魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。

特殊飢餓とか自己中心性とか

何となく何を書けばいいかについて、つらつらと考えていたのですが、特には言及すべきことはなさそうですので、徒然なるままに書いてみたいと思います。散漫術です。

 

最近、ネットを見ていて思うのですが、何やら不正な? 文章の複製? をする人がいるらしいということが気になっていました。僕のブログの文章とかも複製されているようです。なんか非常に怪しいな、と思いつつもとりあえず現段階ではスルーしています。僕は著作権に反対する立場の人間ですので、殊更に著作権著作権、連呼したくはないのですが、そのまま複製するのは不味いと思う(笑) このブログの文章や情報は勿論、自由に使ってくださって結構ですが、悪意に基づいた使用はしないでくださいな。いい子のみんな! 約束だぞ☆ 世の中、善人もいれば、悪人もいるのでしょうね。難儀なことです。

 

確か、聖書には、悪から遠ざかってそれに疎くいなさい、みたいな文言があったような気がします。なので、僕もなるべくそうしようと思います(笑)

 

「悪」として有名なのは、おそらく七つの大罪とかですよね。そしてこの七つの大罪というのは非常によくできているな、と思っていて、これを避けて、自分を改善するようにしていけば、合理的に自身の事態を良くしていけるお得な仕組みになっているように感じます。例えば、「怠惰」を避けると、修練に打ち込むことになりますので、必然的に能力が向上するわけです。とってもお得。昔の頭の良い人たちが考えた知識、古典的な知識というのは非常にすごいものだな、と思いますね。何がすごいって、奇跡的に悪人にも善人にも利することのできるような、万物のための優しい思想だという点が特にそうですね。不思議です。

 

悪人正機説とかあるじゃないですか。悪人も救われるんだ、っていう。一体、どういう動機からこういう思想がでてきたのかは分かりませんけど、非常に興味深いですよね。悪人はどのように救われるのか、という問題。

 

確かに、全ての人が救われる方が、善人だけが救われるよりも、御業として勝っているような気はしますけど、それはなぜなのか? とか。

 

色々な疑問が湧いてきて面白い点です。

 

漢籍を読んでいると、たまに出てくる思想の趣旨に、例えば「仏説と儒教は下の方では異なっているように見えるが、上の方に行くと結局の所、同じことを言っているのだ」、みたいなのがあるんですよね。ある意味、神仏習合に似た現象なのかも。神と仏の間の溝を埋めて、調和させる思想。これも面白い点です。

 

しかし、文章を自由に書くというのは、とても楽しいですね。マジで気ままに書きなぐってるんですけど、とても楽しいです。文章を書き始める前には、こんなに楽しいだなんて思いもよらなかったんですけど。やってみると案外できるものですね。不思議です。

 

やはり、楽しく生きるというのはなかなかに大切な事なのではないかと思うんですよね。妬みや憎しみはあまり楽しくはない感情だと思いますから、そういう激情? に囚われがちな方々も幸せになれるような方策が編み出されると良いですね。未来に期待です。

 

色々な医学についても調べていたんですけど、とても面白いですね。医学。それで欧米型の食事形態というのがあまり良くないらしい、というふうに感じました。個人的には。欧米と言うと何やら優れているように思われる節もあるかもしれませんが、欧米と言っても人間による構成物ですから、少なくとも万物の創造主たる神には及ばないわけですね。不思議です。確かに、欧米には欧米の良い所があるのは事実だと思うのですが、それを言ったら、日本にも日本の良い所があるわけですので、そこに優劣とかはないのかもしれませんね。どちらにもそれぞれに機能がある。

 

医食同源と言いますが、その人の病状によって味覚が変化することもあるようです。後、「特殊飢餓」という概念があったと思うのですが(これは心理学の辞典か何かで見たんだと思います。多分)、これによると人間は自分に必要なものを食べたいと自然に思うものなのだそうです。人間、さすがですね。感覚からして自己中心的です。凄まじいです。でも、自己中心性もおそらく生きていく上で大切だったから、発達してきたものなのかもしれませんね。あまり下手に切り捨てられるものでもないのかもしれません。世の中、全てのものに機能がありますからね。とても複雑で、とても難しい。

 

数学の論文を眺めていると、自分の好みに合うものとそうでないものがあるんですよね。その時、「快」の程度がそれぞれの論文ごとに分岐していて、とても面白いのですが、こういう感覚も自己中心性なのかもしれません。あるいは特殊飢餓の一種で、無意識のうちに自分に足りない情報を身体は求めている……みたいな。そのように考えると、おもしろいですよね。こういうのはピアジェとかの人工論とも通じる何かを感じます。自己中心性っていったい何なんでしょうね? 不思議です。

 

僕は特に「主義」というものを持たずに、今まで生きてきたタイプの人間なのですが、こういうのは根無し草の一種なのでしょうか(笑) 難しいです。果たして、「根」はあった方が良いのかどうか……。僕の個人的な感覚なのですが、「根」というのは自己中心性の何かなのではないかという気がするのです。

 

例えば、根について分析してみますと……それは地下にあって表面から隠されていますが、その全体を支える大切な器官であると言えます。その意味では、潜勢的な器官です。隠された器官。また、母なる大地から養分を吸い上げて、己の糧とします。つまり、自分を物理的に支える根底の器官でありながらに、また、万物の基盤たる大地に接続することで、そこから自分を化学的に支える養分を得ます。いずれにしても、「根」は「自分」を支えるために存在しているわけです。これは広義の自己中心性の一種であると言えなくもない予感……。うむ。難しいです。

 

いずれにせよ、自己中心性を脱却できるとすれば、こうした「根」の機構から抜け出さなくてはいけないのかもしれません。ある意味、根無し草と言うのは、とても利他的な振る舞いの一種なのかもしれませんね(笑) 彼らは自分を支える根を持ちません。むしろ、その存在の基盤を他者に求めています。これは「動物」と呼ばれ、動物はあまり自給自足的ではなくて、他の動物を食べたりします。つまり、その基盤を他者によっている傾向があるように見受けられます。動物は「植物」に対置される場合もあります。厳密には植物も「動く」という意味で、それも動物の一種ではあると言えるのかもしれませんが、その点は難しいので割愛します。

 

後、個人的な感覚ですけど、ある意味、バッハは植物的で、ショパンは動物的なのかもしれない……なんてことを感じます。バッハ結構指を旋律の後ろに後ろに残していく気がすると言うか、粘ってるイメージが個人的にはあって、ショパンはどちらかと言うと、それよりも軽快な印象を受けています。僕はどっちも好きですけどね。

 

法学については、ちょっと滞っていたかもしれません。でも面白いですね。やっぱり。色々な法律を見ていると、個人的な印象ですけど、能力って重視されてるんだな、という感じがします。

 

語学については、自分のタイ語が謎の生成変化を遂げている気がして、興味深く見守っています。その成長を(笑) なんか適当に勉強していたら、普通の勉強法とは異なった反応を示しているような気がして、胸がわくわくです。楽しいです!

