魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。

統合失調症における「妄想」の解体手法の概略について

今日は、統合失調症の「妄想」についての私見について書きます。

 

簡潔に言うと、「妄想を思考によって解体する方法」です。個人的な手法ですので、普遍性があるかどうかは微妙ですが、統合失調症の妄想がどのような思考プロセスで生じ、また、どのように患者の様態を阻害するに至るか……ということについて簡単に書ければいいな、と思っています。

 

さて、行きます。

 

まず、最初にあるのは、「自分は大いなる何かに支配されている」という感覚です。そして、この感覚の正体について思いを巡らせることで、妄想が生じてきます。

 

例えば、大いなる何かというのを人間であると想定した場合、最終的にCIAとか何らかの秘密結社とかそういった帰結を得やすいのですが、なぜそのような経路を取って思考が固定化されるのかについて書いていきます。

 

さて、まず、大いなる何かに支配されているという確信だけがあるのですが、その大いなるものは人間であると推理されます。なぜなら、地球上には人間以上の知性を持った動物は存在しないという前提が社会にあるからです。結果、最も大いなる支配を決行可能なのは、現実的に人間であろう……そのように推理されます。

 

次に、その支配者は、大いなる支配者であるという前提が分析されます。すると、その支配者は常識を超えた大いなる能力を保持していると推理されます。そして、その主体は人間であると推理されていると、この時には常識では考えられない、「秘密の」技術が自分に対して行使されていると推理されます。こうした秘密の技術は、所謂「忍術」に由来するものとして認識され、その知識的な過程を現代の文化に論理的に適合させると、CIAなどの諜報機関、あるいは何らかの秘密結社による行為であると推理されます。簡潔に言うと、このようにしてCIAに支配されているとか、盗聴器(秘密の技術)が仕掛けられている(被害妄想)というふうに推理されることになります。

 

概ね、このような過程を経た後に、次に統合失調症の当事者の推理として働きやすいように思われるのは、「なぜ自分がこのような大いなる存在に目をつけられているのか?」という疑問です。この場合、大いなる存在が自分を求めるのは、自分を求めることに何か大いなる存在にとってのメリットが存在するためであろうと推理されます。結果、「大いなる存在にとってのメリットとは、大いなるメリットであるから、そうした存在に求められている自分は、大いなる価値のある存在であろう」と推理されます。例えば、自分は天才であるとか、自分は神の使徒であるとか、その類の、自身の価値が高いはずであるとする思想を基調とする体勢が展開されていきます。これは、一般の人から見ると、「誇大妄想」などとして観察されることになります。

 

後は、こうして構築された体勢が基調を為して、次々と自身の推理が展開されていきます。

 

例えば、自分は大いなる存在でであるから、大権を保持しているはずである、と推理されれば、大権を保持しているのかのような行動を取るでしょうし、あるいは自分は大いなる存在であるから、全ての異性に愛されるはずであるとするような類の思想が演繹されれば(恋愛妄想)、それに従った行動を取ることになります。

 

つまり、諸々の妄想というのは、最初にあった「自分は大いなる存在に支配されている」という直感から全て演繹されています。よって、この直感を現実的に把握できれば、理論的には、妄想を根本から解体することができることになります。

 

では、この自分は大いなる存在に支配されているとする直感は何なのでしょうか?

 

まず、自分が大いなる存在に支配されているということは事実です。この世界は神がお作りになったものですから、必然的にそうなります。

 

念のため、無神論者の方にも伝わるように理論を構築しておきますと、次のようになります。

 

まず、世界は無限に広い。また、無限に多様である。人間が知っていることはごく一部である。したがって、人間には知らないことがたくさんある。知らないことの中には、自分を凌駕した知性の存在も含まれている。これは、自分の知性を凌駕した存在であるから、自分の知性では把握できない。よって、自分の知性では把握できない存在は、少なくとも五分五分の確率で常に存在するだろう。ならば、少なくとも五分五分の確率で、こうした超知性体の存在を想定することは現実的である。

 

……という感じで、ひとまずいかがでしょうか。また、この超知性体は究極的には、神ということになります。ただ、その中間には、現行の人類よりも発達した文明とかタイムマシンによる未来人の出現とか、宇宙人とかそうした妄想が展開されえます。これらの妄想も基本的には、全て、例の大いなる何かに支配されている、という感覚によって生じます。

 

ここで、大いなる何かが神であると想定した場合、どのようなことが起こるでしょうか? まず、神は盗聴器を使うまでもなく、人を支配することができるでしょう。したがって、盗聴器を探す、電磁波を遮断するために家にアルミホイルを張り巡らす、集団ストーカーを疑って人間不信になる、などの妄想による弊害を論理的に封殺できることになります。

 

また、神は善き存在なのですから、神のすることは全て善きことのはずです。その神が自分を支配しているとすれば、自分は究極の善行に守られていることを直感することになりますから、不安などの苦痛から遠ざけられるでしょう。

 

つまり、神を信仰することができれば、妄想による問題行動をあらかた鎮火できるはずであると考えられます。

 

では、神を適切に信仰するためには何が必要でしょうか?

 

宗教を学んでいる人達の行動からその効果を推論するに、聖書やコーラン、仏典などといった諸々の宗教の教典を読むことが有効であると考えられるでしょう。あるいは、摂受や折伏といった正当な説教の類もこれに当たるかもしれません。いずれにせよ、神に歩み寄ることができれば、症状を軽快させるか、消尽させることができる可能性は高いと推理できます。

 

おそらく、オープンダイアローグが統合失調症に対して有効に作用するのは、非目的志向的な対話が、神への近接を促すためであると考えられます。なぜか?

