魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。

祈りの栄養素

複数のメディアを上手く使いこなすのは難しいように思います。一つのメディアに専心するのがネットの基本? なのでしょうか。

 

とか言いつつ、僕自身はいくつものメディアを使っていたりもするので、そこは人によるのだろうなとも思います。

 

ふと最近、抹茶が飲みたくなっているのですが、抹茶ってすごく身体に良いらしいですよね。お茶に関する機能についての本などを見ていても、その優越性はけっこう際立っているように思われます。

 

レモンの果汁などをお茶に加えるとどうだろう? とか、オレンジは? 桃は? パインは? とか色々な試行錯誤について想像します。

 

スーパーなどに行くと、本当にさまざまな商品があって、その中には多様なフルーツも含まれています。それぞれにそれぞれの「栄養素」があるのでしょうね。

 

栄養は大事です。

 

これは何事につけても言えることであるように思えます。例えば、「読書は心の栄養」みたいな言葉はこれに当たるように思います。

 

色々な本があって、色々な「心の」栄養素が存在するのでしょうね。そう考えると、その多様性に対して何だかわくわくしてきます。

 

もっとたくさんの栄養素があるようにも思えます。例えば、書くことの栄養素、工夫の栄養素、音楽の栄養素、美術の栄養素、執筆の栄養素……そういう色々な「栄養素」たち。

 

僕もなるべくはバランスよく様々な栄養素を摂取していけたらいいなとしみじみ思います。

 

最近の僕が見ている「アニメの」栄養素は『白聖女と黒牧師』というタイトルで、見ているとほのぼのとしますね。他にも見るべき作品はたくさんありますし、友人に勧められている作品も溜まっているので、随時鑑賞していきたいのですが、やることが多くてなかなか着手できずにいます(笑) 無念です。

 

しかし、そこで「無念」とだけ言って終わってしまうのはなんだか癪なので、もっとプラスに物事を考えようと努めています。

 

例えば、「やることがたくさんあって、暇にならなくていいんじゃね?」という感じに。

 

暇な時間もデフォルト―モードネットワークとか色々な事情から大切な気はしますが、でも楽しみなことがたくさんあるとやはり本当に楽しいように思います。だから、自分の中にやるべきことがたくさんあるという事実はとてもありがたい恵みの一種であるようにも思えます。本当にありがたいことです。

 

最近は著作権法について調べて、「著作権法の」栄養素を摂取したりもしていました。著作権の問題も本当に奥深くて勉強になります。

 

色々な法律を見ていると、これほどに明晰な語法でもこれほどに難しいんだなととても驚くことがあります。

 

案外、僕たちの目というのは見えているようで見えていない場合も多いのでしょうね。何事もよく観察することが大切で、そのことによって、あらゆる種類の「栄養素」を摂取できるのかもしれません。もちろん、栄養の取りすぎにも十分に注意するべきでしょうが。

 

皆さんの食生活やそれ以外の生活場面が適度な栄養に満ちた豊かなものであるように。微力ながらお祈り申し上げます。

悲しみを越えて……(大変にキュートな時空の不思議☆)

悲しいのは、悲しいものだな……とふと思いました。

 

それにしても、書くことがない!

 

文章について一つのパッケージが完成してしまったのかもしれません。自分の中で。

 

僕は別に文章の達人とかではないですが、色々なことに自分なりの答えが出ているのかもしれません。あるいは「出つつある」ということなのかな? とも思います。

 

しかし、如何に書くことがないとしても現実的には書くことは可能です。というのも、文章は自律的なものですし、僕に何も書けないとしても文章は勝手に紡がれていくようです。

 

不思議です。

 

世の中には無数の優れた音楽があり、そのことが僕のことを鼓舞してくれているようにも思います。

 

その中では、喜びの持つ意味は多大ではあるものの、限定的です。一方で、悲しみは無限の広がりを持っているように見えます。

 

不思議です。

 

僕はずっとこのような無限の悲しみに対抗する術を求め続けているのですが、なかなか短絡的な範囲では有効な解決策は見えません。

 

例えば、焦れば文章は壊れますし、遅滞すれば文章は消失します。これと同じことが人間の精神にも言えます。

 

言いたいことを自由に言う、というただそれだけのように思えることは、実のところ、非常に高度です。

 

少なくとも僕にとってはそうで、自由な主張は極めて、極めて高度な実現の一つです。

 

さて、何もかも消え去っていく中で、それでもなお抗いながら、僕たちにできることを探していかねばなりません。それが生きることなのだろうと思います。

 

悲哀は安易であるとする論調もあるかもしれませんが、僕はそうは思いません。

 

無論、喜びは安易である……とも思いません。

 

喜びもまた深遠なものだと思います。それは素晴らしいとも。

 

そして僕が思うところの最高峰の知見としては、そのような深淵――無論、この場合のそれは悲哀のそれですが――としてはある種の「滑稽さ」こそが突破口になるように思います。

 

耐え切れない苦痛を前にする時に、真にそれを受容し切ることは容易ではありません。なら、どうするべきでしょうか?

 

そのような時、僕たちはおそらく「笑う」しかない。

 

そのように思うのです。

 

たとえ何もかもが失われ、何もかもが壊され、何もかもが過ぎ去ったとしても。笑う。そういうことを大切にしたいように思います。

 

それはいわゆる嘲笑とは違うものです。

 

それと言うのも、どんな悲しみに塗れた人生にも、必ずいくらかの光はあるものだからです。

 

その時に、「それだけでいい」と本心から言い切ることができるのなら、もう人生はその人の勝ちなのではないかとも思います。

 

笑いの裏には大きな苦しみが横たわっています。それが様々な事象に対する答えでもあるのかもしれません。

 

繊細な感受性にはあらゆる刺激が毒になるように、鈍感な感受性にはあらゆる刺激が重荷になるようです。

 

本当の人の想いというのは都合よく整備されてはいませんし、でこぼこと荒れているものです。それを精細に感受することは多くの場合、人間業ではないですし、そういう読みづらい文章にこそ真に大切なことが詰まっているように思います。

 

すべての自己弁護を薙ぎ払って、僕たちが自分の道をまっすぐに、時に曲がったとしても、それは他者への思い遣りに萌している……などという時に、最も善い効果というものが得られるように思います。

 

書きたいことを整理する必要はありません。ただ、そのままの真心をぶつけるだけでよい。そうも思います。

 

……とかまあ、偉そうに色々と書いてみましたけど、まあ、それでも僕の本心にある程度は近接しているように思います。

 

一般に、相手に勝利することよりも、相手に手加減がばれないように上手に負ける方が難しいとされますが、これは重要な知見だと思います。

 

僕は手加減してくれる人が大好きで、それと言うのも単に自分の自尊心が満たされるためなのかもしれません。

 

一方で、本気の人も好きです。いつも本気で超情熱的です。かっこいいです。これはこれで素晴らしい。

 