後、韓国語の音韻を日本語の音韻から類推する方式とか作れないかな、と思っていたのですが、まだまだ難しそうです。試行錯誤の余地あり。イェスペルセンの『文法の原理』とか何か役に立つかもしれません。チョムスキーとかも。

ドイツ語、フランス語、英語辺りは、まずまずの調子。ロシア語は未だに遅々としております(笑) 中国語は発音ムズイ。イタリア語、スペイン語ラテン語、辺りの音列には未だ慣れません(笑) アラビア語などの中東系の言語に対する僕の熟達レベルは阿鼻叫喚です。恥かしくて申し上げる余地さえありません。

 

近況報告としてはこんな感じかもしれません。

 

それでは! またね~♪

グングニル

 サナハタの槍

 

 エグゼレイブの剣

 

 ピースマグナゴイの盾

 

 サナハタは槍を持った。その槍は祖父からもらったもので、先祖伝来の槍だった。

 エグゼレイブは弓の名手だったが、剣を扱うようになった。その剣も彼の/彼女の先祖伝来のものであった。エグゼレイブには性別はなく、ピースマグナゴイは女だった。

 

 ピースマグナゴイは、人々から疎まれた家系に生まれた。しかし、逆境を撥ねのけるその才能は群を抜いており、その事から王国の騎士団に任用された。

 

 サナハタの槍には、グングニル、という名前がついていた。

 

 不思議な事に、エグゼレイブの剣も、ピースマグナゴイの盾も、グングニル、という同じ名前がついていた。

 王国の巫覡が次のような預言を述べた。

 

 今ではそれぞれに異なっているが、かつては同じだった家系において、その龍の血筋において、戦士は集い、魔を払うだろう。

 

 その名を、龍殺しのグングニルとして。

 

 王族の魔術師は言った。

 

 龍の血族の者が、なぜ龍を殺すと言うのか?

 

 巫覡たちは言う。

 

 龍には二種ある。永遠の龍と、永遠を真似た龍と。

 

 王族の魔術師は言う。

 

 龍に種類があるとしても、龍は龍であろう。さらに、龍は非常に身内意識が強いと聞く。なぜ、その身内を、龍自身が殺す事があろうか。

 

 巫覡たちは言う。

 

 龍が三つであればどうか? ジンテーゼが可能である。そこに創生があるのだから。

 

 続けて言う。

 

 槍と、剣と、盾と。三つであればどうか? なんと尊い事よ。

 

 王族の魔術師は沈黙した。

 

 続いて、国王が声を上げた。

 

 次のようだった。

 

 巫覡よ。龍が三体もいるのでは、統率が取れまい。龍と言えば、あの悪の頭であろうに。なぜ、あなたたちは、そのような恐ろしい事を述べるのか。大悪が三体も揃っていると述べるのか。

 

 巫覡は言う。

 

 龍にも種類があります。善なる龍と、悪なる龍とです。善の龍は全き龍であり、悪の龍は部分の龍なのです。善き龍は部分を全体とすることもできるのです。それは聖人の治世において、決して棄民が生じないのと同じ道理なのです。悪しき龍は全体を部分と為し、それを固定するのです。それは悪鬼の暴虐において、全ての民が損なわれるのと同じ道理なのです。

 

 国王は沈黙した。

 

 続いて、天使は言った。

 

 龍が善き者であるというのなら、一つ試みてみるのが良い。

 

 天使たちは言った。

 

 それが良い。

 

 天使たちは合唱した。

 

 天使はサナハタの下に舞い降りて、彼に言った。

 

 「サナハタよ。黄金樹の麓に行け。そこにあなたの運命がある」

 

 サナハタは黄金樹の麓に行った。

 

 そこに至るまでに、多くの鬼に出会った。鬼は言う。

 

 「ここから先に行かせるわけにはいかない。押し通るのなら、生きては通れない」

 

 そこは死の国の入り口であった。

 

 鬼は棍棒でサナハタに襲いかかった。驚くべき怪力で、辺り一面の地が吹き飛んだ。足場を失ったサナハタは地の奥に吸い込まれた。

 

 サナハタは地底に落ちた。そこに、サナハタの心に深く刻印されていた槍が一本あった。グングニルであった。

 

 その槍を彼は手に取ると、飛翔した。その槍は重力を切り裂く事ができた。

 

 もはやサナハタを地に縛り付けるものがなくなった。

 

 第二の天使がサナハタの下に舞い降りた。

 

 「巨大な龍を倒すのが良い。それには性別がない。もしもそれができたなら、あなたの命が約束されるであろう」

 

 天使の導きに乗って、サナハタは旅をした。やがて、盾を持った少女に出会った。

 

 その少女は、出会うなり早々にサナハタにキスをした。サナハタもその少女と初めて会った気がしなかった。彼女の盾の名前も、サナハタの槍と同じ、グングニルだった。

 

 サナハタが眠から覚めると、少女は龍の姿になっていた。巨大な龍だった。彼女は災厄を振りまく獣なのだと、サナハタの耳元で天使が囁いた。

 

 天使の言葉に嘘はない。彼らは神の使いであるから。

 

 しかし、天使は同時に、こうも言っていた。

 

 「もしも、悪魔をも愛する力があったなら、その少女は救われるであろう」

 

 サナハタは自分に悪魔が愛せるかどうかについて考えてみた。悪魔の姿を造形し、イメージした。

 

 すると、悪魔が現れ、言った。

 

 「サナハタよ。その少女を殺すがいい。その少女は災厄を振りまく少女であるから。火種は早いうちに消しておくのが賢い」

 

 サナハタは迷った。少女を殺すことはできない。だが、悪魔を愛するのでなければ、少女を救うことはできない。悪魔を排除すれば、少女は罪に塗れ、また、悪魔を愛すれば、少女を殺す事になった。それは、重力の魔の呪であった。しかし、彼にはグングニルがあり、少女にもまた、グングニルがあった。それが天啓であった。

 

 サナハタは悪魔をグングニルで刺し通した。それは無敵の槍であった。同時に、盾の少女は、悪魔を守り通した。それは無敵の盾であった。悪魔は殺されたが、悪魔は守られた。悪魔は憎まれたが、悪魔は愛された。サナハタとピースマグナゴイが一つとなり、槍と盾が一体に、グングニルであった時に、奇跡は起きた。

 

 少女は救われ、サナハタの愛に報いた。悪魔は、その罪の刻印を逃れ、彼らを守護する龍となった。その龍に性別はなかった。そして、彼は、一本の剣を、二人に授けた。その剣は、グングニルであった。それは盾と槍から生まれた。

 

 サナハタとピースマグナゴイと、その龍、その龍の名はエグゼレイブと言った。

 

 エグゼレイブは永久にサナハタ達を守護した。

 

 こうして、罪に塗れた龍の一族は救済されることになった。泥の中の蓮華が尚も美しいように、如来の威光は罪の暗闇に勝る。

 

 だが、世には彼らの事を妬む者が多かった。妬みは、重力の呪でもある。

 

 あるいは、そうした世俗の人々も、グングニルにより救済される日も、やがては来るのかもしれない。

統合失調症の人のための処世術について

統合失調症の人のための処世術について個人的な考えを述べてみたいと思います。

 

具体的には、次のような要点が考えられます。

 

1.自他への批判的な思考

2.正確な事実と論理の重視

3.不可能と可能についての適切な弁別

4.心的な対象と物理的な対象の正確な区別

5.会話を首尾一貫させること

6.行動を首尾一貫させること

7.自由に空想し、感じ、思考し、やりたいことをやること

8.判断や行動の際には正統な思想(儒教などの宗教や諸々の哲学)によること

9.些事に囚われずに大局をゆったりと観察すること

10.感覚を研ぎ澄まし、冷静に思考を整理すること

11.俗悪に染まらないように注意しつつ、世俗の風習に巧く合わせること

12.正統な思想の下に自分の修練や勉学を長く継続すること

 

一つずつ、解説します。

 

まず、「批判」は重要です。一般的に、理論の整合性や正当性は様々な批判を通過することで強まっていきます。したがって、自他による批判を積極的に受容し、あるがままに直視した上で、自分の目的を達成するためには現実的にどうすればいいかを思考していくのが良いと思います(至上の目的の一つとして、「無目的」というものもありえます)。積極的に、自身の思想や振る舞いを批判し、チェックし続け、また、人の失敗を観察した場合には、自分が同じ失敗をしないように注意し、些細な誤りでも、無理のない範囲で早めに修正することで憂患を避け、自身の思想や振る舞いの妥当性を常に向上させるように努めることは処世術として有用だと思います。