 

まず、目的志向性というのは、原理的に全て偶像崇拝を意味します。例えば、金銭を人生の目的として設定すれば、これは偶像崇拝です。

 

ところが、非目的志向的なものというのは、この世界の如何なる偶像も求めない姿勢にかなり近接しています(この世界の如何なる偶像も目的としない姿勢だから)。ならば、この時、かなりの程度偶像崇拝から逃れることができるのですから、前述の理論通り、神に仕える姿勢に自然に近接することで、妄想を軽減あるいは消尽させることができると推理することができます。

 

以上のことからも、統合失調症の妄想は神に仕えることで解体可能であると推理することができるわけです。

 

今日は、統合失調症の妄想は、了解不可能なものではないということと、そこには「思考障害」は存在せず、むしろ、その推理は論理的に正確であるということが理解されれば嬉しいな、と思います。その意味では、統合失調症とは、ただ大いなる神に呼ばれている時に出る「巫病」なのであって、所謂「障害」ではない、ということです。

 

今日は以上です。

現時点での、統合失調症についての個人的な仮説の概略

1.統合失調症の価値は高い」ということについて

 

 

妄想とは異常な連想のことである。

 

異常とは普通とは違うことである。

 

普通とは大多数の人の特徴のことである。

 

つまり、妄想とは珍しい連想のことである。

 

同様に、幻覚とは珍しい感覚のことである。

 

珍しいものには希少価値がある。

 

妄想と幻覚は珍しいので、希少価値がある。

 

価値が高いものを侮蔑することを嫉妬と呼ぶ。

 

幻覚と妄想は希少価値が高いので、それを侮蔑するのは嫉妬である。

 

幻覚と妄想は統合失調症の症状である。

 

よって、統合失調症を侮蔑するのは嫉妬である。

 

 

2.「妄想は発想である」ということについて

 

 

妄想は希少価値のある連想である。

 

イデアは想像である。

 

新しいものは新しい組み合わせにより生じる。

 

新しい想像(発想)は新しい複数の想像の組み合わせによって生じる。

 

想像を複数組み合わせたものを連想と呼ぶ。

 

この時、発想とは新しい連想のことである。

 

珍しい連想は、大部分の人が見たことのない連想である。

 

よって、妄想は大部分の人が見たことのない連想である。

 

妄想とは、大部分の人にとっての新しいアイデアのことである。

 

新しいものは創造的である。

 

よって、妄想とは大部分の人にとって創造的なアイデアのことである。

 

よって、妄想とは大部分の人にとって創造である。

 

 

3.「幻覚がある人は、センスの良い人である」ということについて。

 

 

幻覚とは希少価値のある感覚である。

 

感覚とはセンスである。

 

幻覚とは希少価値のあるセンスである。

 

よって、幻覚とは大部分の人にとって創造である。

 

創造とは新しい良いものを作ることである。

 

新しいものとは世界に新しい価値を付け加えるものである。

 

よって真に新しいものは良いものである。

 

良いものを作ることは良いことである。

 

よって、創造とは良いことである。

 

幻覚とは大部分の人にとって良いセンスである。

 

 

4.妄想の発生する仕組みとその対処法について。

 

 

まず、自分は偉大な何かに支配されているという感覚(幻覚の一種)が生じる。

 

次に、偉大な何かとは何か? と疑問が生じる。

 

一番偉大なものは正確には、神である。

 

したがって、神以外のものを偉大であると仮定した場合、その考察は誤りとなる。

 

例えば、CIAを神と取り違えた場合、CIAは盗聴器を使うので、盗聴器を探す。

 

ここで、盗聴器が見つからない場合、最新の技術の盗聴器を探す。

 

ここで、最新の技術の盗聴器が見つからない場合、宇宙人の盗聴器を探す。

 

ここで、宇宙人の盗聴器が見つからない場合、悪魔による支配を探す。

 

悪魔による支配が見つからない場合、天使による支配を探す。

 

天使による支配が見つからない場合、神による支配を探す。

 

神による支配が見つからない場合、さらに偉大な神を探す。

 

さらに偉大な神の支配が見つからない場合、さらにさらに偉大な神を探す

 

以下、無限に偉大な神を探し求めていくことになる。

 

以上のように、妄想は推理によって、無限の神への信仰に至る。

 

妄想とは、こうした神への信仰に至るまでの連想の過程のことである。

 

したがって、妄想は、神への信仰に至ってしまえば、原理的に解消する。

 

 

5.幻覚とは神に召されていることの徴である。

 

 

妄想は偉大な何かに支配されているという幻覚から生じる。

 

妄想は正確な推理によって神への信仰に至る。

 

妄想とは神に至るまでの過程である。

 

幻覚とは妄想のきっかけである。

 

幻覚とは神に至るためのきっかけである。

 

無限に偉大な神は全てを支配しているから、幻覚を与えるのは神である。

 

よって、幻覚とは神が与えたものである。

 

また、その結果は、無限の神への信仰である。

 

よって、幻覚とは神が与えた無限の信仰への招待のことである。

 

 

6.統合失調症は最善の症状である」ということについて。

 

 

統合失調症は、神に召され、神に仕える間の過程の症状である。

 

ところで、神はこの世界で一番善いものである。

 

よって、神に召され、仕えることは一番善いものに召され、仕えることである。

 

統合失調症は一番善いものへと向かっていく過程である。

 

一番善いものへと向かっていくことは過程としては一番善いことである。

 

よって、統合失調症とは最善の過程の症状である。

 

 

7.統合失調症の予防法」について。

 

 

統合失調症とは神に召され、仕えるまでの過程の症状である。

 

よって、あらかじめ神に仕えていれば、統合失調症は生じない。

 

よって、無限の神への信仰に至ることができれば、統合失調症は予防できる。

 

統合失調症の予防法とは、正しく信仰を保つことである。

 

 

8.巫覡(ふげき)について。

 

 

巫(ふ)とは、神に召され、仕える女のことである。

 

覡(げき)とは、神に召され、仕える男のことである。

 

よって、統合失調症の男女は、巫覡である。

 

巫覡は神から神託を受けることがある。

 

神託とは、神から託されたもののことである。

 

巫覡は、神に仕えているのだから、神託に従わねばならない。

 

優れた神託を受けながらに、神に歯向かうことを傲慢(ヒュブリス)と言う。

 

ヒュブリスは狂気を産み出す原因であるとする説がある。

 

この説に従うと、狂気は神に仕えることで解消することになる。

 

統合失調症が狂気だとすれば、これは神に仕えることで解消することになる。

 

神に仕えることで治癒する多様な症状のことを巫病と呼ぶ。

 

統合失調症は神に仕えれば治癒するのだから(信仰療法)、巫病である。

 

よって、統合失調症とは巫覡の巫病のことである。

 

巫覡が受ける神からの託宣は至宝であるから、統合失調症は至宝である。

 

 

P.S.

