魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。

村上春樹さんの『騎士団長殺し』について

 みなさん、こんばんは♪

 

 今日は機嫌がいいプルプルタンです。

 

 夜は多少、統合失調症の影響かどうかわかりませんが、鬱になるのですが、今日は村上春樹さんの新刊を読んだせいか、気分がいいです(個人の意見です(笑))。

 

 『騎士団長殺し』という作品ですが、みなさんお読みになりましたでしょうか?

 

 個人的にとても好きな感じの作品でした。

 

 ネタバレとかは極力しませんが、迂回しながら、思ったことを書いてみようと思います。

 

 すごく仏教色が強く(仏教を肯定しているとか、そういう感じの単純な意味ではない)、また題材が「絵画」であるということもあって、三島由紀夫の『豊饒の海』を思い出しました。豊饒の海も大好きな作品なのですが、騎士団長殺しもかなり好きです(笑)

 

 けっこう複雑な文章だったというふうに個人的に感じました。僕は複雑な文章が大好きなので、――理由はそれだけではありませんが――すごくお気に入りな作品になりました。これ書き終わったら、また最初から読みなおそうかな、と思ってました(笑)

 

 本当は、一週間くらい時間をかけて読もうと思っていたのですが、おもしろかったので、一気に読んでしまいました。読んでしまったというより、読まされたのかもしれませんが。

 

 いずれにせよ、とても好きな作品でした。

 

 必然とか偶然とか運命とか生殖とか遺伝とか才能とか時間とか、すごく哲学的な感じのことも触れられているように個人的に感じました。

 

 特に「秘密」というテーマが大きいように感じました。個人的に。

 

 非常に多くのことが入りくんでいて、みなさんそれぞれ、いろいろな読み方ができる小説なのではないかと思いました。

 

 また、『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』という作品のある意味、続編というふうな見方もできるのではないかというふうに個人的に感じました。

 

 この作品に、出てくる「シロ」と呼ばれる女の子がいるのですが、その子を「別の形」で書き表してみたのかな、というふうに感じる面もありました(かなり違いはありますが)。

 

 また、「色がない」ということはどういうことなのか、ということに非常に強い力点が置かれているように感じました。

 

 仏教ふうに言えば、「無色界」みたいな言葉になるのかもしれません。あるいは、「色即是空」とか。

 

 「色が無い」感じ。

 

 勝手な思い込みだったのかもしれませんが、村上春樹さん、あんまり絵画はお好きじゃないのかな、というふうに個人的に思ったりもしていましたので、こうした絵画が主題的に出てくる作品をお書きになるのは意外な感じがしました(実際には他にも美術を扱った作品はあったと思いますが。何故か村上春樹=絵嫌い、みたいな勝手なイメージが僕の中にあったようです。勝手なイメージに過ぎないのかもしれませんが)。

 

 「色」は、多崎つくるの物語でも主題になっていて、この作品もおもしろくて、僕は好きですので、ご興味ありましたら、騎士団長殺しと多崎つくる、どちらもお読みになってみるのも、ひとつの手かもしれません。

 

 騎士団長殺しは、二巻構成になっていますが、筋の置き方が、ゲーテの『ファウスト』を何となく彷彿とさせる感じに思いました。

 

 ファウストは、最初普通のリアリズムっぽい感じ(悪魔とか出てきますけどね(笑))なのに、途中第二部から超メタファって感じの作品になるのですが、騎士団長殺しも、そんな感じの印象を受けました。

 

 ファウストと違うのは、――そんなところいっぱいあるのですが(笑)――ファウストはメタファから帰ってこずそのまま昇天なさってしまう印象なのですが、騎士団長殺しは、メタファの世界から帰ってきて、あくまで現実に着地します。

 

 ただ、その現実が、「本当に現実なのかわからない」みたいな感じ。

 

 この感覚は何となくわかる気がします。僕も、この現実が本当に現実なのかどうかわからない感じが常にありますので(笑)すべて幻覚であるような気もします。

 

 観念とかイデアについてもかなりふんだんに触れられています。

 

 決定的世界と非決定的(少なくともそう見える)世界の両立を目指しているような印象を受けました。

 

 イデアは――あるいは一歩踏み込むとその顕れは――決定的かもしれませんが、メタファは遷移しますので、そのどちらもを描いているということは、決定でも非決定でもないということなのかもしれません。

 

 つまり、決定、非決定の二項対立を越えた先にあるものを描いているのかな、という印象を個人的に受けたりもします。

 

 必然でも偶然でもなくて、その先にあるもの。

 

 また、この作品の中にある生殖観がすごく面白くて、ぜひお読みになってみてほしいのですが、いわば、「夢魔による生殖」みたいなことについて書かれていて、この辺は、ドゥルーズ好き好きな僕としては、「キターーーー!!!」って感じでした(笑) 超テンション上がりまくってた(笑)

 

 ある意味、「生殖価値観」に一石投じていると言えるのかも知れません。エッチなこととか、生殖にご興味のおありの方はお読みになってみるのもいいかもしれません(笑)

 

 「子供」についてとか、けっこう書かれてて、その辺の感じのことに興味おありの方もいいかもしれない。

 

 後は、「時間」についてとか。いろいろ考えるのにもいいかも。

 

 僕たちの知覚する時間構成とイデア界というか、イデア的にみたときの時間構成の差異、という感じのことに触れられていて、おもしろいなと思いました。

 

 これは前になんかの記事で僕も書いたかもしれません。このブログに(「創造術」だったかな? 気が向いたらお読みになってみてください)。

 

 騎士団長殺しって、「殺し」ってワードがどことなく不吉だったので、すこし不吉な小説かとも思っていたのですが、おもしろかったです(笑)

 

 ある意味、いい意味で、不吉ではあるかもしれないとも思いますが(笑)

 

 でも、そんなに後味悪い感じはしなかったですね。個人的には。むしろ、後味超よかった(笑)

 

 これ以上書くとネタバレとかになっちゃいますかね?

 

 この辺にしておこうかな(笑)

 

 あんまり書きすぎて、皆様の楽しみを奪ってもあれなので。

 

 ただ、「疑うことよりも信じること」の大切さを言っているようにも感じました。「何を」信じるのか、というのは非常に難しいのですが。強いて言えば、「イデア」でしょうか(笑) よくわかりませんが。二項対立的な可能性の領野から一歩踏み出す? というか、超越するというか。

 

 ニュアンスが「微妙」(幽玄)なのだと思いますので、気になる方は、ぜひお読みになってみるといいかもしれません。

 

 では、みなさん、今日はこの辺で、ごきげんよう~。

 

 とりあえず、好きな小説でした。

 

 

 

 

 

 

 

勉強術(教育術、就職術、国家術、受験術を少し含む)

 みなさんこんばんは~。

 

 今日は「勉強」のお話をします。

 

 みなさん、勉強というとどんなことを思い浮かべますか? 受験でしょうか。

 

 受験もおもしろいゲームですよね。

 

 今回は受験に限らず、勉強一般のやり方について考えてみましょう。

 

 では、そもそも「勉強」とは何なのでしょう? 少しずつ一歩一歩見ていきましょう。

 

 これは、学問とか何かの芸術とかを身につけるために練習することです。

 

 では、学問とは何でしょうか?

 

 これは、知識とか理論のことです。

 

 芸術は、美を表現する技術とか。

 

 だから、「勉強」とは、知識や理論や技術を身につけるために練習すること、です。

 

 つまり、勉強とは、練習のことです。

 

 では、練習とは何でしょうか?

 

 これは、くりかえすことです。

 

 つまり、勉強とは、くりかえすこと。

 

 何度も何度もくりかえすわけですね。

 

 つまり、何かを勉強したいと思ったときは、何かをくりかえせばよい、というふうに推理できます。

 

 例えば、覚えたい単語がある時は、その覚えたい単語を何度もくりかえし見ればよい、というふうに考えられます。

 

 覚えられない数学の解法がある時は、その覚えたい問題と数式を何度も繰り返し見たり、解いたりすればよい、というふうに考えられます。

 

 勉強とは「くりかえし」のことだからです。

 

 何度くりかえせば身につくかは個人差があるかもしれません。

 

 しかし、ただ確実なのは、勉強とはくりかえすことであり、単語も解法もくりかえしていれば、いつかは覚えられるということです。

 

 つまり、挫折せず、くりかえすことに成功しさえすれば、少なくとも学校の勉強くらいのものであれば、誰でも身につけられるのではないかと推理できます。「読書百遍義自ずから見る」、とも言いますね。

 

 では、どうすれば、挫折せず、くりかえすことを続けることができるでしょうか。

 

 要は、挫折を防げさえすればよい。

 

 そこで、挫折の原因を考えてみます。

 

 これには、以下の三つが考えられます。

 

1.焦る

2.一気に何もかもやろうとする

3.短期間の勉強ですませようとする

 

 焦れば、あたふたしてしまって、勉強を失敗してしまいます。一気に何もかもやろうとすると、いっぱいいっぱいになって嫌になってしまいます。長期的に勉強にとりくめないと、短期間で挫折してしまいます。

 

 つまり、勉強を挫折せず成功させるためには、次の三つの点を守ればよいことになります。

 

1.ゆったりとした気持ちを持つ(焦らない)

2.少しずつ勉強に取り組む(一気に何もかもやろうとしない)

3.気を長く持って勉強する(短気にならない)

 

 つまり、「ことわざ」で言いかえますと、

 

1.急がば回れ

2.塵も積もれば山となる

3.継続は力なり

 

 の三つを心にとめて勉強することが、勉強のポイントであると言えます。勉強を成功させたい方は、この三つのポイントを守って勉強すれば、高確率で勉強を成功させることができると考えられます。焦らず、少しずつ、長く勉強を続ければよい。

 

 逆に、焦って、一気に、短い期間で勉強をするとうまくいかない可能性が高くなると推理します。

 

 みなさんも焦って勉強した場合とゆったりと勉強した場合でどちらがいい成果が出るかを測定してみるといいかもしれません。僕の場合、焦ると、なかなか勉強をつづけることができなくなってしまうので、一応、みなさんに、僕の個人的な学習方法をお伝えしておきます。

