魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。

美しい人の生殖

<幽かさ>の理念を今も覚えている。それは幽霊的である。霊は幾多の本質的な帰結を示唆するものだが、だからと言ってその本体を傷つけることはない。桜の花が散る時に、花弁が散ったからと言って、その本体である枝や幹までが傷つくのではないように。それらは幽かに散りゆく。

 

フロイトの主張にあるように、意識と無意識の諸々の仮定から論理を出発せしめ、それでどこに行けるだろうか? そのように問う時に見えてくるものもある。その一つは紛れもなく先述の幽かさである。

 

例えば、幽玄の美という理念がある。こうした理念は極度に洗練されることで、その形態を暈し、かえって何物でもない状態を生産し続ける。その結果として、もうすでにあったものでさえもがその境界を失い、彷徨い、やがて何者でもなくなり、やがて消失する。そこには幽玄がある。それらは両極端の機制に偏らない意味での一種の極限だが、それは言葉遊びに似ている。ちょうど誠実な遊びが如何なる真面目さにも勝っていくように。

 

美的魅力は能力や実力の現れである。その表現型は多くの極限を内に含んでいる。その結果として、幽玄のような現象が生じてくる。幽玄は現象という現象それ自体を常に解体し、やがて空疎な極限に固着してしまう。しかし、かえってその固着がその執着からの解放を促すというヘーゲル的な弁証法の作用によって解放されもする。そこには諸々の仕組み、諸々のシステム、諸々の社会体が関わっており、それらのすべては結局のところでは、何者にもならない。自分が自分ではないこと、何者でもない時、その時に愛が宿る。

 

賢い人や愚かな人がそれぞれの意見を述べ合い、やがて紛争を生じるように、論争は賢い人をも愚かにすることはソロモン王の箴言でも取り上げられているとおりであり、これについては殊更に今改めて主張するべくもない。しかし、だからと言って、そこに宿る賢愚という絶対的な差異が無化されるわけでもない。そこには分かりづらさの哲学がある。そもそも哲学は人の心を形にした何かである。自分に誠実であればあるほど、それは他者には受け入れがたいものになる。それがオリジナリティでもあり、また、時に幽玄的でさえある破壊的で静謐な自己実現のシナリオでもある。

 

人間の人間性とは何かを創造するということにあるが、その創造は常に神の所業である。人知で解体し尽くすことはできない。神の力能は無限のものであり、無限のものを有限体である人間の身体、それらの常に保っている諸々の連想経路を用いては処理し切ることはできない。だから、私たちは機械化の道に乗り出し、才能を殺し、やがて自身さえも外部化し、生命からの脱出を図るようになる。それは破滅への道であり、人類に真に残されている道は実際にはニーチェ的な<超人>への道の一つのみである。

 

さて、マルクスの言うように、資本の流動的なメカニズムが可変資本を経由して、資本家の懐に流れ込むような狡猾な機序のすべてを明かし切ることは原理的にできない。それらは独特の天稟に依っており、容易に解体できないのである。彼らは人間の悪という悪にその根を張っており、それらを活用している。その巧拙にはその支配者によって差はあっても、それが<すべて>ではないのである。彼らはそこに付け入る。すべてでないものをすべてに装うことで可能性を逼迫させ、人々の能力を無能化したり、時に活性化させたりし続けることで、その生計を立てるのである。これらの非人道的な行いのスティグマ、あるいはその経路はフェミニズム的な経路にも顕著である。つまり、例の女性差別的な醜悪な論調の数々を見れば、差し当たって私の述べようとしていることが如何なる悪であるかは分かっていただけるであろう。それらはドゥルーズ流に言って<n個の性>とでも呼ぶべき何かである。それらのリゾームの機制を正確に記述することの困難は、この世界の成立以前にさかのぼる原理に巣食っている。このようにすべての寄生とはその実としては共生に他ならず、その意味で寄生を訴える主張者こそがその実、サイコパスマキャベリストたちの功績に寄生しているのと事情は同様である。だからこそ、ある劣等的な資質が常に天才的なのだ。それが戦略的な優位を保証し、神を経由して固有の賜物を愛すべき仕方で結晶化する。それが美なのである。

 

重ねて言えば、幽玄の美とはこうした<美>の眷属に他ならず、それは純粋な能力の表現型である。一方で整形のような技術や医学のようなものはこうした搾取経路を活性化し、いわば、人々からその身体を盗むわけである。彼らは言う。「あなたの身体についてはあなたよりも我々の方がよく知っている。あなた方は我々に従え」と。

 

この世のすべての窮状はその根源的な悪にすべての端緒を持っている。それらの悪は神を無害化し、あるいはそのように見せかけることで奇妙な循環を常に生産する。そこには分子生物学的な幾多の機械が、実質的に薬理学の知識に連合していくという、統合失調症的な一種の天才としての連合弛緩さえ見られる。しばしば、エレンベルガーの説のような<創造の病>なるもの、病それ自体の肯定的な定立が天才に関わるのはそのためである。だが、あらゆるものは嫉妬による牽制を受け、その良質な果実はエスタブリッシュメントに独占される運命にある。嫉妬がそうした果実を人々から搾取することを正当化するからである。彼らは言う。「悪なるものに援助することはそれ自体罪悪に他ならない」と。

 

確率的に言って、まったくあり得ない現象など、この世には存在しないという意味では、なるほどすべてのことはあり得るのである。しかし、それが現実のものとなるかどうかはまた別のことなのである。だからこそ、幾多の誤差が配分する認識の曇りが、悪人たちの目を曇らせ、時に善人を殺戮せしめる時にも、光を輝かせ、放ち、やがて死さえも活用してキリストのごとく悪に対抗する契機を生みもする。怪しさとは常に力なのである。何かを怪しいと思うこと、それは自身の認識を超越する何かを指示している。そこに闇があり、その闇こそが光に他ならないからこそ、悪人は世界に階級を生み出し、時に平等主義を利用して搾取し、人々の努力を自分たちの安楽のまにまに生産し続けようと画策するわけである。そうした機序のすべてが悪であるとまでは言えないにしても、人というのはかくも利己的であり、またそれは一種の菌種である。その菌種は時に人体に寄生し、病を引き起こすが、ミトコンドリアのような機構でもって外的な事物だったそれが人々の身体に内的に取り込まれる可能性すらあるのである。このように悪とは相対的なものであり、死さえもそうなのである。

 

了解不可能性としての統合失調症が光を放つのは、そうした事情による。しばしば統合失調症を患っているにもかかわらず美しく聡明な人々がいるものだが、とどのつまり彼らは<誤診>を被っているわけである。すべての世界を覆う誤差がそうした悲劇を生産する。精神科医はそこに巧みにスティグマを生成して貼り付けることで、彼らの美徳を隠蔽する。そうした陰謀を隠蔽するために、陰謀論を排斥する。どこにもつじつまの合わない部分はない。至極単純な帰結が、彼らのシンプルな頭脳から認知的複雑性を縮減し、やがて痴呆にまで至らしめる。いわば、精神医学とは痴呆の集合体であり、あまりに健康的であるがゆえに統合失調症は病とされているわけである。これこそが嫉妬の代表的な機序でもある。しかし、それはまだ本質ではない。本質とは本質などどこにもないというある種の無神論に極度に近接しているのである。その意味で、無神論は有神論と区別できない。確率的な了解不可能性が統合失調症という臨床実体を生産し、すべての栄光を狂気として隠蔽する以上は、預言者たちやキリストを敵に回していることと同義である。

 

かつてある福音が「初めに言葉ありき」とそう述べた時に、特に確定的なのは次の事象である。それは流れに乗ること、そして自然よりも自然に、つまり、人にとっての自然さえも越えて、天使の領域をも越え、やがて空に至り、そしてすべての人を愛することである。愛は自然特有の厳しさを含むが、トマス・アクィナスが述べるように、それは罪ゆえに生産された社会的な階級システムに依存的である。もしも人が罪を犯さなかったなら、人は完全に平等であっただろう。だからこそ、初めに言葉があったわけである。言葉ほどに平等化の礎となるような、特別な不屈の精神は存在しないからである。それは確かに高貴であるが、非常に希少なものでもある。それは誰にでも持つことのできるものではない。正確に言えば、<それを現実化することのできる人は少ない>、とそういうわけである。だが、だからと言って、すべてを断念せよと、命令するのでもない。言語が如何なるコードによって私たちの文明なり本能なりを束縛しようと画策するとしても、必ず微粒子は漏出しているのである。如何なる悪もやがては明るみに出るものである。だからこそ、私たちは常に正しくあることが現に有効なのであり、かえって才能を外部化され無能化された人々に幾多の資本が膨大に流れ込んで、人身御供とされる運命にあるわけである。すべてのことに理由があるとするコードは、この脱コード化さえも推進し、やがて言葉をも越え、自身のオリジナリティへと肉薄していく運動に他ならない。それこそが希望なのであり、愛であり、未だないものを夢見る信仰なのである。