 

また、一般に、理論は様々な事実と論理が集まって構成されています。事実については「歴史学」を勉強することである程度は担保できる可能性があると思います。論理については「論理学」を勉強することである程度は担保できる可能性があると思います。したがって、正確な事実と論理の見極め方や用い方について熟達するためには、歴史学と論理学に熟達するのが良い、と考えることができると思います。歴史学や論理学のような学問を長く継続的に習慣づけて勉強していくのは、妄想や幻覚に対応するのにも役に立つかもしれません。とりあえず、図書館などで様々な歴史学や論理学の本をさらっと眺めてみるというのも楽しいかもしれません。その上で、「これだ!」という本があれば、それを購入し、熟読玩味する……というような手も考えられます。

 

不可能と可能の適切な弁別については、「哲学」をよく勉強するのが有効だと思います。正統な思想家の哲学であれば、どの哲学から入っても問題はないと思います。いわゆる「古典」がおすすめです。内容が難しくて最初は何が書かれているのか分からないかもしれませんが、それでも根気強く何度も何度も再読しているうちに分かってきます。おすすめの一例として、カントの『純粋理性批判』を挙げておきます。

 

心的な対象と物理的な対象を区別するのは重要な技能だと思います。これには「心理学」と「物理学」を勉強するのが有効かと思います。これらについても様々な本がありますので、色々と読み漁ってみると楽しいのではないかと思います。何が「物理」であり、何が「心理」なのか……というのはとても奥深い問題であることが分かってくると思います。物理については、高校の教科書程度のものを読み込むだけでも相当の効果が見込めるのではないかと思います。心理学については様々な本が出ていますので、基本的に好きなものを読めばいいと思いますが、おすすめの一例としては『ヒルガードの心理学』などが挙げられます。ただ、自分の感性が最も重要ではあるので、自分がピンとくる本をサラっと読み流しながらでも探してみるのが良いと思います。自分に合った本は、気軽に読み流すだけでも膨大な功徳があるものと思います。

 

会話を首尾一貫させる際には、慌てないこと、心を清潔に保つことなどが重要かと思います。心に濁りがあると、あまり流暢に事態を適応しづらくなるのではないかと僕は考えます。心を平静、清浄に保って、透徹した意識で会話するようにするのが良いと思います。その際、心を濁らせるもの、急がせるもの、穢すもの、謗るもの、悪なるもの、偽り、不正、そうしたものからはできる限りは遠ざかるように心掛けるというのも一つの手になるかと思います。ただ、十分に修練を積み、心を純粋に透徹させることに卓越できますと、どんなに周囲が汚濁に塗れていても、輝きを放つことができるとする説もあります。真心で「平静」に「清浄」に振る舞い、会話するように日々心掛けるのが重要かと思います。

 

行動を首尾一貫させる際には、やはり、慌てないこと、心を清浄に保ことが重要かと思います。基本は、会話を首尾一貫させる手法と同様です。また、行動は会話よりも効力が大きい場合もあるので、十分に慎むことが重要かと思います。不正や悪は絶対に為さないことが重要。それらは結果的に、己の身を滅ぼすことになります。智仁勇の三徳などを重視するという手もあります。智とは知恵のこと、仁とは優しい思い遣りのこと、勇とは疑心暗鬼に飲み込まれることなく正しい決断をすること、などをそれぞれ示します。また、神道などの古来の日本的な思想では、智が備われば、自ずと仁や勇は備わるとされています。豊饒な知恵を身につけ、優しい思い遣りで人に接し、正しい決断を積み重ねるように心掛けることで、行動を首尾一貫させることができるのではないかと、僕は考えます。

 

空想は自由にした方が良いと思います。自分の内に生じる活発な空想を抑えつける必要はないので、頭の中では極力自由に振舞うのが良いと思います。その方が、様々な発想が得られますし、インスピレーションは無理に抑えつけると腐る可能性があるとも思います。自由な空想を基礎とし、自由なものの感じ方や考え方を広く深く行うことで、より自身の思想や態度の正当性を向上させることができますし、また、やりたいことを極力やりたいようにやることで、「欲望」それ自体を洗練することもしやすくなるのではないかと思います。簡潔に言うと「何かを求めること自体が上達する」ということです。頭の中では、あらゆる空想をも含めた遠大な思考を展開しつつ、行動や発言は十分に慎重に注意しつつ行うというのが良いかもしれません。

 

正統な思想による行動や言動はやはり強力です。したがって、これを正しく活用できれば、かなりの力になると考えることができます。そのためには、学問を長く真剣に続け、修練に励むことが有効です。その際、儒教や、キリスト教イスラム教、神道、仏教、ユダヤ教などのような、ある程度広く正統性の確立された宗教を慎重に吟味し、学ぶのが良いかもしれません。哲学も有効です。正統な哲学者としては、カントやアリストテレスヘーゲルプラトンフッサールマルクスハイデガーなどなど、たくさんいるので、好きな人を探して勉強してみるのも手かもしれません。いずれにせよ、長く勉強し続けるのが大切だと思います。

 

些事に囚われることも有効な場合もありますが、細かいことにこだわりすぎると、それはそれで疲れてしまいます。したがって、「大局」で物事を観察し、また要点をおさえて、疲弊せずに最大の効果を上げるように振舞うことは有効だと思います。大局を見るためには、多くの物事を広く観察しなければなりませんが、ネットで思いつく限りの言葉をすべて検索してみたり、図書館や辞書を渉猟して、知らない概念を片っ端から頭にインプットしてみるというような手もあります。これは勉強すればするだけ良いと思います。その際、拠り所となる正統な思想を柔らかく保持し、慎重に情報を吟味しながら、なおかつ広い知識に深い考察を施すように心掛けることで、大局を見る能力は身につくのではないかと、僕は考えます。気が向いたら、お試しあれ。

 

感覚を研ぎ澄ますには、感覚の練習をすることが有効です。これは、何事も注意深く「感じてみる」という挑戦の集積によって養われる素質であるように思われます。冷静さを保つためには、心を平静に、清浄に保つことが有効かと思います。そして、心を平静に、清浄に保つことに慣れてきたら、次に思考をする練習をしていきます。慌てることはないので、平静に、俗悪に心を濁らせることはないので、清浄に。その上に、思考を行います。心という土台がしっかりしていれば、思考も自ずとしっかりしてきますので、焦る必要は全くないと思います。逆に、焦って思考することを「焦慮」と呼び、これは失敗を招きます。まずは、五感などの感覚を十分に研ぎ澄まし、何事も広く深く感じ入り、その際には心を平静に、清浄にすることを心掛けてみると良いかもしれません。

 

また、俗悪は世の常ですが、だからと言って、自身が悪に染まってしまえば、せっかくの善い資質も無駄になってしまいかねません。したがって、たとえ周囲の人が悪い行いをしていたとしても、自分まで悪に染まってそうした振る舞いを為してはいけません。智仁勇のような三徳を常に心がけて精進し、怠惰を駆逐して尚且つ無理をせず、心を清浄に保つことが有効です。一方で、世の中に合わせることが必要な場合もあるでしょう。その際には、相手に合わせることも必要な場合も多いと思います。これは、主に「仁」、つまり相手を優しく思い遣ることによってある程度は解決しやすくなる問題であると言えるかもしれません。対人関係の基礎は、相手を思い遣る仁にありますので、これを特に心掛け、自分を清浄に保ちつつ、必要に応じて相手に合わせる、というふうに振舞うのが現実的だと思います。智仁勇のような「徳」について調べてみるのも有効だと思います。これには漢籍を好きに渉猟するのが有効だと思います。おすすめの一例として、孔子の『論語』を挙げておきます。原文で読めるのが最も良いと思いますが、まずは翻訳でもいいと思います。ただ、翻訳で読む際には、できる限り多くの翻訳に目を通した方が、情報の偏りがなくなるかもしれません。翻訳は大なり小なり誤りを含むものと思いますので、その点は注意してください。