 

 さて、それでは、大まかな勉強方法が分かったところで、もうすこし細かく勉強について考えてみましょう。

 

 勉強とは、何かの知識とか理論とか技術とか、つまり、「能力」を身につけるための練習です。

 

 では、どのような課題を勉強すれば、能力は身に付きやすいと考えられるか。これについて少し考えてみましょう。

 

 まず、身の回りのことを何もかもやってくれるロボットを考えてみて下さい。そういうロボットがいたら、人間は身の回りのことをする必要がなくなりますね。すると、その身の回りのことをする能力は退化することになります。

 

 つまり、能力を育てるためには、これと逆のことをすればよいと考えられます。

 

 これは、「便利さを避ける」、ということです。

 

 次に、挑戦をせず簡単な問題を解き続けている人と、色々な難しい問題に挑戦し続けている人では、どちらが能力が高くなりやすいかを考えてみてください。

 

 これは、挑戦の量が多い人の方が能力高くなりやすいのではないかと推理できます。

 

 つまり、「難しい課題に積極的に挑戦する」、ということです。

 

 さて、最後に、たくさん勉強している人と、すこししか勉強していない人では、どちらが能力が高くなりやすいと考えられるでしょうか。

 

 これは、「たくさん勉強している人」ですね。

 

 つまり、「勉強に時間をかけている人」です。

 

 よって、勉強をよく行うためには、次の三つのことを心にとめていればよい、と考えられます。

 

1.便利なものを用いるのではなく、手間をかけて勉強する

2.できる問題ばかりやらず、自分にできないかもしれない難しい問題に挑戦する

3.勉強に時間をかける

 

 これをより単純にすると、次のようになります。

 

1.手間をかける

2.挑戦する

3.時間をかける

 

 つまり、勉強は、手間をかけるほどよく、挑戦するほどよく、時間をかけるほどによい、というふうに考えられます。

 

 例えば、余裕ですぐに解ける挑戦を必要としない簡単な問題を解くよりも、手間がかかり時間がかかり挑戦心を必要とするような難しい問題を解いたほうが、いろいろと勉強になるところが大きいだろう、というふうに推理されます。

 

 気が向いたら、お試しあれ。

 

 以下、勉強のコツをまとめます。

 

 

1.ゆったりと、少しずつ、長く勉強しよう

2.焦らず、楽をしようとせず、気長に勉強しよう

3.手間をかけ、挑戦し、時間をかけよう

4.何度も何度もくりかえし勉強しよう

5.学問に王道なし

 

 

P.S.以上の勉強のコツから、教育手法のコツも推理することができます。教育術、ですね。

 

今回の論法の場合には、上記のコツを子供などに習得させることができればよい、というふうに考えられます。

 

つまり、教育は次の環境を子供に提供すればよい。

 

1.ゆとりのある環境

2.負荷のある環境

3.挑戦できる環境

 

つまり、たっぷりの色々なことをする時間とたっぷりの色々な難しい課題とたっぷりの色々な挑戦ができる環境を、作ることができれば、教育は有効に作用するであろう、と推理できます。

 

逆に次のような条件がそろっていると、教育はうまくいかないであろうと考えられます。

 

1.色々なことに取り組める時間がない

2.色々な難しい課題に取り組めない

3.色々な挑戦ができない

 

これは、次のように変換できます。

 

1.単調(色々な多様性がない)

2.単純(課題が簡単で単純)

3.退屈(同じことの繰り返しばかりで発展性がない)

 

つまり、よい学校とは、多様な人がいて、多様な複雑な難しい課題があって、多様な新しいことへの挑戦ができる学校のこと、というふうに考えられます。

 

逆に、悪い学校とは、同じような人しかいなくて、同じような単純な課題しかなくて、同じようなことの繰り返ししかできない学校のこと、というふうに考えられます。

 

このことから、よい先生とは何かについても推理することができます。

 

よい先生とは、多様性に寛容で、多様な複雑な事情に通じていて、多様な新しいことへの挑戦を促してくれる先生のこと、というふうに考えられます。

 

逆に、悪い先生とは、排除的で、単純な事情しか分からず、生徒の挑戦心を挫く先生のこと、というふうに考えられます。

 

これらのことから、あなたを育ててくれるよい企業とは何かについてもある程度類推できます。

 

よい企業とは、多様な人がいて、多様な複雑な共同体で、多様なイノベーションを行っている企業、というふうに考えられます。

 

逆に、悪い企業とは、排除的で、単純な似た人たちしかいない共同体で、新しいことへの挑戦が活発でない企業、というふうに考えられます。

 

これらのことから、よい国家とは何かについても類推できます。

 

よい国家とは、多様な人がいて、多様な文化があって、多様な創造活動がある国家であると類推できます。

 

つまり、人々の成長を行うのに適したよい国家は次のことを行うであろうと推理できます。

 

1.移民を受け入れる

2.色々な出自の人たちと仲良くする

3.創造性に投資する

 

逆に、悪い国家は次のことを行うであろうと推理できます。

 

1.外国人を排除する

2.人を不当に差別する

3.既得権益に固執する

 

無論、ここに書かれたことは、「仮説」であり、しかも、ものすごく単純な推理に過ぎないので、鵜呑みにはせず、みなさんでじっくりと検証なさってみてくださいませ。

 

よい国家に所属し、よい企業に所属し、よい学校に所属し、よい教育を受け、よい勉強をすることができるといいのかもしれませんね。

 

色々な意見がおありかと思います。

 

みんなで少しずつ正確な知識を持てるように勉強していけるようになるといいのかもしれませんね。

 

では、最後になりますが、みなさんの関心事かもしれない、「受験術」について少し考えてみましょう。

 

つまり、よい受験は次の性質を備えています。

 

1.多様性を尊重している

2.挑戦を尊重している

3.自由を尊重している

 

よって、個人的には、人の多様性を尊重し、人の挑戦を尊重し、人の自由を尊重している、そういう受験を受けることをお勧めいたします(日本にそういう学校あるかな?(笑))。

 

つまり、多様なことに自由に挑戦する人を積極的に受け入れている学校に入ればよい。

 

逆に、次の受験が悪い受験であると考えられます。

 

1.排除的である

2.挑戦心を挫く

3.自由を抑圧する

 

したがって、排除的で、挑戦的でなく、自由でない受験は、個人的には受けないことをおすすめいたします。

 

難しいですけどね。ここに書かれたことは理想論ですから(笑)世の中なかなかうまくいきません。

 

適当なところで妥協しつつ生きていくしかないのかもしれませんが、理想的には以上のような結論になるかと思います。

 

つまり、受験制度は次のように改変する事が出来れば、理想的だとも考えられます。

 

1.入学条件の緩和(入学試験を易しくするとか)

2.卒業に必要な課題の難度を上げる(単位認定試験を難しくするとか)

3.色々な出自の人たちを入学させる(学費の免除とか)

 

これできたら面白いですけどね(笑) できたらどうなるんでしょうね、日本(笑)。いろいろと想像してみるのもおもしろいと思います。

 

ぜひ、みなさんも気が向いたらいろいろとご想像なさってみてくださいませ。

 

今日は以上です。

 

ではでは~♪

 

 

P.S.2

ちなみに「勉強」の場合は、手間をかけたほうがいいですが、その「能力」を「応用」する場合は、「便利」なものを使うことが有効になります。気が向いたら、「応用術」として書くこともあるかもしれません。

また、国家なり共同体に所属することを今回否定していませんでしたが、そもそも国家とかに疑義を呈する論法もあります。そのうち気が向いたら書くかもしれません。

「正しさ」とは何か(正義術)

 こんばんは。

 

 今日は「正しさ」とは何か、について考えてみたいと思います。

 

 みなさんはどんなものが正しいと思いますか?

 

 僕には二つの説がまず思い浮かびます。

 

 

1.正しさとは善である

2.正しさとは理に適っていることである

 

 

 では、善と、理に適っていることは、何が違うのでしょう?

 

 理に適っていれば、それは善であるような気もします。

 

 このように考えた場合には、例えば、「愛は善である」、という言説。

 

 これは、「愛は理に適っていれば善で、理に適っていなければ善ではない」、ということになります。

 

 では、そもそも、愛が理に適っていないということはあり得るのか。

 

 まず、人間のもとめるものは何であるか。

 

 まず、ひとつの有力な説は、「お金」ですね。お金はある程度大切です。

 

 では、人はお金のために行動しているのでしょうか?

 

 どうもそうではないようです。

 

 なぜなら、人は、お金を使用しますね。

 

 つまり、お金は、「手段」であって、それ自体、「目的」ではないのではないかと考えられます。

 

 次の説、「性欲」

 

 つまり、人間は、セックス、あるいは繁殖するために、生きているのでしょうか。

 

 では、セックスや繁殖していない人たちは、生きていないのでしょうか?

 

 そうとも言えません。彼らも生きていますし、子供を持たずとも、有益な成果をもたらしていると言える人は多くいるでしょう。

 

 すると、人は性欲のために生きているというわけでも、ないのかもしれません。

 

 では、愛はどうか?

 

 愛には色々な種類があり、友愛とか、博愛とか、色々とあります。

 

 では、人間は愛のために生きているでしょうか?

 

 愛があって、お金がない場合、これはどうか。

 

 この時、二人(厳密には、三人でも四人でも何人でもよい。最近は「ポリアモリー」というものもあるようです)は幸せを感じるか否か。

 

 お金がある人というのは、「富裕層」と呼び得る人達かと思います。富裕な人が価値を持っているとすれば、おそらく富裕な人が希少価値を持っているからでしょう。つまり、富裕な人は普通の人と比べると、希少なのかもしれません。

 

 では、その希少な富裕な人たち以外には、愛を得ることはできないのでしょうか。

 

 しかし、これはどうも実態どおりではない。

 

 必ずしも富裕でなくても、愛を得ている人はいるように思われます。

 

 つまり、愛の幸福自体は、富裕でなくても、入手し得るものであるのかもしれません。一時の愛にせよ、長期的な愛にせよ。

 

 では、性欲主体ではない愛はどうか?

