんは世界のすべてを見通すことができますか?

 

 その場合、世界は必然的ですので、創造は存在しません。



 そして、人間は神ではないので、世界のすべてを見通すことはできません。



 つまり、世界には、偶然の余地があり、創造の余地がある、と推理するのが今のところ妥当であると考えられます。



 なぜなら、今の自分が世界のすべてを見通していると考えた場合、現状の自分に満足してしまって、そこから思考が発展しないからです。これでは、生存競争に乗り遅れてしまいますし、成長もありません。



 ならば、とりあえず、人間の文化なり文明なりが不完全なうちは、「世界には創造の余地がある」、というふうに考えたほうが有効でしょう。



 以上のことより、この世界には創造は存在する、というふうに考えるのがある程度妥当であろうと考えられます。



 僕たちは、本当に無知で、確かなことなどほとんど何もありませんが、それでも、少しでも確かだと思えることをみんなで積み上げて整理していけるといいのかもしれません。



 ほとんどのことは、本当に難しくて、答えがでません(笑) まるで出ない(笑)



 さて、今日のお話はなにやら、抽象的すぎて、あんまり面白くない方もいらっしゃるかもしれません。



 ちょっとおまけで、創造性と恋愛の関係について考えてみましょう。



 さて、ここで、ひとつの仮説を考えてみます。それは次の通り。



 創造性のある人はモテるのではないか



 以下、論証。



 まず、人間は善いものを好み、悪いものを嫌うと仮定します。



 例えば、一般に人は、容姿の善いものを好み、容姿の悪いものを嫌うのではないか、という仮説をとりあえず立ててみます。



 この場合、何が善であり、何が悪であるか、という問題となります。



 善とは何か。



 人間はどのような時に、「善い」というふうに感じるか。



 それは幸せだったり、気持が良かったりするときでしょう。



 では、それはどんな時か。



 とても刺激的な会話とか、映画とか、小説を読んでいる時や、あるいは棚から牡丹餅とでもいうような、幸運に突如恵まれたときなど、何か好ましい転機に恵まれたときではないでしょうか。



 逆に、マンネリだったり、あまりに退屈な繰り返しの日常とか、生活がどんどん窮屈になるばかりで、何の幸運の転機もないような状況。このような状況は、「悪い」と感じられることが多いかもしれません。



 これらのことから、単純にとりあえず考えてみると、なんらかの刺激なり、転機なりが、幸せ、あるいは快楽の条件なのではないか、という仮説を取り出すことができます。



 では、悪い刺激悪い転機」の場合はどうでしょう?



 悪い刺激とは、嫌悪感のある刺激です。例えば、まずいものを食べている時とか。悪い味覚への刺激があるのではないでしょうか。悪い転機とは、例えば、何か病気になって苦しい思いをするとか、そういうことかもしれません。



 では一体、それの何が悪いのでしょうか。これは、その悪い状態が持続するのが特によくないのではないかと推理します。



 例えば、まずいものをちょっぴり食べるのは苦痛が少ない。しかし、まずいものを永久に食べ続けるのはとても苦痛です。



 逆に、美味しいものでも、ずっとそれを食べ続けると飽きてきて苦痛です。



 つまり、苦痛の苦痛性とは、同じ状態がずっと続くことではないか、という仮説が取り出せます。



 ならば、この逆とは、「変化」であり、変化することが喜びにつながるのではないか、という仮説が出てきます。これはどの程度妥当でしょうか?



 まず、まずい状態から別の状態に変化すれば、これは確かに、「善い」と認識され得ます。



 では、善い状態から悪い状態への変化はどうでしょうか。



 なるほど、その悪い状態への移行が永久的なものであれば、それは地獄になり得ます。しかし、それが一瞬で済み、常に変化し続けるのであれば、その悪い状態は、その人の糧となり、経験となり、その人の器を広げるでしょう。「若い時の苦労は買ってもせよ」という諺がありますね。



 では、善い状態からさらに善い状態への変化はどうか。



 これは言わずもがな、善い状態かと思います。



 つまり、変化するのであれば、人間は、悪い状態を善い状態へ変換する力をある程度持っており、少しずつ、必ず善くなっていくであろう、というふうに推理できます。



 すると、逆に、停滞すると、悪い状態へと向かうというふうに逆に推理できます。



 これはみなさんの経験的にはどうですか? 当たってますか?