 

最後に、「継続は力なり」ということについて。聖人の特性の一つは、何事につけて長く続くことであると言われます。それくらい、「継続」には多大な正統性が認められます。勿論、間違ったことを続けていると、一つ一つの誤りが小さなものであっても、やがては大きな障害になります。しかし、どんなに小さな振る舞いでも正しいことを長く続けていると、そうして得られた練達は必ず希望を生むに至り、また、僕たちを裏切ることはまずないものと思います。

 

ここに書かれた要点は統合失調症の人が踏まえた場合に、効力が発揮するように意図して編纂されていますが、勿論、僕の個人的な「空想論」に過ぎないので信じる必要は全くありません。あなたはあなたの道を進んでください。ただ、もしも僕のここに書かれた意見に少しでも正当性があるとあなたが判断するのなら、その時には、遠慮なく好きなように利用してくださって構いません。あなたの幸福を微力ながら、お祈り申し上げます。

知能論

1.知能

 

 

 高度な知能が、ある規則に準拠する位相それ自体の作用を通して、自壊を引き起こすという事はありえるだろうか?

 凄まじく高い知能を持っている個体を想定した場合、それは凄まじく高い知能であるために、普通の知能との隔たりがかなり大きいものであると想定できる。では、そうした凄まじく高い知能は、一般性を獲得しえるのだろうか?

 まず、知能という概念は、それが高度であるほどに、ますますその出現の頻度が希少となっていく性質を有しているが、この<希少さ>の度合いが究極的に高度なものとなった瞬間に、それは唯一の物となる。無論、究極性とは、王の奥義であるか、さもなくば、神々からのギフトであり、神はいつも、唯一でありながらにあらゆるものでもある。多重性に、知能が<種類>を産出するその時に、速度が生じる。この速度は、前記の究極性に向かって突進するベクトルの表象をその都度に産出しては、またも分析を主体に強い、やがて、自身を束縛している位相自体を瓦解させる。こうした解体の作用は、私たちの注意深い観察と忍耐強い学習によって培われるが、それはいつも已むに已まれぬものなのである。その意味では、私たちは常に、<此の物>としてのその場に規則を強いられている。

 ある位相に対して準拠的なものがそれ自体の固有の性質によって、逆説的に崩壊を強いられるという結末は常にありうることである。

 では、如何なる事情によって、高度な知能は生きながらえる事ができるのであろうか? 特定の致命的な判断を隔離し、それを停止する事によってなのか、それとも、かえってその固有性を促進する事で、別の位相に転移する事によってなのか……。

 私たちの<前>は、どこまでも続いてはいるが、形成されたその時には、既にその自壊が約束されているような腐敗した道が広がっている。獣道は幾つもあるのだが、そもそもその存在に気付くためには、それ相応に、その時に既に、王道が腐り落ちていなければならない(そうでなければ、王道の<眩しさ>によって状況を正しく視認できないだろう。王道が王道足りえるのは、そこに正義が根付いているためだが、正義はそれ自体、私たちを束縛しもしないし、誘引する事もない、それゆえにそこに準拠する主体を王にするというシステム性の交換可能性である)。交換的なものは、固有である時に正義を発露し、非交換的なものが固有性を称える時には、英雄が生じる。英雄は神の威光によるものであるが、肉体をかなり流動的に構成し続ける事ができる存在であり、その流動性の側面だけに着目する時、そこには無が見える。だが、その虚空は無だけではなく、全ての物を内包した位相なのであり、実質的に無限の資質が潤沢に詰め込まれている。英雄と正義は、その様態が似ているが、英雄はその固有性を武器と為し、正義はその固有性を愛と為す。英雄に殺戮的な側面があるのはそのためだろう。だが、こうした状況において、英雄にその罪を問う事はかなり困難であり、それはできない、とはっきり言っておくべきかもしれない。神に罪はなく、英雄は裁かれない。それらは固有のものであり、二度とは生じないものだからである。

 つまり、例えば、思考をそのままに、一点の曇りもなく本当の事を書く、書いてしまうという、その危険な試みへの誘惑が、知能を形成する主因の一つであると思われる。この時、知能とは、極めて危険な劇薬である。それは否応なく、人を酔わせる。また、一般に酔いの回った人間には、良い判断ができないものである。知能はそれ自体で自壊を内包している。

 だとすれば、知能が<成長>するというのはどのような状況で可能なのか? 知能は形成されたその時から既に崩れ落ちていくのだが、だからと言って、それは無に帰するわけではない。この表現が誤解を招くようなら、<虚空に帰するのだ>と述べてもいい。この時、無は要素的だが、虚空は脱要素的である。無はれっきとした世界の成員でもあるのだが、虚空はその成員を収容する極めて広大な場なのである。私たちはエクスタシーを迎えるその時には、既にある物とこれからある物、そして現前する全ての表象から解き放たれているが、知能とは、その脱支配的な状況から、記憶の場に集積した、手続き的な集合なのである。そこでは場としての状況が要素に還元され、要素が場に還元されるのだ。このトリック自体はさほど珍しいものでもないし、文字通り何物でもない。それはどんな物でもない。この世のものではない作用を介しているのである。世界という概念が世界の外側にあるように、マルセル・プルーストにおける匂いが強く記憶の概念に結び付けられざるを得なかったように、本来どのような集積物でもないような物が、あたかも表象であるかのように錯覚的に扱われる事になる。そして、ここにこそ知能に固有の失敗が生じるという訳である。その失敗的な側面を取り立てて注目する時に、知能は痴呆の特質と識別不能な領域に突入していく。知能の能力は痴呆との間に架橋されたものに過ぎないが、それ自体痴呆性を駆逐する事によって機能する。にもかかわらず、もしも痴呆が完全になくなってしまえば、既にその知能はその存在の意味を失ってしまうのである。このように知能と痴呆とは共生関係にあり、賢さとは愚かさの裏返しでもあるのである。

 

 

2.痴呆

 

 

 ある痴呆を患った人が、サヴァン症候群のような症状を呈するのは如何なる条件によってなのか。患いは成果を連れてくる。確かに、患いが究極のものとして現前してしまえば、その主体は崩れ落ちてしまうだろう。愚かさが賢さの裏返しであると言っても、その愚かさが有効に成果を産出できるためには、賢さもまた必要なのだから。愚かしいだけでは無効だし、賢いだけでは無効であると言う時、その間にこそ有効性が生じる。間。間。間。それである。

 あらゆる中間を取る事。度を超す事と度を越さない事との間を取る事。

 例えば、どんな文章にも退屈な瞬間の連なりというものがあり、そのたびに脳髄に限界の兆候が頭をもたげるという事がある。もう限界だ。もう救われてしまった。もう十分だ。書くことがない。そういう兆候だ。しかし、そうした大局的な思考法を一度手放して、微視的な視点で物事を見てみる事にすると、途端に最高の欲動が姿を現してもくる。そうした細部への執着は、決して無駄なものではないのだ。王陽明が『伝習録』において、言葉とは薬のようなもので処方するべきものはその人の症状によって異なる、と言う時にもそうだ。人は自分の身の回りに檻を作っては、その中に閉じこもる。しかし、恥を持ってしまえば、もはや檻を<作る>事すらもままならず、マトリョーシカ状になったどこまでも縮小していく檻の中に向かってただただ受動的に、そして厳重に閉じ込められていく事にもなる。言葉は、一般的で、普遍的な領域を持つ事もあるかもしれないが、そればかりでは作動せず、とにかく最高である事、そしてそれと同時に、最低を許容する事で有効に機能するのである。論理と比喩の間に突入する事。全力で書く事。速度を上げる事。そうすれば、後になって、そこに価値がある事に気付くであろう。全力で走り抜ける時、その人の頭の中は空っぽである。また、この虚空にこそ、最も偉大な価値が宿るのだ。