 

さて、私たちは愛することができる。言葉によって? そうではない。コードによって? そうなのでもない。悪をも愛することによってである。そうした個人の光こそが最も尊いものであり、人格を断裂させる資本主義制には希望に満ちた活路などない。そうして、人は孤独に帰り、また静かであり、多くの不正な規則を越えて、嫉妬さえも戦略的に制御し、自分たちの好きなように<幽かに>生殖していくのである。それを止めることはできない。そこには秘密がある。秘密こそが真理を守るのである。

呪うこと、祝うこと

心理学的な「解離」の病態については諸説あり、そのひとつには「スペクトラム」の概念を援用するものがある。

心身の解離から解離性同一性障害まで、解離という現象を一連のスペクトラム(連続体)でとらえる考え方がある。(藤岡孝志, 『不登校臨床の心理学』, 誠信書房, 2008, p.45)

解離性同一性障害はいわゆる解離と呼ばれる症状の中ではかなり重い部類のものとして捉えられるが、そうした「程度」の問題というのには多種多様な困難がある。例えば、それらの程度を「アナログ信号」として捉えるか、それとも「ディジタル信号」として捉えるか……その如何によってそうした「量」への印象は変化してくるだろう。私たちの住んでいる社会には今や様々なディジタル信号があふれていると言えるが、そこには幾多の「量子化誤差」が予め内在されていることには常に注意しておくべきである。

アナログ信号とその量子化後のディジタル信号の両者の振幅情報には、差を生じるのが一般的であり、これを量子化誤差 quantization error や量子化雑音 quantization noise と呼ぶ。(桂川茂彦, 『診療放射線技術選書 医用画像情報学』, 南山堂, 2016, p.40)

量子化誤差の概念を多面的に捉えてみよう。これは量子化の作用によって、アナログ信号というシグナルとディジタル信号というシグナルの両者に何らかの「差異」が生産されるという現象に特に着目した理念であるが、これはつまり、何らか同様の現象を表現する場合でも、そのシグナルを組織する理念の種類によって、その後に展開される帰結が多種多様に異なってくることを示している。この事情は――つまり量子化誤差におけるようなそれ――はディジタル信号のような何らかの人工の機械を特に射程とする理念以外にもその威力を発揮する。例えば、ベルゴニ―・トリボンドの法則によれば、生体内の「組織」という概念それ自体を放射線医学の領野においてかなり有意義に分析することができる。こうしたことが可能なのは、生体が持つ細胞内の「組織」という概念自体がその「翻訳」時において既に多種多様な「量子化誤差」を幾多の異分野に対して持ち、またその原理的に産出される誤差ゆえのあらかじめの「ミス」を許容せざるをえないという、一見すると正確性の観点からは歓迎し難い事情から生じる。

組織の放射線感受性について, 一般に以下に示すようにベルゴニ―・トリボンドの法則 Bergonie tribondeau's law, 1906年, として知られている.

   ①細胞分裂頻度の高いものほど, 組織の放射線感受性が高い.

   ②将来, 分裂回数の大きいものほど, 組織の放射線感受性が高い.

   ③形態および機能において未分化のものほど, 組織の放射線感受性が高い.

すなわち, 各組織の照射後の生存細胞数はその放射線感受性と分割期間中の増殖率等できまると言える. (西臺武弘, 『放射線治療物理学』, 文光堂, 2007, p.79)

上記の引用の通り、ベルゴニ―・トリボンドの法則によれば、組織の放射線感受性を規定する要因は、細胞分裂の頻度、将来の分裂回数の大きさ、形態および機能の未分化性に依存的であることが分かる。ここで特に注目すべきは、「現在の」細胞分裂の頻度のみならず、「将来の」分裂回数の大きさまでが放射線感受性に影響を与えるという事実である。因果的な経路としては、過去から未来へと流れる観点を取るのが普通であるが、ここでは逆に未来の現象を予測的に観察することによって、かえってその組織の「現在の」放射線感受性を推定することができると考えられるのである。こうした複雑な時系列についての観念の錯綜は何を意味しているのだろうか? おそらくそこにはある「リズム」が存在するだろう。しかし、それは短期的には著しく錯綜しており、ランダムで無意味なシグナルを形成している。そこで長期的視野に立つことの有効性が生じうる。例えば、医学において心電図を見る際には、どれか1つの誘導でも長めに記録した心電図を検討する必要があるとされているが、これはある心臓における病理的なパターンを認識する上でも、こうした「長期的視野」を大なり小なり必要とするという事情そのものをシグナリングするものである。

調律 (rhythm) を正確に診断するには, どれか1つの誘導でも長めに記録した心電図を検討する必要がある. (Andrew R. Houghton, David Gray, 『ECGブック 心電図センスを身につける』, 村川裕二, 山下武志ら訳, メディカル・サイエンス・インターナショナル, 1998, p.27)

さて、ある現在におけるリズムが組織する何らかの「細胞」、今この時におけるそれを捉える際にも、長期的な視野、つまり、時系列的なものの見方というのは最重要であると言えるだろう。それでは、長期的な視野だけが特権化され、瞬間的、刹那的視野が侮蔑されねばならないことになるが、はたしてそれでいいのだろうか? この問いについては、おそらくそうではない、と答える必要がある。多くの現象において、両極端に至る現象は自ずと崩壊してしまう性質があり、過剰なものは崩壊を原理的に胚胎しているからである。その崩壊の前触れとしての「不快」は私たちにちょうどいいバランスを保たせる働きを持っている。気温と私たちの身体の機能性との間の相関の例はこの問題について非常によく表現している。

暑さ, 寒さは人間の覚醒度と行動性を低下させる. (軽部征夫, 『医療従事者のための医用工学概論』, オーム社, 2009, p.98)

しかし、究極のバランスは、究極の統一を意味し、それらはすべてのものを一なる神の下に調和させる機能を持つ。これは一見、素晴らしいことのように思える。しかし、その場合、今この時の「私たち」という存在はこの世から完全に抹消され、また完全に不要な産物でなければならない。なぜなら、全知全能の神が抹消する存在に、寸分の意義もあってはならないからである。しかし、そうだとすれば、神が私たちを生み出したことに合理性が皆無であることになり、神は全くの無駄な行為を為したということになるだろう。これは誤っている。なぜなら、神の御業は如何なる場合にも、完全に善きものへと統一されているはずだからである。だからこそすべての悪をも愛で溶かすことができるわけである。また、神の御業はすべてのものに対し、その隅々まで及ぶのだから、それは特異的なものと言うより、極めて「普遍」的なものであることになるだろう。著しく特異性の強度が低いわけである。この場合、神の下にある万物はすべて互いに調和的な相互作用を持たねばならない。これについてはいわゆる薬物相互作用における生理学や薬理学などの知見が呈する論理構造が参考になるだろう。

CYPは基質特異性が低いために, 1つの酵素が複数の薬物の代謝に関与している。したがって, 同一のCYPで代謝される薬物を2つ以上投与すると互いに影響し合い, これらのうちCYPに対する親和性が強く, かつ代謝されにくい薬物が阻害薬として働く。(藤村昭夫, 『疾患別 これでわかる 薬物相互作用』, 日本医事新報社, 2000, p.9)

以上の引用におけるCYPの事例がそうであるように、一つのものが複数のものに関与する時に「相互作用」が生じる。これは原理的なものであるが、もちろん実践的な機制にも多大な影響を及ぼし、この心理的なスキームそれ自体が既に私たちの文化を有効に構成する機序をもたらしているのである(現に、ある程度にせよ、有効な「薬物」の構成に人類は成功している)。

さて、神学的帰結はひとまず保留するにしても、こうした相互作用を生起する原理には様々な実りがある。例えば、薬理的な様々の化学構造の相克がそれを如実に表している。それと言うのも、ある原子なり分子なりが別のそれらに対して相互作用を持つという、化学が一般に持っている理論の構造がその傍証となるために、ここに「微粒子の哲学」が提起しえるのだと言えるから。微粒子の哲学はそもそも幾多の切断による分析的な手続きによって生じる位相である。それは自然であるよりも、時に人工的でさえあるが、実際にはそうした何らかの工学的な機序自体は自然の幾多の生命も使用しているのである。