 簡単にまとめますと、



 変化に適応するものが善い状態へと向かい、停滞するものが悪い状態へと向かうのではないか。



 この仮説はどうなんでしょうね。みなさんの、意見を聞いてみたいところではあります。



 変化を恐れない人が生き残り、停滞するものは適応できなくなっていく、という仮説です。もしかしたら、そうなのかもしれませんが、これを確実なものとして判定するにはもう少しデータが欲しいところでもあります。みなさんも気が向いたら、調べてみて下さいませ。



 この仮説が正しければ、「善い状態」とは生もののようなもので、常に動き続けていなければ、なくなってしまうような、いわば、幽霊のようなものであると推定できます。



 それに対し、「悪い状態」とは、停滞していますので、止まっていて、ソリッドなものなのであり、この手にこれとつかむことのできる、ある意味確かなものであると考えられます。



 例えば、僕が、ここに善い状態について記述しようとしても、善とは変化ですので、書いたそばから変化してしまい、どんなに記述していっても、永久に善を記述できないであろうと考えられます。



 逆に、悪い状態なら、停滞したソリッドなものですので、いくらでも記述として蓄積していくことができると想定されます。



 つまり、悪い状態は蓄積し、善い状態は変化する、というふうに考えられます。



 今回の仮説の立場を取った場合には、例えば、「記憶」のようなものは悪い状態を引き起こす可能性があります。なぜなら、それは停滞し、蓄積したものだからです。逆に、善い状態は、記憶の変化、つまり、「忘却」によってもたらされる、というふうに考えることもできます。



 そして、記憶は悪いものとして今とりあえず考えてみましたが、それでも、人間が「変化」する限りは、その悪いものである記憶さえも善いものに変わっていくであろうと推定できます。人間は苦労を蓄積して、より良い状態に移行する能力をある程度持っていると考えられるからです(例えば、簡単な課題ばかりやって満足しているよりも、苦労して難しい課題に挑戦した人の方が高い能力を身につけやすいというふうに推理することもできる。つまり、人間は悪い状態としての「苦労」を善い状態にある程度は昇華できる)。



 したがって、重要なポイントは、今現在、善い状態にあるにせよ、悪い状態にあるにせよ、「変化」することであると、推理することができます。



 とにかく「変化すれば、善い状態に移行していくであろう、という仮説です。



 そして、この変化とは、新しい状態の生成であり、「創造」であると考えることができます。



 生成と変化をつなげて、「生成変化」と言ってもいいかもしれません。世の中には、いろいろな言葉があると思います。



 以上の論証をもって、創造する個体は、善い状態に移行しやすく、善い状態の個体はモテるであろう、と推理することができます。



 今回の記述は、善いものがモテるというふうにとりあえず仮定していますので、その辺りの仮定についてもみなさんでもう少し検討してみるのも面白いかもしれません。本当に善いものはモテると言えるかどうか。



 しかし、「創造」という言葉は、論証しました通り、記述不能、特定不能、幽霊のような言葉です。その特性上、何か悪い商売などに利用される可能性もあるとも言えます。



 ただ、これは見分け方はある意味簡単であるともいえるかもしれません。



 もしも、その商売が記述可能なものを売っていれば、それは悪いものであろう、と推理できます。



 逆に、その商売が記述不能なものを売っていれば、それは善いものであろう、と推理できます。



 この場合、「理由があって、善いものだ」という記述されたものを売っている商売は怪しく、「理由はないが、なぜか善いものだ」という記述不能なものを売っている商売は善いものであろう、と推理することもできます。



 これはどういうことかと言いますと、真に善いものとはいったいそれが善いのかどうか悪いのかどうかすらもわからず、端に、「変化」であるということです。変化だから、善いとも悪いとも記述できない。