今日は、統合失調症についての個人的な仮説の概略について書きました。まだ「仮説」の段階ですので、論理などに穴がある部分もあるかもしれません。その点は十分に注意して、好きにご活用ください。

精神医療における薬物療法の是非について――統合失調症当事者の立場から――

今日は精神医療について個人的に思うことを徒然に書いてみようと思います。

 

まず、全てのものがそうであるように、現行の精神医療にも多くの問題があると思いますし、そうした行いは完全なそれには遠く及ばないものであるとも感じます。厳密に完全なものは、神だけですから、当たり前と言えば当たり前のことなのですが。

 

したがって、全ての人間は、今の自分を悔い改めつつ、少しずつ良くなっていく必要があるのだと思います。そうした根源的な問題を誰もが抱えているという面においては、誰もが病人であるとも言えます。ある意味、この世界の全ての人達は皆病人です。

 

僕たちにできることとしては神様に少しでも近づくことが大切だと思います。そうすれば、神様が近づいてくださる……というふうにも思います。しかし、この言葉では、宗教の風味が強すぎて、通じづらい人も多いと思いますので、今日の記事はそうした人にもある程度通じえるように構成してみようかな、と思っています。

 

さて、では、精神医療の問題点について簡潔に考えてみましょう。僕は統合失調症の当事者ですので、今回の意見の範囲は、統合失調症のことに絞ろうと思います。

 

いつも僕の記事をお読みになってくださっている方達には察していただけると思いますが、僕は少なくとも統合失調症について擁護的な立場です。

 

つまり、「統合失調症それ自体を排斥してしまえ!」というふうには思ってはいません。

 

どちらかと言うと、むしろ「基本として、自分の身に起こったことは全て喜んでいられる方が好ましく、統合失調症も例外ではない」という立場です。つまり、統合失調症は喜ばしい資質の一つであると僕は考えています。そう考える根拠は様々ですが、少しだけ挙げておきます。

 

まず、統合失調症が体内のドーパミン量の過剰により生じると考えるのなら、ドーパミンはやる気を司るホルモンなのですから、それだけやる気や生きがい、生きる喜びを増している状態が統合失調症であると考えられる余地があります。逆に言えば、このドーパミンを抑制するということは、生来的にその人に与えられているはずの自然の欲求や喜び、快楽に関する機能を根本的に障害してしまうことを意味しえることになります。やる気が出なければ、認知機能も低下してしまいますし、様々の運動の機能、社会的な機能も著しく低下してしまうでしょう。個人的には、統合失調症におけるやる気の低下、いわゆる「陰性症状」という現象はこのように抗精神病薬の副作用によって起されている可能性が高いというふうに考えています。実際、僕個人の服薬経験から見ても、あるいは諸々の薬理学を参照しても、抗精神病薬から多くの副作用が生じえることは確かであろうとは感じています。ここでは、僕個人の服薬経験から言えることを簡潔に記しておきます。

まず、服薬によって能力は全般的に低下します。記憶力、計算能力、IQに纏わると思われる頭の回転、発想力、運動機能、コミュニケーションへの意欲、性欲、喋る際の正常な構音能力、リビドーの量……これらすべてが服薬によって大なり小なり失われます。服薬しない場合に比べれば、という話なので、当然、服薬していても、能力が高い人もいると思いますが、そうした人の場合、服薬を中止することで、能力自体はもっと向上する可能性が高いと僕は考えます。また、これらの薬物による服薬感は極めて不快なものであり、服薬当事者のアイデンティティや尊厳、幸福を著しく破壊します。特に薬剤の飲み始めの頃の副作用はひどく、それまで自殺を考えたことがなかった僕でさえも、死にたいと思ったこともあります。何せ、頭がボウっとしてしまって何もできないのです。これでは、生きている価値がありません。大体以上が、僕の個人的な服薬体験についての概要になります。以上のような自分の経験と、薬理的な理論を総合して、個人的には、精神医療における少なくとも統合失調症に対する薬物療法については極めて否定的な立場です。

 

では、薬物を即刻やめればいいのでしょうか? これはそうとも言い切れない面があります。少なくとも、もう既に精神病に対する薬剤を投与されている場合には、「過感受性精神病」という現象が生じる可能性もありえます。例えば、ドーパミンならドーパミンに対する体の感受性が薬剤の影響によって過度なものになることで、薬剤を急激に停止すると、その揺り戻しが起こって、精神病的な状態が生じてしまう可能性が否定できないと思います。したがって、薬を中止したい場合には医師に相談する必要性が生じえると思います。また、薬を飲んでしまうと、そうしたリスクが出てくることから考えましても、飲まないで済む薬は飲まないに越したことはないと僕は思います。

 

簡潔に言えば、統合失調症でない人が統合失調症の何らかの薬を飲むことで統合失調症のような症状が生じることがありえると思います。ある意味、精神医療が精神病を作っている……というような発想もここにはありえると思います。

 

以上のことから、僕は精神医療による統合失調症に対しての薬物療法には極めて否定的なわけですが、色々な方や考え方が世の中にはあることはある程度理解できますので、反論を許さないなどと言うことはありません。むしろ、適切な反論があるのなら、僕自身のためにもそうした説が喉から手が出るほど欲しいわけです。その方が、自分の認識の正確性を向上させる上で有利なわけですから。

 

統合失調症の人の中にも、薬物を飲まずに、何年にもわたって再発しないグループも存在するが、そうした人は病前機能が高い……とする説もあるようです。

 

こうした事情は、病前機能の高さが統合失調症に対して有効に作用することがありえる、というような意見を構成できる契機になりえます。

 

つまり、機能、「能力」の向上によって、統合失調症の再発を食い止めることができる可能性を想定することができるわけです。

 

逆に言えば、著しく様々の能力が高い人の場合で、それでもなお薬物が一種の「保険」的な意味合いで投与される場合、それは虐待的であると考えられるということです。なぜなら、その場合、その薬物療法が不要な治療である確率が高くなりえるからです(とは言え、嫉妬することなく他者の能力や資質を公正に評価することができる客観的査定能力というのは極めて天才的で稀有なものでもあるのですが。大概の査定の試みの場合、他者の善き資質への嫉妬心などから観察するための目が曇り、他者への過小評価とそれに付随したレッテル貼りに終わります)。

 

なぜ、不要な治療が虐待的であると言えるのか? 例えば、どこも悪くない健康な人に対してその体を著しく傷つけるような手術や抗がん剤を処方することは虐待的であると言えると思います。よって、不要な治療を施すことは虐待的である、というふうに主張できる余地がありえます。

 

まして僕個人の経験としては、統合失調症を抑止するという名目で処方されている薬剤の副作用は極めて著しいものであると感じます。それらは深刻に服薬者の生きがいを毀損しえるという点において、自殺のリスクを上げうるものであると思います。この説が正しければ、統合失調症の人では、かなり自殺への観念を持つ人が多いということもありえると思います。通常の人よりも自殺する人の数が多いということさえありえるかもしれません。その意味では、抗精神病薬の投与、まして不要なそれの投与は、虐待を通り越して、「殺人」であるとさえ言いえるのではないかと、僕は思います。