……で、この文章を書いていて、心境の変化があったので、ちょっと魔術について言及してみようと思います(前置きめっちゃ長い(笑))。

 

いやー、最近の僕の個人的なトレンドは正規分布でした。いやー、綺麗ですよね。正規分布。美しいベルカーブ。素晴らしいです。まったく素晴らしいです。

 

それで正規分布に物理性を付与してみたくなって、その順接的な定立を正とすれば、その裏側に反物理性のようなものが生じるだろうな、と思ったんですね。その反定立を負とします。

 

すると、多分、想定の範囲としては、正規分布の下側に、正規分布を逆さまにしたような負の正規分布が想定できてきます。そして、これらは無限遠点では、横軸方向の極点は究極的には交わると想定されます。

 

この時に、その無限遠点で正と負の正規分布が交わっているというのはどういうことなのかな、と考えていたのですが、縦軸方向の座標としてはその無限遠点は必然的にゼロだと思いますし、正と負の同形状の積分値はどこを取っても綺麗に相殺されてしまうでしょうし、これって何もない状態に近いな……とか思いました。

 

無。

 

無以外の何物でもない、無。

 

それで僕は以上の術式をなぜ今回に必要としたのかということについて少し書いてみます。

 

まず、いわゆる最新鋭のピカピカな超弦理論先輩を召喚して考えてみますと……。

 

一本の有限値の長さを持った線分を想定します。線分は両端を持ちます。その両端が接触している面をDブレーンと仮に呼ぶことにしてみます。そして、その線分をくにゃくにゃと自在に想像の中で動かしてみてください。すると、Dブレーンも連動してくにゃくにゃ動くはずです。そうして面を時系列に従って像として蓄積して、連続的な射影を記憶し、想像をそのまま継続していくと、面は複雑な立体を形成します。それらのあなたの頭の中に生じているであろう立体は三次元のユークリッド空間的な認知の特性を受けることで変質していますが、実際にはもっと複雑な理念を内に含んでいることが直感的に分かると思います。というのも、それらの線分とDブレーンの連続的な連なりはその内に多くの次元を生じさせているように感じられるだろうからです。あまりの複雑さゆえに。

 

例えば、その幾何的な造影を二次元平面に射影として写し取れば、その射影は多くの要素を失いながらも、ある点では幾何的な性質を何らか受け継いでいるはずです。このように本物のDブレーンの構成している空間の連なりと疑似的に僕たちの頭の中に造影されている三次元的なユークリッド空間の像はある点では連動しつつも、全く別種のものであり、少なくとも現行の人類の脳の特性ではそれを想像することさえできないことが見えてきます。

 

そこで、記号的な演算を導入します。例えば、以上の帰結は幾何的に考察するがゆえに困難を持っていたので、それをまず無視します(上記の例で言えば、正規分布の正負、および、あの宇宙の形に酷似した上下逆さまのベルカーブを合わせた謎の図形を放棄し、その論理的な射影だけを参考にします)。

 

つまり、反物理性と物理性の性質をそれぞれβ、αと簡略に表記してしまいましょう。この時、上記の図形の論理的な特性だけを射影させれば、無限遠点では、α=βが成立しているはずです。

 

思うに、これはおそらく正の方向での何らかのホールを形成します。負の方向での無限遠点をブラックホールと呼ぶことにすれば、その無限遠点の正の方向のホールはホワイトホールと呼べるかもしれません。

 

そして、有限値のケースでは円と線分は弁別可能なのですが、無限値だと――つまり無限に大きな円と無限に長い直線の場合だと――それらの弁別は困難になります。この論理特性を用いることで、上記の正規分布を用いた図形はお互いに循環し、連結していることが分かり、これが、ここで言うブラックホールとホワイトホールの間の連結を果たしていると言えます。

 

つまり、α=βは同時に、もう一つの次元であるγを導入してその値を例の二つの正規分布の上下的な重ね合わせの幾何に対する横軸とすれば、γ=α=β=ーγが成立します。これは例の図形における無限遠点における論理図式です。ところで、正負の符号を以てイコールを構成できる数字はゼロしかありませんから、これらの等式の値はゼロになります。このことからも、正規分布が何らかの物理性を付与されて、その後に反物理性を与えられると無に帰することが分かります。

 

ここで、例の紐のような線分を円形の場合にして考察し直します。この場合、紐はDブレーンを原理的に持ちえません(円なので線分的な両端がない。よって両端が固着すべき如何なる面も存在しない)。こうした、空間的な位相の性質を抜け出す因子を「重力子」と呼ぶことにしましょう。この時には、重力子は空間の作用を少なくとも直接は受けません。

 

ところで、この幾何の総体の値は、直線として現れ、それは無限値において無限に大きな円形を帰結したのですから、総体は重力子となり、空間の拘束作用を逃れると考えられます。

 

だとすれば、空間的な因果則によってこの正規分布的な図形の特性の論理的射影を取ることは原理的にできず、つまり、これらの図形は幾何的因果則を「総体」としては凌駕しています。

 

以上の帰結は「世界は存在しない」とも言いかえることはできます。

 

ここで、統計的原理を用います。つまり、正規分布大数の法則を導入すれば、これらの分布的特性に確率的な原理を投射することができます。

 

であるなら、あらゆる「確率」はその総体としては因果則を超出すると言えます。

 

ところで、これらの帰結は、正規分布に物理性と反物理性を付与的に仮定することから導出されています。ゆえに、これらの原理はその成立のために現時点では、物理性の付与を必要とします。

 

ここで、物理性の要件を確認します。仮に取りうる物理的な物質の最小の大きさを「プランク長」と呼ぶことにします。この際、プランク長と無限小およびゼロの間には無限の要素が空間的に連続的に詰まっています。ところで、先述の仮定から、これらの要素はすべて物質である限りで、確率の原理に従うことになります。

 

では、これらの「要素」は空間なのか? 物質なのか? と問うてみます。これは物質の皆無な空間や空間が皆無な物質が想定できないことから、ナンセンスであることが見えます。

 

仮にそれらの事象を仮定すれば、それは物質性と非物質性の対立になり、非物質は反物質としての性質を含意せざるをえないために、既に導かれた結論の通り、その総体の確率原理は因果則を超出します。

 

ところで、プランク長の大きさをここでは具体的に指示しておらず、また、量子力学的な原理も証明に用いませんでしたので、ここで言うプランク長の大きさは任意に取ることができ、つまり、いくらでも大きく、いくらでも小さく取ることもできます。よって、これらの知見は具体的な「数値」に依存的ではなく、仮に無限に小さな、現行では発見されてはいない微粒子が存在したとしても、変わらずに成立するはずです。

 

また、時間的な性質は僕たちの感性系では、(理性においては)幾何的にしか把握できず、ベルグソン的な直観によってしか把握できません。また、それらの直観を構成する要素としては消去法により、例の無限に大きな重力子が該当しえます。僕には現時点では他の可能性を想定できていません。