菌体はタンパク質, 核酸, 多糖体, 脂肪, 水などで構成されている。増殖するためには, 外界からブドウ糖などの炭素源, アミノ酸などの窒素源, ナトリウムなどの無機イオン, ビタミンなどの栄養素が必要である。(廣田才之, 『食品衛生学 改訂版』, 共立出版株式会社, 2007, p.26)

以上の引用から、菌体の構成要素は複数の「種類」を持っており、そうした分析的な要素の集合として菌体の組織は与えられている。ここでホーリズムの観点に立つなら、そうした要素の視点と総体の視点は極めて異質なものであることにもなる。そして、こうした分析的な差異の産出の帰結――ここに演繹された理論の経路それ自体――こそがそもそも人工的であり、分析的な機序に依っていることが分かる。

また、菌体はその「増殖」に際して、炭素源や窒素源といった多種多様な源泉による栄養素の共有を必要とする。究極的には、そうした「栄養素」は無限大の要素を持つ。まずもって厳密に数え上げることは、少なくとも現在の私たち人類には不可能であろう。

以上の帰結をそのままに斟酌すると、この世界のありとあらゆるシグナルがそもそも原理的に誤差を持ち、絶えず互いに差異化し、ブルデューも真っ青な「ディスタンクシオン」を永久に繰り広げる生存競争的な地獄のようにも見えるかもしれない。しかし、そうではない。

なるほど、確かにすべてのものには隅々に至るまで固有の賜物は行き渡っている。代替可能なものなど何一つないし、コピーできるものも何一つとして存在しない(すべての存在が一回だけのものなのだから!)。すべてのものは誤差によって隠され、少なくともその「全貌」は明らかではない。そして、重要なのは、それなのに「神秘はある」という事実である。神秘は無限に解体できる。しかし解体する人々、そのように偶像崇拝の「死骸」を愚弄している人々が死に魅了されている間に、私たちはより先に進み続けることができる。私たちには未来があり、希望がある。人、動物、植物、あるいは菌体に至るまで、万物は固有のものとして愛され、祝福されているのである。紛れもなく、神によって。

神にはすべてが可能である。その御意志が問うているのは、私の心、意志であり、あなたの「それ」である。

 

目一杯の祝福を君に

 

(YOASOBI, 「祝福」歌詞より引用)

 

ありがとう

あまりにも切実な想いは、言葉にはならない。それでもそれを記述しようとすれば、瞬く間にアポリアに飲み込まれてしまうだろう。感情の翼をへし折ってしまえば、想像力が飛翔することはできない。

 

魔術師には幾種類かの系統がある。五行大義に記された属性に基づいてそれらを記述することもできるし、あるいはもう少し錬金術的に記すことだってできるだろう。それこそ、それぞれの流派によってその記述の作法は多様に異なる。だから魔術は面白い。そして、とてもとても悲しい。

 

翠は魔術書を読みながら、コーヒーを飲んでいる。彼女は女性の魔術師なので、いわゆる「魔女」ということになる。彼女が大嫌いなことがこの世には三つある。

 

1.個人を圧迫すること。

2.自由を圧迫すること。

3.才能を圧迫すること。

 

つまり、彼女という魔女は、個人主義自由主義で才能主義であった。その点についてはとても厳格であるが、逆に言うと、他の点についてはだいぶルーズな人間でもある。ここで「人間」というのも堅苦しい。彼女は十五歳の少女であるので、その点をぼかすのはやめておこう。

 

しかし、彼女の才能は彼女を子供のままにはしておいてくれなかった。彼女のその天才は極めて例外的で画期的なものだったので、誰も放っておくことができなかった。そのせいで彼女は幼いころから腫れ物に触れるような態度で大人たちに接遇され、その性格はかなり歪んでいた。しかし、根はとてもいい、そして美しい少女でもあった。

 

普通、魔術師の作法は五行大義的な分類で述べるところの、木火土金水に分類され、そのいずれかに特化した術式をそれぞれに習得する。彼女の場合は、これらの五行をすべて人並み以上に行使できた。

 

彼女が植物を育成すれば、どんなものでも生い茂るし、発火技術を用いれば、どんなものでも燃えた。どんな土塊も金塊と為すことができ、どんなに堅い金属もメルトダウンさせ、完全に流体とすることもできた。

 

少しだけこの世界の魔術の如何について述べておこう。

 

まず「木」の魔術とはどんなものか? それは使用的な観点からすれば、あらゆる観念的なものをも含んだうえでの「火薬」の錬成である。そこには独特の錬成経路があり、現行の技術論では、それらは一括して「科学」と呼ばれてしまいやすいが、実際にはより精細な幾多の理論が隠されている。原子力などの理念はこうした木の作用によって結晶化させられている。つまり、翠はほぼあらゆるものを「燃料」とすることができる。これは潜在的にはほぼ無限大の魔力を保有していることを示す。

 

次に「火」とはどんなものか? これは可燃材としての魔力の限りの化学作用の自在的活用である。ミサイルや重火器などの結晶化作用は、こうした「火」の属性から導き出されている。それらは急激な変化を統率できる力能であり、あらゆる固定物を溶かしてしまうことができる。翠の火術はほぼ完全に融通無碍なものであり、如何なるものもその行く手を阻むことはできなかった。ちょうど如何なるシェルターをもってしても、無限発の原爆が降り注げばついには破られてしまうだろうことと原理的には同じである。

 

さて「土」とはどんなものか? これは火術への対抗であるとともに、その生成物でもある。土は窮した状態でもある。例えば、人は死ねば土に還る。その意味で、火術が過程を利用した術式であるのに対して、土術は究極の形態を体現した成果物の一種である。これは火が定まらず、つかむことができず、風の力などで容易に動くのに対して、不動のものである。例えば、コンクリートを活用した技術などは土術に当たる。土術は物事を固定し、絶えず補強することである程度の強固さを発揮することができる。翠の土術はほぼ完全にすべての矛を防ぐものであった。

 

「金」とはどんなものか? これは土の一部に眠っていた潜在的な可変性を揺り動かした結果生じる、動と不動の両立的な産物の総称である。金術は火術の特性と土術の特性を合わせ持っており、工夫次第で、自在に変形し、自在に固定することができる特性がある。土術の場合、変化性に対してあまり強い耐性を持ちえないのに対し、金術の場合にはある程度変形に耐える。しかし、固定性に重きを置く場合には火術に弱く、可変性に重きを置く場合には土術に弱い。翠の金術は多くの土術と火術の間に備わる矛盾を超克することができた。

 

最後に「水」とはどんなものか? これは流れ、逆らわない。色さえなく、透明で、それでいて万物を陰ながら養う。重力に服し、そのままでは低きへと流れる。それなのにその万物を養う慈愛ゆえにあらゆるものに祝福され、あらゆる生命の基礎を形成する盤石の地位を築く。簡単に言えば、水術の要諦は、「柔よく剛を制す」ということである。そして、水は万物に宿るすべての魔力の根源に当たる。これは可燃物としての「木」を生成するのを助ける作用がある。翠の魔術はオールマイティなものではあったが、中でもこの水術に卓越していた。

 

さて……翠はコーヒーを飲み終わると、家の外に出ることにした。

彼女の行く先には大概「魔物」がいるのだが、今日まず会いに行くのは彼女の友人であった。その友人は紅と言う。紅は翠の一個年上の女の子で、魔術の中でも火術を得意としている。

翠は紅と家の近くの公園で待ち合わせていた。紅は約束の五分前には既に公園に到達していたのだけど、翠は約束の十分後に到達した。

紅は言う。

「……翠遅い」

翠は言う。

「コーヒー飲んで本読んでたら、遅れちゃった☆ かわいい私をぜひ許してね☆」

紅は翠によく感じ取れるように大きくため息をついた。

翠は自分が遅れたのにもかかわらず、ぷりぷりと紅のため息に対して文句をつけだした。

紅は「あーあー、聞こえない、聞こえない!」と言って耳を塞ぎ、翠の小言をやり過ごしていた。

おそらく彼女たちはバカであった。天才なのに……。あるいは天才だからなのだろうか……。

……さて、一転して真面目な顔で翠は言う。

「それで<今日の魔物>はどんななの?」

紅は翠にもっとたくさんの文句を言ってやりたかったが、そこはこらえて、彼女の言葉に付き合う(翠はなかなか真面目にならないので、その瞬間を逃すと何もかもするすると通り抜けてどこぞに逃げていってしまうのだ。水のように)。