 それに対し、「これがいい」、「あれがいい」、「これが悪い」、「あれが悪い」というふうにソリッドなものは、「変化」ではないので、「停滞」であろう、と推理できる、ということです。そして、ソリッドなものは流動的な「変化」に比べて、目に見えやすい。



 しかし、難しいのが、ソリッドなものも、善いものへの糧となりえることです。苦労はしたほうが人間、成長できるものであるという一面もあります。



 つまり、真の善は、悪をも善いものとすることができるのであり、その意味で、「寛容」なものであると考えられます。



 つまり、悪いものを「包摂」し、それも「善いもの」とすることができる。



 逆に言えば、悪いものは包摂の反対ですので、「排除」するものであると考えることができます。



 つまり、極力は、全てのものを包摂すること、寛容になること、許すこと、そして、生成変化、創造すること。



 このことによって、人はモテると呼ばれる状態になるのではないか、という仮説です。みなさん、「寛容」というといい印象を受けますか? もしも、寛容という言葉にいい印象があるのなら、この仮説はある程度当たっているのかもしれません。逆に言えば、非寛容的、つまり、細かいことをしつこく気にしたりする人は、モテづらく、また、人を許しづらい、根に持ちやすい人などもモテづらいであろう、と推測されます。また、これらの特徴を持った人々を想定した場合、それは「悪い状態」を引き起こすと今回は推理されますから、それらの人々にはある程度、人を不幸にする素因があると考えられます。



 しかし、逆説的ですが、もしも、「記憶が悪いものだ、細かい人は悪い人だ」というふうにソリッドに決めて、それらのものや人たち包摂ではなく、排除しようとした場合には、それは変化ではなく、許しではなく、ではなく、寛容ではない。



 そうではなく、その記憶をも包摂し、昇華できること。これが創造の条件になるであろうと推測できます。



 つまり、悪は悪ではない、という姿勢を持つこと。



 それは変化するものです。



 善も悪も、すべてのものが変化するとすれば、それは全てのものが善であるということになります。



 では、善とは変化しないのか?



 無論、これも変化するでしょう。どのようなものに変化するのかはわかりませんが。



 では、変化変化するのか。



 無論、変化するでしょう。これも、一体どんなものに変化するのかはわかりませんが。



 なぜなら、変化は記述できないからです。



 最後に、では、寛容になるには、つまり、「許し」を与えることができるようになるためにはどうすればいいと考えられるか。



 これを逆から考えてみましょう。



 まず、許さず、つまり、包摂せず、排除を行うとはどういうことか?



 この現象が成立するためには、二つの条件が成立していればいいと考えられます。



 1.相手が悪い。

 2.だから、自分は悪くない。



 これは、責任の回避であり、責任の他者への「押しつけ」となります。



 では、責任を負えばいいのか?



 どうもそれほど単純でもないようです。



 責任には権利も付随することがけっこう多いと思います。



 責任ある立場の人は、それなりの権力も持っていることが多いのではないでしょうか。



 すると、責任をたくさん負うと、その人の権力は膨れ上がります。



 あまりにこの度が過ぎ、他の人たちを圧迫するようになると、これはファシズム的というか、上手くありません。



 つまり、責任の重さには、その都度のケースバイケースな適性域がグラデーション的に存在すると考えられ、一律に、責任の重さを決定することはできません。



 これは、先日触れた、「当事者」の問題とも被ってくると思います。ご興味のおありの方は、ブログ内検索からご覧下さい。当事者についての記事があります。



 ただ、今回の論法でいった場合には、互いを許し(つまり、相手の悪いところを許し)、そして、相手の背負っている重荷をともに背負う(責任を負う)ことによって、モテるようになるのであろう、と推理できます。



 逆に、これと逆のことをすればモテないというふうに考えられますので、つまり、相手を許さず(しつこく欠点を攻撃してくる)、そして、相手が重荷によって潰されるままに放置する(責任を負わない)ことによって、モテないことが可能であろうと推理されます。