 

 これもある程度成立するようです。「プラトニックラブ」という概念がありますし、また、そうした純な愛を描いた漫画作品などもわりに見受けられます。

 

 すると、必ずしも、性欲がなくても、愛は成立し得るようです。

 

 友愛などはこれなのかもしれません。親友との語らいなどは、基本的に、至福のものかと思います。

 

 そのように考えると、人間は、お金や性欲を満たすことでは、幸せになれるとは限りませんが、愛を満たすことができるとある程度幸せな気分になれるのではないか、という仮説を抽出できます。

 

 そのための手段として、お金や性欲が用いられることが多いのでしょう。目的自体は、おそらくあくまで、「愛」であろうと思われます。

 

 では、愛を求めない人はいないのか。原理的にはそういう人も想定できるはずです。その人たちは幸せになれないのでしょうか?

 

 これは非常に難しい問題です。

 

 しかし、個人的な見解としては、基本的にそういう人はいないのではないかと思います。ぜひ、みなさんのデータも教えて下さるとありがたいです。一応、このように観察結果だけは報告しておきます。

 

 では、愛とはどうも目的であり、その限りで、それを目指すこと自体が理に適っているもののようです。

 

 ならば、愛とは善であり、かつ、理に適っている、と言えそうです。

 

 では、愛とはそもそも何なのか?

 

 これは善なのだとすれば、愛について記述することは難しいです(これについては、当ブログの「創造術」という記事をブログ内検索からご覧ください)。

 

 ただ、愛への「固着」については記述できるかもしれません。それは「変化」ではないからです。

 

 愛とは「幽玄」なものなのかもしれません。

 

 愛とは「よくわからない」もの

 

 では、この世界に、よくわからないものは存在すると言えるか。

 

 世の中、そんなことばかりですので、これは存在すると言えるかもしれません。

 

 そもそも、「世界」とは何なのかが不明です。ならば、世界の中に存在するように見える、愛についてもやはりよくわからないです。

 

 愛とは「空」(仏教用語です)なのかもしれません。

 

 定義上、愛は「奇跡」の類のもので、論理的考察には限度があるようです。もしかしたら、語り得ぬことなのかもしれません。

 

 しかし、語り得ぬことと、それがこの世界に存在しないことは別の話になります。

 

 例えば、僕たちは、「世界」そのものについて語り得ませんが、世界は紛れもなく存在しているとも考えられるかと思います。一般的には。

 

 つまり、愛とは、よくわからないけども確かに存在するもの、であるということになります。

 

 また、僕たちが、愛によって幸福を感じるということは、曲がりなりにも、愛を知覚できるということです。

 

 すると、愛とは、「よくわからないけども確かに存在し、また論理的にはその実体についてはわからないが、それが存在する時はそれと分かるもののこと」、ということになります。

 

 つまり、いかなる論理によっても、愛は計測不能である可能性があります。

 

 それは非論理です。

 

 したがって、次のように結論できます。

 

 正しさとは、「善であり、愛であり、論理的にはよくわからないが、それが存在するときにはそれと分かるもののこと」を指していると言えるかもしれません。

 

 前回の「モテ術とか説得術とか」という当ブログの記事で、「正しい人がモテるのかもしれない」という仮説を立てました。

 

 それと今回の考察結果を合わせてみますと、

 

 モテる人とは、「善であり、愛であり、論理的にはよくわからないが、それが存在するときにはそれと分かる人のこと」であると考えられます。

 

 このように定義するとすれば、モテる人とは、やはり、「記述不能」となります。善とは変化であり、記述しようとしたそのそばから、「変化」してしまうと考えられるからです。

 

 つまり、「モテる」とは、論理的には定義不能の言葉となります。

 

 今回の話の筋の場合には、論理的には、どんな人のことを「モテる」というふうに表現するのかがよくわからないのです。

 

 モテる人とは、一個の謎であり、世界の隠された「秘密」であると言えるかもしれません。

 

 同じように、正しさとは、「一個の謎であり、秘密である」というふうに言えることになります。

 

 正しさは、唯一のものなのか、それともケースバイケースのものなのか、それすらも正確なところは不明です。

 

 ただ僕に、非論理的な知覚ながらも分かるのは、「親友なり恋人なりが寄りそってくれている時、自分はたまらなく幸福を感じているようだ」ということです。

 

 そこにある「何か」が、愛であり、正しさの正体なのかもしれません。

 

 性欲を満たしたり、お金を稼ぐことも、重要なことであり、それはそれで極めればすごいことです。

 

 しかし、性欲を満たす方法やお金を稼ぐ方法は、ある程度は記述できます。

 

 それに対し、愛を得る方法というのは記述がとても難しいように思われます。

 

 方法論的に得られた愛を、愛と呼ぶのかどうか、という問題もあります。なぜなら、その「愛と呼ばれているもの」は、方法論として「記述」されているため、その時点で、「変化」ではなく、善ではなく、愛ではない、と想定されるからです。

 

 強いて「説法」として言えば、このどうしようもない不確定な世界を知覚し、その中で生きること、つまり「空に回向すること」が、モテるための手法なのかもしれません。これがそもそも手法と呼べるのかどうかも定かではありませんが。それらは非論理的に直観することしかできず、論理的には理解できないものですので。

 

 正しさ、正義とは、どうも論理的に考えるならとても難しいもののようです。あんまり分かりやすい言葉でもないように思われます。これは、論理というよりも、文学的、芸術的、あるいは立法的な、「超越」した概念なのかもしれません(これについては、当ブログの「愛と欲望について」という記事をご覧ください)。

 

 今日は以上です。

 

 ではまた~

モテ術とか説得術とか

 こんばんは~

 

 今日は適当にお話を転がしていきます。散漫術です。

 

 つまらない文章ですので、読みたくない方は読まれない方がいいかもしれません。お好きにどうぞ。

 

 そうだなあ。

 

 よし。ちょっと恋愛における「モテ」のことについて考えてみようかな。まず。

 

 どうすればモテるのか。

 

 とか言いつつ、僕モテないですけど(笑) なので、いっしょに考えてみましょう。

 

 まず、以前に、「創造術」という記事で、「創造性のある人がモテるのではないか」というお話をしました。

 

 創造性があると、価値を創り出せますから、そういう人がモテるように進化してきた可能性も無きにしも非ず。

 

 そうですね。ちょっと今回は、進化論っぽく考えてみましょう。

 

 どういう個体がモテるのか。

 

 進化論っぽく考えるなら、繁殖しやすい個体、生き残りやすい個体がモテるのであろうと想定されます。

 

 なぜなら、繁殖しない個体が残っても、繁殖に有利に作用しないからです。

 

 だから、モテる個体は、以下の三つの特徴を備えていると考えられます。

 

1.創造性が強い

2.繁殖能力が強い

3.生き残る能力が強い

 

 では、創造性が強いとどういうことが起こるのか。価値を創り出せますので、色々な発明とかに有利です。イノベーションなどにも強いでしょう。また、創造性があるということは、新しい物事への適応能力も強いはず。ということは、新奇な事態に強く、適応力がある、と予想できます。

 

 では、繁殖能力が強いとどういうことが起こるのか。これは、簡単で、要は性欲が強いということと、性的魅力があるということなのでしょうね。容姿が優れていたりとか、あるいは能力に優れていたりとか。能力が仮に劣っていたとしても、「かわいい」という理由もあり得ますね。いろいろな繁殖能力が考えられます。

 

 では、生き残る能力が強いと? まあ、能力が高いのでしょうね。そして、いろいろな事態への適応力がある。

 

 ということで、上記のモテるための三条件は以下の三条件に変換できます。

 

1.適応力が強い

2.性欲が強い

3.セックスアピールが強い

 

 であれば、モテる個体は、これらの性質を備えていると考えられます。また、次のように推理できます。

 

 適応力が強いのがモテるのは、能力が高い方が生き残りに有利だからだろう。性欲が強いのがモテるのは、性欲が強い方が繁殖に有利だからだろう。セックスアピールが強いのがモテるのは、セックスアピールが強い方が、適応力があり、性欲が強いからだろう。

 

 非常に単純な推理で、突っ込みどころ満載ですが(笑) 今回はこの線で遊んでみましょう。

 

 つまり、セックスアピールを強めるためには、適応力を養い、性欲を強くすればよい、というふうに逆推理することができます。

 

 では、適応力とは何か。これは色々な環境に適応できる力です。「汎用性」ですね。だから、ただ「適応」しているだけではダメなわけですね。ひとつの環境に適応できたからと言って、他の環境に適応できるとは限りませんね。例えば、受験勉強に成功したからと言って、他のことができるとは限りません。つまり、「適応は適応力の存在を意味しない」ということです(これは、確か、宮台真司さんの本に書いてあったのかな? ご興味おありの方は、気が向いたらお読みになってみて下さいませ)。だから、モテたい人で、受験勉強で失敗した方などいらっしゃいましても、あまり気にしなくてもいいかもしれません。適応ではなく、「適応力」を示せればいいわけですので。一つ、二つ失敗しても問題ではなく、全体としての適応力がどうか、ということに注意する必要があります。そのように考えるなら、大局的に物事を見たほうが、モテやすいだろうとも推理できます。

 

 性欲とは? これは、エロいことです(笑) 健全にエロくなるためには、バランスよく栄養を取って、運動して、ちゃんと寝て、ホルモンバランスを整えることが大切なのでしょうね。後は、エロくなるべき時に、エロくなる、みたいな(笑) 簡単に言うと、セックスの途中で萎えてしまう個体よりも、ちゃんと最後までセックスを遂行できるエロい個体の方がモテるのであろう、みたいな話です。繁殖の成功率が高い方がモテるのであろう、と考えれば、進化論っぽくなると思います。

 

 つまり、セックスアピールを強くするためには、次の三つのことをすればいい。

 

1.大局を見る

2.バランスを整える

3.適応力をつける

 

 つまり、部分ではなく、大局を見て判断し、偏りないバランスの良い言動を持ち、色々な事態に適応できる偏りのない適応力を身につければ、モテるであろう、と推理できます。

 

 逆に、次のことをすれば、モテづらくなるのではないかと、推定できます。

 

1.偏見を持つ(あまりに偏りのある意見とか言動、あるいは、適応範囲の狭い意見)

2.バランスが悪い(生活のバランスの偏りとか、肌荒れとかかな?)

