何となく何を書けばいいかについて、つらつらと考えていたのですが、特には言及すべきことはなさそうですので、徒然なるままに書いてみたいと思います。散漫術です。
最近、ネットを見ていて思うのですが、何やら不正な? 文章の複製? をする人がいるらしいということが気になっていました。僕のブログの文章とかも複製されているようです。なんか非常に怪しいな、と思いつつもとりあえず現段階ではスルーしています。僕は著作権に反対する立場の人間ですので、殊更に著作権著作権、連呼したくはないのですが、そのまま複製するのは不味いと思う(笑) このブログの文章や情報は勿論、自由に使ってくださって結構ですが、悪意に基づいた使用はしないでくださいな。いい子のみんな! 約束だぞ☆ 世の中、善人もいれば、悪人もいるのでしょうね。難儀なことです。
確か、聖書には、悪から遠ざかってそれに疎くいなさい、みたいな文言があったような気がします。なので、僕もなるべくそうしようと思います(笑)
「悪」として有名なのは、おそらく七つの大罪とかですよね。そしてこの七つの大罪というのは非常によくできているな、と思っていて、これを避けて、自分を改善するようにしていけば、合理的に自身の事態を良くしていけるお得な仕組みになっているように感じます。例えば、「怠惰」を避けると、修練に打ち込むことになりますので、必然的に能力が向上するわけです。とってもお得。昔の頭の良い人たちが考えた知識、古典的な知識というのは非常にすごいものだな、と思いますね。何がすごいって、奇跡的に悪人にも善人にも利することのできるような、万物のための優しい思想だという点が特にそうですね。不思議です。
悪人正機説とかあるじゃないですか。悪人も救われるんだ、っていう。一体、どういう動機からこういう思想がでてきたのかは分かりませんけど、非常に興味深いですよね。悪人はどのように救われるのか、という問題。
確かに、全ての人が救われる方が、善人だけが救われるよりも、御業として勝っているような気はしますけど、それはなぜなのか? とか。
色々な疑問が湧いてきて面白い点です。
漢籍を読んでいると、たまに出てくる思想の趣旨に、例えば「仏説と儒教は下の方では異なっているように見えるが、上の方に行くと結局の所、同じことを言っているのだ」、みたいなのがあるんですよね。ある意味、神仏習合に似た現象なのかも。神と仏の間の溝を埋めて、調和させる思想。これも面白い点です。
しかし、文章を自由に書くというのは、とても楽しいですね。マジで気ままに書きなぐってるんですけど、とても楽しいです。文章を書き始める前には、こんなに楽しいだなんて思いもよらなかったんですけど。やってみると案外できるものですね。不思議です。
やはり、楽しく生きるというのはなかなかに大切な事なのではないかと思うんですよね。妬みや憎しみはあまり楽しくはない感情だと思いますから、そういう激情? に囚われがちな方々も幸せになれるような方策が編み出されると良いですね。未来に期待です。
色々な医学についても調べていたんですけど、とても面白いですね。医学。それで欧米型の食事形態というのがあまり良くないらしい、というふうに感じました。個人的には。欧米と言うと何やら優れているように思われる節もあるかもしれませんが、欧米と言っても人間による構成物ですから、少なくとも万物の創造主たる神には及ばないわけですね。不思議です。確かに、欧米には欧米の良い所があるのは事実だと思うのですが、それを言ったら、日本にも日本の良い所があるわけですので、そこに優劣とかはないのかもしれませんね。どちらにもそれぞれに機能がある。
医食同源と言いますが、その人の病状によって味覚が変化することもあるようです。後、「特殊飢餓」という概念があったと思うのですが(これは心理学の辞典か何かで見たんだと思います。多分)、これによると人間は自分に必要なものを食べたいと自然に思うものなのだそうです。人間、さすがですね。感覚からして自己中心的です。凄まじいです。でも、自己中心性もおそらく生きていく上で大切だったから、発達してきたものなのかもしれませんね。あまり下手に切り捨てられるものでもないのかもしれません。世の中、全てのものに機能がありますからね。とても複雑で、とても難しい。
数学の論文を眺めていると、自分の好みに合うものとそうでないものがあるんですよね。その時、「快」の程度がそれぞれの論文ごとに分岐していて、とても面白いのですが、こういう感覚も自己中心性なのかもしれません。あるいは特殊飢餓の一種で、無意識のうちに自分に足りない情報を身体は求めている……みたいな。そのように考えると、おもしろいですよね。こういうのはピアジェとかの人工論とも通じる何かを感じます。自己中心性っていったい何なんでしょうね? 不思議です。
僕は特に「主義」というものを持たずに、今まで生きてきたタイプの人間なのですが、こういうのは根無し草の一種なのでしょうか(笑) 難しいです。果たして、「根」はあった方が良いのかどうか……。僕の個人的な感覚なのですが、「根」というのは自己中心性の何かなのではないかという気がするのです。
例えば、根について分析してみますと……それは地下にあって表面から隠されていますが、その全体を支える大切な器官であると言えます。その意味では、潜勢的な器官です。隠された器官。また、母なる大地から養分を吸い上げて、己の糧とします。つまり、自分を物理的に支える根底の器官でありながらに、また、万物の基盤たる大地に接続することで、そこから自分を化学的に支える養分を得ます。いずれにしても、「根」は「自分」を支えるために存在しているわけです。これは広義の自己中心性の一種であると言えなくもない予感……。うむ。難しいです。
いずれにせよ、自己中心性を脱却できるとすれば、こうした「根」の機構から抜け出さなくてはいけないのかもしれません。ある意味、根無し草と言うのは、とても利他的な振る舞いの一種なのかもしれませんね(笑) 彼らは自分を支える根を持ちません。むしろ、その存在の基盤を他者に求めています。これは「動物」と呼ばれ、動物はあまり自給自足的ではなくて、他の動物を食べたりします。つまり、その基盤を他者によっている傾向があるように見受けられます。動物は「植物」に対置される場合もあります。厳密には植物も「動く」という意味で、それも動物の一種ではあると言えるのかもしれませんが、その点は難しいので割愛します。
後、個人的な感覚ですけど、ある意味、バッハは植物的で、ショパンは動物的なのかもしれない……なんてことを感じます。バッハ結構指を旋律の後ろに後ろに残していく気がすると言うか、粘ってるイメージが個人的にはあって、ショパンはどちらかと言うと、それよりも軽快な印象を受けています。僕はどっちも好きですけどね。
法学については、ちょっと滞っていたかもしれません。でも面白いですね。やっぱり。色々な法律を見ていると、個人的な印象ですけど、能力って重視されてるんだな、という感じがします。
語学については、自分のタイ語が謎の生成変化を遂げている気がして、興味深く見守っています。その成長を(笑) なんか適当に勉強していたら、普通の勉強法とは異なった反応を示しているような気がして、胸がわくわくです。楽しいです!
後、韓国語の音韻を日本語の音韻から類推する方式とか作れないかな、と思っていたのですが、まだまだ難しそうです。試行錯誤の余地あり。イェスペルセンの『文法の原理』とか何か役に立つかもしれません。チョムスキーとかも。
ドイツ語、フランス語、英語辺りは、まずまずの調子。ロシア語は未だに遅々としております(笑) 中国語は発音ムズイ。イタリア語、スペイン語、ラテン語、辺りの音列には未だ慣れません(笑) アラビア語などの中東系の言語に対する僕の熟達レベルは阿鼻叫喚です。恥かしくて申し上げる余地さえありません。
近況報告としてはこんな感じかもしれません。
それでは! またね~♪