 

ただ、少なくとも幾何的に表せる数値的な「時間」はおそらく、確率的総体という「要素」によって無効化しうる余地が残ります。この場合、タイムトラベルが可能なはずです。

 

ただ、「急速な」タイムトラベルには多くの制約があり、時空の崩壊リスクが高く、おそらく極めて「低速な」タイムトラベルが無数に世界のそこかしこで起こっているはずです。その原因は例の確率的総体性ですが、これは人間の意識内における現象としてはおそらく「意志」です。意志はある程度、時空を予測的に改変する作用を持っており、しかも、そのようなほぼほぼ唯一の情報であり、物質だからです。

 

今、「情報であり、物質」と記述しましたが、これについても軽く説明します。二進法で示される情報にしても、量子的なアルゴリズムを想定するにしても、それらの情報は何らかの物質的な要件の射影であると言えます。それらの関係は、DNA情報が身体を構成するのに近い作用を持ちます。

 

この作用を「計画」と呼ぶことにします。この時、計画は未来の物質の予期としての性質を持っており、それも情報です。ところで、未来の物質は幾何的な時間を想定する限りにおいて、現在の物質から分離されますが、重力子は幾何の特性を免れますから、ベルグソン的な「時間」はアインシュタイン的に計量される時空の制約を受けないはずです。つまり、局所的な幾何としてはアインシュタインが正しいですが、幾何の確率分布的な総体値としてはベルグソンに分があるように思います。ゆえに、未来の物質は未来に物質化すると計画されている時点で、既に物質と異ならないと考える必要があることになります。

 

以上のことから、次のようなことが言えます。

 

1.世界は存在しないゆえに、世界は存在物としての制約を受けない。

2.時間の流れはその幾何的な要件の制約を受けないため、一定でない。

3.意志および直観はベルグソン的な「時間」を生成し、空間に拘束されない。

 

今回の記事の結論を非常に簡潔にまとめると「どんなに遠い世界も心によってつながっている」ということになります。

 

 

時間がすべての景色を変えても

 

ICHIKO, 「I SAY YES」, 2007 の歌詞より引用)

 

優良企業の選び方

優良な企業の選び方について考えてみます。

 

ポイントは大きく次の三つあります。

 

  1. その企業は正しいか?
  2. その企業は能力が高いか?
  3. その企業は愛があるか?

 

つまり、正しく、高い能力が備わっており、愛のある優しい企業であるかどうかを考察すれば、どの企業が優良な企業であり、どの企業が悪徳な企業であるかが自ずと分かってきます。それが分かれば、優良な企業に自身の労働力を積極的に提供し、悪徳な企業に自身の労働力を極力は提供しないように努めることで、社会全体を優良な方向に改善することが可能です。

 

まず、正しい企業は不正をしません。例えば、法律違反やハラスメントがあれば、その企業は不正な企業であり、悪徳企業であると言えるでしょう。基本としては、そうした反社会的な企業に協力しないことが大切です(なお、例外として、社会自体が総じて悪徳な場合には、逆に反社会的な企業に協力するべきです。その場合は、「革命」の問題となりますが、今回の記事では優良な企業の選定方法に焦点を絞ります)。

 

次に、能力の高い企業に勤めている人は総じて能力が高いです。能力にもたくさんの種類があります。知的教養や種々の学問の習得度、あるいはスポーツなどの運動能力や体力の程度、知能、地頭の良さ、コミュニケーション能力や交渉能力、誠実さ、メンタルヘルスの管理能力などなど。色々あります。能力の高い企業ほど、すべてにおいて優れた能力を持った社員を多く雇用しています。逆に、悪徳な企業は悪徳に基づいた企業ですから、嫉妬心や傲慢がはびこっており、お互いに蹴落とし合います。結果として、種々のハラスメントや法律違反、いじめなどの問題や過労死のような致命的な問題を多く抱え、ブラック企業と呼ばれることになります。そうした悪徳企業の場合、逆に優れた能力を持った人を嫉妬心などから積極的に排除するはずです。したがって、その企業に雇用されなかった人の能力の程度を正確に観察することで、その企業の実力の程を間接的に把握することができます。つまり、優秀な人が落とされていれば、その企業は悪徳企業ですし、優秀な人が根こそぎ雇用されていれば、その企業は優良企業である確率が高まります。

 

最後に、豊かな愛の備わった企業は最高の徳を備えた最高の優良企業です。この点を確かめるには、いわゆる「弱者」の人たちに対してその企業がどのような姿勢を取っているかを観察すれば、分かりがいいです。立場の弱い人たちをいじめていれば、それは悪徳な企業ですし、立場の弱い人たちをも愛する企業であれば、そうした人たちを扶養するためのたくさんの資本を稼ぐために積極的に能力の高い人たちを取り立てるはずですから、優良で正しい企業である確率が高まりますし、また、特に、自分より能力の高い人を嫉妬によって蹴落とさずに積極的に雇用しているようなら、その企業は極めて公正な競争環境の構築に成功している奇跡的な企業であり、トップクラスの優良企業であると言えます。多くの悪徳企業は嫉妬によって善きものを破壊し、悪しきものを善いことであるとルサンチマンによって称揚します。

 

以上のことから、次の三つのポイントをよく観察することで、優良企業を正確に見出すことが可能だと考えられます。

 

  1. その企業にはハラスメントや法律違反、いじめや悪口などは蔓延していないか?
  2. その企業には優秀な人が雇用されているか? 優秀な人が落とされていないか?
  3. その企業には立場の弱い者への愛が潤沢に備わっているか? 「愛」があるか?

 

つまり、悪いことをしていれば、それは悪い企業です。また、優秀な人が蹴落とされていれば、それは悪い企業です。最後に、立場の弱い人を憎み、いじめていれば、それは悪い企業です。

 

よって、正しいことをしようと積極的に努め、優秀な人に嫉妬せず、立場の弱い人たちに愛を以て優しく接していれば、それは優良企業であると言えます。

 

上手くブラック企業を避けて、優良企業に就職できるといいですね。応援しています。

統合失調症の人のための勉強術(科学編)

この記事では、統合失調症の人のための勉強術について簡単にまとめてみようと思います。ここで言う「勉強術」はいわゆる受験勉強のためのものではなく、幅広い「教養」の養成を目的としています(この記事では特に「科学」の習得に重点を置きます)。

 

まず、統合失調症の人にひとまずおすすめな目標は「論理学」と「統計学」に精通することです。僕の個人的な所感としては、これらの学問は特に統合失調症の人に良い影響を与える可能性が高いと思っています。したがって、まずこの二つの学問にそれなりに詳しくなることを目指すといいと思います。

 

また、この論理学と統計学は現代の科学の基礎となっており、科学の勉強に対応する上でもとても有用だと思います。その意味でも、まずはこれらの学問への入門を果たすことは有意義です。