3.狭い範囲に極端に適応している(狭い範囲でしか生き残れない状態ということ)

 

 つまり、大局を見ず、部分で判断し、バランスが悪く、適応はしていても、適応力がない個体は、モテづらくなる可能性があるだろう、と想定されます。

 

 要は、大局を見て判断し、常にバランス感覚を持ち、適応力を向上させることができれば、セックスアピールを向上させることができるのではないか、という仮説です。

 

 勘のいい方はもしかしたら、お気づきかもしれませんが、これは、正しい統計判断が生じるための条件に似ていますね。

 

1.データ数が多い(大局観)

2.データが無作為に選ばれている(バランス)

3.データの解析が誤りなく論理的である(適応力)

 

 つまり、正しい統計判断ができれば、モテるのであろう、と推理できます。

 

 まとめると、「より正しい判断を下せる人ほどモテるのではないか」という仮説を立てることができます。

 

 さて、この仮説はどうなのでしょうか。

 

 みなさんの周りでは、間違っている人と正しい人、どちらがモテている印象がありますか?

 

 気が向いたら、データを収集してみて下さいませ。できれば、僕に結果を教えてください(笑)そうすると、僕のデータ数が増え、偏りのない大局観と合理的判断能力を獲得することで、モテない僕でも、モテるようになるかも! という希望を抱いて、さて、次の話題。

 

 相手に良心がない場合とか、あるいは良心が少ない場合とかどうするかのお話。

 

 できれば、説得したいものですね。

 

 説得できるためには、まず、自分がより正しい判断を下せることが条件になります。

 

 つまり、モテる人は、人を説得するのが上手いのかもしれません(笑) 色々考えられておもしろいですね。仮説ですが。

 

 説得の際には主に、次の三要件を備えていることが有効となります。

 

1.説得者が正しい

2.説得者が寛容である

3.説得者が魅力的である

 

 正しくなければ、説得も何もないですよね。まず前提として。次に、寛容でなければ、相手は排除されるのを怖がって、武装してしまいます。最後に、魅力的でなければ、話を聞いてもらえません。

 

 そして、上記のモテるための「仮説」によれば、魅力は正しさと合致するはずですから、説得者が正しくあろうとすれば、魅力的にもなれるだろうと思われます。また、創造性のある人は、寛容であると推理できますね。これはわかりますか?

 

 まず、創造性があるためには、色々なことを拒絶せず、受け入れることができることが必要だと推理できます。なぜなら、色々なことを経験していないと、色々なことが書けないからです。だから、色々な創造性のある話などができるためには、寛容であることが必要であるとも考えられます。逆に、非寛容で排除的な場合には、なかなか色々なことが経験しづらくて、創造性が育ちづらいと考えられます。

 

 つまり、要は、「正しければ正しいほど相手を説得できる確率が上がるだろう」と言えます。

 

 つまり、相手を口説く場合でも、正しければ正しいほどいいという推理ですね(笑)

 

 誰かを口説く際には、ぜひ、みなさん、正しくあるようにしてみてくださいませ。

 

 そして、正しければ正しいほどセックスアピールが上昇するという仮説ですから、正しくあることで、とても刺激的なセックスを楽しめるのかもしれません(笑)

 

 いいなあ。モテる人いいなあ(笑)

 

 刺激的なセックスが楽しみたい人は、ぜひ正しい人とセックスしてみて下さいませ(笑)

 

 みんなで、何が正しいのかを探究していくことができれば、ひいてはみんながモテるようになれるとも考えられますね。

 

 ならば、みんなで少しずついい世界にしていけると、その人はよりモテるようになるし、他の人もモテるようになるのかもしれませんね。

 

 正しい人は寛容なはずで、寛容であれば、排除しないで、協力をしてくれるはずですので、ある意味、周囲の人たちをモテる人間にする力を持った人はモテる、というふうにも言えるかもしれません。

 

 モテる人でさらにモテたい人は、ぜひ、あなたのモテモテパワーを周囲に感染させてみて下さい(笑)

 

 僕も感染したい(笑)

 

 モテる人は、どうか僕にそのモテモテパワーを分けてくださいませ。

 僕の他にもモテない人がいましたら、ぜひ、その方に協力してみて下さいませ。さらにモテるようになるかも?(笑)

 

 みんなで少しずつ正しいモテモテ社会にしていけるといいのかもしれませんね。

 

 ああ、あとですね。

 

 何だっけ?(笑)

 忘れた(笑)

 

 ああ、そうそう。

 

 一見、暴言的な人でも、その人が正しければ、モテるのかもしれません。漫画とかで、超ドSなイケメンとか出てくるじゃないですか。「SM」とかが楽しいという感性も世界には存在しているわけですし。だから、真の正しさは、暴言にも寛容である可能性が!! あるかも? しれない?

 

 でも、そうは言っても、世の中には見過ごすことのできないような暴力などもあるでしょうし。

 

 口で言うのは、簡単ですけど、寛容でいるということはとても難しいことなのかもしれません。

 

 難しいから、希少価値が出てくるのかもしれませんけど。

 

 例えば、暴言にしても、そのままに放置してしまうと、いくら寛容が大切だと言っても、社会に誤った情報が蔓延してしまうかもしれません。

 

 そうすると、嫌われることを恐れずに、そういった情報に対し、「否」と言える人も必要なのかもしれません。

 

 現実的には、何でもかんでも許すわけにもいかないのでしょうしね。それこそ、「バランス」が大切なのかもしれませんが、難しいです。

 

 世の中本当に難しいです。

 

 まず、世界が必然なのか偶然なのかがわからないし(笑)

 

 いったいどうなっているんでしょうね。世界。

 

 本当に不思議です。

 

 さて、今日もいろいろと仮説を立てて遊んでみました。みなさんも気が向いたら、仮説を立ててあそんでみて下さいませ。あくまで「仮説」ですので、鵜呑みにはせず、ほどほどにご参考下さい。仮説というのはどこかしら不完全なもので、より厳密な分析が必要なものでもありますから、気になった方など、ぜひあなたなりの分析など、どしどしネットに上げてみて下さいませ。みなさんがどういう分析をするのか、個人的に気になります(笑)

 

 さてさて、拙い文章でしたが、それでも、何かのお役に立てれば幸いです。

 

 今日はこんな感じです(笑)

 

 ではでは~♪

創造術(恋愛術、ある意味万能術)

 こんばんは。



 今日は、「創造は可能であるのか」について、考えてみようと思います。



 創造とは何か。



 これは、「新しいものを創り出すこと」です。



 では、「新しい」とは何か。



 これは、新しいわけですから、それまでに起こらなかったこと、それが起こることと考えられます。



 つまり、創造とは、「それまで起こらなかったことが起こること」です。



 これについてもう少し考察してみましょう。

 

 法則とは何か?



 これは事象の反復を見出すことです。



 例えば、重力の法則なら、何回も物体を髙い所から落としてみて、その落下速度を測るとある一定の反復、つまり、法則が見出されます。



 では、創造とは何かについて戻りましょう。

 

 創造とは新しいことですから、今まで反復したことのないもの、つまり、法則でないもの、のことと考えられます。



 はたして、この世界に法則に乗っ取らないものが存在するか否か。



 これは今のところ、不明です。



 なぜなら、僕たちは、未だに世界のさまざまなことに対して無知であり、多くのことについて正解が不明である上に、そのような茫漠とした答えのない平野をさまよっている状態にあるからです。



 この世界には、多くの場合、簡単に答えの出ることは存在しません。



 だから、科学は未だ、様々な法則について研究しますし、法律も未完成であるがゆえに、改正されたりもします。



 つまり、「法則は改正され得る」。



 法則が変化するとすれば、それは、今までの法則とは違ったことが起こる、ということでもあります。



 ならば、創造はこの世界に存在しているのかもしれません。いずれにせよ、創造が存在するかどうかは、世界が必然的であるか偶然的であるか、という問題でもあり、今のところ、答えが出ません。



 すべてが必然的なのなら、全ては法則通りであり、究極的には、全て予測できるはずです。



 すべて偶然なのなら、僕たちが見ている法則は不完全なもので、究極的には、事象は法則で全てを記述しきることはできないことになります。



 もしも、科学や法理論が万能のものであれば、世界は必然的であるので、創造、あるいは創造の力は存在しないことになります。



 しかし、本当の世界の姿がわからないとは言っても、わからないなりに僕たちは決断して、決めていく必要がある面もあります。生活して、生きていかないといけませんし。



 したがって、本当のところは不明ですが、ひとまず、現状では、どのような様態を世界が僕たちに対して表しているかについて考えてみましょう。



 まず、みなさんは世界のすべてを見通すことができますか?