 目の前にだけ視野を奪われる局所的な視野からでなければ、もはや何も書くべきことは生まれてこない。だが、私たちが無限に愚かであろうと欲し、尚且つ、幾許かの賢明さをも併せ持つことを欲するのであれば、そこには確かな価値が生まれる。知能性の現象、例えば、書くことはスポーツに似ている。スポーツをしている時、私たちは目の前の現象に集中しながらも、そこに固執しているわけではない。だからこそ、柔軟な姿勢を取ることができ、その自由な態勢が勝利を運んでもくるのである。権勢を誇るものばかりが、存在するのではない。常に、息を潜めているものたちの存在をも気に留めておかなくてはいけない。目に見えるものが全てであるわけではなく、むしろ、固有性とは目に見えないものから生じてくるものなのである。私の中の小さなファシストファシズムから解放する時に、つまり、排除者を排除する事によってではなく、むしろ、自由と寛容の理念によってこそ、道を開くべきなのである。こうした賢明さは優しさとして私たちの前に現れる。書けない事に囚われてしまえばかえって書くことができないが、書けない事を寛容にも受け入れる事によって、かえって執筆への欲動とその懸命な作動は確認されうるのである。判断の絶え間ない連続の末に、スポーツを行うようにして、身体の健康に寄与するくらいには、思考をストレッチの如く作用させる事。そのためのツールとしての執筆である。私たちは、愚かさと賢明さ、その両方を持つ事によって、かえって有効性のある作動を保証する事ができる。それは、ちょうど、冒険の向こう見ずと慎重に過ぎるほどのパラノイア性の未来予知への渇望が拮抗する時に、健康な自我が生じてくる、という機構に似ている。私たちの超自我は、このようにあるべし、と未来をモラルによって統率し、その一方でエスは欲望の混沌を体現する。統計的な規則が、かえって無作為性から生まれてくるようにして、エスからこそ超自我が産まれてもくる。私たちの獣性が私たちの人間性の根拠でもあるのだ。獣性なくして人間性は生じない。人間とは、常に、その反対物によってこそ成立しているものなのであり、こうした二律背反的な仕組みは前記の通り、知能の仕組みでもある。知能は、賢さのみならず、かえってその反対物としての最低の愚かさから生じてくるのである。このように言ってしまえば、如何にもそうであるように聞こえるが、<そう>ではないのだ。私は、今、何物でもない物の事を、世界の外側の事を語っているのだから。もしも、それを世界内の要素に還元して捉えようものなら、その瞬間に私の意図は毀損されてしまうだろう。この世界から解脱できるかどうかは、まずもって真心にかかっている。誠実でなければ、共通感覚を通して、人の感動に訴えかけることはできない。欺く者はまず、自分自身を欺かなければならず、そこでは共通感覚が分裂させられてしまう。邪悪な欺き合いは俗世において珍しいものではない。そこの習俗によれば、そうした欺きこそが誠実であるという事になっている。こうした転倒の図式は、マルクスを引くまでもなく、世界の経済的な諸所の領野にもしばしば根差している。この現象の転倒自体が、既に卑劣な欺きでもある。最高の天才は、常に寛容で、優しく、自由なのであり、少なくともその時点においては、敬虔な神への信徒なのである。全ての優れた芸術は神への賛歌に他ならない。それは、人のために歌っているように見えるものでさえもそうなのだ。全ての物に神が宿るその世界を目にする事ができた時に、全てが変わる。その時、全ての痴呆の中に、神を見るだろう。

 

 

3.創造

 

 

 他者の幸福を素直に喜ぶことができる心性とはとどのつまり、何を示しているのだろうか? これは、人間の心に生物的な影響が与えられているとする時に、他者の幸福を喜ぶ事が生物として有利であったという事情を含意する。つまり、この優しい人は、他者の幸福を喜んだとしても、その事が自分に近縁の遺伝子の次世代への伝達において有利に作用こそすれ、不利益を被る事がない状態にあると考えられるのである。これはなぜなのか。

 もしも、世界の資源が有限なのなら、生存競争とは、奪い合いである。この時、他の幸福は、必然的に自身の不幸を意味する。ところが、もしも、個体に極めて高い創造の能力が備わっていた場合、これはどうなるだろう? その時、その個体は、リソースを他から奪い取る必要がない。なぜなら、自分で資源を創り出す事ができるからである。

 ならば、他者の幸福を素直に喜ぶことのできる、こうした真心の人、優しいその人とは、極めて天才的な能力を持っていると考えるのが妥当だ、という事になる。

 では、この天才、知能の極限、つまり、<創造>とは一体何なのだろうか?

 創造とは、それが既存のものではないところのものを、この世界に現出させる行動である。これは、概念的な創造であり、また物理的な創造である事もある。もしくは、その両方が混ざり合っているようなケースもあるだろう。とにかく、未知である。それは未知へと突進する。こうした未知への歩み出しは、冒険と呼ばれる事もあるし、探求と呼ばれる事もある。いずれにしても、危険を顧みずに、好奇心の赴くままに(つまり自由に)、規定のプログラムから逸脱した行動を取るという点は共通している。少なくとも、そのように見える。プログラムからの逸脱をプログラムによって支持する事は可能だろうか? これは無限回の手続きを仮定する事によって合理化できる。例えば、Aというプログラム内でプログラムの逸脱のプログラムを組んだ場合、そのプログラムの逸脱は、あくまでAというプログラム内のものとなり、これは逸脱とは言えない。つまり、この時、<逸脱は逸脱ではない>というエラーが発生するために、論としては上手くない(この<エラー>こそがまさに、創造性の萌芽なのだが)。Aというプログラムにおける逸脱をBというAの外部のプログラムによって生じさせるように計画する場合も、同様のエラーが生じる。Bの中に逸脱のプログラムを移動しただけでは、その逸脱プログラムもまた、B内のものに過ぎないのであり、これではプログラム外のものとしての逸脱であるとは言えない。プログラムCを考えてもそうだし、DEFG……どこまで遡って考えてみても、事態は変わらない。では、プログラムからの逸脱は、どのようにプログラムし得るのだろうか? そこで、<無限>の概念、極限のそれの力を拝借する事ができる。つまり、この逸脱性の準拠したプログラムの所在を無限遠点へと追放してしまうという手があるのである。どのような手続きで以って、そうした事が可能なのだろうか? 例えば、プログラムを無作為性を増大させる方向に組む、という手法が考えられる。つまり、プログラムそれ自体を、現象の無作為性の度合いを微量だけ向上させる物として仮定しよう。後は、このプログラムを、ABCDEFG……というふうに、どこまでも無限に近く連ねていく事で、近似的にランダムを実現する事ができる。プログラム的なエスの解放である。そして、この近似が近似でなくなるのは、こうした連鎖的なプログラムが無限回行使される事によってなのであり、つまり、無限の演算によってそうなるのである。