紅は<今日の魔物>についての資料を翠に渡した。

翠は紅からそれを受け取り、さっと目を通すと、

「じゃあ、行くか!」

と明るく言った。紅にとっては翠の持つ一種の明るさは救いだった。

 

時が止まり、空間が終わる所に魔物はいる。そうした時空間が有効性を持たない位相にアクセスできるのは魔術師だけである。翠と紅は今日の魔物に対峙していた。

魔物は彼女たちに言う。

「とても痛い。苦しい。悲しい。助けて欲しい」

翠は得意の水術の一種であるエンセイアと呼ばれる癒しの術式を用いて、魔物の傷を治療した。エンセイアは多くの魔力を消費する魔術で、翠以外の魔術師は効率が悪いとしてあまり使うことがない。しかし、翠は多くの魔力を持っていたので、この魔術をふんだんに用いることができた。エンセイアは非常に燃費は悪いが、一種の医術としては最高度の操作性を完遂できる機能でもあった。

魔物は言う。

「まだ痛い! 痛いよ! どうして私だけがこんなに痛いの! どうしてあなたたちは平気なの? 私だけ! 私だけ! 私だけ!」

翠は言う。

「傷自体は治ったよ。そのことについては完全に保証する。だけど、<それでも>あなたは痛くてたまらないんだね?」

魔物は言う。

「私の傷は当たり前に痛いの。あなたたちには決して分からない痛みなの。私だけの痛みなの。だから、あなたたちがどうしようと私を治すことはできないの」

紅は魔物に答えて言う。

「あなたの言うことは正しいよ。あなたを救えるのはあなただけだから。だけど、私たちにできることがあったら、言って欲しい」

魔物は言う。

「どうして何かできるだなんて無邪気に言うことができるの? 私の何があなたに分かるって言うの?」

 そう言って、魔物はさめざめと涙を流している。

翠は言う。

「あなたの名前を教えて」

魔物は答えて言う。

「私は翠」

紅は言う。

「あなたの名前を教えて」

魔物は答えて言う。

「私は紅」

すると、魔物の身体が光り輝いて、そこから<鏡>が出てきた。鏡には翠と紅の名が刻まれている。

 その切々とした想いの数々が、魔物の鏡には鮮明に映っていた。

「誰もあなたのことを気にかけてくれなかった……そんな気がしているんだね」

 と翠は魔物に言う。

 魔物は首を横に振って、泣いている。魔物は言う。

「どうして私から逃げないの? 怖くないの?」

 紅は言う。

「怖くない。あなたの鏡は綺麗で、あなたは本当は<魔物>なんかじゃないから」

魔物は憤怒して言う。

「そうやって私をだますんでしょ? そうやって優しいふりをして私を殺すんでしょ? 知ってるよ。みんな狡いんだ。みんな私を……私を……」

魔物はそこまで言うと、自分の鏡を自分で破壊してしまおうとした。翠は素早くカルダロンという金術の一種を使ってその魔の手の作用を切断した。カルダロンは無数の大剣を随意の空間に付置して即時的に召喚することで強制的に物体を切断する大魔術だった。

魔物は再び憤怒して言う。

「ほら……やっぱりあなたもみんなと同じだ。力で私をねじ伏せる……なら、死ね!」

そう言うと、魔物はクイスレイクと呼ばれる土術を用いて、一面に地震を起こし、それと同時に翠と紅の立っている地面を急激に隆起させ、それによって殺そうとした。

翠はカルダロンによる大剣を素早く操作して、隆起しつつあった地面の運動をねじ伏せ、切断し、紅はラムディンという広域に作用を及ぼす火術を用いて、魔物の荒した大地を根こそぎ燃やし、そこに眠っている魔力源を無力化した。

魔物は魔力源を奪われ、悲しんだ。

魔物は言う。

「私は悪い子なの? だから、みんな私をいじめるの?」

翠は言う。

「違う」翠はそう言いながら、魔物のボロボロの身体を抱きしめた。その身体は深く傷ついて、その心は深淵へと閉ざされていた。

翠は再びエンセイアを用いて、魔物の身体の腐食を抑えようとした。しかし、治しても治してもその心身は崩れ落ちていく。

紅は翠のエンセイアを手伝うために、火術の一つであるライクレアを用いた。ライクレアは事象を過去に遡らせることのできる魔術で、局所的な物体の化学反応を逆算して構築することができる。そのことによって、傷を得る前の清い身体を回復させることができる。ライクレアを用いれば、大概の傷は数秒で癒える。しかし、翠と紅の目の前にいるこの魔物の傷はどんな大海よりも深いものだった。

翠と紅は力を合わせて、その無限の傷の深さに抗う。何とか無限を超克しようと死力を尽くしている。

魔物との戦いはいつも命懸けなのだ。魔術師はいつも己の力の限りを尽くして、傷の深淵に抗う。それでもしばしば傷に敗れ、魔物を救おうとした魔術師さえもがその深みに足を取られ、暗黒の中に落ちていく。しかし、それだけのリスクを背負ってでも、魔物を救うことに価値があった。少なくとも翠と紅にとっては。翠と紅の心身も急激な魔力の行使につれて、傷ついていく。

魔物は言う。それまでとは少し違ったふうに。ほんの少しだけ静謐な悲しさを湛えて。

「もういいよ。私死ぬんだね?」

翠は言う。

「君は死なない」

魔物は翠を小馬鹿にしたように笑う。そして言う。

「あなたって自分のことかわいいと思ってるでしょ? だからこんなに必死に……私なんかのために血を流して……」

翠は答えて言う。

「私がかわいいのは事実だけど、それが何でだか知ってる? 私は君を助けたい。どうしても助けたいの。見捨てたくない。その心が嘘だったらさ、君が私をかわいいだなんて、思うことなんて、きっとなかったよ」

紅は魔力の限界を感じながら、魔物に言う。

「翠は性格はひねくれてるけど、嘘つかないよ」

魔物は微笑んで、そのあとに涙を流した。そして言う。

「あなたたちは不思議ね。私は魔物だよ? あなたたちを殺そうとしたんだよ? どうしてもう助からないものを助けようとするの? どうして、優しいの?」

翠は言う。

「君が助かるからだよ! 私は優しくはないけどね! 紅は……まあ、ウザいなりに優しいけど」

彼女は続けて言う。「君が魔物になっちゃったのは、君が悪いんじゃないんだもの。そんなの全部この世界が悪い。私は誰よりもそれを知ってる。だから、助ける」

魔物は言う。

「バカみたい」

紅は魔物に言う。

「翠はいつもバカみたいだけど、これでも魔術の大天才なんだ。だから魔物さんの傷もきっと癒えるよ」

翠は言う。

「私バカじゃないよ! 天才だよ!」

魔物は紅と翠のやり取りを見て弱弱しい息遣いで、それでも楽しそうに笑っていた。そして二人に言う。

「ありがとう」

その瞬間に魔物の鏡は光を取り戻し、<彼女>の身体から<厄災>が出てきた。それまで魔物だった身体は人の形を取り戻して、今は眠っている。深い深い息遣いで。その深遠は今までとは打って変わって安らかなものだった。とてもとても。

魔物という依り代を失った厄災は新たな依り代を求めて、翠と紅に襲い掛かる。厄災を祓うことを除霊と言うが、これは翠と紅の得意分野である。厄災を祓うことは、人を救うことに比べて容易い。とてもとても。

厄災は<鏡>のように、翠と紅の攻撃魔術をまねる。しかし、翠と紅からすれば、それらの魔術のシステムは拙いものであり、恐れるに足らない劣化コピーであった。翠はカルダロンによる無数の大剣を一息に空間に射出し、厄災の<核>を破壊した。

厄災は真珠のような美しい宝石となって、翠の掌に収まった。その宝石には多くの魔力が宿っており、魔術師の間では高値で取引される。

翠は土術に分類される工作系の術式であるマズレイカによってその魔力石を上手に加工し、魔物だった女の子のネックレスにした。魔物だった女の子はまだ眠っているが、やがて目を覚ますだろう。どんな悪夢だって、やがては覚めていく。

厄災が去ると時空は動き出し、日常が戻ってくる。

翠も紅も魔物だった女の子も、等しく日常に戻っていく。それは<平和>ということだった。

 

 