 

 その場合、世界は必然的ですので、創造は存在しません。



 そして、人間は神ではないので、世界のすべてを見通すことはできません。



 つまり、世界には、偶然の余地があり、創造の余地がある、と推理するのが今のところ妥当であると考えられます。



 なぜなら、今の自分が世界のすべてを見通していると考えた場合、現状の自分に満足してしまって、そこから思考が発展しないからです。これでは、生存競争に乗り遅れてしまいますし、成長もありません。



 ならば、とりあえず、人間の文化なり文明なりが不完全なうちは、「世界には創造の余地がある」、というふうに考えたほうが有効でしょう。



 以上のことより、この世界には創造は存在する、というふうに考えるのがある程度妥当であろうと考えられます。



 僕たちは、本当に無知で、確かなことなどほとんど何もありませんが、それでも、少しでも確かだと思えることをみんなで積み上げて整理していけるといいのかもしれません。



 ほとんどのことは、本当に難しくて、答えがでません(笑) まるで出ない(笑)



 さて、今日のお話はなにやら、抽象的すぎて、あんまり面白くない方もいらっしゃるかもしれません。



 ちょっとおまけで、創造性と恋愛の関係について考えてみましょう。



 さて、ここで、ひとつの仮説を考えてみます。それは次の通り。



 創造性のある人はモテるのではないか



 以下、論証。



 まず、人間は善いものを好み、悪いものを嫌うと仮定します。



 例えば、一般に人は、容姿の善いものを好み、容姿の悪いものを嫌うのではないか、という仮説をとりあえず立ててみます。



 この場合、何が善であり、何が悪であるか、という問題となります。



 善とは何か。



 人間はどのような時に、「善い」というふうに感じるか。



 それは幸せだったり、気持が良かったりするときでしょう。



 では、それはどんな時か。



 とても刺激的な会話とか、映画とか、小説を読んでいる時や、あるいは棚から牡丹餅とでもいうような、幸運に突如恵まれたときなど、何か好ましい転機に恵まれたときではないでしょうか。



 逆に、マンネリだったり、あまりに退屈な繰り返しの日常とか、生活がどんどん窮屈になるばかりで、何の幸運の転機もないような状況。このような状況は、「悪い」と感じられることが多いかもしれません。



 これらのことから、単純にとりあえず考えてみると、なんらかの刺激なり、転機なりが、幸せ、あるいは快楽の条件なのではないか、という仮説を取り出すことができます。



 では、悪い刺激悪い転機」の場合はどうでしょう?



 悪い刺激とは、嫌悪感のある刺激です。例えば、まずいものを食べている時とか。悪い味覚への刺激があるのではないでしょうか。悪い転機とは、例えば、何か病気になって苦しい思いをするとか、そういうことかもしれません。



 では一体、それの何が悪いのでしょうか。これは、その悪い状態が持続するのが特によくないのではないかと推理します。



 例えば、まずいものをちょっぴり食べるのは苦痛が少ない。しかし、まずいものを永久に食べ続けるのはとても苦痛です。



 逆に、美味しいものでも、ずっとそれを食べ続けると飽きてきて苦痛です。



 つまり、苦痛の苦痛性とは、同じ状態がずっと続くことではないか、という仮説が取り出せます。



 ならば、この逆とは、「変化」であり、変化することが喜びにつながるのではないか、という仮説が出てきます。これはどの程度妥当でしょうか?



 まず、まずい状態から別の状態に変化すれば、これは確かに、「善い」と認識され得ます。



 では、善い状態から悪い状態への変化はどうでしょうか。



 なるほど、その悪い状態への移行が永久的なものであれば、それは地獄になり得ます。しかし、それが一瞬で済み、常に変化し続けるのであれば、その悪い状態は、その人の糧となり、経験となり、その人の器を広げるでしょう。「若い時の苦労は買ってもせよ」という諺がありますね。



 では、善い状態からさらに善い状態への変化はどうか。



 これは言わずもがな、善い状態かと思います。



 つまり、変化するのであれば、人間は、悪い状態を善い状態へ変換する力をある程度持っており、少しずつ、必ず善くなっていくであろう、というふうに推理できます。



 すると、逆に、停滞すると、悪い状態へと向かうというふうに逆に推理できます。



 これはみなさんの経験的にはどうですか? 当たってますか?



 簡単にまとめますと、



 変化に適応するものが善い状態へと向かい、停滞するものが悪い状態へと向かうのではないか。



 この仮説はどうなんでしょうね。みなさんの、意見を聞いてみたいところではあります。



 変化を恐れない人が生き残り、停滞するものは適応できなくなっていく、という仮説です。もしかしたら、そうなのかもしれませんが、これを確実なものとして判定するにはもう少しデータが欲しいところでもあります。みなさんも気が向いたら、調べてみて下さいませ。



 この仮説が正しければ、「善い状態」とは生もののようなもので、常に動き続けていなければ、なくなってしまうような、いわば、幽霊のようなものであると推定できます。



 それに対し、「悪い状態」とは、停滞していますので、止まっていて、ソリッドなものなのであり、この手にこれとつかむことのできる、ある意味確かなものであると考えられます。



 例えば、僕が、ここに善い状態について記述しようとしても、善とは変化ですので、書いたそばから変化してしまい、どんなに記述していっても、永久に善を記述できないであろうと考えられます。



 逆に、悪い状態なら、停滞したソリッドなものですので、いくらでも記述として蓄積していくことができると想定されます。



 つまり、悪い状態は蓄積し、善い状態は変化する、というふうに考えられます。



 今回の仮説の立場を取った場合には、例えば、「記憶」のようなものは悪い状態を引き起こす可能性があります。なぜなら、それは停滞し、蓄積したものだからです。逆に、善い状態は、記憶の変化、つまり、「忘却」によってもたらされる、というふうに考えることもできます。



 そして、記憶は悪いものとして今とりあえず考えてみましたが、それでも、人間が「変化」する限りは、その悪いものである記憶さえも善いものに変わっていくであろうと推定できます。人間は苦労を蓄積して、より良い状態に移行する能力をある程度持っていると考えられるからです(例えば、簡単な課題ばかりやって満足しているよりも、苦労して難しい課題に挑戦した人の方が高い能力を身につけやすいというふうに推理することもできる。つまり、人間は悪い状態としての「苦労」を善い状態にある程度は昇華できる)。



 したがって、重要なポイントは、今現在、善い状態にあるにせよ、悪い状態にあるにせよ、「変化」することであると、推理することができます。



 とにかく「変化すれば、善い状態に移行していくであろう、という仮説です。



 そして、この変化とは、新しい状態の生成であり、「創造」であると考えることができます。



 生成と変化をつなげて、「生成変化」と言ってもいいかもしれません。世の中には、いろいろな言葉があると思います。



 以上の論証をもって、創造する個体は、善い状態に移行しやすく、善い状態の個体はモテるであろう、と推理することができます。



 今回の記述は、善いものがモテるというふうにとりあえず仮定していますので、その辺りの仮定についてもみなさんでもう少し検討してみるのも面白いかもしれません。本当に善いものはモテると言えるかどうか。



 しかし、「創造」という言葉は、論証しました通り、記述不能、特定不能、幽霊のような言葉です。その特性上、何か悪い商売などに利用される可能性もあるとも言えます。



 ただ、これは見分け方はある意味簡単であるともいえるかもしれません。



 もしも、その商売が記述可能なものを売っていれば、それは悪いものであろう、と推理できます。



 逆に、その商売が記述不能なものを売っていれば、それは善いものであろう、と推理できます。



 この場合、「理由があって、善いものだ」という記述されたものを売っている商売は怪しく、「理由はないが、なぜか善いものだ」という記述不能なものを売っている商売は善いものであろう、と推理することもできます。



 これはどういうことかと言いますと、真に善いものとはいったいそれが善いのかどうか悪いのかどうかすらもわからず、端に、「変化」であるということです。変化だから、善いとも悪いとも記述できない。



 それに対し、「これがいい」、「あれがいい」、「これが悪い」、「あれが悪い」というふうにソリッドなものは、「変化」ではないので、「停滞」であろう、と推理できる、ということです。そして、ソリッドなものは流動的な「変化」に比べて、目に見えやすい。



 しかし、難しいのが、ソリッドなものも、善いものへの糧となりえることです。苦労はしたほうが人間、成長できるものであるという一面もあります。



 つまり、真の善は、悪をも善いものとすることができるのであり、その意味で、「寛容」なものであると考えられます。



 つまり、悪いものを「包摂」し、それも「善いもの」とすることができる。



 逆に言えば、悪いものは包摂の反対ですので、「排除」するものであると考えることができます。



 つまり、極力は、全てのものを包摂すること、寛容になること、許すこと、そして、生成変化、創造すること。



 このことによって、人はモテると呼ばれる状態になるのではないか、という仮説です。みなさん、「寛容」というといい印象を受けますか? もしも、寛容という言葉にいい印象があるのなら、この仮説はある程度当たっているのかもしれません。逆に言えば、非寛容的、つまり、細かいことをしつこく気にしたりする人は、モテづらく、また、人を許しづらい、根に持ちやすい人などもモテづらいであろう、と推測されます。また、これらの特徴を持った人々を想定した場合、それは「悪い状態」を引き起こすと今回は推理されますから、それらの人々にはある程度、人を不幸にする素因があると考えられます。



 しかし、逆説的ですが、もしも、「記憶が悪いものだ、細かい人は悪い人だ」というふうにソリッドに決めて、それらのものや人たち包摂ではなく、排除しようとした場合には、それは変化ではなく、許しではなく、ではなく、寛容ではない。



 そうではなく、その記憶をも包摂し、昇華できること。これが創造の条件になるであろうと推測できます。



 つまり、悪は悪ではない、という姿勢を持つこと。



 それは変化するものです。



 善も悪も、すべてのものが変化するとすれば、それは全てのものが善であるということになります。



 では、善とは変化しないのか?



 無論、これも変化するでしょう。どのようなものに変化するのかはわかりませんが。



 では、変化変化するのか。



 無論、変化するでしょう。これも、一体どんなものに変化するのかはわかりませんが。



 なぜなら、変化は記述できないからです。



 最後に、では、寛容になるには、つまり、「許し」を与えることができるようになるためにはどうすればいいと考えられるか。



 これを逆から考えてみましょう。



 まず、許さず、つまり、包摂せず、排除を行うとはどういうことか?



 この現象が成立するためには、二つの条件が成立していればいいと考えられます。



 1.相手が悪い。

 2.だから、自分は悪くない。



 これは、責任の回避であり、責任の他者への「押しつけ」となります。



 では、責任を負えばいいのか?