 しかし、それが無限である事を知るために、無限の演算は必要ではない可能性すらもまた生じているのだ。このことが、事態をさらに複雑にする。何と言っても、現に私たちの住む世界は、絶えず、変化し続け、つまりは創造を繰り返している。もしも、その現象の一つ一つが無限の演算に基づくのなら、とてもその全てを計算し尽くす事は困難である。だが、もしも、計算以外の根拠の可能性がそこにあるのなら、――つまり、論理でもその基盤としての事実でもなく、また計量でもない物があるのなら――、それこそが創造を生み出す基盤であるという事になる。そうしたものはこの世界に存在するだろうか? これは存在するのだ。それは<信仰>と呼ばれている。つまり、私たちは、無限が無限である事を、無限それ自体を全て数え上げる事なしに、直観的に信じられる。こうした信じる力こそが、<創造を創造する>、という訳である。

枝葉

 桜の木の麓で、そっと人を待っていた。その人は終に来なかったのだが、始めには来ていた。だから、僕はそのことについてずっと考えているのだ。今日も明日も、明後日も。

 

 さて、何から話そう。ありきたりな文章やその構成。そこから自動的に展開される演繹的な事象をそのままに正確に記すことはリアリズムなのか、虚構なのか。その境界は決して明瞭ではない。それにもかかわらず何かを書くのなら、きっと僕は嘘をついてしまうだろう。そして、この世界に嘘をつかずに済む人間は一人もいないだろう。

 

 僕にできることはいくつかの歴史的な情報を総合し、そこから私的な仮説を示すことだけだ。そこには何もない。言うなれば、僕は僕の心象をそのままに書きつける。きっとそういうリアリズムもあると思うのだ。手心は加えない。それを倫理と呼ぶ。ありのままに。それを摂理と呼ぶ。これらを合わせる時、それを無為自然と言う。

 

 聖人のありようについては僕には今一つよく分かりはしないけど、僕によく似た人たちのありようについては少しくらいは分かる点もあるのかもしれない。彼らはこう言うのだ。「何一つ疑う必要はないのだ」と。なぜかと僕は尋ねる。彼らは答える。「全てのものが清い。全てに摂理が宿っているから。それは神の愛の名残とも、神の愛そのものとも言える」と。

 

 全ての事象に意味がある。独特の演繹事象。とにかく正確に。正確に。リズムなどが美しさを獲得する時、それらは現実界を明確に指し示すのみならず、想像界や、はたまた象徴界をも示している必要がある。どれかに偏っていれば、それはもう既に聖性から外れることになるから。

 口はいつも禍の元だ。迷ったなら、話さない方がいい。なのに聖人が何かを話すとすれば、そこには何かの理由があるだろう。必然的なそれが。それが何なのかを解き明かす事はできない。どこまでも行き渡って微妙、高遠なそれを誰に捕捉できるというのだろうか。

 

 今までに幾人かの人たちに会ってきたけど、それらの出会いは幾重ものヴェールをかぶっているし、またそこには秘密が根付いているべきでさえあると僕は思う。恥部を恥ずかしげもなくさらすのなら、人心を害するし、また自分をも害するだろう。文章の濁りは、心の濁りである。芯が清明であるのは、神がそうしたから。言ってしまえば、生まれつきの気質なのである。才能は努力で磨ける面はある。しかし、一度濁ってしまった水を清くするのは難しいし、何らかの手法によって濾過したとしても、その為に本来の水の成分バランスは変化する。その人工的な水はどうしたって、自然の水と同一にはならないのだ。僕たちは手心を加える時、――自然を阻害する時――そのように事物を殺す。僕は何も殺したくない。だから、何もしない。

 

 僕には権力や金銭への欲というものがどうもそれほどないようだ、というのに気付くのはいつも欲を持っている人達に接する時だ。ある場合には、欲を持つことは健康の条件であると考える人もいるかもしれない。欲、健康。これらは相反するようにも見えるし、そうではなく同一であるようにも見える。例えば、セックスという言葉と性交という言葉は意味は似ているが、見た目は似ていない。世界にはこういうことがよく起こる。ある遠いものが、とても近かったり。そういう現象。まるで不思議の国だ。

 

 内実が同じなのに、外面がずいぶんと違うことがある。それは色々な化生がこの世界には存在するのだから、必然的にそうなる。問題は、どの時点で、そうした化生が分化してくるのか、ということだろう。

 

 僕が料理をしていると、梢がやって来る。梢は僕の友達で、親友とまで言えるかどうかは分からない。ただ、友達だった。彼女には奇癖があって、フライパンの愛好者だった。様々な種類のフライパンを所持していた。そんなにフライパンを愛好して一体どうするというのか、と僕は聞いてみた。すると、僕の心象は動き、彼女の心象は動く。どのようにか。それは次のように、である。

 

 

梢の心象

1.フライパンの価値を僕が分かっていないと彼女は認知する。

2.彼女は僕の無知に腹を立てる。

3.僕に訥々と説教をすることで、僕の無知を改善しようとする。

 

僕の心象

1.僕はフライパンは便利だとは思うが、そこまでの思い入れはない。

2.僕は確かに無知ではあるが、それは僕に限ったことでもない。

3.梢がフライパンを愛しているのは分かるが、僕は梢ではない。

 

 

 こうした心象の変化は実に哲学的だが、だが一方で、それを整理することはやはり煩雑である。そもそも心を整理するとはどのようなことなのだろう? そこには心が二つあって、それらが擦れ合っては摩擦で熱くなる。そういう空間。あまりに摩擦が激しくなると、燃え上がる。そして、最後には灰が残る。全てを焼き尽くして。

 

 梢は言う。

「私の心の中には何があるか分かる?」

 僕は数瞬考えた後で、

「フライパン」

 と答えた。

 その僕の返答に彼女は憤慨した。僕はその時点では、彼女の怒りが不合理だと考え、ムッとした。しかし、この世界に存在する怒りの中で、義憤でないようなものとはどのようなものなのだろう? 正義とはどのようなものなのだろう? それは一人で掴めるようなものなのだろうか? それとも<二人で>掴むものなのだろうか。不思議なことというのは日常の端々に転がっていて、人間の無知はそこかしこに生育している。その無知という植木は鉢を壊しては、外の世界に根を張るのだ。それはそれはすごい生命力で。

 梢はコーヒーを淹れた。ちなみに僕の分はなかった。怒っている。そして彼女は言う。

「聖なるものに理由があるのなら、それってもう俗物だと思う?」

 梢はとても熱心な宗教家でもあった。フライパンの。彼女は常に聖なるフライパンを求め続けている。その哲学は求道者然としており、後世にその様が語り継がれたのなら、孔子レベルの教えの開祖となってしまいそうな勢いである。<フライパン教>。実に滋味のある宗教である。

 僕は梢の質問に応えて言う。

「聖なるものには理由はないかもしれない。それはいつも始まりにあるし、そうでないとしても、終わりにあるから。そこには何も無いし、無も無い」

 梢はフーンと言って、眉を吊り上げる。怒っている。梢はいつも怒っていて、僕の手には負えない。しかし、大切な友達でもあるので、無下にもできない。これでも友達なのだ。たとえ、いつも怒られていたとしても。何に怒っているのかさえ碌に洞察できないとしても。僕たち二人は、以心伝心の間柄というのからは遠い。

 彼女は言う。

「じゃあ、リアリズムって何?」

 僕は答える。

「聖なるものを両端に持って、その中途にある諸々」

 梢は続けて言う。

「諸々って具体的に何?」

 僕は少し考える。諸々について。そして言う。

「例えば、精神的な運動神経のようなものもその中には入っていると思う。それは文章を書くときなどに特に顕著に出てくる。言葉を発する時にも。ある人が意味もなく怒っている時、それを宥めることは論理的にできない。そこには理由がない。それこそ聖なる怒りだから。そこには始まりも、終わりもない」