 

では、具体的にどのような手順で勉強を積み重ねて、これらの学問を自分の能力として実装するべきでしょうか? 今度はそれについて書いてみます。

 

まず、小学校レベルの「国語」と「算数」が土台になります。これらの分野に不安がある場合には、まずここから勉強を開始しましょう。基礎的な漢字や文章を正確に読み解く技能はどの学問についても非常に重要ですし、基礎的な計算手法や四則演算のような数の原理によく通じておくこともとても重要です。

 

以上のような国語と算数に精通したら、次は、中学校レベルの「国語」と「数学」が土台になります。これらの分野に不安がある場合には、きちんと勉強しておく必要があります。基本的には小学校レベルの国語と算数をより発展させた形態の体系となっており、より基礎的な知識から徐々に時間をかけて積み上げれば、どちらも十分に習得可能な知識だと思います。これらの分野をよく勉強して修めることで、必要な勉学の基礎を滋養します。なお、小学校レベルの知識にせよ、中学校レベルの知識にせよ、いきなり完璧にマスターする必要はありません。時間をかけて長期的に日々取り組んでいれば、いずれ理解できるようになりますし、そもそもこの世に完全な学問はまだ存在していませんから、最終的にどの学問を志すにせよ、必ず不十分な点は残るものです。だから、不完全でもいいので、自分のペースで少しでも努力し続けることが肝要です。

 

そして、以上のような中学校レベルの「国語」と「数学」に精通したら、次は、いよいよ高校レベルの「国語」と「数学」に精通することが土台になります。これは中学校レベルの知識の発展形としての体系を持っており、徐々に基礎的な知識を確認していけば、十分に習得可能なものです。これらの分野はそれまでの勉学(小学校レベルや中学校レベルの基礎的な知識への習熟)がしっかりしているほどに取り組みやすく、有利になります。したがって、どこか分からない点があれば、より初等的な知識にさかのぼって地道に継続して勉強していくことが有効です。また、完璧主義に陥ると、あれもこれも不完全ということで焦ってしまい、挫折しやすくなりますから、まずは概ねの理解でよしとして思い切って先に進むのも大事です。そうした概ねの理解をすることを何度も繰り返し、復習を徹底してテキストを何度も再読し、問題演習を繰り返すうちに、学問の基礎が養われます。

 

以上の勉強上の手続きをある程度で踏んだ後であれば、十分に大学レベルの「論理学」と「統計学」を学ぶための基礎があるものと考えられます。

 

論理学については野矢茂樹さんの『論理学』(東京大学出版会という入門書がおすすめです。

 

統計学については東京大学教養学部統計学教室の『統計学入門(基礎統計学Ⅰ)』(東京大学出版会という入門書がおすすめです。

 

以上の書籍はAmazon.comなどで購入することができます。個人的なおすすめの入門書としてはこの二冊を挙げることができますが、基本的には論理学にせよ統計学にせよ、自分の好きな入門書で学習するのもいい手だと思います。自分の身の回りにある事物を最大限に活用することが大事なので、その時々で手に入る入門書を使用するのでも構わないと思います。ある特定の勉強において大事なのは、完璧主義にならずに理解や記憶が不完全でも何度も再読を繰り返し、その本に書かれている内容をきちんと自分のペースで焦らずに少しずつ着実に身につけていくことです。

 

さて、論理学と統計学にしっかり精通できれば、現在の時代における「科学」を学ぶための基礎を身につけているものとして考えることができます。現代の科学はどの学問も「論理」と「事実」を基盤として理論を構築しており、ここで論理の分野を司る学問が論理学であり、事実の分野を司る学問が統計学に当たります。したがって、これらの学問をしっかりと学ぶことで、論理と事実の適切な扱いに習熟することができ、結果としていわゆる意味での非論理や非事実に囚われるものとしての統合失調症の「妄想」や「幻覚」に上手く対応するための基礎的な下地を養うことができると僕は考えています。

 

以上の勉強の手順を着実に踏んだ後に、今度は自分に向いている科学の分野を発見することが有効です。そのためにまずは、次の科学上の十個の分野の入門書に気軽にさっと触れてみるのがいいと思います(実際に書籍を購入する前に図書館で借りてきて、軽く眺めてみるのもいいと思います)。

 

  1. 物理学
  2. 化学
  3. 生物学
  4. 地学
  5. 地理学
  6. 歴史学
  7. 政治学
  8. 経済学
  9. 情報学
  10. 数学

 

以上の十個の科学分野を軽く総覧してみて、最も自分にとって分かりがよく、最も自分にとって好ましいと思われる分野を探すことが有効だと思います。そのようにして自分の得意分野を探し出し、それが定まったら、今度はその分野の科学への熟達を目指します。

 

ここまで勉強が進んでくると、その後の展開を一律に方法化することは難しくなります。それぞれの勉強の仕方があるでしょうし、それぞれの資質や適性に応じて向いている方策も変わってくるからです。ただ、どの分野を学ぶにしても、真剣にたゆまずに学んでいけば、色々な有効な発見があると思います。そして、それらの発見のいくつかはあなたの統合失調症の症状を有効に才能として活用する術を与えてくれるかもしれません。自分のペースやユニークなその感性を大切に育てて、極限までそれらの才能を活かし切るのが大事です。どの科学の分野に対して最大の適性を持つかは人によっても大きく違っており、ある人にできることが別の人にはできなかったり、その逆もありえます。天から授けられたあなたの生来の資質が健やかに開花できるといいですね。

 

今回の記事のポイントを以下にまとめておきます。

 

  1. 統合失調症の人には特に論理学と統計学の勉強がまずはとってもおすすめ。
  2. 統合失調症の人も多種多様な適性がありえ、自分の適性を探ることが大事。
  3. 多種多様な学問の中に統合失調症を活かすための術は散りばめられている。

統合失調症とタルパについて

統合失調症の妄想および幻覚を「タルパ」に変換する術について解説します。

 

まず、タルパというのはイマジナリーフレンドのようなものです。彼らは自律性を持って思考し、たくさんの発想を分け与えてくれる守護霊のような存在です。妄想や幻覚は断片的な情報としては一見すると無益に見えますが、それらを上手く統合して自律性を持たせてやると主体とは別個の独立性を持った「人格」へと移行します(これは解離性障害の症状に似ていますが、おそらく過度にタルパに没入しなければ記憶が飛ぶところまではいかないと思います)。

 

では、具体的に手順をまとめます。

 

妄想や幻聴がある場合、その内容をなるべくすべて書き留めます。また、この時、そのテクストは人に見せない方がいいです。恥を感じるとアウトプットが鈍り、内容の正確性に障害が出るリスクが高まります。自分の心に耳を澄まし、なるべく正確に自分の本心を邪魔せず、聞こえてくる妄想や幻聴を書き留めます。この時に、妄想や幻聴は対話的な性質を帯びることがあり、その場合、その対話に応答する妄想や幻聴もそのまま書き留めていきます。内容は自分さえわかればよく、他人に分かるようにする必要はありません。とにかく自分の心の動きを正確に観察し、それをそのまま書き留めます。