 どうもそれほど単純でもないようです。



 責任には権利も付随することがけっこう多いと思います。



 責任ある立場の人は、それなりの権力も持っていることが多いのではないでしょうか。



 すると、責任をたくさん負うと、その人の権力は膨れ上がります。



 あまりにこの度が過ぎ、他の人たちを圧迫するようになると、これはファシズム的というか、上手くありません。



 つまり、責任の重さには、その都度のケースバイケースな適性域がグラデーション的に存在すると考えられ、一律に、責任の重さを決定することはできません。



 これは、先日触れた、「当事者」の問題とも被ってくると思います。ご興味のおありの方は、ブログ内検索からご覧下さい。当事者についての記事があります。



 ただ、今回の論法でいった場合には、互いを許し(つまり、相手の悪いところを許し)、そして、相手の背負っている重荷をともに背負う(責任を負う)ことによって、モテるようになるのであろう、と推理できます。



 逆に、これと逆のことをすればモテないというふうに考えられますので、つまり、相手を許さず(しつこく欠点を攻撃してくる)、そして、相手が重荷によって潰されるままに放置する(責任を負わない)ことによって、モテないことが可能であろうと推理されます。



 ただ、これには逆の論法もあります。



 簡単な言葉遊びのようなものですので、簡単にそのトリックを説明いたします。



 無責任なのがモテる、という論法です。



 この場合、端的に言って、「責任」の定義が違うのです。



 これには先述した、「責任とは権利である」という論法を用います。



 また、創造性のある、寛容な人がモテるというふうに仮定します。



 この場合、権利がないことに対して、寛容であるのがモテる、というふうな論法が可能となります。



 そうしますと、今度は、自分は権利を放棄し、つまり、相手に権利を贈与することのできる、権利への固執や執着のない、しつこくない人がモテるであろう、という推理になります。



 つまり、権利がない人や事態を許すことができる、という種類の寛容になります。



 この場合、さきほどまでとは一転して、「無責任な人がモテる」という論法となります。



 みなさん、狐に包まれたような心地がしたりするかもしれません(笑)



 結論を申し上げますと、



 寛容な人は寛容でない人を許す、ということです。

 あるいは、寛容という言葉は、狭量(寛容でないもの)を寛容に変換する機能を持っている、という感じ。



 また、そうした、色々なことを許すことのできる人が恐らく、しつこい人よりもモテるのであろう、という仮説が今日のお話でした。



 寛容にもいろいろな種類があり、例えば、一見暴言的な人でも、その実寛容な人であるケースもあり得る、ということです。



 このように物事とは非常に込み入っていて、とても難しい感じに仕上がっているというふうに、個人的に思います。

 しかし、ここで、そんな世界に文句をいう、つまり、包摂ではなく、排除してしまうと、僕はますますモテない人間になってしまいますので、何とか世界を受け入れられるようにがんばろうと思います(笑) ただでさえモテないのに(笑)



 色々な問題点を受け入れたうえで、それらを昇華するために少しずつ自分も世界も良くして行けるといいのかもしれませんね。

 

 これはどうなのでしょうね?



 みなさんの周りでは、狭量な人と寛容な人、どっちがモテている感じがしますか? これも各々で気が向いたら、計測なさって見ると面白いかもしれません。



 ここで、「寛容な人です!」って言っちゃだめなんですよ?(笑) この構造はわかりますかね? ここの最適解は、「狭量な人も寛容な人もどっちも魅力的ですね」です(笑) なぜなら、寛容な人は狭量な人を許すから。



 一応、別の論法を附属しておきます。

 

 寛容とは善である、とします。



 善は幽霊であり、記述できません。



 したがって、「善は寛容である」とは記述できません。



 ならば、「モテる人の特徴は記述できません」。「モテる人」には痕跡がないわけですね。



 となります。 

 

 モテない人の特徴を仮に悪であるとするなら、モテない人の特徴は記述可能である、ということです。

 今日は面倒くさい話ですね(笑) すみません(笑)



 つまり、どうしたら悪いかは記述できるのですが、どうしたらいいのかは記述できないのです。



 ですので、善は、各々が自立して、自分に責任をもって、世界を許し、さまざまな人たちを包摂し、狭量にならず、自由に、寛容に、記憶や痕跡ではなく、生成変化している「今この時」に生きる必要があります(つまり、記憶や痕跡をも包摂する、ということ。悪は悪ではない)。



 つまり、これらの記述を読んで理解したら、今度はこれらの記述を全て捨て、無心になる必要があります。



 それが善である、という一つの仮説が今回の術式になります。



 善いものがモテるのだとすれば、つまり、こうした無心状態(仏教でいえば、「空」と呼ばれる状態)、の人が最もモテるのではないか、ということになります。



 だから、無心になれなければ、モテないと想定されるわけです。今回の論法の場合には。



 だから、「モテたいから無心になろう!」とか思っちゃうと、モテないかも、というお話。



 そうではなく、無心で、真心で、何にもとらわれず、執着せず、無心になり、ひたすらに「空」に向かうことでモテるのであろう、という感じ。



 モテたくてギラギラしている個体よりも、モテなんて興味ないという感じの余裕のある個体がモテるのであろうという仮説でもあります。



 要は、「見返りを求めず他人に奉仕できる人が素敵でモテる人なのだろう」(これは仏教でいえば、「喜捨」などの概念に当たる)、というお話です。



 ただ、「私に見返りを求めず奉仕しろ」と命令して言ってくる人などにはご用心するのも手かもしれません。その方は見返りを求めていますね。つまり、あなたを不幸にする素因を持っていると考えられるからです。無論、それを承知の上で、相手に奉仕するなら、あなたは「聖人」なのでしょうけども。その是非についてはここでは判断しないでおきます。



 気が向いたらご参考下さい。



 





 以下、今日の結論です。



 1.すべての物事は、創造によって、少しずつ良くなっていくのであろう。

 2.善いものがモテるとすれば、創造性(変化、生成変化)のある人はモテるであろう。

 3.すべてのものが変化するなら、この世界に本質的な悪は存在しないのであろう。





 補足。



 とは言え、この世界には悲劇的なことが数多くあり、僕には、それすべて善だと言い切ることはできません。理論上は、全てのものは必ずよくなっていくであろうと考えるもできないではないですが、飢餓で苦しむ人たちや、戦争で死んでしまう人たちなどがいることを考えると、これらを容認することはとても難しいです。したがって、ここに記述された理論は多分に不完全なものなのであろうと思います。したがって、鵜呑みにはせず、みなさんもご自分で色々とお考えになってみて下さいませ。しかも、結論が結論ですしね(笑)。「善とは幽霊だ」っていう(笑)どうやら、善は世界に痕跡を残さないようです。「立つ鳥跡を濁さず」、と言いますね。変化や創造や自由、美しいものは、この世界に痕跡を残さないのかもしれません。世界に痕跡がなければ、科学的にアプローチが難しいので、どうしても、それこそ難しい話になってしまいます。いろいろと難しいですね。確かで簡単な事なんて、この世界には何もないのではないかと思えてきます。

 

 一応、創造の存在についての多少厳密な論証を上げておきます。人によってはこっちの方がわかりやすいかもしれませんが(笑)。上記の論証はわかりやすくしている特性上、誤解の余地があります。



 以下、よりましな? より厳密と思われる? 論証。



 1.モナドを仮定する。

 2.世界は必然であるとする。

 3.世界は決定している、とする。

 4.あるひとつの認知を仮定する。

 5.認知は決定を決定と認知し、生成変化を生成変化として認知するものとする。

 6.世界が決定しているとすれば、生成変化は認知されない。

 7.しかし、状態は刻一刻と変化する。

 8.ならば、世界は決定しておらず、世界には生成変化が存在する。

 9.認知が決定を生成変化として認知するとする。

 10.この場合、認知されない決定的世界が生じる。

 11.この時、認知されない世界は、私の認知に影響を及ぼさない。

 12.したがって、この場合、私の認知とは独立な決定的世界が存在する。

 13.いずれにせよ、それは認知はできない。

 14.認知できるものを世界であると考えるとすれば、決定的世界は世界ではない。

 15.もしもそれがソリッドなものであれば、認知できるはずである。

 16.それが認知できないということは、それは絶えず流れゆくものである。

 17.つまり、認知とは独立な決定的世界は、その実生成変化である。

 18.ならば、決定とは生成変化である。

 19.「世界」は決定的に一元的であり、かつ、流動的に多元的である。

 20.この世は永久不変であり、かつ、千変万化である。

 

 

P.S.ヤバい(笑)今回の記事、9600字になってる(笑)。さっき占いで遊んでたら僕の嫌われる理由は、字数を気にしないことだ、って出てきてて勝手にビビってたんですよね(笑)気をつけようと思っているのですが、どうしても長くなってしまいますね。そんなこと言っていると、今度は、10000字になりそうなので、この辺でやめておかないといけないんですけど(笑)自制しないと、僕には惰性でどこまでも長く文章を書いてしまう癖があって、悪癖だなと思っています。

 でも、これは僕の個性? だから、寛容なみんななら許してくれるよね? ね? ということで今日はこの辺で(笑)

 

 

 ではでは~☆

 

 

 けっ。どうせなら、一万字越えてやる。

 

 るんるんるんるん。

 

 わーいわーい。

 

 後もうちょっと。

 

 こんなくだらないことをしている間に、

 

 やったね。一万字。おめでとう~☆☆(パチパチパチパチ~♪)

 

 今度こそ、ではみなさん、また(笑)

 

 ではでは~

 

「生殖資本」の搾取構造と「富」の再分配について

 みなさん、こんばんは。

 

 今日は「生殖」について。

 

 つまり、「子供を産む権利」についてのお話です。

 

 子供は男性と呼ばれる人と女性と呼ばれる人がセックスをすることで、受精という現象を起こし、生じます。

 

 また、深刻な他害がない限りは、人間には自由がおおむね認められるので、生殖の自由、セックスの自由もそれなりに存在します。

 

 例えば、セックスするのにいちいち国の許可が必要だと、なかなか窮屈な世の中になるかもしれません。

 