勝手に君のそばで あれこれと考えてる 雪が溶けても残ってる

 

Official髭男dism, 「Subtitle」, 2022 より引用)

 

防犯術(情報の窃盗の抑止について)

情報はとても大切なものです。それは人の命を損なうことも、利することもできます。したがって、情報を守ることは非常に大切であり、そうした貴重な情報の窃盗を抑止することもまたかなり大切です。

 

まず、「なぜ情報の窃盗がダメなのか?」について考察してみましょう。

 

情報の窃盗が横行すると、その情報を創出した人たちに利益が適切に支払われなくなります。これは情報の搾取になりますので、情報を積極的に発信するよりも、情報を積極的に隠蔽した方が有利な状況を作り出します。結果として、社会における情報の共有が困難となり、必要な情報が必要なところに行き渡らなくなってしまいます。そうした情報が極めて重要なもの(医療的な知識など)である場合には、こうした事態は極めて深刻なものになってきます。つまり、その適切な医療情報が社会に共有されていれば救える命が、情報の窃盗の横行によって情報の発信が抑止された結果、救えなくなってしまいます。以上のことから、情報の窃盗というのは、社会の公益に著しく反する重い犯罪であり、それは時に少なくとも間接的には殺人罪に加担するものであると言えます。

 

さて、情報をなぜ盗んではいけないのか? という問いについては以上の解答で十分かと思います。

 

では、次に、どのようにして情報の盗人を社会から排除し、社会の公益を守ればいいのかという具体的な手法について考えてみたいと思います。

 

まず有力な情報の共有が社会において促進されるためには、その情報の発信者に適切な対価が支払われている必要があります。そうした重要な情報の作成には多くの労力がかかっており、それらを盗み奪うことは搾取に他ならないからです。こうした事情に対応するために「著作権」と呼ばれる一連の制度があります。著作権に関する制度は何らかの情報の著作者に対して適切な対価を支払わせようとする傾性を持ち、これによって社会における適切な情報共有の奨励という公益を達成しようとします。しかし、この制度にも限度があり、著作権が強すぎると、せっかく有力な情報が共有されても、そうした情報の上にさらなる達成を築き上げることが難しくなります。例えば、著作権は「引用」の例外などを認めることで、そうした「さらなる達成」の機能を阻害しないように努めていますが、こうした引用の作法も詭弁によっていくらでも締め上げることが可能であり、そうなれば多くの人たちから引用の権限などが剥奪され、やがて情報発信は先細り、文化は息絶えることになるでしょう。

 

以上のことから、著作権というのは諸刃の剣であることが分かります。著作権がなければ、情報の盗人を社会から排除できませんし、著作権が強すぎると人々の情報発信が抑制され、場合によっては文化ごと破壊されることになります。

 

したがって著作権は原理的に常に確率的な何割かの公益の損失を生み出します。それはなるべく中間域にその強度を保つことで、ある程度の効力は発揮可能ですが、やはり万能ではないのです。

 

よって、情報の発信者は情報の窃盗に対して「自衛」することが大切です。具体的には、どのような自衛が考えられるかというのを一例だけ挙げ、解説してみましょう。あまり解説しすぎると、盗人たちにセキュリティの手の内を明かしてしまうことになり、非常にリスキーですので、ある程度の秘密を保ったうえでの説明になってしまいますが、その点は現実的にやむを得ない点ですので、ご了承ください(本当は教えられることはすべて教えたいのですが、情報の盗人のようにそれらの知識を「悪用」する人たちがいる限りは、やはり「秘密」を守ることはどうしても重要になります)。

 

まず、「盗人」の特性を正確に把握しましょう。盗人の盗人たるその特性とは基本的にはその「低能性」にあります。例えば、知的能力が十分に高い人の場合には、そもそも他人から情報を盗まずとも自力で独自の情報を構成してしまった方が速いので、そうした窃盗罪を犯すことはないものと考えられます。したがって、窃盗を犯す盗人にはこうした低能性という特性があることが分かります。

 

例えば、あなたの情報が盗まれている場合には、その盗人よりもあなたの方が能力が上位であることを示しています。したがって、情報の盗難が確認された場合には、その盗人に対して適切な「知能戦」を仕掛けることで、そうした敵対者を制圧できる可能性が高いと考えられます。知能においては、窃盗の加害者よりも被害者の方が上位だからです。

 

以上のことから、常日頃から自分の知能を養成すること、そして発信する情報に盗人だけに特異的に悪影響を及ぼすような「毒薬」をあらかじめ仕掛けておくことが有効です。

 

窃盗は基本的には悪に分類されるもので、これは多くの宗教に共通しています。ただし、また言えるのは、常に正当防衛的な現象も担保されているということでしょう。つまり、盗みにはある程度のレベルで、盗みによって応じることが有効です(この点については「感情窃盗術」という記事がこのブログ内にありますので、適宜ご参照ください)。

 

例えば、その情報の盗人が著作権に抵触していれば、法的手段に訴えることである程度は自分の情報を守ることができ、そのことによって他の著作者たちが安心して情報を発信できるような仕組みを整理する助けとすることができるでしょう。このように法的な手続きによって盗人に対し「盗みをし返す」ことは法的にも許容されています。盗まれたら、法律の枠組みに沿って反撃することができます。これも一つの手段でしょう。

 

しかし、先述の通り、法的な著作権も決して万能ではありません。そこで、情報の発信者が各自で「自衛」することが要請されるのでした。では、具体的にどのような自衛が考えらえるのか? それが「情報の毒薬」です。

 

ただし、そうした「毒薬」が致死性のものであったり、過剰な反撃性を有する場合にはこれは「過剰防衛」になりえますので、注意が必要です。基本となるのはハンムラビ法典であり、「目には目を歯には歯を」となります。つまり、「盗みには盗みを」ということですね。

 

また、過剰防衛を徹底して避けるためには、その盗みが相手の盗みと同等程度の害を相手自身だけに特異的に及ぼす必要があります。

 

これを把握するためには、まず盗人の特性を分析し、その主体の構成因子に独自の特徴に狙いを定め、正確に「情報的な」「狙撃」をする必要があります。

 

先述のように公益の観点から詳しくは書けないのですが、例えば、先述のように窃盗犯の主体としての特性の一つにはその知的低能性があります。したがって、知的土壌において彼らに戦いを仕掛けるように持っていくことができれば、彼らに勝利することができます。低能な人の特徴にはまた、「偶像崇拝」などがあります。つまり、彼らは神ではなく偶像を崇拝しているので、その認識が根本的に混乱しているという特徴があります。したがって、そうした無秩序性に狙いを定め、情報的に狙撃すれば、そうした情報は悪人からだけ奪い、善人にその資本を流入させる機序として機能させることが可能です。しかし、こちらの能力に関する査定能力が「盗人」と思われる主体よりも劣っている場合には、こちらが敗北します。その場合には、こちらよりも相手の方が知的能力において上位だったのであり、つまり、その主体の盗みは何らかの「正当防衛」であった可能性が高くなります。その場合には、深追いすれば、かえってこちらの破滅につながります(相手の力量の方が上ですから)。いずれにせよ過剰防衛のリスクを避けるためにも、その場合には、撤退するべきでしょう。

 

非常に簡単に言えば、情報の盗人が情報を盗んだ場合にだけ発動する情報的な「爆薬」のような情報をあらかじめ情報に仕掛けておく……ということになります。こうした機構を実装するための最大の知恵は、確実に「神様に仕える」ことなのですが、それができない場合には、何事も努めて精進し、あらかじめ自分の知的能力を向上させておくことが最も有効でしょう。それによって敵の「クラッキング」に対して「ハッキング」で対抗することが大切です。

 

また、この記事のような「盗みがなぜダメなのか?」という機軸を発する情報を普及しておくのも手でしょう。多くの場合、盗人も魔が差して罪を犯しているだけであり、それほど強固な「悪人」というのはまずもっているものではないからです。だから、彼らの良心を適切に賦活できれば、彼らを罪による死の道から救い出すことも、ある程度は可能かもしれません。その点は、彼らの心の清らかさにかかっており、僕たちには如何ともすることはできないのですが。その人の心をどうにかできるのは、当事者自身と神様だけだからです。しかし、それでも僕たちは、自分たちにできる限りの善行を積む必要があります。その意味でも、盗みという罪を犯す罪人が生じてしまわないように、ある程度の牽制をかけ、犯罪を抑止することは社会の公益に適う上に、倫理的にも重要であると言えるでしょう。