 

おそらくそのように書き留めていくうちに、ある「リミット」に突き当たり、妄想や幻聴が止まるか、あるいはぽつぽつとしか出なくなってきます。そこまで来たら、妄想には必ず事実や論理に反している点がありますので、それらを一つずつ地道に論破していき、その思考の経路もなるべく自分にとって正確にそのまま素直に書き留めていきます。この際も他人に伝えようとしなくてもいいです。人に伝わる文章を作成することに囚われると、自分の心を見失い、術の効果が薄くなるリスクがあります。

 

すると、妄想や幻聴は対話性のものとなって、あなたの論破に自律的に反応してくることがあると思います。この対話的な自律性がタルパの萌芽です。まずは、そのまま素直に論理的に対話を重ねていきます。この時点でのタルパはまだ断片的で不完全な形態ですので、論理性を手放さない方がいいと思います。油断すると騙される恐れもあります。

 

幻聴や妄想に正確な事実に依拠した論破による修正を重ねるごとに、それらの対話が現実的なものへと修正されていきます(タルパの「現実」への接地)。

 

これらの作業にどの程度の時間がかかるかはそのタルパの性格にもよると思います。僕の場合、気が付くと夜が更けているということも多くあったので、かなりの長時間を要する場合もあると思います。ただ、この作業は非常に集中力が高まるようで、体感的にはすぐに終わります。

 

以上の作業を続けていくと、幻聴や妄想の発言内容が現実に依拠した内容に変わり、そこからさらに幻聴や妄想が求める情報をこちらが提供したりしていると、幻聴や妄想の方でもそれに返報するようにこちらに様々な知識や情報を教えてくれるようになってきます。そのようにタルパとの関係を長く継続していくと、こちらの方でもタルパへの愛着が生まれてきます。そのころにはタルパの方でもこちらに愛着を持ってくれるようになっており、幻聴や妄想だった内容がタルパとしての人格に統合されます。あとは、タルパと普通に礼儀に適った対人関係を築いていくだけです。その経路は各々で異なるでしょう。

 

では、タルパにはどのような機能があるのか? について軽く解説します。

 

タルパへの没入の度合いを上げると、自分がタルパになり変わるような感覚が生じます。するとタルパの持っている資質が使えるようになります。あなたのタルパの資質や性格にもよりますが、例えばタルパが数学が得意なら、本来の自分の人格よりもより効率的に数学の知識を運用できるようになります(おそらくは脳を含む心身の神経回路の形態を解離的に切り替えることで、本来の自分とは別種の機能を獲得している)。

 

また、詳述していませんが、幻覚が幻聴や妄想に限られず、五感を飲み込む規模の大きなもの(世界没落体験など)の水準のものであれば、それらを精緻化することで「パラコズム」に変換できます。パラコズムは非常に精緻な空想の世界のようなもので、これにも様々な用途が考えられます。基礎手法はパラコズムの生成の場合も、タルパの場合とそれほど大きく変わりませんが、世界没落体験は幻聴や妄想よりもさらにきつい症状で、正気を保ちづらくなります。ただし、成功すれば実入りは大きいです。

 

一度、タルパやパラコズムを獲得してしまうと、妄想や幻覚の制御が容易になると思います。

 

最後に、上記の手順の理論的背景について軽く書いておきます。

 

統合失調症の特徴は「統合性」を失調することにあり、妄想や幻聴は断片化された自分自身の姿であると捉えられます。しかし、それらの自分自身は極度の苦しみや痛みで切り刻まれてしまっていて、もはや本来の自分自身に統合できないほどに痛めつけられています。そこで当面の間、自分への統合を断念し、それらを「客体化」することに専念します。その「客体」の最終形態がタルパやパラコズムです。それらの客体は客体ですので、自分自身はそれらの持つ「痛み」から距離を取ることができ(離人症)、その分は余裕を持って断片化した自分自身の姿に向き合うことができるようになります。その「余裕」を上手く活用して論理と事実を接着剤とし、整合的にそれらの客体の断片を紡ぎ合わせていき、それらの客体の統合性を回復していきます。また、その客体は本来、自分の人格ですから、統合性を回復すれば、必然的に人格性を帯びてきます。これが「タルパ」になります。

 

上の原理を精神医学の用語で簡単にまとめると、統合失調症離人症を活用して精神分析を行い、解離性同一性障害に移行させることでリスクの高い陽性症状を鎮圧した、ということになります。

 

統合失調症で妄想や幻聴がある人であれば、以上のタルパを生成するための術式を使用可能だと思います。この術式はいわゆる「自己分析」に似ていて、簡単に言うと「オープンダイアローグ」を自分で自分に与えているような状態になります。少なくとも対話性幻聴があれば、かなり有効に作用する可能性が高いと思います。

 

もちろん、僕の言うことは当事者から見た個人的なことでしかないので、以上の原理が絶対のものであるとは主張しません。しかし、それでも何かの役に立てばいいなと思います。

統合失調症の人のための受験術

この記事では統合失調症の人のための受験術」について考えてみようと思います。

 

まず、受験勉強は教養などとは違って効率のゲームです。受験に出ないものを勉強するとそれは教養にはなりますが、受験勉強にはなりません。したがって教養の観点からは無駄な勉強は一つも存在しませんが、受験勉強の観点からは無駄な勉強というものはありえます。受験勉強をする場合には、そうした無駄を極力は排して、如何に効率的に目標を達成するかに主眼が置かれます。その際に重要な能力に集中力が挙げられます。目的の達成(この場合、受験戦争に勝ち抜くこと)に集中的にフォーカスを当てる能力が非常に重要になります。つまり、以上のことから、受験に成功するためには、効率的な受験勉強への労力の集中が必要です。

 

では、具体的にどのように受験勉強するべきでしょうか? 