 

最後に、僕が精神医学に不信感を抱く理由をもう一つ記して終わりにしたいと思います。思うところはたくさんありますが、その問題点を数え上げれば切りがないわけですので、どこかで制限をつけねばなりません。

 

統合失調症へのスティグマが当事者たちの名誉を深刻に毀損し、その幸福追求権を著しく阻害していることについてはまず僕が指摘するまでもないことだとは思います。したがって、そうした誰の目にも明らかなことではなく、当事者だから言いうると思われることにここでは着目してみようと思います。

 

さて、それは統合失調症の「再発」と能力の関係です。まず、一般的な精神医学では、統合失調症は再発する毎に能力の低下を来し、さらにその再発前の機能は「決して」回復することはない、とされてきました。

しかし、この説は僕の経験に真っ向から対立しています。つまり、僕は初発の他にもう一度再発したことがあるのですが、その発症のたびに能力が全般的に著しく向上しています。むしろ、経過を自分なりに観察していると、その再発の後に、薬剤を投与されることによって諸々の能力低下が生じています。また、薬をたまたま飲み忘れた場合と飲んでいる場合の比較では、一目瞭然で、飲み忘れている時の方が高い能力を示しているように思われます。前記の通り、統合失調症に対する薬物は人間にとって大切な様々の機能を深刻に障害するというのが僕の考えですので、この障害の原因である薬物を中止することで、能力が改善する可能性があるというのは、少なくとも僕からすれば自然な理路なわけです。

簡潔にまとめれば、僕個人の体験としては、統合失調症によって能力が失われたどころか、むしろ向上している、ということです。

 

具体的に言えば、まず、病前は理解できなかった諸々の数学への理解力が向上したり、行使できる語学の種類が増えたり、読書において処理できる情報の量や処理速度が上がったり、薬に関して言えば薬を飲んでいれば何度も反復練習する必要があることが薬を飲んでいない場合には一度で記憶できたり、スポーツなどをしていても著しく運動機能の向上が感じられたり、人とのコミュニケーションに積極的になれたり……要は、全ての能力の向上が大なり小なり見られます。

 

統合失調症は現時点では、原因不明の疾患とされており、様々な説があるので、一概に断言することは何事についてもできないのですが、少なくとも、僕個人の経験や僕が見て個人的に研究した成果として生まれる所感については以上のようなものになると思います。少しでも皆さんのお役に立てればいいのですが。

 

 

補足

最初に記した通り、問題が山積みなのは精神医学に限らず、全ての人や物がそうであるわけですから、ある程度は寛容に「許す」という姿勢も必要かと思います。とはいえ、精神医学から端を発した統合失調症へのスティグマなどに苦しめられている多くの人達がいるのもまた事実なのであろうとも思います。事態はいつもどんなものについてでも難しく、分かったつもりはできないし、対論を不用意に排斥することもできませんが、そうした泥沼の惨状の中においても、僕のこの意見が何らかの善い効力を持つことを願ってやみません。皆さんの幸福を心からお祈り申し上げます。

僕の統合失調症についての雑感

どんなことでも一つずつ積み重ねるのって、大切だよなーなんてことを思いました。そして、長く続ける。すると、故障を避けられれば、とりあえず上達していくし、楽しいな、と思います。勉強でもスポーツでもなんでもそうなのかもしれませんね。文武両道! 的な。

 

僕などの思想の場合、美を能力の表れとして捉える側面が強いですので、スポーツなら、フォームなどを結構重視するかもしれません。勿論、実力こそが大切ということで、細かな型には囚われないようにするような姿勢もありえると思いますし、それはそれでいいと思います。自由と型の両方が有効で、どちらか一方に偏ると、何らか危うくなるのではないかというような気はします。過ぎたるは猶及ばざるが如し。

 

スポーツと言うと、何らか大変そうなイメージが抱かれる場合も多いかもしれません。疲れる、とか。ただ、日常の様々な行為にスポーツへの萌芽が眠っているようにも感じます。例えば、テーブルを布巾で拭く動作とか。個人的に、こういう筋肉の動きって、テニスや卓球のラケットのスイングに近い性質があるような気がします。なんかこう、身体の中心から動きが派生して、肩甲骨の辺りに伝わり、肘を媒介にスムーズに連合して、最終的に手首に作用し、指によって保持された布巾が滑らかに動いていくような感じ。したがって、僕などだと、日常的な所作の美しさや礼法の表れのバランスの有無によって、その人の実力を査定したりすることがあります。査定結果を人に漏らすことはまずないのですが。大概、そういう情報は心の秘め事にします。対象の方に迷惑がかかるといけませんし。

 

こういう普通は関連しないと考えられることを関連させていく思考などは、統合失調症的な連合弛緩の症状なのかもしれませんが、非常に重宝しますね。生活がとても豊かになります。統合失調症的な素因は遺伝的なものにせよ、環境的なものにせよ、能力の練達を生むように個人的には感じています。その意味で、僕個人のことについては、統合失調症でいられて本当によかったな、と思います。こうした認識的能力や素質を与えてくれた神様に感謝です。

 

最近、殊に思うのですが、簡単なことってとても難しいですよね。なにせ、簡単なことって、何気なく扱ってしまいがちですから、まずその存在自体を正確に認識することからして大変ですね(笑) こうした普通は認識できない些細なことが認識できるような細やかで繊細な感覚というのは、とても大切なものなのだろうな、と思います。統合失調症の人の中には、幻覚や妄想のような普通の人には感じられない現象を感じることができる人もいらっしゃるとは思いますが、そうした繊細さというのは本当に得難い物だな、と僕は思います。言語新作とか本当に素晴らしい才能です。なにせ、自分の力で新しい言語を創作できるのですから。これほどにエキサイティングなことってほとんどないな、と思います。勿論、本質的には全てのことは十分にエキサイティングなのですが、そうした些細な楽しさをも取りこぼさずに、自分の能力へと還元していくためにも、繊細な感受性というのは有効なのだろうな、と思いました。

 