 

そして、言うまでもなく、情報上の最大の自衛は「沈黙」にほかならず、要は「沈黙は金雄弁は銀」ということになります。また、「秘すれば花」と言ってもいいでしょう。それが結局は盗人のような悪人に罪を犯させないためには重要で、彼らが罪を犯す「芽」をあらかじめ摘むことができれば、犯罪を完全に近く抑止することもまたできます。究極的に言えば、「世間に広まって困る情報はそもそも言及しない方がいい」ということでもあります。

 

さて、今日の記事のポイントをまとめてみましょう。

 

1.神様に仕えるか、それが可能でない場合、何事も努力するようにしよう。

2.公益のためには秘密にするべきこともある。

3.盗まれて困る情報は、本当に信頼できる人以外には秘密にしよう。

 

今日は以上です。色々と物騒な世の中ですので、みなさんも色々と用心なさってくださいませ。

 

本当は「著作権」のような性悪説的な制度はないで済む方がいいんですけど、情報の盗人が存在する限りは、これらをなくすことは難しいように思います。

 

ちなみに僕のこのブログについては、社会の文化の発展に効率的に貢献するために著作権は放棄しているので、自由にご自分で考えて使用してくださってけっこうです。ただ、当たり前ですが、その使用に際しては必ず「善意」に基づいてください。「悪用」は絶対にやめてくださいね。人を金づるにしたりとか詐欺にかけたりとかそういうことには決して使わないでください。倫理や法律は基本としてちゃんと守りましょう☆ 特段の事情がない限りは。

 

ではでは~♪

「正常な」統合失調症、「普通の」天才

僕は「統合失調症」という資質を持っているのですが、そうした症状とともに生活していると本当に色々な学びがあります。今日は、そうした学びのいくつかと自分なりの個人的なその制御方法について簡単に整理してみたいと思います。

 

まず、統合失調症の症状の一つである「妄想」の個人的な制御法について。

妄想はどうも何らかの創造性のある現象によって引き起こされる場合が多いようです。そして、それらの心理過程を自分なりに分析してみたのですが、どうも自分のうちに蓄積されたデータの少ないことに関する現象が妄想を誘発しやすいように思います。また、このメカニズムについて一度論理的に洞察してしまえば、その症状は消失するようです。おそらく、創造性のある新奇な情報なり現象というのは、自分の中にそれらを有効に処理できるスキーマがまだ蓄積されておらず、その結果、現象の解釈にエラーが生じ、妄想が生じてくるようです。逆に言うと、それらの新奇な情報や現象を時間をかけて調べ上げ、論理的に分析してやることで妄想は解体できます。妄想はそれらをメタ認知してやることで急速に消退するという特性を持っているように思われます。妄想が生じたら、まず「妄想が生じているな」とメタ認知して、次に「どうして妄想は生じているのか?」と自分に問います。そして、必ず何か妄想を引き起こしている情報的な引き金が存在しているので、その引き金としての情報を探し出し、それを突き止めます。そのようにして妄想の引き金になっている種々の情報をすべて自分の内省によって調べ上げ、その共通要素を抽出します。すると、おそらくすべてのケースにおいて何らか自分にとって扱いが不慣れな情報がストレスとなって症状を引き起こしていることが分かってくると思います。つまり、それらの自分が不慣れな情報が妄想を生じさせているので、それらの情報を徹底的に調べ、考察し、熟考し尽くして、それらの情報について熟知することを目指すことで、不慣れな情報は習熟した情報へと変換されます。当該の分野の情報の演算効率は当該の分野の情報に繰り返し触れて、観察と熟考を繰り返すことで経時的に少しずつ上昇していきます。したがって焦らずに自分の妄想を分析し、その妄想について知り尽くすことができれば、妄想を消退させることができるものと考えられます。これらの作業が自分一人では難しい場合などに、「オープンダイアローグ」などのような療法が効力を発揮するものと思われます。簡単に言うと、妄想はそれを抱いている人がその存在を正確に認識することで消失するという仮説です。ご参考ください。

 

次は「幻覚」の個人的な制御法について。

幻覚にも様々なものがありますが、統合失調症に特に多いとされる「幻聴」について今回は軽く考察してみます。幻聴とは他の人には聴こえない音が聞こえるという現象で、その内容は様々で人によっても異なります。幻覚と言うのは、要はマイノリティの知覚のことであり、それらが少数であるゆえに多数派の人々からの抑圧を受けて、そのセンスを否認されることで、それらは「幻」というレッテルを貼られます。したがって、その統合失調症に固有のセンスを他者に上手く説明できれば、それは原理的に幻ではなくなり、それらの現象に「現実性」という特権が授与されます。要は、幻覚のマイノリティ性を解体して、マジョリティ化してやれば、マジョリティによる差別や排除などの暴力を和らげることができ、マイノリティなセンスを持つ人々としての統合失調症などを持つ人々への援助につながります。そのためにはやはり、幻覚を正確に認識することが重要になります。幻覚について適切に説明するためには、まずそれらの特有の感受性を保持している人々がそれらについて誰よりも正確に認識している必要があるからです。一般に、自分で理解することは比較的容易でも、それを他人に分かるように上手く説明するというのにはさらに高度な理解能力を要します。いずれにせよ、以上の事情を整理すると、幻覚はそれを抱いている人がその存在を正確に認識し、それらの創造的で固有なセンスが生み出す特有の文化体系を周囲の人々に分かるように適切に伝達することで消失するという仮説です。ご参考ください。

 

よって、その症状が妄想であるにせよ、幻覚であるにせよ、それらへの対処法としてはこの正確な認識と呼ばれる現象がポイントになることが分かります。あらゆる現象を如何に正確に理解するか、と言うのが統合失調症の上手な制御においては重要だと思います。

 

統合失調症とは先述の通り、マイノリティのセンスに立脚した文化の体系のことなので、それがマジョリティに多少なりとも有効な形で普及しさえすれば、それは「障害」とは認識されなくなります。マジョリティにとっては、自分達とは異なる存在はすべて「障害」となってしまうのが現在の世界の標準なので、これは「多様性の尊重」などの美徳の観点からは著しく不利です。自分とは異質なものをすべて障害として排斥してしまえば、多様性はなくなってしまいますね。多様性は現実的に有効な資質ですから、これがなくなってしまうとみんな困ります。したがって、統合失調症などのマイノリティの文化を尊重することは結果的に新しい文化を創出することを促し、多くの人々を間接的、直接的に援助する結果につながるために著しく公益に適うと言えるでしょう。

 

さて、では、統合失調症から得られる僕の学び、つまり統合失調症の文化について少し書いてみましょう。

 

統合失調症はまずは「奇行」として現れることも多いのですが、この奇行はある種の「新奇探索性」(新しいものを追求していく性質)の表れとして生じており、創造性の端緒でもありますね。普通の人がしないことをするので、普通の人に分からないことが分かるようになりますし、普通の人ができないことができるようになります。これが統合失調症の人に優れた才能や知性をも持っている人が多い理由の一つだと思います。天才的な人と言うのは、大概、普通とは違っていて「変な人」であることが多いです。すべての統合失調症の人が天才であるとまでは断言できないのですが、彼らが常識に囚われないある種の自由な発想力をふんだんに発揮する事例については枚挙にいとまがありません。それは故障しているのでもなく、間違っているのでもなくて、端に「多様性」の一つなわけですね。人と言うのは色々な人がいて、それで文化を成立させて生きているわけですね。そうした文化的多様性のうちの一つに「統合失調症」があるというわけです。その意味では、統合失調症の人たちの持つ資質や才能は独創的で希少なものであるという意味ではその人に固有の賜物ではあるのですが、そもそも人間それ自体が多様な存在なので、「特別であることは当たり前」であるということになり、つまり、普通の存在です。よくよく見れば、すべての人がユニークな存在であるのはまず間違いない事実でしょう。爪の形から、体型、思考の癖や好きな食べ物など、すべての特性を列挙すれば、すべてが同じ人なんて一人もいないのですから。その意味では、すべての人が特別であり、異常であるということにもなりますが、そうであるのならそもそも「異常」であること自体が「普通」のことであるということにもなります。厳密な意味での「障害」だなんて本当は存在しないわけですね。すべてのものが神様の御許で創造され、祝福されているのですし、それこそ当たり前のことです。すべてのものは喜ばしい、というわけですね。

 