 あるいは、「あなたは子供をつくる権利がある」「あなたには子供をつくる権利がない」とかいうふうに人を差別すると、これは、「優生思想」になってしまいますね。ナチスを彷彿とさせます。

 

 したがって、生殖なりセックスの自由、あるいは「生殖を行う権利」は極力は、できる限りは、すべての人に保証するのが良い、というふうに考えられます。

 

 このセックスおよび生殖の権利をとりあえずここでは、「生殖権」と呼びましょう。

 

 人間には生殖権があると考えられます。

 

 では、どうすれば、全ての人に生殖権が上手く分配されると考えられるか。

 

 まず、権力によって、直接的に人々にセックスすることを強制するのは、これは、自由を侵害することになり、うまくないでしょう。

 

 人には、生殖権もありますが、セックスや生殖を拒む権利もあるはずです。

 

 したがって、生殖権の分配において、国にできることは、直接的支援ではなく、間接的支援となります。

 

 ここで、人が生殖するために有利となる資質なり資産を、すべて合わせて、「生殖資本」と呼びましょう。

 

 この生殖資本を多く有する個体は、生殖に有利であろう、というふうに今回は考えてみます。

 

 では、生殖資本にはどのようなものがあるでしょうか? 非常に多様な資質が考えられますが、概ね、次の三つにのっとって今日は考えてみようかと思います。

 

1.容姿資本(美人、イケメンなど)

2.地位資本(社長、官僚、有名大学卒、名誉など)

3.金銭資本(貨幣、株式、預金、換金可能性のある才能など)

 

 つまり、これらの生殖資本、「富」を上手く再分配することができれば、人々にセックスを強制することなく、生殖権をある程度保証できる、とも単純には考えられます。

 

 今回はこの仮説にのっとって話を進めてみましょう。

 

 まず、容姿資本の再分配には何が必要と考えられるか。

 

 容姿を構成するのは主に、つぎの三つであるとも考えられます。

 

 1.栄養習慣

 2.運動習慣

 3.遺伝

 

 これらの内、遺伝の再分配は、倫理的に危険です。適切な遺伝子を選ぶ、という発想になれば、優生思想となる可能性があります。

 

 したがって、ここでは、遺伝の再分配は置いておき、栄養習慣と運動習慣に的を絞りましょう。

 

 栄養は、偏りのない食生活により、ある程度はバランスよく摂取されると考えられます。とりあえず、細かい栄養学のお話などはここではおいておきますが、つまり、「しっかりと栄養バランスのとれた食生活を取る権利」が、人にはあると考えられます(もちろん、そうした食生活を選ばない権利もあります。つまり、あえて偏った食生活を選ぶ権利もあります)。

 

 運動は、適切に行われることで、スタイルを引き締めることに役立ちます。したがって、適切な運動についての知識やまたそれを実施できるだけのさまざまな資本を得る権利が人にはあると考えられます。つまり、「運動習慣をつける権利」も人にはあると考えられます。これには習慣をつける補助なり、あるいは運動するために必要な道具や環境の提供が考えられます。スポーツクラブへの斡旋とか。もちろん、人には運動をしない権利もあります。したがって、自分に必要のないものだと思う人は、これらの権利を選ばない権利もあります。

 

 つまり、次の対策によって、容姿資本を再分配することができると推定できます。

 

1.適切な運動と栄養についての情報の提供

2.適切な運動習慣と栄養習慣を身につける機会の提供

 

 さて、次は、地位資本の再分配について考えてみます。

 

 これについては、大きく名誉の問題であると思います。つまり、名誉資本。社長も地位資本として考える場合には、名誉の問題だし、有名大学卒が威光を持っていると発想するのならば、それも名誉の問題であると考えられるからです。つまり、「名誉資本」です。

 

 では、すこし名誉の機能について考察してみましょう。

 

 名誉には格差がもちろんありますね。みなさんも好きな人と嫌いな人がいるのではないでしょうか。その場合、あなたにとっては、好きな人が地位が高く、嫌いな人が地位が低い、ということになるのではないかと僕は推定します(当ブログの「地位術」など参照)。したがって、名誉の格差を完璧になくすことは現実的ではない。ならば、名誉の格差をなくすのではなく、名誉の最低ラインを確保することが必要となるでしょう。今回で言えば、生殖に差支えない程度の名誉が最低限担保されていさえいればよい、ということです。

 

 つまり、ある生殖を望む人がいた場合、正当な理由がなく、その人の名誉を著しく傷つけた場合には、それは罪となると考えられます(生殖権を侵害すると考えられるので)。できる限り、人の名誉は傷つけない方が良い。

 

 では、こうした致命的な名誉の侵害にはどのようなものが考えられるか。

 

 まず、根拠のない著しくネガティブなレッテルは、名誉を侵害する恐れがあるであろうと考えられます。もちろん、名誉の侵害に注意し過ぎて、表現の自由を抑圧するのは危険です。人にはある時には、愚痴をこぼす権利くらいあるでしょう。正当なものであれば、批判する権利もあります。

 

 しかし、もしも、「国」によって、根拠のない著しくネガティブなレッテルが公的に付与された場合、これはどうでしょう?

 

 このレッテルは一個人の発言とは比べ物にならない責任と効力を持ちます。

 

 例えば、「ユダヤ人は劣っている」というレッテルを国が人々に貼ったとすれば? これはユダヤ人の生殖権および生存権が著しく侵害されることになるでしょう。

 

 したがって、国および公的な機関は、この「正当性のない著しくネガティブなレッテル」をできる限り、払拭することで、人々の名誉資本を担保できるであろうと推定できます。

 

 例えば、自閉症スペクトラムの問題であれば、「自閉症スペクトラムの人は劣っていない」という情報を広めること(ただし嘘ではなく正確な情報で)、また、「自閉症スペクトラムの人には長所がある」という情報を広めること(ただし嘘ではなく正確な情報で)というこれらの手法によって、生殖資本の再分配を行うことができると考えられるでしょう。

 

 つまり、次のことによって、名誉資本の再分配を行うことができます。

 

1.病や障害およびスティグマの対象についての偏見のない正確な情報を広める。

2.病や障害およびスティグマの対象を、正確な洞察にもとづき、正当化する。

 

 さて、最後は、金銭資本の再分配です。

 

 これは他の二つに比べると分配がとても容易です。原理的には。

 

 これについては、次のことを行えばよいことになります。

 

1.生殖に十分な金銭を得る方法を提供する。

2.それが正当な理由あってできない場合、生殖に十分な金銭を提供する。

 

 これらのことによって、金銭資本を分配することができると考えられます。

 

 以上の、容姿資本、地位資本、金銭資本の再分配により、生殖資本の再分配を促し、生殖資本の搾取を抑制する効果があると推定することもできます。

 

 最後に、現在、どのような生殖資本の搾取構造があるかについて簡単に見てみようかと思います。

 

 まず、容姿に差異がある。これは当り前ですが。どの容姿も個性があっていいものですが、ある程度は、自分の好きなようにスタイルを引き締めたり、肌のうるおいなどを調整するなどの権利もあるものと思います。大雑把には栄養のある食事を取ることと、運動をすること、あるいはその習慣づけ(広義にはファッションなども含まれるでしょう。ファッション資本。つまり実際の事情はこれほど単純ではないのですが(笑)一つの思考のモデルケースとしてご参照ください)。

 しかし、その習慣を得るチャンスがない人もいるかもしれませんし、栄養についての知識が十分に得る機会に恵まれていない人もいるかもしれません。なおかつ、その人が生殖を望むのであれば、それに向けて、容姿を良くしようと努力する権利はあると考えられます。したがって、そうした人に向けて、その人が望むのなら、栄養や運動習慣を身につける機会を提供できるといい、かもしれません。

 地位に格差があるのは、これはある程度しょうがないことですが、必要最低限の地位が確保されなければこれは、奴隷などと変わらないものとなってしまうかもしれません。みなさんも、自分が不当に差別された時のことを想像してみて下さい。例えば、「日本人は劣っている」とレッテルを貼られて、強制収容所に入れられて、ガス室で殺されたりしたらどう思うでしょうか? 想像するのさえ恐ろしいですね。ですので、そういうことはしてはいけません。したがって、精神病や自閉症スペクトラムなどそうした疾患の欠点ばかりではなく「利点」を積極的に発見し、病や障害およびスティグマの対象となった人たちの名誉を回復するのが正着打のひとつとなると推定できます。仮に、あなたが鬱病になったらと想像してみて下さい。それで結婚したい人ができて、告白します。そして、その告白相手に「あなたは鬱病だから結婚できない」と言われたら、結構ショックではありませんか? しかし、現実的に、相手にも結婚を拒否する権利は与えられなければなりません。したがって、判断するのはその告白相手ですが、その判断が偏見にならないように、前もって正しい情報が流布されている必要があります。

 金銭に格差があるのもこれはある程度、今のところはしょうがないことかと思います。したがって、生殖に必要な最低限の金銭あるいは金銭を得る方法が付与されることが望ましい。これは職業訓練の充実や、職業に就くこと自体が困難な場合には、生殖に十分なだけの金銭が付与されなければならないであろうとも考え得ます。

 お金がなくて、生殖できない人もいるでしょう。基本としては、そうした人々にも、生殖の権利自体はあると考えられますので、極力は、こうした差別構造を撤廃し、生殖資本を再分配するのが望ましいとも推定できます。

 

 人間には、生存権というものもあり、これは、「人間が人間らしく生きる権利」です。性活動は、人間の活動の根源ともいえるもので、理想的にはある程度、保証される方が望ましいとも考えられます。

 

 今すぐにどうこうするのは無理かもしれませんが、生殖は人間にとってかなり大きなファクターであると思います。少しずつ、生殖資本の搾取構造を調整して、富の再分配ができるようになってくると、人々の不満が減ることで、テロや犯罪などが起こりづらい世界になるかもしれませんね。テロや犯罪が減れば、みなさんも安心できるかと思いますので、みなさんも気が向いたら、生殖資本の再分配にご協力ください(笑)

 

 まとめます。

 

1.生殖に優位となる資産および資本を「生殖資本」と仮に呼ぶ。

2.容姿資本、地位資本、金銭資本の三つの因子によって生殖資本を今回は定義しておく。

3.この場合、次の三つの対策によって、生殖資本を再分配することが可能になると推定される。

 

 4.適切な運動習慣や栄養習慣を身につける機会の提供。

 5.情報の正確化による偏見の払拭と、「負のもの」の利点の発掘および正当化。

 6.生殖に十分な金銭を得る方法か、それができない場合十分な金銭の提供。

 

7.ただし、実際にはもっと複雑な因子が無数に絡み合って、人間の生殖は成立しているとも考えられる。

8.だから、性の問題は、本当はこんなに簡単に割り切れる問題ではない。

9.なので、「鵜呑みにはせず」、ひとつの思考のモデルとして気が向いたら参考にしてください。

10.(補足)個人的には、こうした資本構造、経済構造を越えたものとしての欲望や愛を信じたい(笑)

 

 

 今日は、以上です。

 

 ではでは~♪

共通性について

 こんばんは~。

 

 さて、今日は「共通性」について書いてみようかな、と思います。

 

 では、共通とは何か?