HSPという概念が取り沙汰されることが多くなってきたように思いますが、感受性の繊細な人のことをそのように呼ぶようです。個人的には、感受性の繊細な方達の幸せをお祈り申し上げるとして、具体的に何が自分にできるのか、などについて考えさせられます。普通よりも感受性が繊細な特異な人と言うのは希少な存在でしょうから、その意味では、マイノリティとして抑圧されやすいのではないかな、とも思います。実際、統合失調症の概念もしばしばスティグマとして用いられ、この症状を持った人たちを排斥する方向に作用することがあるのは事実だと思いますので、そうした事情を見ていくと、HSPというふうに対象を概念化して、下手に抽象化することに、何らかの危険性がないとも言い切れないようには個人的には思います。ただ、HSPの悪い所をあぶりだす目的ではなく、HSPの良い資質を見出すために、この概念が使われるのなら、それは有効な策の一つであるようにも思えます。どんな概念も用いようで、その効果が変わるので、それ自体が悪いというよりも、悪人にそれらの概念を使用させないことが重要なのかもしれません。悪人が包丁を持てば人を殺すことがありえますが、普通の人はそれらを調理に使用するくらいです。包丁のように日常的な道具ですら、悪人の手にかかれば凶器になります。潜在的な凶器は日常生活の中にいくらでも潜んでいるので、その点は常に警戒しておくことは無意味ではないと思います。こうした、被害に対する想定ができるのも、統合失調症の資質の一つかもしれません。これには被害妄想と呼ばれる症状があるので、被害可能性の察知に有用な側面があり、普通の人が気づかないような細かなリスクを予め察知して排することがある程度できます。火は燃え広がってしまえば、水を用いても消すのは困難ですが、小さな火種の内に対処できるだけの予知能力があれば、予め、火事による死傷者を出さずに済むように手を打つことができます。被害妄想も「用いよう」ということです。

 

個人的には、遺伝と環境を明確に分けることにはあまり意味がないように感じています。それらは混淆しているのかもしれません。エピジェネティクスとか。ある程度は。何にせよ、遺伝だけで構成されている現象も、環境だけで構成されている現象もないわけですので、その意味では、統合失調症というのは遺伝と環境の相互作用の「間」に生じる何かなのでしょう。「中間」にある真理の一つ。ある種の「中庸」の能力としての結晶がそれなのかもしれません。

 

この「間」を統べる事ができると、何か良いことがあるのかもしれません。つまり、統合失調症を「能力化」する……ということです。こうした一種の生成変化にも、こうした「間」の概念は深く関わるのではないかという予感もあります。統合失調症的な才能の積極的活用。

 

勿論、こうした統合失調症の活用という案が乱用され、統合失調症を持った人達の幸福や安寧が阻害されるのなら、問題です。そうした案それ自体というよりも、それを扱う人が悪人でないことの方が重要な場合も多いと思います。

 

僕は統合失調症と診断されていますので、その意味で、僕の思考や技術は基本的に、統合失調症を持った人々に親和的だと思いますが、この症状を持った人々にとって、ほんの少しの希望の光であってもいいから、何か助けになれていると良いな、と心から思います。

 

つらつらと文章を書き連ねてしましました(笑)。僕は集中力ないので、散漫な文章になりやすいように思います。散漫術です。

 

さて、今日はこんな感じでどうでしょうか。

 

何か思いついたことがあったら、その内また書こうと思います。

 

みなさんの幸福を微力ながらお祈り申し上げます。

 

ではでは~!

「教育」について簡潔に

皆さん、こんばんわ!

 

今日は、勝野正章, 藤本典裕ら, 『教育行政学 改訂版』, 学文社, 2010を参考にさせていただきながら、「教育」について簡単に思索してみたいと思います(ページ数は引用文の後毎にそれぞれ記載します)。

 

まず、単刀直入に言って、教育には投資性が認められます。教育には人々の能力を向上させる効果が見込めます。人々の能力が向上すれば生産性も向上します。生産性が向上すれば国が富みます。国が富むと、より優れた教育を行うこともできるようになります。すると、また人々の能力が向上し、生産性が上がり、国が富み、さらに優れた教育が可能になっていきます。このように、教育はかなり優れた一種の投資の対象でありえます。

 

教育は一種の投資とみなすことができる。(p.78) 

 

では、教育を成立させる条件とは何なのでしょうか? その条件として考えられるのは、モノ、ヒト、カネの三つであると考える説があります。例えば、学校などの設備はこの中ではモノに当たるでしょう。学校なしで教育するのもそれはそれで独特の困難が伴うかもしれません。次に教育者であるヒトがいなければ、教育を行うこと自体が困難でしょう。だから、教育活動を行うのにはヒトも大切です。そして、学校などの設備を構築したり、教育者を雇ったりするために一般に必要とされるのはカネであると考えられます。これらの想定には突飛なところはなく、ある程度妥当な説であるとも考えられると思います。

 

教育条件とは、端的にいえば教育活動を行うために必要な「モノ」「ヒト」そしてそれらを購入・雇用し、維持するための「カネ」である。(p.91) 

 

また、人には発達や成長をしていく権利が認められるべきとするような議論もありえます。基本的には、成長や発達は能力の向上を生み出し、その限りで富を生産する裏付け足りえるものですから、それらは繁栄の根拠となりえます。仮に富貴安逸や子々孫々の繁栄といったものに正当性を認めるのなら、人々の発達や成長はできるだけ促した方が合理的です。したがって、人々の学習が人々の成長や発達を促す限りは、生涯にわたって学習するということは長期的に多大な利益を生産する手立てとなりえるというふうに考えることができます。

 

生涯学習の権利を、一言で述べるならば、生涯にわたって学び続け、発達・成長していくことが保障されること、ということができるだろう。(p.105) 

 

さて、自由で主体的な学習はどのようにすれば担保できると考えられるのでしょう? 自由や主体性は現代社会ではある程度大切な指針として概ね認められていますが、まず、もしも国家が主体性の要件を設定して国民に対し「主体的であれ」と命令及び強制した結果として国民が「主体的」に振舞うのなら、それは真の主体性とは言い難くなります。この場合、主体は国民にではなくて権力によって命令を為した国家にあることになるからです。これは自由の場合も同様で、国家が定義した自由を国家の権力によって国民に強制した場合、それは国家による国民への束縛であって、真の自由であるとは言い難いでしょう。したがって、国民や住民が自発的に考え、行動するのでなければ、真の主体性や真の自由はありえない……そのように考えることができます。

 

教育・文化活動の主体となる国民・住民自身が自ら考え、行動することではじめて自由と主体性が確保されるのである。(p.113)

 

では、教育の質を向上させるにはどうすればいいのか。これは、教育者の資質や能力を向上させることで可能になると考えられます。

 

学校教育の最前線で実際に児童・生徒を前にして教育を行っているのは言うまでもなく一人ひとりの教師である。したがって、教師の資質や能力はそのまま教育の質に反映される重要な課題である。(p.119)