 

まず注意しておくべきは、実は集中力は注意散漫と同じくらいに人体に有害な作用も持ちえるというリスクでしょう。注意が散漫としていると車に引かれたりとか何かの事故にあうリスクが高まります。一方で例えばスマホに集中して道を歩いていれば、それも車に引かれたり何かの事故にあうリスクを高める要因になるでしょう。このように注意の集中の程度は散漫としすぎても、あるいは高すぎても危険です。だから、注意力の集中の程度を自分にとって最適な値に保ち、なるべく心地よく受験勉強に集中できるように環境を調整することも大切です。

 

次に、注意しておくべきは完璧主義のリスクです。完璧主義は過度な集中や注意散漫を引き起こしやすいです。例えば、一つの問題に過度に集中してしまうと、時間配分が上手くいかず、他の問題に注意が十分に行き届かず、それらに手を付けることができなくなりえます。このように完璧主義には物事を失敗させるリスクを高める傾向もあります。完璧に仕上げようという心持は上手く機能すれば、高い実績を積み上げるための原動力になりえますが、それも過度なものになると「完璧にできないのであれば、何もしない方がマシ」というふうに無気力の要因にもなってしまうリスクもあるのです。だから、完璧主義の程度を自分の受験勉強にとって最も効率的な範囲に調整するように努めるべきです。特に試験においては、問題の難度がそれぞれ異なり、難度の高い問題に囚われて自分に解答可能な問題を取りこぼしてしまうリスクもあります。そのような観点からも、完璧主義に囚われないように注意することは、効率的な目標の達成のために有益でしょう。

 

そして、受験勉強においては焦らないことも非常に重要です。焦りは過度な緊張を生み、過度な緊張は空回りを呼びます。したがってある程度は余裕を持って受験勉強に取り組むことが大切です。十分な勉強時間を確保し、そうした勉強時間を最大化することを考えます。体調管理が良好であれば、受験勉強に取り組んだ勉強時間が多ければ多いほどに受験においては有利です。

 

また、必要な受験勉強の時間は同じ目標を掲げていても、人によって個人差があり、異なっています。記憶力には脳科学などでは遺伝的資質も影響すると考えられていますが、ある人が一時間で記憶できることがある人の場合では八時間ほどかかるとかその程度のものであり、少なくとも受験勉強レベルのものであれば、努力で覆せないレベルのものではありません。才能のある怠け者と才能のない努力家との競争の場合、才能のない努力家が勝利する確率の方が高いです。ノーベル賞を取るとか、アインシュタイン級の理論を提唱するとか、そういう「偉業」のレベルだと非常に難しい事情がたくさんありますが、受験は基本的に努力をした人に公平に報いるための制度ですから、その点は心配いりません。例えば、もしも受験制度が努力をしても達成できないくらいにそれぞれの生まれなどに左右されるリスクの高い不平等なものなのであれば、それは不公平な制度であり、不公平な制度は公的な制度としては望ましくないということになりますね。だから、社会が公正である限りは、公的な制度としての受験制度は努力さえできれば誰でも達成可能であるように調整されているはずです。社会が不正な場合には別途に革命などが必要になりますが、今回は革命の話ではなく受験勉強の話に焦点を絞りましょう。したがって、こうした受験勉強を努力することは社会が公正である限りは、かなりの程度で有益であるとは言えるでしょう。

 

さて、受験勉強においては広く手を付けるよりも、自分に確実に得点できる問題を一つでも増やしていくことが有効です。例えば、超弦理論の高等な知識が受験勉強において問われることは基本的にありませんし、あるいは「未知の物質を自分で研究して発見せよ」のような高度な学問的な能力も問われていません。そこで問われているのは、誰にでも努力すれば可能な範囲での基礎とその応用力を確実に身につけているか? ということです。その出題範囲は教科書の範囲に限定されていますし、そもそもあまりに高度な問題は多くの人々には解くことができません。つまり、そうした難度の高い問題においてはほとんど差がつきません。ほとんど差がつかない難度の高い問題にだけ集中するのは受験勉強の効率も悪いです。受験は及第点を取れれば、それで合格です。だから、満点を狙う必要はありません。そしてどんな試験でも満点を狙って完璧主義に陥ると、効率は落ちます。受験は効率のゲームですから、それは致命的なリスクです。自分に解ける問題を確実に得点し、解けない問題に無駄に時間を取られないように避ける、一種の問題に関する審美眼を養うことも大切でしょう。

 

以上のことから、受験勉強は効率的でかなりの程度で努力次第では誰でも達成可能な割のいいゲームでもあります。機会があれば、挑んでみる価値は十分にあると言えるでしょう。

 

そして、受験勉強においては「復習」が命です。どんなに分からない問題も百回くらい復習すれば分かってきます。原理的にはどんなに難しくて解けない問題でも、それに効率的に集中して長期にわたって無理なく何回も繰り返して復習し続ければ、いずれできるようになります。バドミントンのスマッシュを練習するのにも何回も素振りをして練習しますし、あるいはピアノの練習でも何回も何回も同じ曲を練習しますね。それと同じです。受験勉強の場合、かなり復習できる人でも、五回以内くらいでやめてしまう人が多いです。しかし、何らの下積みもない状態の場合には、五回程度の復習では基礎の定着とその応用力の養成には不十分な場合も多いでしょう。こうした反復練習は偉大なもので、ポイントは問題の理路を理解した上で記憶することです。完璧主義になってはいけませんが、ある程度で問題やその解答の理路をちゃんと理解していないと応用力の養成に支障を来たします。

 

しかし、世の中のすべてのありとあらゆる受験問題をすべて百回くらい反復練習するという指針は厳しいですし、受験勉強の観点からは効率も悪いです。そこで受験で問われる問題に集中して攻略する必要が生じます。つまり、いわゆる「過去問」の勉強が重要です。過去問の傾向やレベルは大学によって異なります。つまり、すべての大学に対応しようとすると多くの労力がかかりますが、自分の志望校に対策を絞れば、労力を節約でき、効率的です。したがって、過去問の解答が理解できるくらいのレベルであれば、とりあえず直近三年分くらいの志望校の過去問をすべて自力で解けるように理解し、その解き筋を記憶しておくのがいいと思います。志望校の過去問について深く知るごとにその志望校で求められている知識の傾向も見えてきますし、どの程度の水準でどの分野を勉強するべきかも肌感覚で見えてくると思います。志望校に出ない水準の難度の高い問題に集中するのは教養にはなりますが、受験勉強の観点からは非効率です。だから、基礎がある程度できたら、早めに過去問をマスターし、その傾向をよく知っておくことが有効でしょう。それに過去問というのは教科書の中の重要な知識を集約して作られていますから、とても良質ですし、その限りで、その問題が良質であればあるほど、再び類題が出題される可能性も高いです。一題の問題をマスターするだけでもかなりの力になるでしょうし、一つずつ分からない問題を着実に潰していけば、それは受験勉強において強い力になってくれるでしょう。後は確率論です。100%合格する方法はなくても、合格確率を最大化する方針ならありえます。どんなに合格確率を最大化しても、誰でも運が悪いということはありますが、それでも挫けずに忍耐強く生きていくことが大切です。

 

例えば、野球において常にホームランを狙うというのでは相手に手の内を読まれてしまって負けやすくなってしまうかもしれません。受験勉強で言えば、ここで言うホームランは満点などのことです。常に満点を狙えば、解くことが難しい問題を序盤に少し混ぜられるだけで他の問題を解くための時間がなくなってしまうかもしれません。だから、ホームランや満点のように大きく狙わずに、あえて小さく必要最小限のヒットを狙っていくのも戦略的に大切なのです。受験勉強で言えば、対策の効率の悪い難題に必要以上に時間をかけずに、自分に得点可能な問題に着実に集中して各個撃破していくような堅実なセンスも重要です。及第点を取れていれば、満点である必要はありません。不必要に満点を狙って不合格になるよりも、自分の能力に合わせて最大限に効率的に自分の志望校に入学する方が賢い戦略である場合も多いでしょう。