 

 これは、「どれにもあること」のことです。

 

 例えば、AとBという二つのものがあったら、そのどちらにもあるもののこと。

 

 にんじんとりんごでいったら、どちらも暖色だな、とか。

 

 そんな感じ。これが共通。

 

 しかし、暖色とは言っても、これらには差異があるとはいつも言うことができますね。

 

 例えば、にんじんはオレンジで、リンゴは赤だな、とか。

 

 もっと言えば、にんじんとにんじんだって、差異ありますよね。現実的には。

 

 このにんじんとあのにんじんは形や大きさが違うとか。

 

 すると、次のような主張がありえます。

 

「このにんじんとあのにんじんは、全く別物で、共通性がない。つまり、このにんじんはにんじんではなく、あのにんじんこそがにんじんである」

 

 とか。

 

 もっと言うと、ラジオAとラジオBは違うものであり、ラジオBはラジオではない、とか。

 

 潰そうと思えば、どこまでも共通性という概念を潰していくことができます。

 

 つまり、しようと思えば、いくらでも差別化できるわけですね。

 

 この意味で言えば、「全てのものに差異があり、同じものはこの世に何一つとして存在しない」、というふうな論法になります。

 

 これはこれで正しい指摘かと思います。

 

 僕とあなたは確かに違う人間ですね。これは確かです。

 

 しかし、これだと、言葉が全く役に立たなくなります。

 

 にんじん一つ一つに固有名詞をつけなければならなくなってしまうでしょう。

 どんな世界になるか見てみたい気はしますが、利便性の観点から、あまり合理的ではありません。

 

 したがって、僕たちが、日常生活を普通に送る上では、とりあえず、ある程度は、共通性という概念を認めておくのが妥当でしょう。

 

 つまり、「共通性は幻想かもしれないが、僕たちの生活の機能を担保するために、ある程度認めておいた方がいい」という結論になります。

 

 さて、ここでは、共通性は幻想であるとしましょう。

 

 しかし、この共通性は真理ではありませんが、機能的には有効なものとなるのは前述したとおりです。僕たちはこの幻想がなければ、まともにコミュニケーションを取ることもむずかしいでしょう。

 

 一方でこの幻想があまりに強すぎると、僕たちは区別したほうが利便性の高いものを、同一のものであるとして扱うことになるかもしれません。

 

 どういった利便を図るのが有効であるかはケースバイケースのものですし、本質的には、全てのものには差異があるのはそのとおりですので、これは、程度問題となります。

 

 つまり、共通性という幻想をどの程度に見積るか、ということ。

 

 ケースバイケースです。

 

 ここで、主観Aと主観Bを想定してみましょう。

 

 主観Aは共通性を比較的強く見積もっており、共通性に70%ほど力点を置いているとします。それに対し、主観Bは共通性よりも差異に力点を置いており、それに対し70パーセントほどの力点を置いています。

 

 主観A 共通性70% 差異30%

 主観B 共通性30% 差異70%

 

 と言った価値観になります。

 

 この場合、両者の共通性と差異の主観、価値観に70-30=40%の食い違いが生じます。

 

 この場合、十回に四回は話が食い違います。

 

 そこで、主観Aは主観Bに歩み寄って、

 

 主観A 共通性30% 差異70%

 

 に調整します。

 

 この場合、非常に単純に考えるなら、とりあえず、話の食い違いが無くなります。

 

 つまり、主観Aは主観Bの価値観に歩み寄ることで、幻想を共有した、ということです。

 

 人間の社会には、こうした共同幻想が多くあります。ケースや相手の主観に応じて、この共同幻想は調整され、それによりコミュニケーションをある程度とれるようになります。

 

 逆に言えば、こうした、幻想の共有なしには、僕たちの社会は立ち行かない、とも言えるかもしれません。

 

 したがって、相手と意思疎通を図ることを目的とする場合には、共通性を棄てるのではなく、ある程度共通性に歩みよることが有効となります。

 

 つまり、共通性は人間の主観であり、幻想であるとも捉え得るものですが、その有効性は明白です。

 

 ならば、言葉によってコミュニケーション行為を行う場合には、共通性をある程度担保する必要があります。

 

 逆に、相手と会話したくない、誰にも何も伝えたくないのであれば、共通性を放棄すればよい。

 

 この時、相手との共通性を担保するのは、相手とコミュニケーションを取るうえでの基本姿勢となります。これは自分とは違う相手を包摂する態度であると言えるかもしれません。

 

 逆に、共通性を放棄するのは、相手をシャットアウトすることを意味します。つまり、排除です。

 

 社会において、敵を作らないか、あるいは排除を行わないことを目指すのであれば、手段としての共通性をある程度放棄しないことが合理的となります。

 

 つまり、多様性の包摂とは、共通性の確保でもあり、共通性と多様性は矛盾しないとも言い得ます。

 

 逆に多様性が失われるとすれば、それはみんながコミュニケーションのシャットアウト、つまり排除に駆り立てられたからであり、共通性が失われたためかもしれません。

 

 共通性とは差異ある個物があることによって見えるものであるとも言え、逆に多様性とは共通性によって保全されるものであるともいえるかもしれません。

 

 つまり、多様性のためには、共通性の確保と多様性の確保という一見矛盾する両方の確保のために奔走する必要があると言えるかもしれません。

 

 多様性を保全しつつ、共通性も保全しようとすること。

 

 むずかしいですが、必要なことなのかもしれません。

 

 多様性を保全するばかりで、共通性をないがしろにし過ぎると、そもそも差異ある人とコミュニケーションが取れず、逆に、多様性をないがしろにして、共通性ばかりが際立つと、自分とは違うものを認めない姿勢になってしまいます。

 

 つまり、多様性を保全しようとする姿勢と、共通性を保全しようとする姿勢、相反するかに見える二つの姿勢の両立が必要となります。

 

 強くつながることもあり、なおかつ弱くもつながる場合もあるということ。あるいはそれらの二重構造の何らかの両立。

 

 といったバランス感覚、その時々に応じた中間を取ることが必要なのかも知れません。

 

 この絶妙なバランス、その都度の行動や思考のプランの選択、それらによってホメオスターシスが保たれることで世界は回っているのかもしれません。

 

 共通性は幻想であるという観点を今回取っていますので、その論旨で進めます。

 

 共通性は幻想であり、主観の問題なので、自分の思い次第でいくらでも見つけることができます。ポイントとなるのは、それが有効であるかどうか。

 

 有効なら、その幻想を持つことは合理的でありますし、無効なら、合理的ではないかもしれません。

 

 自分にとって共通性を見いだすことが有効であるのなら、積極的にそれを利用するべきでしょう。

 

 例えば、憧れの人がいたとして、その人みたいになりたいなどと思うのなら、そのための手段として、相手と自分を重ねあわせ、共通性を積極的に見出し、自分を相手にある程度近づけていくというのはひとつの合理的手段となります(共通性自体は幻想であるのでいくらでも見出せますし、差異は何にでもあるので、何でもシャットアウトすることもできます。それは個人の自由です)。

 

 分かりやすく言いますと、何にでも差異は見えますし、何にでも共通性も見えます、ということ。

 

 また、幻想の特性上、あまり合理的に生じているものではないと思いますので(少なくとも表面上は)、共通性や共感は「端的」に生じるものなのかもしれません。

 

 つまり、極論としては、「理由はないが共通性を見出す」、ということ。

 

 芸術家などはこの手の操作が上手いものなのかもしれません。一種の幻想を組合わせて、あたかも鑑賞者の心と共鳴するかのような音楽なり、文章なりを創り出す。

 

 これは合理的に、つまり、方法的に手に入るものではないとも、今回の論旨では言い得ますので、そう言った資質を、「天才」と呼ぶこともあるのかもしれません。つまり、天からの贈り物。ギフテッド。

 

 まとめます。

 

 

1.共通性は幻想だとも言い得る。

2.主観の問題なので気の持ちようでいくらでも共通性を見出せる。

3.それらは幻想なので、必ずしも合理性の問題ではない。

4.たとえ相手と共通性を見出すことがいわゆる絶対のものとしての「真理」としては無効でも、それが機能的に有効であれば共通性を見出すことは妥当である。

5.憧れの人のいい点を取り入れるという戦略を取る場合には、その人と自分の共通点を整理していき、そこから出発して、少しずつ相手に自分を近づけていくというのはひとつの生き方としてアリ。

6.「形から入る」というのもひとつの選択肢としてはアリ。多様性を考えるならなおさらアリ。

7.何にでも共通性を見出せるように、何にでも差異を見出せる。

8.だから、現実的にコミュニケーションをある程度成立させるためには、共通性という幻想と差異という現実のどちらも程よく把握する必要がある。

9.つまり、人を排除せず、うまく包摂するためには、幻想と現実の中間を取ることが大切。

10.(補足)なお、この幻想を「現実」として捉える論法もあり得る。個人的には僕はそっち派。