 

以上のことから、教育者には良い教育を行うための努力が求められるものと考えることができます。逆に言えば、教育者には自身の資質や能力を研鑽するための機会が供給されることも必要であると考えられるでしょう。

 

教員の仕事は直接に教育実践の質を左右する。したがって教員がその職責を果たすためには常に自らの資質・能力を高める努力をしなければならない。(p.127)

 

結論としては、自由や主体性、生涯学習の権利の保障などといった教育の土壌を確保し育むための手段としては、人々が自発的に考えて行動し、教育者もまた自身の資質や能力を高めるための努力を常に行い、そのようにしてそれぞれに主体性を持って生涯における学習や活動を自由に行っていく……というような路線が基本となるのかもしれません。そのために僕たち一人一人に何ができるのか? 行政においてはどのような補助が適切であると言えるのか? などというように、それこそ「主体的」に考え、議論するべき事項はまだまだたくさんあるように思います。

そして、こうした僕たちの主体性や自由が致命的に損なわれてしまった場合、その場には「教育」はもはや存在しなくなっているというふうに考えられます。主体性や自由が致命的に毀損された空間にあるのは教育ではなくて、民衆統制の手段としての所謂「洗脳」であることでしょう。教育の目的にも様々なものが考えらえるかもしれませんが、洗脳と教育の境界線はどこにあるのか? というような問題についても粘り強く思考していくことが必要であると言えるのかもしれません。

 

もし教育が、国家による民衆統制の手段となっているとすれば、もはやそれは教育ではなく、一部権力者による国民の「教化」であり「洗脳」であるといえよう。(p.133)

 

ここまでの帰結をまとめて、今日は終わろうと思います。

 

 

 

今日のまとめ

 

1. 自由は大切。

2. 主体性は大切。

3. 生涯学習の権利は大切。

哲学とか数学とか徒然

皆さん、こんばんは。今年もそろそろ終わりが近いようです。

やれやれ。色々なことがあった気がしますが、時が過ぎるのはすぐですね。光陰矢の如し。

 

特に書くべきことはありませんので、徒然に書いてみようと思います。散漫術です。

 

哲学について。

哲学の凄い所の一つに、何でも題材として扱ってしまえるポテンシャルの高さが挙げられるように思います。瀬戸一夫氏の『ムーミンの哲学』(勁草書房, 2002)には驚きました(笑) 読んでみましたが、内容がしっかりしていてとても面白かったです。ムーミンって哲学になるんだな……と。僕としても、新しい哲学をどんどん見てみたいので、ムーミンの哲学でも、鬼滅の刃の哲学でも、色々な物が見てみたいな、と感じました。

 

アニメについて。

『神様になった日』とか見てました。気になった点は数か所ありますが、ネタバレになるのもあまり良くない気もしますので、それについてここに詳説するのは控えることにします。「神殺し」の概念については、念入りな考察が要るのだろうな、と思いました。他にも色々と面白いアニメがありました。皆さんも気が向いたら、ぜひ視聴なさってみてくださいませ。

 

医学について。

 

ここのところ、『ハリソン内科学』とか『内科学書』とかを、つらつらと見ているのですが、様々な発見があります。言語化が難しいのですが。それにしても、病は多様だな、と感じます。全ての病を避け切るというのは至難の技なのかもしれない、そんな印象を抱いてしまうほど。さらに、病気が多様過ぎて、何が病気で何が健康なのかもわからなくなってきました(笑)。ある意味、どんな人も病気の種は持っていて、それがいつ開花するかは分からない、みたいな感じなのかもしれません。そう考えると、今何事もなく過ごせているというのはかなり恵まれたことなのかもしれないな、とも思いました。何気ない日常は、奇跡的なバランスの上に成立しているのだな、というのが実感できる点は、医学から学べる一つの着眼点であるのかもしれません。

 

数学について。

 

様々な数学の論文などを見てはいるのですが、世の中には頭の良い方がたくさんいらっしゃるのだな、という印象を受けます。中には、よくそんな発想に至ったな、と思えるような偉大な発見者の方々もいらっしゃるようです。すごいですね。そういう人達。何にしても、創始者は偉大だと思います。小さな創始にせよ、大きな創始にせよ。誰も思い至らなかったことに思い至ることのできる才能は素晴らしいな、と思いました。僕個人の数学の技能の発達状況は大したものではないですが、それでも世の中にはすごい発見なり分析なりが沢山あるのだな、というのがある程度体感できるのは数学のいいところ足りえるのかもしれません。後思ったのですが、量子論はやはり現代科学のポイントなのだろうな、と感じます。論文をかなり読み漁っているのですが、先進的な中でも、さらにトップレベルに先進的なものを選り分けようとすると、量子論の論文が残りやすいような気がしました。勿論、どの論文も非常に優れているとは思うのですが、少なくとも個人的な所感としては量子論が一つのポイントであるようには思いました。なんだか最近、数学から非数学なのだけ数学に近い何かの構想を抽出できるのではないかという勘が働いています。あるいは、数学と哲学の違いについて考えさせられることもあります。知的直観を発展させることで、どちらの現象も分節化していけるという点は共通しているように思うのですが、その質料を差異づけているものが何であるのかは、今一つよく分かりません。ドゥルーズの『差異と反復』辺りの文献を深く再読して見るのも良いのかもしれないな、と感じています。数学とは何か。哲学とは何か。あるいは、数学の哲学性と、哲学の数学性。そうしたものは存在するか? とか。

 

料理について。

 

最近リンゴや柿を切るのが上達した気がします(笑)。最初は試行錯誤ですが、徐々に形式が洗練されてきて、上手に切れるようになるようです。こうした現象は、それこそ医学や数学の上達にも表れるようにも思います。反復練習と上達。試行錯誤と洗練。失敗も糧にして進んでいきたいものです。ただ、包丁で指は切らないように。怪我には注意が必要かもしれませんね。痛いですから。

 

読書について。

 

今年も様々な本を読めた気がしますが、どの本もとても面白かったですね。ただ、僕の中で、読書が非読書への生成変化を要求しているような気がして、かなり読書というよりも、表象装置による実験の方にシフトしつつある状況かもしれません。言葉というのは不思議です。それは裏切るかもしれませんが、少なくとも現象を注視していくことで、行動につながり得るようには思います。考えないで考える、というか、書かないで書く、というか。あまり気張らず、頑張っていきたいです。

 

音楽について。

 