 ただ、これには逆の論法もあります。



 簡単な言葉遊びのようなものですので、簡単にそのトリックを説明いたします。



 無責任なのがモテる、という論法です。



 この場合、端的に言って、「責任」の定義が違うのです。



 これには先述した、「責任とは権利である」という論法を用います。



 また、創造性のある、寛容な人がモテるというふうに仮定します。



 この場合、権利がないことに対して、寛容であるのがモテる、というふうな論法が可能となります。



 そうしますと、今度は、自分は権利を放棄し、つまり、相手に権利を贈与することのできる、権利への固執や執着のない、しつこくない人がモテるであろう、という推理になります。



 つまり、権利がない人や事態を許すことができる、という種類の寛容になります。



 この場合、さきほどまでとは一転して、「無責任な人がモテる」という論法となります。



 みなさん、狐に包まれたような心地がしたりするかもしれません(笑)



 結論を申し上げますと、



 寛容な人は寛容でない人を許す、ということです。

 あるいは、寛容という言葉は、狭量(寛容でないもの)を寛容に変換する機能を持っている、という感じ。



 また、そうした、色々なことを許すことのできる人が恐らく、しつこい人よりもモテるのであろう、という仮説が今日のお話でした。



 寛容にもいろいろな種類があり、例えば、一見暴言的な人でも、その実寛容な人であるケースもあり得る、ということです。



 このように物事とは非常に込み入っていて、とても難しい感じに仕上がっているというふうに、個人的に思います。

 しかし、ここで、そんな世界に文句をいう、つまり、包摂ではなく、排除してしまうと、僕はますますモテない人間になってしまいますので、何とか世界を受け入れられるようにがんばろうと思います(笑) ただでさえモテないのに(笑)



 色々な問題点を受け入れたうえで、それらを昇華するために少しずつ自分も世界も良くして行けるといいのかもしれませんね。

 

 これはどうなのでしょうね?



 みなさんの周りでは、狭量な人と寛容な人、どっちがモテている感じがしますか? これも各々で気が向いたら、計測なさって見ると面白いかもしれません。



 ここで、「寛容な人です!」って言っちゃだめなんですよ?(笑) この構造はわかりますかね? ここの最適解は、「狭量な人も寛容な人もどっちも魅力的ですね」です(笑) なぜなら、寛容な人は狭量な人を許すから。



 一応、別の論法を附属しておきます。

 

 寛容とは善である、とします。



 善は幽霊であり、記述できません。



 したがって、「善は寛容である」とは記述できません。



 ならば、「モテる人の特徴は記述できません」。「モテる人」には痕跡がないわけですね。



 となります。 

 

 モテない人の特徴を仮に悪であるとするなら、モテない人の特徴は記述可能である、ということです。

 今日は面倒くさい話ですね(笑) すみません(笑)



 つまり、どうしたら悪いかは記述できるのですが、どうしたらいいのかは記述できないのです。



 ですので、善は、各々が自立して、自分に責任をもって、世界を許し、さまざまな人たちを包摂し、狭量にならず、自由に、寛容に、記憶や痕跡ではなく、生成変化している「今この時」に生きる必要があります(つまり、記憶や痕跡をも包摂する、ということ。悪は悪ではない)。



 つまり、これらの記述を読んで理解したら、今度はこれらの記述を全て捨て、無心になる必要があります。



 それが善である、という一つの仮説が今回の術式になります。



 善いものがモテるのだとすれば、つまり、こうした無心状態(仏教でいえば、「空」と呼ばれる状態)、の人が最もモテるのではないか、ということになります。



 だから、無心になれなければ、モテないと想定されるわけです。今回の論法の場合には。



 だから、「モテたいから無心になろう!」とか思っちゃうと、モテないかも、というお話。



 そうではなく、無心で、真心で、何にもとらわれず、執着せず、無心になり、ひたすらに「空」に向かうことでモテるのであろう、という感じ。



 モテたくてギラギラしている個体よりも、モテなんて興味ないという感じの余裕のある個体がモテるのであろうという仮説でもあります。



 要は、「見返りを求めず他人に奉仕できる人が素敵でモテる人なのだろう」(これは仏教でいえば、「喜捨」などの概念に当たる)、というお話です。



 ただ、「私に見返りを求めず奉仕しろ」と命令して言ってくる人などにはご用心するのも手かもしれません。その方は見返りを求めていますね。つまり、あなたを不幸にする素因を持っていると考えられるからです。無論、それを承知の上で、相手に奉仕するなら、あなたは「聖人」なのでしょうけども。その是非についてはここでは判断しないでおきます。