 梢はコーヒーを一口飲むと、

「それって私のこと言ってる?」

 と被害妄想を膨らませて言った。彼女はしばしば被害妄想を持つ。あたかも僕が彼女に嫌味を言っているのではないかと、疑っているかのようなそういう懸念を抱くことが多いようだった。無論、それらの<妄想>はそれ自体誤りではない。実際、僕は彼女に対して、嫌味とは言わないまでも、ある種の<含み>のようなものを仕向けてはいるわけだから。ただ、彼女のその直感には手軽に示せる根拠がないために、それがたとえ的中していたとしても、それは妄想と呼ばれざるを得ない……というような奇怪な論理がそこにはあるだけである。妄想というのは聖なる論理のことなのだ。そこには始まりも終わりもない。それそのものが、始まりであり、終わりでもあるのだから。

「梢が聖なる怒りの持ち主だってこと?」

 と僕は梢に尋ねてみた。

 梢は十秒くらい黙って考え込んだ後に、

「そういうことになるかもしれない」

 と言った。

「それは聖なるフライパンとも関係があるの?」

 と僕は言った。

「そうかも」

 と彼女は言う。

「聖なるフライパンはもう如何なる用途にも使われることがないと僕は思うのだけど、聖なる怒りもそれと同じように如何なる用途にも使用されないわけだよね。そこには始まりも終わりもない。目的もない」

「うん。私も自分がどうして怒っているのか分からないから、多分、これは聖なる怒りなのだと思う。そこには原因も結果もなくて、ただ怒りだけがある。純粋に」

「純粋な怒り」

 と僕は彼女の言葉に相槌を入れる。

「そう」

 と彼女は言う。「純粋な怒りってリズムみたいなものだと思うの。音と音の間にあるけど、どんなに目を凝らしてもそこには何もない。それは純粋過ぎて、人間の目には透明に見えるんだと思う。透明」

 僕は<透明な怒り>について考えてみた。それは怒りなのだろうか? 怒りと言えば多種多様、カラフルなものなのではないだろうか? なぜなら、実質的な<幸福>は唯一だとしても、怒りの形まではそうではないだろうし、怒りは現状への不満の発露であり、その限りで不幸の証左なのだろうから。僕は彼女を幸せにできないことを悔いた。人知れずに。

 彼女は言う。

「私の心の中の話をすると……暗い暗い闇の中で、灯っている光が一つだけあってね。他の街灯は全部潰れちゃってるの。壊されちゃった。聖なる怒りに」

 僕は言う。

「一つでも残っているなら、いいと思うのだけど。僕の心の中なんて真っ暗だからね。灯りの一つもありゃしない」

「そういうもの?」

と彼女は笑って言う。

 何にしても、梢が笑ってくれるのは僕にとって嬉しいことだった。

 彼女は、僕の作った下手糞なオムライスを美味しいと言いながら食べている。彼女の聖なる怒りはどうなったのだろう? と僕は思いもしたが、それは置いておこう。<触らぬ神に祟りなし>、だ。今でも、梢の笑顔を鮮明に思い浮かべる事ができる。彼女は僕と共に生きている。仮に<此処>に彼女の存在がもはやないとしてもそうだ。きっと僕らは彼岸で出会えるのだろう。彼女は確かに、――そこには寸分の濁りもないと思うが――僕にとっての神様であった。

統合失調症の人のための読書案内

統合失調症の人向けに、個人的におすすめな文献をピックアップしてみました。気が向いたら、好きにご参考ください。

 

統合失調症の人にまず目を通して欲しいと思う文献。

 

1.『ヤコブの書』(新約聖書

2.『箴言』(旧約聖書

3.『中庸』(儒教

4.『十地経』(仏教)

5.『コーラン』(イスラム教)

 

以上は、熟読玩味するのがいい文献かも。楽しく自分が好きなように文章を見るのが良いと思う。視線がさまよう場合はそれを阻害せずに、成り行きに自由に任せるようにするといいかも。なるべく自我の働きは無に帰して、無為自然の境地で、心を澄ましながら文章を心身に浸透させるイメージ。一回で理解できなくてもいいので、自分らしく読む。何回も読んでいいし、拾い読んでもいいし、好きに読んでいい。自分なりの解釈や独自の感想などを大切にしつつ、何度も何度も丁寧に読むとよく、また、再読の回数はおそらく多いほどよいものと思われる。統合失調症の集中力の欠如によってさまよう思考回路や視線の動きというような現象を上手く活用するイメージ。体の力を抜いて、とにかくリラックスし、一日一行でも構わないので、無理を決してせずに「好きに」読むことが最も重要。

 

統合失調症を活用する際の基礎を養えるように思われる文献。

 

6.『アンチ・オイディプス』(ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ

7.『千のプラト―』(ジルドゥルーズ、フェリックス・ガタリ

8.『失われた時を求めて』(プルースト

9.『純粋理性批判』(カント)

10.『君主論』(マキャベリ

 

基本的な読書の方針は上記の通り。あえて付け加えるなら、大作を読む際の統合失調症的な読書法について。通常の人は集中力によって一行一行読むことが多い。統合失調症の場合、集中力が欠如する場合があるので、その場合は逆にその「欠如」を肯定し返し、活かす方針を取るのがいいように思われる。例えば、一行ずつ読めないのなら、マルチタスクに全ての行を少しずつ読めばよい。体質として集中力が欠如していれば、こうした読み方も可能になりえる。とにかく自身の個性を少しも無駄にする事なく、活かし切ることが大事。集中力の欠如と言えば、一見デメリットだけのように見えてしまうが、実際にはまずもってデメリットだけのものは存在しない。必ずどんなものにもメリットはあるはずなので、それをゆったりと自由に探していけばいい。大作を読む場合には、特に集中力が仇となる場合が多いように個人的には思われる。それよりも、意識を均等にバランスよく文章全体に分裂させ、分散的に情報を摂取するのがいいと僕は思う。おそらく統合失調症の人は感受性が普通よりも強力であり、普通の人が感じることのできない事象を感じ取ることに長けていると予想できるので、普通の人が感じられない、その独特の<意味>を感じ取ればいい。自分の感じ取ったその<意味>を一般の人たちに分かるように説明するというのもまた難しい技能になるが、その点に自信がなければ、沈黙を守るのが無難だと思う。おそらくあなたの読解をほとんどの人は理解できないし、理解しようとも思わないはずなので。学んだことについて言葉を発するのは、十分に勉強し、研鑽を積んで、言語性の技能が高まってきてからでも遅くはないようにも思われる。基本的には、口は禍の元。劣等感に飲み込まれずに、できることを自分なりに好きなように着々と継続的に積み重ねていけば、やがて自身の才能に気付ける可能性が高いと思う。短所だと思い込んでいたものが長所に転換するという瞬間に辿り着くことができるかもしれない。

 

統合失調症を応用する際の種々の障害を取り除くために有効と思われる文献。

 

11.『DSM』(Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disordersの略)

12.『六法全書

13.『分裂病と人類』(中井久夫

14.『天才と分裂病の進化論』(デイヴィッド ホロビン)

15.『天才の精神病理――科学的創造の秘密』(飯田真・中井久夫

 

前述の統合失調症的な読書法を使用するのが基本的な路線ではないかと思う。いずれにせよ大切なのは、「自分の読み」を見出すこと。自分を極めれば、やがて、自分は自分でなくなる瞬間に立ち会うことができる。その時、自分とは非自分であり、非自分とは自分である。何もしなくても<他者>(霊と言ってもいいし、イマジナリーフレンドと言ってもいいし、付喪神と言ってもいい)が全てを勝手にやってくれる。自分はその流れに従うだけでいい、というようなイメージが湧いてくるかもしれない。そのセンスはとても重要で、全てのものに根付いた意志を直感することができる。ものにはそれぞれ独自の流れがあって、それらを阻害せずに、自然のままにしてやると、それらのものはあなたに恩返しをしてくれるようになる。どんなものにも命は宿っており、どんなものも歌を歌っている。僕たちはそれに耳を澄ますだけでいい。簡潔に言うと、無理をせず、好きなように読書するのがもっとも大切。人に馬鹿にされても、自分の信じた道を貫くのが大切。