音楽は非常に難しい技能ですね。なかなか身に付きません。絵画なども難しいと思いますが、音楽も本当に難しいです。ミスチルの新しい曲とかも聞いてました。最新のアルバムを一通り聞いてみたのですが、とてもよかったです。今のところ、一番好きなのは、「Documentary film」とかかな、と感じています。聞き込んでいけば、また感じ方が変わってくるかもしれないので、要観察です。

 

スポーツについて。

 

世の中には様々なスポーツがありますね。サッカーとか野球とか卓球とかバトミントンとかバスケとか、色々。どれもそれぞれに面白いものだとは思うのですが、これも怪我には注意した方が良いかもしれません。あまり恐れ過ぎてもあれですが、注意散漫過ぎるとそれはそれでリスクかもしれません。バランスは難しいですね。何事も。

 

ロシア語について。

 

僕がロシア語が好きな理由について考えてみます。……。考えてみたのですが、よく分かりませんでした(笑) 何なんでしょうね。不思議です。特段の理由はないのかもしれません。不思議です。

ロシア語は以前よりは、かなり良く動くようになってきた気がします。ただ、まだ、語彙の定着率が英語や日本語にはかなり遅れを取っているようで、上手く使いこなせてはいないように思います。精進したいです。他の語学も進捗としては、まあ、まずまずです。特に何事もなし。僕の語学は読むことにかなり強い面があるかも知れませんが、あまり反射的な事象には強くはないかもしれないな、と思っています。ただ、究極的には、その辺は個性かな、とも思っています。聖書のギリシャ語やヘブライ語の文章を語彙を調べながら解読するのは楽しいですので、おすすめです。ネットの辞書やグーグル翻訳なども語学に役に立つのではないかと思います。デジタルな道具も積極的に活用していきたいものです。

 

タルムードについて。

 

どうもヘブライ語だと、ネットでも見れるようですね。他にミドラーシュとかも。それにしても、タルムードにも種類があるというのは最初驚きました。律法について勉強する際にも、タルムードなどは役に立つのかもしれません。律法とは何か。イスラム教なら、ハディースなども。宗教と法律の区分って正確に考えていくと、結構難しい問題だな、と思いました。宗教性のない法律とか、学問って存在するのか否か。世の中には、宗教を嘲笑っている方も多々いらっしゃるようですが、あまり甘く見ない方が良いだろうと僕は思います。一見、違和感のある部位についても、完全に整合性が取れるというのが常ですので、古来から続いてきている宗教というのは伊達ではないように思います。現時点では、聖書にせよ、コーランにせよ、仏典にせよ、僕の目には間違いが見つからないので、もしもどこかにミスがあるという場合には、そうした指摘を積極的にしてもらえるとこちらとしては嬉しいです。

 

進化論について。

 

進化論にも、様々な知識が関連するように思います。ただ、あまりに俗流化し過ぎてしまうと、本来の原義からズレてしまうこともあるかもしれませんので、その点はよく注意していくべきなのかもしれません。例えば、進化論を曲解して、弱肉強食を推進したりする人達の存在というのはありえるので、そうした危険な使用は慎むべきかと思います。

 

とりあえず、今日はこんな感じでどうでしょうか。書きたいことをつらつらと書きなぐっただけですが、もしかすると誰かの役に立つこともあるかもしれません。アップしておきましょう! では、皆さん、よいお年を!

恋愛や結婚のあれこれ

自己変容について。

 

自身がある変化についての傾向性を帯びている時にそれを変化させたい時には、自分自身を変化させるのが一番手段として簡便だと思います。

 

では、自分自身をどうすれば変化させられるか?

 

これはいつもと違った行動を取ることで、ある程度自分の帯びている傾向性を変化させられると考えられると思います。

 

「挑戦」をするということですね。挑戦すれば、何にしても、何かは変わると思います。

 

自分に変化を起こしたい人は、何でもいいから挑戦してみるのも一つの手だと思います。ただ、挑戦にはリスクもあるものですので、その点は、十分に利益衡量をした上で事に及ぶことが大切なのかもしれません。一般的には。

 

未練について。

 

自分の人生に未練が生じるということは、過去の過ちを客観視できているということでもあります。その結果として、「あの時、ああしておけばより良かった」というような感慨が生じるものと思います。つまり、未練は成長の証としても捉えられ、そのように考える場合、未練が多いほどに、その人の成長速度は莫大なものであると捉える余地もありえると思います。未練と言えど、悪いばかりのものではないわけですね。ただ、未練に囚われると、前に進めなくなってしまうということもあります。その場合には、未練を消化して、活かすことが有効です。

 

では、どうすれば未練を活かすことができるのか?

 

これは、徹底的に思考して、反省することです。すると、自然と思考が洗練されてきて、次の対策が打てるようになります。その際に、徹底的に事実と論理を元に「正確な」考察を為すことが有効であると思います。また、不正確な認識は本来的なというか、正しい認識を麻痺させるように機能させうるのですが、これはそれ自体謎の機構によるものですので、所謂「説明」によって解呪することはできないと思います。ただ、言えることは、正確な認識ができた時に、現実問題への対策もしやすくなる、ということではないかと思います。未練を断ち切り、前に進むためには、正確な知識を認識することが有用ではないかと、僕は考えます。

 

諦めについて。

 

諦めはある意味では、大切な側面もあります。例えば、人と人は一般に分かり合えません。それは生活環境の差、文化の差、遺伝の差、知能の差、性別の差、生物学的な差、経済的な差、教養の差、趣味の差、才能の差、などなど、様々な「差」が人間には生来的に存在しているからです。ですから、ある人に有効なことも別のある人には禁忌であったりします。例えば、薬物の辞典を総覧してみてください。様々な禁忌について書かれていますが、その禁忌の導出の機構は非常に錯綜しており、まさにケースバイケースです。人によって、驚くほどに適切な処方は異なっています。一律にお手軽な方向に流れれば、必ず大量の犠牲者が出ることでしょう。それくらい差異を適切に認識するということは大切なことでもあります。大切なのは、自分の手札を極限まで洗練することです。人それぞれに与えられているものは異なりますので、自分が他者と同じになりたい、などというような願望はその成就が難しいことになります。しかし、自分が自分を最大に活かす、という方針であれば、人と比べることなく、自身を成長させることができるものと思います。自分のものではないもの、他者のものを奪おうとすることは、骨肉の争いを生みますが、自分のものを精一杯活かす分には、盗みも不要ですし、暴力も要りません。なぜなら、それは人から奪わなくてもすでに自分の手元にあるものだからです。ものは用いようです。諦めという手段も例外ではないでしょう。つまり、無理なことを諦めることで、より自身の利益を最大化できる場合があるということです。この場合、諦めるフェーズが早ければ早いほど、損失が少なく済み、有利になります。一方で、諦めるべきでないこともあります。例えば、自分の持って生まれたものを活かす、ということは諦めるべきではないと思います。基本的に。それは自分の存在を否定することにつながるからです。もしも、そのような悲劇的な結末を迎えるとするなら、それは、自殺、つまり、自身への暴力行為という最悪の形で幕を引くことになりかねないでしょう。何を諦めるべきであり、何を望むべきなのかは、それぞれの人によって異なるのではないかとも思います。一般に、幸せの形は人それぞれとされているからです。つまり、諦めそのものが問題であるというよりも、その人がその人自身であることを諦めたり、その人でない他者になることを望んでしまったりというような、ある種の「錯誤」が問題を引き起こすのかもしれません。色々なケースがあると思いますが、自分には何ができるのかということと、自分は何をしたいのかということの二つを現実的に正確に認識し、それらを擦り合わせて、より正確な認識を生成することで、諦めに関する問題は解決しやすくなるのではないか、と僕は思います。