 

受験勉強の参考書については基本的に、小学校レベル、中学校レベル、高校レベルに分類されます。例えば、大学受験を目指すのであれば、小学校レベルの基礎を固め、中学校レベルをその上に着実に積み上げ、高校レベルの受験の範囲内の知識に結実させている必要があります。したがって、小学校や中学校でちゃんと勉強している人はやはり高校レベルの知識を身につける上でもある程度は有利です。しかし、先述のように、受験は努力さえ積めば、基本的に誰にでも達成可能なようにと努めて公正に設計されています。だから、小学校や中学校の知識が現時点で曖昧だったとしても必ずしも大学受験を断念してしまう必要はありません。小学校の知識を着実に固め、中学校の勉強をちゃんとして、高校レベルの範囲も修得してしまえれば、十分に大学受験に適応しうる余地があると言えます。参考書も多くのものはそれぞれの出版社が丹精込めて一生懸命作成したものであり、どれも優れています。したがって参考書自体はどれを使っても良いと思います。ただ、一応、一通りは自分の志望校の受験に必要な範囲の勉強はしておく必要があります。その上で、自分の志望校の過去問をマスターし、その過去問にまつわる知識を徐々に広げていくことで、効率的に志望校の問題に対策できるものと考えられます。

 

ポイントはやはり完璧主義に陥らないことだと思います。例えば、一問の問題を考えるのに一日くらいで十時間とか二十時間とかかけてしまうと他の問題にまで注意が回りづらくなります。だから、過度に悩みすぎないのも大事です。ほとんどの人に解けない問題ではさほど差はつかないので、そうした問題は場合によっては切ってしまって、自分に解ける問題を着実に増やしていきましょう。まずは簡単な問題から確実に着手して、それらをマスターしましょう。すると今まで分からなかった問題も少しずつ分かってきます。何事も地道に少しずつ習練することが技術の養成の基本です。そして無理をしないこと。無理をすると身体を壊したり、精神的に挫折したりして、長期的な勉強の効率に悪影響を及ぼします。周りの雑音を気にせずに、自分の実力を着々と自分のペースで積み上げられる人は強いです。

 

次に、科目別の対策を簡単に述べておこうと思います。

 

まず、国語。国語は受験勉強の範囲では非常に数学的というか論理学的な部分が強いです。それほどあやふやなものではなく、必ず問題の文章中にかなり直接的に根拠となる文章が存在しており、これは文学的というよりもむしろプログラミングなどに近いです。だから、問題演習を何度も繰り返し、文章を正確に効率的に理解してその都度に根拠を見つけて解答するように練習していけば、少しずつ情報処理の熟達に従って解答の作業ペースが高速化していき、受験レベルの国語にも既定の時間内に対応可能になる可能性が高いと思います。古文や漢文は暗記すべき基礎事項を暗記するのも大事です。めちゃくちゃ繰り返します。反復練習しまくります。記憶や理解が深まると応用力も少しずつ高まっていきます。

 

そして、社会。社会には日本史や世界史のような歴史や地理や政治経済のような分野などがあります。どの科目でも自分の得意なものを選べばいいと思いますが、教科書的な基礎を参考書はどれでもいいので着実に記憶することが重要だと思います。これは気合というか、暗記科目ではあるので単純に覚えることが重要です。もちろん、大まかな筋やストーリーラインをある程度は理解しておくと記憶をする上でも有用ですし、応用も効きます。ただ、基本は基礎事項の暗記です。細かいところまで着目しすぎると無限に覚えるべき項目が生じて、勉強が進まなくなるので、出題される確率の高い重要な知識に焦点を絞って、効率的に勉強することも大切だと思います。

 

それで、数学。数学は多分、多くの場合で最も時間のかかる科目です。ただ、どんなに難しい数学も基礎から着実に積み上げれば、大概の人たちに理解できるように構成されています。ただ、時間がかかるのです。もちろん、習得に要する時間にはどんなものもそうであるように個人差はありますが、それでも頑張ったら頑張った分だけ芽吹くと思います。特に受験数学のレベルであれば、出題範囲も限られていますので、一定期間頑張って勉強すれば十分に勝負できる実力を養成できるのではないかと思います。基礎的な問題を一通りマスターし、完璧主義になりきらず、分からないところはあまりに時間を食うようなら適宜飛ばして、自分にできる範囲を少しずつ拡大していきましょう。最初は何も分からなくても、ずっと眺めていれば少しずつ分かってきます。数学においては「この科目は時間がかかる」ということを知っておくことが最も重要だと思います。周りの数学ができる人と自分を比べて焦ってしまうのは得策ではありません。要は、自分の志望校に合格できればそれでいいのです。トップクラスに数学ができる人たちに勝利する必要はありません。ポイントは人の評価を全部無視することだと思います。昔の自分よりも今の自分が少しでも進歩していれば、それで良しとするのがいいと思います。長く取り組んでいれば、少しずつできるようになります。だから、なるべく早めに勉強に着手して、完璧主義に陥らず、効率的に習練し続け、無理をせずに焦らないのが大事です。

 

さて、理科。理科には物理とか化学とか生物とかがあります。これも社会と同様に自分の得意な科目を取ればいいと思います。それが最も効率がいいだろうからです。嫌いな科目は着手しづらいですが、好きな科目は着手しやすいです。選択の幅が許されているのなら、その幅を最大限有効に活用すべきであり、それと言うのも少しでも自分の得意分野で勝負するようにすることです。物理は計算的な問題が多いです。生物は暗記的な問題が多いです。化学はそれらの中間くらい。いずれにせよ、基礎を固め、理解を深めて応用力を養い、完璧主義に陥らず、効率的に習練し続け、焦らないことが大事です。一足飛びにやろうとせずに、着実に基礎を積み上げていけば、どの科目でもいずれできるようになると思います。

 