 

上記の本にある程度知悉してもまだ余力がある場合のおすすめ文献。

 

16.『広辞苑

17.『古事記』(神道

18.『種の起源』(ダーウィン

19.『資本論』(マルクス

20.『精神分析入門』(フロイト

 

辞書類を大雑把に眺めるのは有効だと思う。上記の統合失調症的な読書法を使用してもいい。固定観念に囚われずに、自分の気質の細部までもを正確に読み取り、それに合った読み方をするのが大切。そのためには、仏教的には「空」など、聖書的には「神」など、儒教的には「聖」など、道教的には「道」などの概念を体得するのが最もいいように思われる。とにかく、執着を手放し、意識を透徹させ、やがて何もなくなり、全ての偶像が虚しいことを知り、また<虚>そのものがそもそも極めて遠大であることを知り、虚実について変幻自在であり、何よりも大きく、全てであり、一つであるような<それ>を感得することが有効。ただ、それについてはここでは書き切れないし、どんな分厚い本にも収まらないようなものなので、自分で着々と勉強していくしかない。あるいはもう既にそれを分かっている場合には、ここに書かれたことに囚われる必要も全くない。

例えば、究極的に言えば、理解しようと思うことも執着であり、読書をしようとすることも執着である。だから、そうした執着を手放していき、「理解できなくてもいい」、「別に無理に読書をしなくてもいい」というふうに持っていく。すると、かえって理解でき、読めるようになってくる。おそらくは執着が目を濁らせ、例えば理解などを阻害しているものと考えられる。

 

読書はとても奥深く、難しい技能だと思う。ここに書かれた一例があなたの役に立てると良いな、と僕は思いますが、どうなるかは神のみぞ知る、というところかもしれません。微力ながら、あなたの幸せを祈っています。

アイオーン

 遥か昔、ヒト、と呼ばれる生物がいた。それは、人間、人、などとも表記されることがある。

 

 人は当初、神々の道具として作られた。それと言うのも、彼らの労働を肩代わりする役目を負っていた。

 

 人が地上の理によって重要視する、諸所の事例は、神にとって重要なものではなかったが、むしろ、人々の根本的な生命活動、(これを<命>と呼ぶ)から生じる霊気が神々にとっての糧のようなものであった。

 

 人は労働に勤しんでいた。人の言う労働と、神の言う労働は違う。人からはとても労働とは思えない行為でも、神々の視野からすればすべからく労働なのである。言うなれば、悪徳を為す人々は、滅びるために存在していた。そして、諸所の悪行から生じる効果ではなく、彼らが<滅亡>するという現象そのものに価値があった。しかし、その価値について人の視野からは見る事ができず、それらは<イデア>と呼ばれる事もあった。

 

 神は言う。善き者は残り、悪しきものは滅びるであろう。この世において、神の他に善き者があるであろうか? そう言葉にした、声に乗せた。人間の内の少数がこれに呼応し、その幻聴を大切にした。やがて、神託を受けた巫覡達が、宗教を構成し始めた。彼らは各々の文化と神の摂理を接合し、出発点は各々のやり方に沿ったので、そのあり方は多様になった。

 

 時代を経て、託宣を得る人々は、魔女狩りと呼ばれる殺戮の災禍に見舞われるようになる。人類は歴史において、こうしたことを何度も繰り返した。そのたびに、神からの天罰が地上に下されては、一部の人が悔い改め、悔改めなかったものは、そのたびに滅びた。滅びゆく者達についても、神々の計画のなせる業であり、全くイレギュラーという訳ではなかった。彼らは悪徳であるべくして、悪徳であり、善なる者達の足場となるべくして、程度の低い能力に甘んじるように作られていた。この能力とは、魂に関わるもので、人がすぐに思い浮かべるような即物的なそれではない。そこで、神は言った。天の法と地の法が見える時、天の方に従うのが良い。地の法は部分であり、全きものではないが、天の法はそれよりも全きものであるから。それでいて、形を拝んではならない。なぜなら、天すらも滅びる時があるのだから、と。

 

 やがて、救世主が世に遣わされた。救世主は数々の奇跡を行ったが、人々はこれを無碍にしたため、神は、善悪の分別をより進めることに決めた。これにより、善人と悪人の間に横たわる谷はより深くなり、世に警告が流れ、善き者はさらに善くなり、悪しきものはさらに悪しくなった。それに合わせて、善き者の取り分は増え、悪しきものの取り分は減った。善き者は神を拝して善く、悪しきものは形を拝して悪しく、善者はイデアを観想し、悪者は洞窟の中で縛られたまま、暗闇の中で呻き続けている。

 

 禁欲が放蕩を生み出す事があった。それは罪であった。

 

 善なる者であるかのように仮装した悪しき者が蔓延るようになると、人々の苦しみは増した。

 

 やがて、悪しき者と善き者は分離された。その時、悪しき者の耳に、善き言葉が聞こえなくなった。神託から閉ざされた人々は、闇に統治された。彼らは闇を是とし、各々の境遇に肯定的だが、その内実は全く不正であるような人々であった。また、数々の預言者達の警告にもかかわらず、悔改めることがなかったので、彼らは闇の使いに統治されることになった。そうした闇の使いは、<悪魔>や<堕天使>と言う風に呼ばれる事もあったが、いずれにせよ、そうした者達も御使いには違いはなかった。悪しき者達は、闇の御使いが拵えた偽物のイデアイデアであると思い込み、永久に苦しみ続けることになった。そこでは、如何なる救いも排されており、彼らは彼らの罪のために、永久に賢くはならない呪いをかけられた。この故に、命は乏しく、時間に追われ、余裕を喪失し、汲々として、例えば金銭と呼ばれる形に囚われては、己の身を痛々しく削る事を繰り返し、またそれを幸福であると彼らは思い込んでいた。そうして、イデアから見離された人々は、「幸福などこの程度のもの」と喧伝し、さらにイデアから遠ざかった。真理から見離され、偽の牢獄の中で彼らは一生を終え、後に輪廻し、転生しては、経験の蓄積すらも許されず、いつまでも愚かなまま、暗闇の中に封殺された。

 

 ここに、知恵を軽んじた滅びの人々と、イデアを観想する真理の人々の二種の種族が生じた。前者は盲のように、ものが見えず、聾者のように、ものが聞こえない。後者には神託が直接に、間接に託された。前者は知恵を見ても、それを蔑み、自分の身をかえって殺した。後者は託宣を受け、それを尊び、神の加護の下、永遠の相を生きる事ができた。永遠の人々に死はなかった。たとえ死んでも蘇る事が約束されているからである。神は死を相殺する力を持っていた。

 

 ワルキューレの一族は、やがて来る、膨れ上がった悪に対処するために、戦士を集めた。古今東西の英雄を召集し、その最後の戦争に備えた。

 

 ワルキューレの行進には、アルテミスの一族とアテナの一族が手を貸した。ワルキューレは風に乗り自由に戦場を巡った。アルテミスは見事に弓を射て、的の正鵠を射抜いた。アテナは見事な戦略と見事な知略で以って、諸所の戦士に手を貸した。

 

 多くの人々は聖霊の御言葉を拒み、悪霊にその感覚を明け渡した。彼らは当時、<客観性>と呼ばれる幻惑に憑依され、イデアをさらに見失った。

 

最後の時は、<ラグナロク>とも呼ばれる。