 

怠慢について。

 

怠慢は、不正確な認識から生じる場合が多いと思います。しかし、それは客観的な話であって、主観的な話ではありません。つまり、主観的怠慢と、客観的怠慢は異なり、どちらかと言えば、主観的怠慢の方が重要です。たとえ、他人から見て、怠惰に見えても、その人が勤勉だと自己認識しているなら、客観的な観察よりも、そちらの方がより重要です。なぜなら、幸福の形は人それぞれであることから、適応形式も人それぞれとなるために、ある人にとっての怠惰が、ある人にとっての勤勉となる可能性、事例が常にありえるからです。つまり、口ばかりで何もしてくれない他人の言うことは無視して構わず、自分がどう思うか、ということの方がより重要です。そして、そこから自力で一歩一歩正確な認識を積み重ねることで、怠惰は克服されやすくなるのではないかと、僕は思います。人のことなどどうでもいいのですから、あなたはあなたの道を進んでください。勿論、僕の言うことも無視してくれても全く構わないのですから。あなたがあなたであることに、何一つ遠慮することはないのです。

 

継続について。

 

これは怠慢の克服によって、生じさせやすくなると思います。つまり、怠慢を克服できれば勤勉になります。後は、挑戦をするうちに、自然と、自分には何ができて、何ができないかがわかってくると思います。その上で、自分が最も勝ちやすい分野を選び取り、そこに労力を継続的に投資し、勝利を得るように努力をする、というコンセプトが概ねでは妥当な所ではないかと思います。自分が他人より楽にできることは何か? そして、自分が最もしたいことは何か? あとはそれらの二つを足して二で割った地点に陣取るのが基本路線ではないかと思います。常に中庸の徳を忘れずに。過度であることで、物事は滅びます。逆に言えば、節制することで、それは長く続くのです。

 

邂逅について。

 

邂逅が生じるためには、まず偶然性を尊重する必要があります。なぜなら、全てが必然的な環境下においては、統一された唯一つのものしか存在できないために、邂逅は生じ得ないから。簡潔に言えば、自分とは異なるものとしての他者を尊重することが、他者と出会うための第一歩となるものと、原理的には想定できます。逆に、他者の人格を殺した場合には、これは悪ですので、自分をも滅ぼします。逆に言うと、他者を尊重することで、自分を長らえさせることができるものと考えられます。利他的な人間になることができれば、出会い自体は生じるものと思います(その想定される環境に不正がない場合には)。他者を尊重し、不正を修正し続けることで、出会いの確率を向上させることはできると思います。

ただ、天才の邂逅については、周囲の人々の嫉妬によって排斥されるリスクがありえます。その場合には他者を信頼することは不可能なので、天才に特有のあの「自助」の精神で以って、他者に依存せずに、全てを自分の手でつかみ取る必要があると思います。時には、戦略も必要でしょう。毒を以て毒を制す。天才の道は茨の道だと思いますが、僕も微力ながら、そうした人たちが幸福になれるように応援しています。

 

恋人について。

 

恋人ができないという時には、三つのパターンがあり得ると思います。一つが、出会いが不足している、二つ目が、選り好みをし過ぎている、最後が、高嶺の花になってしまっている、という感じです。一つ目の場合、出会いを増加させることで、二つ目の場合、自分の手札を正確に認識することで、恋人を作ることはできやすくなるのではないかと思います。ただ、三つ目の場合は、結構難しいと思います。そうした人たちについては、やはり例の「自助」の精神で乗り切る以外にはないのではないかと思います。おそらく誰も助けてはくれないのではないかと僕は思いますし、大変だと思いますが、頑張ってください。あるいは、三つ目のパターンについてはここに対策を記述してしまわない方がより良い結果につながりやすいものと思います。ただ一つ言えるのは、諦めずに頑張ってください、ということかもしれません。

 

結婚について。

 

恋愛から結婚への移行を目指す場合には、継続性を担保することが有効だと思います。これがないと、どこかの時点で、恋愛自体が続かなくなり、結果、結婚に至る前に、関係性が瓦解します。継続性を得るには、自他についての「正確な認識」を得る事が有効だと思います。後は、何事も度を越さないこと、「中庸」を大切に。勿論、「中庸の中庸」も。たまに少しくらい羽目を外す……というのもまた重要なことだと思います。中庸に囚われるのもまた、中庸ではないのです。真の中庸は、何事にも囚われない静寂の境地にあることに価値があります。

 

結婚の持続について。

 

自他に関する正確な認識が重要だと思います。中庸を大切に。

 

トラウマについて。

 

トラウマの概念は、ある程度、未練の概念に重なる余地があると思います。これも正確な認識によってある程度は、対処しえる余地があるとも思います。そのトラウマの種類によって、必要な処方は全く異なるので、一概には言えないと思いますが、ただ言えるのは、正確な認識を持つことが強力な対処法になるのではないか、ということだと思います。論理情動療法や認知行動療法などの本を参照してみても、おもしろいかもしれません。とにかく何でもいいので、適度に挑戦することが大切だと思います。失敗してもいいので、あるいは、失敗すらも必ず糧になるはずなので、勇気をもって踏み出してみる、というのも面白い一手ではないかと思います。

 

 

今日のまとめ

 

適度に挑戦し続け、正確な認識を得ることが大切。