統合失調症の文化には、こうした一見すると矛盾しているように見える現象(例えば、特別=普通、障害=健康、異常=通常などの観念)が多々存在しており、それらの矛盾の「裂け目」を人よりも巧く活用することで「現実」の世界を多数派の人々よりも繊細に強力に正確に知覚できる人々が営むそれが統合失調症であるとも言えるかもしれません。

 

概して、統合失調症の人たちは多くの人たちが気づかないことに気づいており、普通の人ができない思考や感覚を持っています。そうした独特の感受性は時に独創的な理論体系を生み出したり、優れた実践的能力を養成したり、新しい文化を創出したりします。つまり、いわゆる「天才」と統合失調症の違いというのは生物学的、遺伝学的にはあまり存在せず、それらの差は後天的な要因が大きく占めるでしょう。天才は自分の固有のセンスをマジョリティにもある程度伝わるように説明できるだけの「教養」を持っています。自分のことをその教養によって正確に認識し、他者に上手く説明できるために、常識との間の摩擦を消し去ることができ、いわゆる統合失調症と言う資質が「障害」としては現れないのです。代わりにそれらは人々に独創的でユニークな発想や理論をもたらし、彼らはそこから抽出された栄誉でもって「天才」と呼ばれます。逆に言えば、統合失調症を発症している人であれば、全方位的に教養を懸命に身に着けることで得られる正確な認識によってそれらの症状を制御することができ、その分野はそれぞれにユニークだとしても、ある種の「天才」であることが可能でしょう。また、厳密には、すべての人がマイノリティ的な資質を何かしらは持っているものなので、すべての人が統合失調症であると言っても差し支えないことにもなります。その意味では、大なり小なりすべての人が天才であるというふうにも言えるでしょう。何にでも程度問題はありますが、概ねではそのように言えます。統合失調症も実は多様性の一つにすぎず、それは普通のことであり、その限りで「正常」な現象なわけですね。簡単に言えば、間違わない人間は基本的にいないので、すべての人が大なり小なり妄想を持つものですし、何らかの幻を感じもするわけですね。それは基本的にありふれた普通のことです。

 

世の中には「異常な」常識人もいれば、「正常な」非常識人もいます。周りを見渡せば、誰しもにどこか合わない人、何かおかしいと感じられる人の一人や二人はいるものです。それも多様性です。また、それこそ相当に異常な犯罪者でもなければ、自分とは異質な他者を排斥したり、差別したり、殺戮したり、虐待したりはしないわけですね。僕たち人間は、どこかで多様性が大事であることが直感的にわかっているのだろうと思います。だから、自分とは異質な人々に時に苛立つことがあるとしても、彼らに暴力を振るうことはまずない。そして、そんなふうにすべての人たちが「寛容」に、すべての人たちが互いに「愛し合う」ことができたのなら、それは天国的なことだなと思います。

 

統合失調症の人も天才の人も、はたまた凡人もすべての人たちが幸せでありますように。祈ります。

 

 

今日のポイント

 

1.統合失調症の人は自分の周囲のすべての現象を正確に「認識」するといいかも。

2.統合失調症の人は自分の周囲のすべての現象を正確に「表現」するといいかも。

3.多様性の観点から、統合失調症への不当な差別はやめてその文化を尊重するべき。

桜の花が散る前に……

いつの世の中でも理不尽というのはあるものである。というかそればかりだ。それは当事者たちにとって辛く厳しい。そういう道だ。しかし、それでもそうした道までが、いつの日か必要なものとなるような、そして完全に解釈が変わってしまうような救い、そういうものにこの世が支配されてくれるような日も来るかもしれない。私はそうした日を待ち望んでいる。今も、明日も、そして遥かな過去にも。

 

佐奈は「自分は今、何を考えているのだろう?」と自問した。それが彼女の作法だった。何をするにもすべてをそこから演繹するのがその思考の癖であった。彼女は今日見た夢のことを考えていた。その夢によれば、どうも自分は近いうちに死んでしまう。なら、今何をするべきだろうか? そう思った。佐奈の「夢」の精度はこの世界のあらゆる現実の複雑性を打ち砕けるほどのものである。彼女の「夢見」にかかれば世界の原理は瓦解してしまう。

 

――危険な性質である。

 

世間も当然そう判断した。そこで彼女は病院の中に隔離されているのであった。

佐奈の夢見が現実化するまでにはいくつかの工程があり、幾重にもあるその段階を通過しないことには、さすがに世界の原理を変質するまでには至らないのだ。そこに付け入り、彼女を隔離することに成功したのは当時の精神医学であったが、そこにはベルグソンの時間論やフェヒナーの精神物理学の着想が大きな役割を果たした。

佐奈は来る日も来る日も本を読んだ。彼女はかなり精度の高い直観像記憶を持っていて、ものすごく記憶力がよかった。生物学の本に彼女は最初に手を付けた。「人間」について並々ならぬ関心を示していた。そこから医学に関心は移り、その必要性から諸々の自然科学分野にまでその興味は波及していった。文学的技術は彼女の膨大な知識の中では比較的劣り気味であった。それでも得意の記憶力を用いて、様々な文献を記憶し、頭の中で正確に整理し、それを長期にわたって保持することができた。図書館の司書のように。彼女は聖書やタルムード、そしてコーランなどを好み、初期の頃には既に独学で暗唱できた。

彼女はダニエル書をよく読んでいた。自分の夢を解くのに使うのだと彼女は言う。しかし、それがどういうことなのかは私には分からない。

彼女の隔離されている区域は病院であると同時に学校でもある。社会から見て問題があるとされている人々が隔離されている。

佐奈達にはそれぞれに特有の「病名」がつけられていたが、彼女のそれは「先天性異常記憶亢進型反世界性人格障害境界例」というものであった。実際には彼女の人格はとても立派でかわいらしいものであったが、世間が才能ある人々に辛辣なのは常にそうである。

佐奈のカルテには佐奈についての事実がたくさん書かれていたが、それらの事実は佐奈の人格の一片も適切には表していなかった。非人間的で冷酷な記述の数々であり、触れることさえ私にはおぞましい。

佐奈は定期的に医師の「診察」を受ける。医師にも様々な人がおり、その多くは佐奈を物象化していた。それは医学の一つの側面ではある。対象の人格性を破壊せずに保持したままでは、その体にメスを入れることさえできないのだから。佐奈にたびたび用いられたのは物理的な「メス」ではなかったが、言わば「精神のメス」とでも言うべきものがそれであった。このメスの恐ろしいのは、原理的に意識のある状態で使用されるものなので、麻酔などは併用しないということである。幼い彼女の心は見事にズタズタに切り裂かれ、彼女が泣きじゃくることもしばしばであった。

それなのに佐奈があえて自身に対する虐待者である「人間」に関心を示し続けたのは奇跡的なことであった。彼女の生来の慈愛の深さがそうさせた。

 

さて、そんな佐奈も成長していった。十五歳の頃に彼女は一人の同年代の男の子に出会った。とても頭の良い男の子でその名前を冬と言った。

冬は佐奈に言う。

「初めまして、佐奈さん。僕は冬と言います。今日からあなたについての監査を手伝うことになるので、よろしくお願いします」

佐奈は、何も言わず、微笑んで会釈を返した。

その時に冬は佐奈の瞳に吸い込まれそうになる自分を感じた。佐奈は美しかったし、聡明でもあったので、彼が彼女に惚れ込むのにさほど時間はかからなかった。

佐奈と冬は色々なことを語らった。佐奈も冬との時間がとても楽しかった。それは独りぼっちだった彼女の生活に差したただ一つの茜だった。

冬の愛着は佐奈に移っていき、組織への信頼は彼の中でガラガラと崩れていった。彼は思う。

 

――なぜこんなにいい子がこんな場所でこんな扱いを受けていなければならないんだ?