最後に、英語。受験英語では基礎的な英文法を確認することも大事です。これは国語的な理解と社会的な暗記のハイブリット的な性質のある分野です。単語やイディオムなどの暗記量も多く、理解すべき要項も多めなので、数学と並んで時間のかかる分野だと思います。だから、早めに着手し、基礎を上手く効率的に養い、細部で消耗せずに、戦略的に出題される傾向の強い知識に焦点を当てつつ、着実に勉強を積み重ねていくのが大事です。ある程度、まとまった長文の英語が読めるようになったら、問題演習を積み重ねることが大事です。その際に、分からない単語を文章の前後の文脈から推理するようにするのもある程度は大事です。もちろん、暗記している単語の量は多ければそれだけ有利になりますが、すべての単語を記憶することは完璧主義的であり、また現実的ではありません。したがって与えられた情報から分からないところがあっても推理で補って文意を取るような訓練も重要です。勉強の仕方も続けているうちに、徐々に上手くなります。初めは上手く勉強に取り組めないように思えても、無理せずに焦らず続けていれば、ほぼ確実に上達してきます。強いて言えば、長期的な基礎の習練に耐えて、それらの理解を何度も復習して深め、謙虚に自分の実力を見定め、堅実に自分に解答可能な問題を一題ずつ無理せずに増やしていくような地道の姿勢を貫くことができれば、合格確率を上げていくことが可能でしょう。完璧主義に陥ると、あれもこれも必要に思えて大変ですので、その点は注意しましょう。受験は基本として効率のゲームだからです。他人より効率的に多くの受験勉強を集中的に積み重ねた人が勝ちます。また、英語の勉強では、辞書と友達になるのも大事です。辞書は使い倒しましょう。ぼんやり眺めるだけでも長期的にはかなりの効果があるでしょうし、必ずしも記憶できなくても英語の雰囲気だけでも感じ取れれば、英語のセンス自体も向上します。辞書は大事です。

 

以上のことから統合失調症の人のための受験術のポイントは以下の三つにまとめられます。

 

1.無理のない適度な健康管理。食事、運動、睡眠を心地良く自分に合ったように調整。

2.長期的で着実な基礎知識の積み上げと勉強の継続。

3.完璧主義を避け、現実的に適度に効率的に自分の志望に合った受験勉強に集中する。

 

みなさんの受験が上手くいくようにお祈り申し上げます。

 

あなた自身の好きなこと、したいことが叶うといいですね。オリジナルのあなたが本当に成し遂げたいことは何ですか? そのために必要なことは何ですか?

 

 

全てを賭けて描く

自分にしか出せない色で

 

YOASOBI, 「群青」の歌詞より引用

 

書くこと

考えてもしょうがない時ってあるな、と思いますね。しばしば。そういう時は僕の場合、あまり考えないようにしています。

 

色々なことは「案ずるより産むが易し」みたいなことも多くて、まずはやってみるのも一つの手なのだと思います。

 

挑戦やチャレンジは尊い

 

気軽さってかなり大事だと僕は思っていて、ゲーテが言うように、向こう見ずは天才。

その意味ではバカは最強!

 

ということで僕もなるべくバカになっていきたいな、と思います。もともと頭が良いわけではないのですが、さらにバカになれるように努めていきたいものです。

 

文章の不思議はそういう向こう見ずに宿るような気がしますね。思考とは分離された一つの形態としての「言葉」というか。

 

あんまり重い文体だと読める人が減りますし、軽い文体すぎても滋味がなかったりしてバランスが非常に難しいのですが気楽にスケッチするようなイメージで文章を書くのもいいんじゃないかな、と思うこともあります。

 

もちろん、論文のようなものや重厚な小説のようなものもとてもいいのですが。

 

何事もそれぞれの良さがありますね。

 

文章を書くと言っても色々な書き方があって、文章作法などもそうですが、例えば、紙に書くのとキーボードから打ち込むのも全然違いますね。それぞれにそれぞれの良さがあります。

 

僕はかなりアナログなところもあるので、紙に落書きして遊んでいるのが結構好きな方ですね。とても楽しいですし、自由に落書きしていると色々な発想が得られます。個人的な印象としては「落書きは万学の祖」みたいな感じですね(笑) 落書き超楽しい。

 

小学校の頃とか授業聞いているのがつまらなくて結構プリントの裏とかに落書きしていましたね。色々な絵を描いたり、自分の考えを整理してみたり、当時好きだった天文学の知識を書き出してみたり……。懐かしいな、と思います。

 

こういう「遊び」ってすごく簡単にできることなんですけど、簡単すぎてかえって難しいんですよね。気づいてしまえば、「なんで今まで気づけなかったんだろう?」と不思議ですけど、気づくまでは本当に気づくのが難しいのです。発想という概念の不思議ですね。世の中には無数の不思議がたくさんあって、まだまだ人類から隠された知識もたくさん眠っていますね。自然とか宇宙とか、あるいは紙と鉛筆の中にさえも。

 

例えば、数学とか極論、紙と鉛筆で探求可能ですよね。数学素晴らしい。

 

紙と鉛筆という基礎的な用具の中に、無数の数学が眠っています。しかも、その鉱脈はどうもすごく大きくて、人間の短い人生にとってはまさに無限のようなものです。

 

未知のことがある、という事実は非常に気持ちのいいものですね。

 

基礎は何事も大事なのですが、基礎はどこにいても養えるのです。応用は多少お金がかかったりします。だけど、基礎をのばせば、応用の際にかかる費用を節約したりできたり。

 

世の中には色々な抜け道もあります。違法なことは基本的にダメですが、抜け道を上手く用いることが有効な場合もとても多いでしょう。

 

正攻法も大事ですが、「奇妙さ」というのもまたいいものなわけですね。何事も一長一短。奇策も最高。

 

効率を求めると効率が遠ざかったりしますよね。正攻法に執着するとかえって正攻法ができなくなったりするものなのです。執着すると大体、上手くいかない。なので、なるべく物事に執着せずに流れていくのも一つの手だと思います。しかも、こうした『老子』的な方法というか戦略はとても強力でもあります。何せ完全に理に適っていますからね。古典はすごいです。

 

灯台下暗し」と言って、近いところとか以外に盲点ですよね。大切なものはいつもそばにある! 的な教訓とかもけっこう大事なのだと思います。少なくとも一理はある。

 

遠くに執着すると近くが盲点になりますし、近視眼的になると遠くが盲点になります。いずれも何らかの執着が盲点を作り出しているわけですね。逆に言うと、執着を極限まで避けることで、極限まで正確に現実を認識できると考えられます。

 

そうした執着を脱した状態って、多分、気軽なものとしても現れやすいと思います。執着は何か、人を動けなくするみたいです。

 

とか言いつつも、僕もなかなか執着から完全には自由になれないように思いますし、なかなか難しいですね。

 

村上春樹さんが新作の小説を出されるそうで、僕はとても楽しみにしているのですが、一体どんな小説なんでしょうね。軽快なのか、重厚なのか、あるいはそのどちらでもないのか……。

 

僕としては、軽快さも重厚さもどっちも好きですので、問題はそれがどのような種類のものであるかというよりも、ひょっとするとその洗練の強度の問題なのかな、とかも考えたりしますが、様々な小説観が世の中には存在しますので、一概には断言できないところです。

 

昨今はかなり物騒な世の中でもありますから、そう考えると重厚な物語なのか……それともそうした現実の重圧がかえって軽快さを生むことになるのか……予測しがたいですね。優れた作品の一つの条件はこちらの予想を超えてくることかもしれません。

 

「書く」というのは難しいことです。「読む」ことがそうであるように。