 気が向いたらご参考下さい。



 





 以下、今日の結論です。



 1.すべての物事は、創造によって、少しずつ良くなっていくのであろう。

 2.善いものがモテるとすれば、創造性(変化、生成変化)のある人はモテるであろう。

 3.すべてのものが変化するなら、この世界に本質的な悪は存在しないのであろう。





 補足。



 とは言え、この世界には悲劇的なことが数多くあり、僕には、それすべて善だと言い切ることはできません。理論上は、全てのものは必ずよくなっていくであろうと考えるもできないではないですが、飢餓で苦しむ人たちや、戦争で死んでしまう人たちなどがいることを考えると、これらを容認することはとても難しいです。したがって、ここに記述された理論は多分に不完全なものなのであろうと思います。したがって、鵜呑みにはせず、みなさんもご自分で色々とお考えになってみて下さいませ。しかも、結論が結論ですしね(笑)。「善とは幽霊だ」っていう(笑)どうやら、善は世界に痕跡を残さないようです。「立つ鳥跡を濁さず」、と言いますね。変化や創造や自由、美しいものは、この世界に痕跡を残さないのかもしれません。世界に痕跡がなければ、科学的にアプローチが難しいので、どうしても、それこそ難しい話になってしまいます。いろいろと難しいですね。確かで簡単な事なんて、この世界には何もないのではないかと思えてきます。

 

 一応、創造の存在についての多少厳密な論証を上げておきます。人によってはこっちの方がわかりやすいかもしれませんが(笑)。上記の論証はわかりやすくしている特性上、誤解の余地があります。



 以下、よりましな? より厳密と思われる? 論証。



 1.モナドを仮定する。

 2.世界は必然であるとする。

 3.世界は決定している、とする。

 4.あるひとつの認知を仮定する。

 5.認知は決定を決定と認知し、生成変化を生成変化として認知するものとする。

 6.世界が決定しているとすれば、生成変化は認知されない。

 7.しかし、状態は刻一刻と変化する。

 8.ならば、世界は決定しておらず、世界には生成変化が存在する。

 9.認知が決定を生成変化として認知するとする。

 10.この場合、認知されない決定的世界が生じる。

 11.この時、認知されない世界は、私の認知に影響を及ぼさない。

 12.したがって、この場合、私の認知とは独立な決定的世界が存在する。

 13.いずれにせよ、それは認知はできない。

 14.認知できるものを世界であると考えるとすれば、決定的世界は世界ではない。

 15.もしもそれがソリッドなものであれば、認知できるはずである。

 16.それが認知できないということは、それは絶えず流れゆくものである。

 17.つまり、認知とは独立な決定的世界は、その実生成変化である。

 18.ならば、決定とは生成変化である。

 19.「世界」は決定的に一元的であり、かつ、流動的に多元的である。

 20.この世は永久不変であり、かつ、千変万化である。

 

 

P.S.ヤバい(笑)今回の記事、9600字になってる(笑)。さっき占いで遊んでたら僕の嫌われる理由は、字数を気にしないことだ、って出てきてて勝手にビビってたんですよね(笑)気をつけようと思っているのですが、どうしても長くなってしまいますね。そんなこと言っていると、今度は、10000字になりそうなので、この辺でやめておかないといけないんですけど(笑)自制しないと、僕には惰性でどこまでも長く文章を書いてしまう癖があって、悪癖だなと思っています。

 でも、これは僕の個性? だから、寛容なみんななら許してくれるよね? ね? ということで今日はこの辺で(笑)

 

 

 ではでは~☆

 

 

 けっ。どうせなら、一万字越えてやる。

 

 るんるんるんるん。

 

 わーいわーい。

 

 後もうちょっと。

 

 こんなくだらないことをしている間に、

 

 やったね。一万字。おめでとう~☆☆(パチパチパチパチ~♪)

 

 今度こそ、ではみなさん、また(笑)

 

 ではでは~