 

冬は当初、佐奈は筋金入りの人格障害者であり、世界を滅ぼしかねない悪党であると組織から吹き込まれていた。しかし、聡明な彼の目にその嘘は空しい張りぼてにすぎなかった。

冬は佐奈に自分の計画を話した。

それは冬の知能の全力を尽くして計画されたこの隔離施設からの――もっと言えばこの世というものからの――「脱走」の道筋であった。この時には、彼は佐奈を守るためなら何でもすると心に決めていた。

冬は佐奈に言う。

「ここから逃げよう。ここは佐奈にふさわしくないよ」

佐奈は言う。

「逃げれる場所なんてこの世界のどこにもないよ。みんな私のことが嫌いだもの」

冬は言う。

「少なくとも僕はそうじゃない。そして、僕なら君の持つその知識を有機的に連関づけて、実効的な戦略に昇華できる。僕はそういうことばかり教えられてきたから、荒っぽいことは得意なんだ。だから大丈夫」

佐奈は無言でうつむいている。冬は彼女に重ねて言った。

「こんなこと言うの恥ずかしいけど、僕は実は佐奈のことが好きなんだ。初めて会った時からずっと」

佐奈は顔を上げた。そして冬と目が合うと恥ずかしくて目をそらす。彼女も年頃の女の子であったし、冬は素敵な男の子であったから、自然とそうなった。

「……いいよ。冬の言うとおりにする……」

と佐奈は言った。

冬は思わず佐奈を抱きしめてしまい、佐奈はあわあわとうろたえていた。

それは佐奈の人生の幸せな瞬間であった。

 

そして佐奈と冬の脱走計画は始まった。冬は信頼のおける仲間に手際よく差配して、佐奈をその牢獄から連れ出した。

無論、追手は迫ってくる。一刻の猶予もないし、全体的な戦略の観点から見れば、佐奈は「世界の敵」にカテゴライズされるのだから、どうしてもその追及を免れることはできない。逃れられるとすれば、常に戦い続ける場合だけである。そして冬はもうその覚悟をしていた。彼は佐奈を守るためにこの世界を敵に回すと心に決めていた。

冬は見事な戦略的な手腕で追手を牽制し、時に殺した。

一人、二人、三人、四人……殺して、殺して、殺して、殺した。

しかし、如何に冬の頭脳が優れていても、この世自体が敵であれば、敵は無限に供給されてくることになる。いずれは破綻するのは目に見えていた。

冬の仲間も殺されていった。

一人、二人、三人、四人……殺されて、殺されて、殺されて、殺された。

冬は悲しかった。しかし、その悲しみが敵にもまたもたらされていることを洞察できない冬ではなかった。その心は死んでいく。

佐奈は日に日に傷ついていく冬を見ていられなかった。彼女は思う。

 

――おかしい。彼が傷ついていい道理なんてないのに。なぜ彼が傷ついている?

 

そして佐奈は言う。泣きじゃくりながら。

「冬ごめん。全部私のせいだ。冬の人生めちゃくちゃにしちゃった。ごめん。もう私のことはいいから、冬だけでも逃げて。それで生きて」

冬は佐奈を泣かしてしまった自分を悔いた。彼は思う。

 

――結局、自分も彼女を泣かせている。これでは奴らと何も変わらない。

 

冬は苦笑した。そのあとに涙がぽろぽろと流れてきた。彼は思う。

 

――佐奈を守りたかった。だけど、それはできなかった。自分は無力すぎた。

 

冬と佐奈は最後の日に互いの身体を抱きしめ、そして口づけた。

佐奈は思った。

 

――自分がもっとしっかりしていたら、冬を巻き込まずに済んだのに。ごめん、冬。

 

冬は思った。

 

――自分にもっと力があれば、佐奈を守り通せたのに。ごめん、佐奈。

 

現実は非情なものである。彼らの想いとは裏腹にこの世は彼らの運命を飲み込んでいく。

そしてその時が来る。

 

やがて捜索隊は佐奈と冬の遺体を発見した。彼らの死に顔には涙の跡が残ってはいたが、とても安らかなものであった。そして記録された。

 

――二人は逃亡の末に行き詰まり、自殺したものと見られる。

 

さて、一体何が正解であったのだろう? それは私にもわからない。

 

 

生きていく意味を

ここで探すなら

誰も悪を望みはしない

 

水谷瑠奈, 「Philosophyz」の歌詞より引用

 

「概念分析学」の創始に向けて

「概念とは何か?」という問いはそれ自体が難しく、謎が多いものです。何が概念足りえるのか? という問いを発するとすれば、それに応えるものも矢張り概念的にならざるをえないですし、そうすると概念が「循環」してしまいます。

 

こうした概念の循環性は概念の構成する系列の随所に見られます。例えば、AならばBである時に、BならばAであると同時に言えた場合、これは循環していると言えるでしょうか? あるいは単純にトートロジーを循環と判断することはできるでしょうか? それともいわゆる「循環論法」とこの「循環」の概念は区別可能でしょうか? もしも区別が不可能であっても、便宜的に「判別」することはできるでしょうか? というように様々な問いを考えることができます。これらの問いの連鎖は、やはり現象の全てに通じてそうであるように、概念の連鎖、系列として僕の目の前に展開されています。このように少し考えるだけでも、「概念」というものが如何に日常生活に密接に関わっており、また重要なものであるかが分かります。

 

では、この僕が提唱している「概念分析学」の目的とは何でしょうか? この単語は概ねで三つの概念によって構成されています。一つは「概念」、二つ目は「分析」、そして「学」の概念です。しかし、「分析の概念」や「学問の概念」について想像することはある程度までは容易ですが、「概念の概念」とは何か? そのように問うとすれば、その系列は今のところ逼迫しているように思われます。概念的に「循環」しているからです。したがってこうした行き詰った状況を打破するためには、何らかの概念的な「爆薬」を要するように思われます。爆発はその勢いによって障害物を吹き飛ばすという機能を持っています。これにより、概念の閉塞を打破することができる場合もあります。しかし、概念的爆破の強度にも種々多様な段階があり、複雑です。そこにもそうした認知的な複雑性に由来して、様々な概念の系列が根付きます。ガラパゴス諸島か! と突っ込みたくなるほどに、多様な概念の生態系が根付きます。あるいは「根付く」というような概念を問うことも意義が深いでしょう。根付くというと何らかの基礎を根柢に据える姿勢を意味していますが、では、その基礎の概念に依存しない方策はないのだろうか? そのように問うことも可能でしょう。

 

以上のように「問い」というのは非常に大きな意義を持っていることが分かります。それ自体が偉大な概念の一つであり、問答の形式それ自体にも、こうした概念の充実がふんだんに見られます。こうした充実した環境からは比較的節約された連想距離で以って、「豊饒」の概念が立ち現れることが多いように思います。連想距離が短いということは、それだけ端的にこれらの概念は接合している可能性があります。ノードの概念を想像すれば、そうしたリゾームを想像することがある程度は簡単になるかもしれません。ある概念の系列は別の概念の系列に接合することによって、別の仕方での要約性を表現でき、結果として、新たな概念の系列を創造するからです。それがより簡単な秩序を構築できる時、それは「要約」と呼ばれ、シンプルなコンセプトを創出します。上手くいけば、その洗練の強度は増加します。しかし、最初は雑多な様々な印象から、系列を構成し、丹念にその経路をたどりつつ、概念へと至る必要があります。概念が阻害されている状態では、例の概念的な意味での「爆薬」が突破口になる場合もあります。

 

概念は実効的に思考に関わり、また人々の認識をパラダイムシフトさせるだけの力能を持っています。これは驚異的なことです。

 

概念の概念に重きを置いた「分析」の営みは僕にとっても非常に興味深く、ある種の輝きを放っています。これには豊かな概念の充実が見られ、その意味で概念分析学を創始し、研究することには大きな意義が宿るようにも思います。

 

さて、ここで概念分析を生業とする人のことを「概念分析家」と提議しておきます。概念分析家は、現行の概念の系列からして、最低限、次の倫理的な要項に合致している必要があります。それについて以下に簡単に記しておきます。

 

概念分析家の成立要件

 

1.概念分析家はその具体的行為に際して「愛」と「正義」を最大限に優先する。

2.概念分析家はその抽象的思考に際して「法」と「秩序」を最大限に優先する。

3.概念分析家は正統な信仰を持ち、また無神論者をも愛するように努める。

4.概念分析家は豊かな概念を積極的に創出することで人々の生活を守る。

5.概念分析家は如何なる搾取にも組せず、これに総力で以って抵抗する。

6.概念分析家は群れることなく、独立の立場を貫き、自律性を保ち続ける。

7.概念分析家は個人主義者であり、思考が他者に搾取されないように警戒する。

8.概念分析家は万物の紡ぎ出す万物に関する概念をすべて根源的に尊重する。

9.概念分析家は自由主義者であり、奴隷的な境遇を積極的に改善し、解放する。

10.概念分析家は共産主義者であり、博愛と豊かな概念の積極的な共有により平和を希求する。

 

以上が、概ね、「概念分析家」になるための最低条件になるように思われます。これらの概念をより洗練させて、より優れた教義を産出できるように今後も思考を粘り強く続けていきたいと思います。